2010年1月31日 (日)

由紀子と猫

由紀子と猫

  春の大学受験に失敗してブラブラしていたら、夏になって突然親がコンビニをやろうと言い出した。 降ってわいた話に私は少なからず動揺した。親は私が大学に入学することを期待していなかったのか・・・。中学・高校の頃はあんなに「勉強しろ勉強しろ、勉強して俺たちのようなつまらん商売人にはならないでまともな会社に就職しろ」としつこく言っていたではないか。ある意味親に自分の能力と素質を見限られたような気分になって、私は落ち込んだ。

  しかし少し時間が経つと、自分を省みる余裕ができてきた。大学に何をしに行くのか? 私が入学できるようなレベルの大学を卒業して、果たしてまともな会社に就職できるのか? とはいえ親の言うとおりコンビニで働くとして、18歳から年寄りになるまでその店でずっとあくせく働くのか? 大学に入って2年間くらいはサークル活動とか合コンとか人並みに遊んでみたい・・・などといろいろ考えてはみたが、ともかく受験勉強には身が入らなかった。とりあえず親の手伝いをするのも仕方ないかと思っていたが、結局ずるずると親のペースに巻き込まれてしまった。母は店には出ない人なので、親父と私の二人だけではとてもコンビニはやっていけない。アルバイトを雇ったが急に休むこともあって、そうなると私か親父がかぶるしかない。1日16時間勤務になることもしばしばあり、かなりきつい仕事だった。

  とりあえずという曖昧な気持ちでこんな仕事をひきうけたのは甘かった。正直きつい。とはいっても私がやめたら親父は倒れてしまうだろう。大学受験などどこかに消し飛んでしまった。ともかくなんとかやっていくしかない。がむしゃらに働いた。1年経って計算してみると、なんと年商が5000万円を越えていることがわかった。親父に訊くと、コンビニを始める前の雑貨商のときは年商2000万円がやっとで、それも毎年減っていたという話だった。努力が報われるというのは悪くない。

  こうしてあっという間に7年の年月が経ってしまった。コンビニの売り上げは毎年少しずつ増えて7000万円近くになっていた。近所に何棟かマンションができたことが影響しているのだろう。ところが思ってもいなかったところに落とし穴があった。私が25歳になった誕生日に、親父が「俺ももうすぐ65歳で体がきつい」と言いだした。あらためてしげしげと親父をみると、頭はすっかり白髪になり、顔も小じわやシミが目立つじいさんになっていた。65歳といえばサラリーマンなら定年退職の年齢ではある。あまり気乗りはしなかったのだが、結局親父に代わって店長をやることになった。親父も家に引っ込んで隠居するとは言わなかった。それでも事務関係の仕事などが増えてあまりに忙しかったので、毎日のようにぶつぶつ文句を言っていると、親父が知人の娘だという若い女性を連れてきた。なんでも経理関係の専門学校を出たばかりで、うちで働いてもいいという有難い話だった。渡りに船とばかりに即採用したが、経理の仕事はもちろん、レジの仕事もてきぱきと笑顔でできる実に有能な人材だった。

  そのうち自然にその女性、由紀子と結婚しようということになった。高校を卒業してからずっと仕事が忙しかったので、やっと自分にも春がめぐってきたという楽しい気分の毎日だった。新居となるマンションも決めた。新婚旅行の計画も進めていた。しかし好事魔多しというのはこういうものなのか。希望に満ちた幸福な日々は長くは続かなかった。健康診断で由紀子の血液に異常が発見されたのだ。精密検査で急性リンパ性白血病だということがわかり、由紀子は即入院することになった。

  私は奈落の底に落ちていった。仕事にも身が入らず、病院に見舞いに行った帰りには呆然と近所を彷徨するようになった。次第にコンビニは老父とアルバイト任せになってしまった。そんなとき、泣きっ面に蜂のようなうわさが耳にはいってきた。私たちが新婚生活を送る予定で購入した中古マンションの耐震性に問題があるということで、詳しい検査をしているらしいという話だった。由紀子の病気のこともあって、管理組合の集会には出席していなかったし、現に住んでいない人間には回覧板もまわってこない。

  私は早速マンションに行ってみた。マンションは14階建てだったが1階から7階まではシートで被われ、すっかり工事現場のようになっていた。私たちが購入したのは14階の一室で、せっかく来たのだからともかくそこまで行こうと思い、私はエレベータ-に乗った。しかしエレベーターが7階で停止して同乗していた作業員が降りたとき、つられて私も降りてしまった。気がついたときにはもうエレベーターの扉は閉じ上昇していった。とんでもないところに置き去りにされたものだ。回りをみると壁の一部は壊され、鉄筋が露出していた。誰もいない長い通路には、冷たい風が吹いていた。私は通路から身を乗り出して作業員やクレーンが動く地上をぼんやりと眺めた。これから私の人生はどうなってしまうのだろうか? 私「ふぅ」とため息をついた。

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  しばらく下を見つめていたとき、私の体に異変が起こった。私の体の一部がフワッと抜け出し、地上に静かに落ちていくような感じがしたのだ。それは灰色でやわらかく不定形だったが、頭と手足のような出っ張りがなんとなくあるような気がした。私はハッと気がついて体を触ってみた。どうやら私自身が転落したのではないようだった。私はまだ通路にいた。しかしそれから私は体の芯が抜けてしまったかのように力がはいらなくなり、アパートまではなんとかたどり着いたが、そのままどっとベッドに倒れ込んで起き上がれなくなってしまった。

  私は毎日病院に行っていたので、見舞いに来ないし電話にも出ない私を心配して、由紀子の母親が私のアパートを訪ねてくれた。鍵もかけずにベッドに倒れ込んでいたらしい。彼女が来てくれなかったら、私はどうなっていたか分からない。体調が悪いと言うと、彼女はおかゆを作って食べさせてくれた。救急車を呼びましょうかと言われたが、私はどこも痛いところはないし、熱がある感じでもなかったので「ただ疲れているだけみたいなので、安静にしていれば大丈夫です」と断った。彼女は「明日も来るから、具合が良くなっていたら病院に行きましょう」と言ってくれた。

  翌朝になっても私の体調は回復せず、あまりにだるいのでベッドに横たわりぐったりとしていたが、そのうち眠ってしまった。夕方に目が覚めると由紀子の母親のメモが見つかった。「ぐっすりお休みだったので、おみやげだけ置いていきますね。お大事に」という内容だった。私が熟睡していて来訪に気がつかなかったのだろう。万一を考えて、私はドアチェーンをはずしていた。せっかく来てくれたのに申し訳ないことをしてしまった。私は今度はドアにチェーンをかけて、また寝込んでしまった。深夜になってから目覚め、私は全身の力を振り絞ってよろよろと立ち上がり、郵便物をとりにいくために玄関の扉を開けた。ひゅーと風が舞って、メモのようなものが飛んでいった。しかしあとにバスケットがひとつ残されていた。

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  バスケットの蓋を開けると、一匹の子猫が眠っていた。そして目覚めるとキョトンと私を見つめた。数秒見つめ合っていると、不思議なことが起こった。失われていた私の体の芯が、子猫からすっと私に戻ってきたような気がしたのだ。実際それから私は普通に歩けるようになり、食欲も出てきた。私は突然一昨日の昼から由紀子のところに行っていないことに気がついた。子猫に牛乳を飲ませてタオルを敷いた段ボール箱に移し、深夜だったがタクシーを呼んで病院に急いだ。

  病院は大変なことになっていた。由紀子が意識不明に陥り危篤状態だというのだ。なんということなのだろう。訳の分からない体調不良というアクシデントのために、由紀子と最後の会話ができなかったのが悔しい。私は泣いた。親族が見つめる中、翌朝由紀子はあっけなく天国に召された。

☆ ☆ ☆

  由紀子が死んでから2年が経過した。あの時の子猫はすくすくと成長し、体重が5キロもある立派な成猫になった。それにしても不思議なのは、誰かが猫を捨てたとすると、どうして猫が飼えないアパートの住民なんかに預けようとしたのか? あの風で飛んでいったメモには何が書いてあったのだろうか?
 
  私はこの猫が私を救ってくれたと思っている。私は由紀子の思い出のためにユッキーと名付け、アパートを引き払いユッキーをつれて実家に戻っていた。これからずっとアパートでこっそり猫を飼うというのは無理だろう。実家にもどって飼育する決断をしたのは、いまでも仕方なかったと思う。ユッキーがいなければ、私はどんなに空しい2年の日々を過ごしていたかと思うとぞっとする。由紀子と住む予定だったマンションはきちんと耐震補強されたが、あの気持ち悪い幽体離脱のような出来事の再現が怖くて売却した。

  大事に飼育していたユッキーだったが、飼いはじめてから2年目の夏にどこかに出かけたまま戻ってこなかった。自分だけの家ならともかく、父母が同居している家では、完全に猫を家の中に閉じ込めておくのは至難の業だった。私は仕事が忙しくてなかなか探す余裕がなく、アルバイト達も忙しい時間を割いて手分けして探してくれたが、ついに1ヶ月経過してもユッキーはみつからなかった。

  ほとんどあきらめて、ようやく以前のようなペースで仕事をはじめた頃だった。アルバイトのひとりで、もう4年もやってくれているフミちゃんが「ちょっと話がある」と裏口の方を指さして私を誘った。ついて行くと、裏口のドアを出たところで、彼女が1枚の紙片を「これ以前に拾ったものですっかり忘れていたんですが、昨日部屋の掃除をしていたらみつかったんです。すみません。多分店長にあてたものだと思うんですけど」と私に渡すと、すぐに走って店に戻っていった。

  紙片には、「高志さん。病院に捨てられた猫です。私がミルクを与えていたのですがもう無理です。私だと思ってかわいがってね 由紀子」と書いてあった。私は体中の力が抜けて、その場に座り込んで動けなくなってしまった。これがあのときの風で飛んでいったメモなのか!由紀子はあの体でタクシーに乗り、命がけでバスケットの子猫を私に届けてくれたのだろうか?

  しばらくすると、いつまでも店に戻らない私を心配して、もうひとりのアルバイトであるチカちゃんが探しに来た。私はチカちゃんに訊いてみた「この紙切れをフミちゃんがくれたんだけど、どうして彼女が持っていたのか知ってる?」。チカちゃんはそれを読んでしばらく考えていたが「どうしてフミが持っていたかは知らないけど、フミは昔から店長が好きだったのよ。店長知らないでしょう」と、私の顔の前で指をぐるぐる回しながら答えた。さらに私の耳元に近寄って小声で「ここだけの話だけど、店長のストーカーみたいなことやってるんじゃないかってうわさになったことも・・・」とささやくと、「早く戻らないとお客さん並んでますよ」と言って彼女は店内に消えていった。

  私はゆっくりと店に戻った。フミちゃんとチカちゃんにはそれ以上何も訊かなかった。二人も帰り、夜が更けてお客さんが途切れたときに、外に出て空を見上げると満月だった。私は駐車場のストッパーに腰掛けて、じっと月をみつめた。由紀子とユッキーが並んで私に微笑んでいるような気がした。

  フミちゃんは翌日から仕事に来なくなり、音信不通になった。

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2010年10月 1日 (金)

ランチタイム

ランチタイム

  小学校に通学しはじめてから2回目の引っ越しで、東京の羽田空港にほど近い小学校に転入することになった。私には父の記憶がない。父の写真も1枚もなかった。そのことを訊いても、母は何も答えてくれなかった。母は九州の建築現場でまかないの仕事をしていた。ダムの仕事があったので人里離れた山奥に3年間居たのだが、県知事が交代したときに、無駄な公共事業は廃止するという公約の関係でダムが建設中止となり、母も解雇されて私を連れて3月に東京に帰ってきたというわけだ。

  4年3組の教室は3Fにあった。知っている子が一人もいないというのは緊張する。九州で通っていた小学校では全校生徒が50人くらいで、ほぼ全員どんなキャラか知っているくらい親密だった。それにほとんどの生徒が建設作業員の子供だった。東京では一転して、たいていの親がホワイトカラーということもあって、あまりみんなとなじめなかった。しかし一番問題だったのは、長引く不況で母によい仕事がなく、うちの家計が火の車だったということだ。そのためにランチボックスの中には白飯しか入っていなかった。そのことは仕方ないことなので我慢できたが、我慢できないのはそのことをクラスメートに知られ、貧乏人の子と馬鹿にされたり、逆に同情されておかずをもらったりすることだった。

  私たちの小学校では予算不足で炊事婦がリストラされ、全員弁当持参になっていた。ランチタイムは嫌でも毎日やってくる。昼食が嫌だといっても、朝食は当然「抜き」なのでおなかはペコペコだ。私はランチボックスをかかえてゆっくりと廊下に出る。そしてゆっくりと階段を下る。毎日こんな行動をとっていると、そのうち誰かに気付かれて後をつけられるのではないかという恐怖が心をよぎる。教室が1Fにあればいいのにと思う。外に出ると裏門まで何気ない様子で歩き、門を出るとはじけるようにすぐ近くにある小さな公園に駆け込む。

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  困ったことに数人の女子のグループがいつもその公園にきて、ベンチに座り込んで昼食をとることに気がついた。だから私は皆の視線が届かないトイレで昼食をとるしかなくなった。今でもそのトイレの「のっぺらぼう」の不思議なマークを思い出すことがある。時にはそのグループの子が隣のボックスにはいることがある。そのときは食事を中断し、音を立てないように息をひそめて彼女が出て行くのを待つしかない。食べ終わって出て行くときは、ドアの隙間から外をうかがって誰もいないことを確認し、生徒たちが座っているベンチから見えないように遠回りして裏門にもどる。ここまでの緊張感がきついので、午後はぬけがらのようになる。もともと学校のレベルが九州で通っていた学校よりもかなり高い感じなのでなかなか授業についていけない上にこれだから、次第に学校がつまらなくなった。

  学校がひけてアパートに帰っても誰もいないし、私も母も几帳面じゃなかったので散らかっていて、部屋にいるだけで気が滅入ってしまう。私はアパートの前の運河の堤防に座って、じっと母の帰りを待つことにしていた。海からはかなり離れていたが、ときどきカモメの群れが運河沿いにやってくることがあった。顔から1メートルくらいのところをビュンビュン飛んでいくカモメに目を見張った。私や母とは全く違った次元で生きている生物がいるというのが驚きだった。彼らは隠れてご飯を食べたりしないし、朝食抜きってこともないのだろう。それにしてもあんなに急いで、どこにすっ飛んでいくのだろうか?

  ほぼ決まった時間に何匹かの犬が散歩で通り過ぎる。たいていの犬は私を無視するが、1匹のラブラドゥール・レトリバーは遠くの方から私を見ながら近づいてきて、私のところまでくると足を止め、いつも腕をひとなめしてから去っていった。連れている飼い主は外国人のようにみえた。背はそれほど高くはないが、がっしりした体で、いつも大股でゆっくりと歩いていた。彼はよく変なアクセントの日本語で、「大丈夫、この犬はかみつきません」とか、「川に落ちないで 気をつけて」とか、冬には「寒くないですか」とか一言声をかけてくれた。あるとき1枚のパンフレットを私に手渡し、「何か困ったことがあったらここにいらっしゃい」と言った。見るとそれは礼拝と日曜子供英会話教室の案内で、教会のパンフレットのようだった。

  薄暮のなかで遠くに母が見えると、私は運河沿いの道を走っていって母の手をつかみ、アパートまで引っ張るようにして帰った。私はいつもランチタイムと同様おなかがペコペコで、早く母に夕食の支度をしてほしかった。でもどうして人はすぐ腹ぺこになるのだろう? 夕食は一日一回のまともな食事だった。といっても何か一品おかずがあるという意味にすぎないが。やっと1日の終わりにたどりついた楽しい時間なのに、私には何も母に話すことがなかった。母もとても疲れた顔をしていて、話すのがおっくうな感じだった。私はずっとニコニコ笑っていたそうだ。それをみて母はよく「何を考えてるかわからない子だねえ」と言っていた。私としては、当時このひとときだけが楽しみで生きていたというだけのことなのだが・・・。

☆ ☆ ☆

  そんな日々が転機を迎えたのは、私が5年生になってまもなくのことだった。母が家を空けることが多くなったのだ。家を空けるときは書き置きと、何個かのインスタント食品が置いてあった。何個あるかによって、いつ母が帰ってくるかがだいたい予想できた。たくさん置いてあるときは、寂しい気持ちですっかり滅入ってしまった。ある日私は学校をさぼって母の後をつけた。母は電車でひと駅の隣町のアパートの部屋に吸い込まれていった。ずっと見張っていると、夕方になって母が知らない男の人といっしょに出てきた。二人の後をつけると、彼らは繁華街のとあるバーにはいっていった。ずっと見張っていると、夜中の12時頃になって二人は出てきてアパートに戻っていった。母は酔っているように見えた。私はひとりで終電に乗ってアパートに帰り、インスタントラーメンを食べた。

  次の日も学校をさぼり、母がいるアパートを訪ね、今度はドアをノックしてみた。昨日見た男の人が出てきて「誰?」と言った。奥の方に母が見えた。母は私の方を見て、すごく嫌な顔をして「智子 学校はどうしたの」と強い口調で叱責した。男の人は作り笑いをしながら「君が智子ちゃんか? まあおはいり」と言った。私はその顔が気持ち悪くて、走って逃げ出した。

  それから私はアパートに引きこもり、学校に行くのはやめた。母が帰宅する頻度はますます減り、たまに帰宅しても食料の用意や洗濯をすませたらすぐに出て行った。学校の先生がときどき訪ねてきた。学校に行く気力がなかったので、先生の訪問は私にとって苦痛以外の何者でもなかった。何を言われても私はただ黙っていた。そのうち買い置きの食料もお金も途切れがちになって、空腹の日々が続くようになった。

  そんなあるとき私は思い切って通学かばんを捨ててしまおうと思いついた。どうせ学校に行かないのなら教科書も捨ててしまおうかと考えて整理していたとき、1枚のパンフレットが出てきた。あの外国人らしい犬連れの人がくれたものだ。彼が言った「何か困ったことがあったらここにいらっしゃい」という言葉を思い出した。

☆ ☆ ☆

  パンフレットの地図をたどっていくと、そこはやはり教会だった。もう夜遅い時間だった。重くて立派な作りの門扉を開けると、中にはあのラブラドゥール・レトリバーと、見覚えのある飼主の外国人がいた。私は男に「食べ物がないの」と訴えた。男は少しの間呆然と私をみつめ、はっとしたように口を開いてくれた。「ああ あのいつも運河のそばに座り込んでいた・・・」 私が頷くと、男は犬を裏の犬小屋に連れて行ってつなぎ、私を建物の中に招き入れてくれた。彼はこの教会の牧師だった。私のためにジャガイモを煮て、ドイツ製のソーセイジを焼いて食べさせてくれた。早速ソーセイジをフォークで刺して端からかぶりつこうとすると、牧師は「ダメダメ、ソーセイジはこうやってナイフで切って、一切れずつフォークで食べるんだよ」と私をたしなめた。おなかはぺこぺこだったが、牧師の指示に従って、私はぎこちなくナイフとフォークを使って、ゆっくりと少しずつ味わいながらじゃがいもとソーセイジを食べた。こんなに美味な食事をしたことを思い出せなかった。

  その日は牧師の部屋で寝ることになった。部屋に入ると、そこにもうひとりの女の子が居た。牧師は「聡子、お客さんの・・・ああまだ名前を聞いてなかったね」と私に視線をむけた。私はあわてて「中谷沙耶です」と答えた。牧師は「沙耶、これは中学1年生の聡子(サトコ)だ」と簡単に紹介した。私は思いきって牧師に「おじさんをパパと呼んでいいですか」とお願いしてみた。牧師は「智子のパパはどうしたの」と訊いてきたので、私はきちんと説明した。牧師は納得して結局パパと呼んでもいいことになった。聡子も「じゃあ私もパパと呼ぶ」と言った。牧師は自分は「ジョセッペ・ガルディオラ」だと名乗った。聡子は彼をジョセ先生と呼んでいたようだが、「ね ややこしい名前でしょう。パパの方がいいわ」と笑った。私もパパも笑った。こんな幸福な気持ちになったことはなかったように思った。パパの部屋には広いダブルベッドがあり、3人でひとつのベッドで眠った。私に突然パパと姉ができた夜だった。

  翌日は金曜日だった。金曜日は朝の礼拝がなかった。朝になると、私はパパにいろいろ訊かれた。母が不在がちなことや、あまり学校に通っていないことなどを正直に答えた。尋問が終わると、パパは先生と母に会ってくると言って昼前に出て行った。留守の間に聡子といろいろ話した。彼女の両親はこの教会の信徒だったが、交通事故で亡くなり、パパに引き取られたそうだ。彼女は「日曜日はパパが忙しいので、私が夕食を作っているの」と誇らしげに言った。

  ひとしきり話した後、彼女は私を別の部屋に連れて行った。そこは物置のような暗い部屋で、テーブルや椅子が積み重なって誰もいなかった。物置部屋の先にはもうひとつ狭い部屋があり、そこには大きな本棚があって、古い分厚い本がぎっしり並んでいた。さらに2段ベッドと小さな勉強机がふたつが置いてあって、男の子が二人座っていた。聡子はまず年長の少年の方を指さし「兄ちゃんの小学5年生の義行(ヨシユキ)よ、ちゃんとしゃべれないの」と紹介した。ヨシユキは「こここここんにちは」と必死に挨拶した。聡子は「おかしいでしょう。緊張するといつもこうなるの。でもヨシはここでひとりだけちゃんと学校に通っているし、頭はいいの」とヨシユキの頭を撫でた。次に聡子はもう一人のほうに向いて「彼はヨシの弟で小学2年生の元治(ゲンジ)。ゲンと呼んでいるの。聾唖だけどいい子よ。学校にはあまり行ってないわ」と言いながら、ゲンジの肩をポンとたたいた。

  部屋から出ると聡子は礼拝堂を案内してくれた。礼拝堂の裏には会議室のような部屋が二つあり、日曜学校や英会話教室をやっているそうだ。案内されているうちに気がついたのだが、聡子も妹分ができて嬉しそうだった。「そうそう まだ紹介してないものがあったわ」と聡子は私を裏庭に方に連れて行った。そこには犬小屋があり、あのラブラドゥール・レトリバーがつながれていた。「ジョンよ やさしいの」。私が近寄ると、覚えていたのだろうか、私の腕をペロリとなめた。私はここにずっと居ようと決めた。母があの男の人と別れて自分のところにもどってくれるまで・・・。

☆ ☆ ☆

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  パパの礼拝に出席してみた。日曜礼拝は信徒が多くてほぼ満席だったが、最後尾のベンチに空きをみつけてじっとパパの話に耳を傾けた。いろいろな聖書の話をしたあと、最後にパパは「両親・親戚・友人、世の中のすべての人々があなたを見捨てても、主はあなたをお見捨てにはなりません。アーメン」と力強く結んだ。

  パパはあちこち奔走して、いろんな問題をクリアしてくれたようだった。「智子はしばらくこの教会に居ることで話がついたよ」と微笑みながら私に伝えてくれた。早速パパと聡子と私の3人で相談して、私はジョンの散歩・花壇の世話・皿洗いをやることになった。一人で切り盛りしている教会なので、パパはとても忙しかった。聡子がいなければとてもやっていけないだろうことはすぐわかった。聡子は毎朝朝食をつくっていたし、日曜日には夕食も作っていた。毎日洗濯もやっていた。礼拝堂や庭やトイレの掃除はヨシとゲンがやっていた。

☆ ☆ ☆

  しばらくの間だけ居るはずが、3年たっても母は私を迎えに来なかった。それは私にとってかえって幸福だったかもしれない。今思うとここにくる前の母との生活は悪夢のようで、2度ともどりたくはなかった。ここではみんなが力を合わせて、教会と生活をポジティヴに運営している。パパ・聡子・ヨシ・ゲンそしてジョン、みんな素晴らしい指導者であり、友達であり、家族でもある。

  そんなある日、寝苦しい夏の日だった。眠れなくてトイレに行く途中、物置部屋で物音がするのでドアを開け電気をつけると、パパと聡子が汗まみれでセックスをしていた。私はすぐにドアを閉め廊下に出た。部屋にもどったがショックで眠れなかった。私はヨシとゲンの部屋に行き、衣服を全部脱いで、ヨシにズボンを脱げと命じた。私の剣幕におそれをなしたのか、ヨシはおとなしくパンツ1枚になった。私はパンツから彼のペニスを露出させ、両手でゆっくりとしごいた。弱々しいペニスが次第に伸びて硬くなった。さらにしごきつづけると、ヨシはうーっと声を上げて射精した。私は失禁してしまった。ゲンはそんな私たちをまばたきもせずに見つめていた。どうしてこんなことをしてしまったのか、いまでもわからない。ヨシとゲンには本当に申し訳ないと思う。

  翌朝ゲンが居なくなった。聡子が私に「ゲンも見たの?」と耳打ちした。私は聡子もゲン失踪の共犯者にしたくて小さく頷いた。パパもヨシも真っ青になって慌てていた。聡子は意外に冷静で「パパとヨシは近所を探して! 私と沙耶は構内を探してみるから」とみんなに指示した。しかしゲンを発見するのにそんなに時間はかからなかった。いつもはおとなしいジョンが激しく鳴くので裏庭の方に行ってみると、ゲンが犬小屋の中に閉じこもっていた。みんなその場に倒れ込みそうな気持ちをおさえて、ゲンを小屋の外に引っ張り出し、競うように抱きついた。みんな涙があふれそうな目でゲンを見つめていた。ゲンはずっと地面を見つめていた。

  翌日パパはどこからか中古のベッドを調達してきて、物置部屋を片付け、私用のベッドを設置してくれた。私は物置を私の個室として使い、パパの部屋は聡子とパパの部屋ということになった。表向きはそれまでと同じ生活だったが、少しお互いによそよそしい、すきま風が吹き抜けるような日々になった。人間の赤裸々な営みを見たのだから、より距離が縮まってもよさそうなものだが、現実は微妙にずれていた。しかし1年も経つと、そんな違和感もうすれてきた。ただみんなが少しづつ大人になっただけという感じだ。

  私は母に手紙を書き、学費を送ってもらってミッション系の中学校に行くことにした。母も私のことを少しは気にかけていてくれたらしい。卒業したらシスターになるための研修所にいくつもりだ。そうなれば寄宿舎生活になり、この教会ともお別れになる。パパはきっと聡子と結婚するのだろう。この教会の会派では牧師の結婚は奨励されている。ヨシは勉強して大学に行きたいと言っている。父親はいなくて、母親も病気で長期療養中ということで大変だろうが、この教会の会派には奨学金制度があり、米国の系列大学に留学する場合援助してもらえるようだ。昔犬小屋で縮こまっていたゲンは、見違えるようにたくましくなった。よく働くいい子だ。きっとこの教会になくてはならない存在になるだろう。

  私は研修所で英語をマスターし、この教会に戻ってきてシスターのかたわら英会話教室を手伝って、信徒や子供たちの役に立ちたいと思う。そして教会の経営にも少しは役に立ちたい。シスターであっても、ゲンがずっと教会にいて私でいいというなら彼の女になってもいいと思っている。きっとパパは許してくれる。大人になった私、ゲン、聡子、そしてパパで新しい人間関係を築きあげ、第二の幸福を獲得するのだ。そして忘れてはいけないのがジョン! 私がここに戻ってくるまでしばらくお別れだけど、研修所から帰ってくるまできっと生きていて! 私をここに導いてくれたのはあなたなのだから。

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2010年12月12日 (日)

ボビーとバベット

ボビーとバベット

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  日本ではあまり聞かないが、欧州にはサバティカルという制度があり、大学教師や研究所の研究員などは7年間勤務すると1年間の長期休暇をもらえることもある。サバティカルという言葉は、ラテン語の sabbaticus(安息日)に由来する。休暇と言っても大抵の人は海外に留学したりして、何か新しいものを吸収して心身ともにリフレッシュするのに使っている。私は大学院修士課程に入学してある研究室に所属したのだが、そこにこのサバティカルを利用して日本に留学しているJさんというフランス人女性がいた。私と同じ研究室1年生の新米ということになる。さえない理系男子のなかにブロンドのかわいい白人女性がいるとやはり目立つ。オルセイから来たそうだが、はるばる日本まで、そして世界的に有名とはいえないこの研究室に留学してきて、わずか1年の期間でいったい何を得て帰るつもりなのだろうか? 研究室の大方が「まあ物見遊山だろう」とみるのはやむを得ないことだったかもしれない。

  しかししばらくすると、私はそのような考えが間違っているのではないかと思うようになった。彼女は平均的な日本人女性と同じくらいの小柄な人で、さすがにフランス人だけあって洋服の柄は派手目の感じだったが化粧気はほとんどなく、金髪を引っ詰めにして黙々と働く地味めの仕事人間という印象だった。朝9時には出勤し、ちょこまかと動いてなかなか精力的に実験をしていた。しだいに癌の研究者である彼女のベンチ(実験台)の前の棚には所狭しと発癌剤が並べられるようになり、私には彼女にやる気がないとか、物見遊山の来日とかとは到底思えなかった。

  彼女のフルネームはスペル (Josiane Joachim) はわかってもどう発音するのかよくわからなかった。教授までJさんと呼んでいた。彼女と私が居た実験室は出入り口が1ヶ所しかなく、彼女のベンチが一番奥でその向かいが教授のベンチ、通路をはさんで私、私の向かいが助手(現在の制度では助教)という4人部屋の配列だった。廊下側には窓がなかったが、中庭側には天窓付きの大きな窓がふたつあった。天窓のひとつがさび付いて閉められなくなっていたので、ときどき鳥が迷い込んできた。そのときは大騒ぎで追い出すのが恒例の行事だった。

  教授は忙しくてほとんど実験室には来なかった。助手はたいてい実験室にいたが、ひっきりなしに学生や院生が実験やそのほかの相談で出入りするので、私としては正直うるさくて嫌だった。部外者の私が聞くべきでないような話題になったり、私のベンチで卒研生が実験するときなど、私は場所を空けるためにしばしば後ろの教授のベンチを借りて実験していた。教授のベンチの前で一息つくときには、棚越しにJさんが実験しているのが見えた。Jさんは英語が苦手だったが、日本語をしゃべろうと普段から努力しているようだった。私はフランス語はからっきしだったがダニエル・ヴィダルのファンだったので、彼女が一息ついているときに、「ダニエル・ヴィダルの Sous les ponts de Paris パリの橋の下 好きなんですよ」と日本語で話しかけてみた。彼女は不思議そうな顔をしてしばらく私をみつめていたが「歌は知ってる」と言ってまた実験をはじめた。多分ダニエル・ヴィダルはフランスでは有名ではないので知らなかったのだろう。しかしそれで少し親しくなれたのか、あるとき私がラットに手術を施していると、横に来て最初から最後までじっと見ていた。終わると「大変ね お疲れ様」と妙なアクセントの日本語で言葉をかけてくれた。私としては緊張してしまうので、こういうのは歓迎できなかったのだが、今になってみると懐かしい思い出になっている。

  彼女にとって不幸だったのは、教授がまじめにとりあってくれなかったことだった。教授としては、たった1年で立派な成果を上げられる癌の研究テーマなんてあるはずもなく、まあ適当に共同研究をやってもらって、最後に共著の論文に3,4番目あたりに名前を入れてあげて、おみやげをつけてお帰りいただきたい・・・という考えだったのだろう。だんだん彼女の顔が暗くなっていくのが悲しかった。彼女としては自分のアイデアで実験をして、きちんとファーストオーサーをとれる仕事をしたかったのだろう。3ヶ月くらいたつと彼女も諦めたのか、お茶の水のアテネフランセ文化センターなど在日フランス人がたまる場所に出入りして、遊び友達をさがすようになっていった。

    6月になって、ある雨の日に彼女が番傘を持って研究室に現れた。彼女もやっと日本をエンジョイできるようになったのかと思って、私は少し安堵した。夏が近づく頃には、彼女はすっかり仕事をあきらめたようだった。そのかわり日本語、特に聞き取りは格段に上達したようだった。そのことに気がついたので、どちらも関西出身だった助手と私は、さしさわりがありそうなうわさ話をするときなどは、わざとコテコテの大阪弁で話しをすることにしていた。Jさんはよく不思議そうな顔をして、じっと私たちの話に聴き耳をたてていたが、予想通りイントネーションが違うと聴き取りができないようだった。

  そんなある日、Jさんが突然5~6才くらいの女の子を連れて研究室に現れた。名前はバベットと言うらしい。これが実にかわいくおしゃまな子で、しかもまだ来日して4ヶ月くらいしかたっていないのに片言の日本語をしゃべることができた。私は本名を名乗るとフランス人の子供にはおぼえにくいだろうと思って、適当に「ジュマベール ボビー。僕をボビーと呼んで。」と言うと、バベットは怪訝な顔をして黙っていた。私は「ボビー、ボビー、ボビー」と自分を指さしながら連呼した。バベットは私をボビーと呼ばざるを得なくなった。

  それからバベットはしばしばお母さんにくっついて研究室に現れるようになった。Jさんは朝10時頃来て、午後4時くらいには帰宅するようになっていたが、バベットはその間ずっと部屋で本を読んでいることもあった。バベットにつかまってしまうと、1時間くらい「不思議の国のアリス」の話をきかされたこともあったが、私は彼女と居ると楽しい気分になっていた。テレビの再放送で見た「シベールの日曜日」という古い映画をよく思い出した。バベットはこの映画に登場する少女時代のパトリシア・ゴッジに少し似ていた。映画のパトリシア・ゴッジはもう少し年長だったと思うが。

  ちょっと怖い質問だったが、お母さんがいないときにバベットに「お父さんはどうしているの」と訊いてみた。いつもは強気なバベットだったが、この時に限ってシクシク泣き出してしまった。しまったと思ったが後の祭りだった。泣き止まないうちにお母さんが帰ってきた。気まずい沈黙の後、Jさんは私をにらみつけバベットの手を引いて出て行った。
  もうバベットには会えないと思っていたら、なんと次の日Jさんはまたバベットを連れてきた。Jさんは私に「バベットはボビーに会いたいと言って泣きます」と言って、私にバベットの手をにぎらせた。バベットは下を向くふりをして、一瞬私の方を見てウィンクした。私とバベットにひとつの秘密の空気が流れた。

☆ ☆ ☆

  私たちの研究室にはもうひとつ実験室があって、そこには助教授(今で言えば准教授)と二人の院生とひとりの居候のような人がいた。その人は野口さんと言って、お酒が好きな世捨て人みたいな人だった。大学院博士課程の学生なのだが、5年も在籍しているのに学位論文を提出せず、何をしているのかよくわからない人だった。しかし何か困ったことがあって相談に行くと、公私にわたってどんな話でも、たいてい面倒がらずに相手をしてくれた。その野口さんがある日私に「今日は酒をおごってやるからついてこい」とはじめて私を誘ってくれた。私はそんなに酒好きではなかったが、普段から世話になっている先輩のお言葉なので断ることはできなかった。

  二人で御徒町のこじんまりしたスナックに行った。野口さんの行きつけの店のようだった。彼は「こんなつまらん研究室にいると、だんだん俺みたいに脳が腐ってくるぞ」とお説教を垂れた。でも一番長くいるのは野口さん・・・とつっこみをいれたくなるところだが、私は黙って聞いていた。教室内の私の知らない人間関係など有益な情報もたくさん教えてくれた。しかし彼が話さなかったことが、最も驚愕の人間関係だった。しばらくするとJさんとバベットが入ってきたのだ。野口さんは少しフランス語を話せるようだった。Jさんとバベットを相手に何か話している。

  野口さんは私に「ちょっとJさんと席をはずすから、少しの間子守りしておいてくれ。マスターには話しておくから」と言って、バベットを置いてJさんと出て行った。マスターが私とバベットをボックス席に案内してくれた。私は非常に居心地が悪かったが、ともかくスパゲッティを頼んでバベットの前に置かせた。バベットは少し食べたが、スプーンを置いて「マミーが悪いことしているんだから、私も」と言ったかと思うと、さっと私のグラスをとってグイッとビールを飲み干した。

  私は心の中では「やれやれ まずいことになった、またJさんに睨みつけられる」と思ったが、後の祭りだったので「そうだね、僕らも楽しまなくちゃ」などと、とんでもないことを口走っていた。バベットは私の方のソファーに場所を変えて隣に座り、やがて私のひざで眠り始めた。私はそっと彼女の母親譲りの美しい金髪をなでていた。しばらくするとバベットはこちらに向き直ってウィンクした。そして突然靴を脱いで「私のにおい」と私の鼻先に差し出した。私はついつい臭いを嗅ぐしぐさをすると、バベットは私の顔に靴を思い切り押しつけてきた。私はやっと振り払うと「バベットおまえは大人になってもいい女にはなれないな」と言ってやった。バベットは突然「野口さん偉くならない。ボビーはどう」とわけのわからないことを叫んだ。私はあわてて「そんなこといっちゃダメだよ」と両腕を交差させてバツ印をつくって強くたしなめた。バベットは舌を出した。

  2時間くらいで野口さんとJさんが帰ってきた。Jさんとバベットが出て行ったあと、野口さんが「Jさんはバベットの父親と離婚して、心機一転のつもりで日本に来たんだけど、なかなか思い通りにはいかないもんだねえ」と教えてくれた。その日はそれまでの自分の人生で一番酒を飲んだ日になってしまった。気がついたら野口さんの下宿のベッドの上だった。野口さんがコーヒー豆をひいて、ドリップで抽出し、今までに経験したことがないような香り高くうまいコーヒーを飲ませてくれた。野口さんはいい人だった。でもきっとJさんを日本に引き留めて、バベットの父親になるようなピリッとしたところはないのだろう。バベットもそのことに気がついていたのかもしれない。

☆ ☆ ☆

  師走になって、私たちの研究室でも忘年会をやることになった。大学院1年生の私が幹事をやることに決まった。スタッフと院生+Jさん+秘書さんで9人だったが、卒業研究の学生や共同研究者も参加するので、全体では20人くらいの大宴会になる。私は上野のしゃぶしゃぶの店に席を用意した。さすがにJさんもここにはバベットを連れてこなかった。酒がはいったところで野口さんが「みんな1曲ずつ歌え」と命令を下した。野口さんは自分の業績はなかったが、面倒見が良くて、実験のやり方などで困ったときにはみんな世話になっているので、誰も彼の命令にさからうことはできなかった。教授も十八番の「ちゃんちきおけさ」を歌って、一同茶碗をたたいたりして大いに盛り上がった。

  そしてJさんに順番が回ってきた。私は彼女にフランス語で歌って欲しかった。生でフランス語の歌を聴いたことがなかったので、一度聴いてみたかったのだ。そうシルビー・バルタンか、マージョリー・ノエルあたりがいいなと思っていたところ、彼女はやおら立ち上がって、なんと「枯葉」を熱唱しはじめたのだ。一気に座がしらけはじめた。台詞が始まる頃には、歌など無視しておしゃべりに熱中するするグループと、ハラハラしながら耳を傾けるグループに分かれた。さすがにJさんも場の雰囲気を察知したのか、突然歌うのをやめて泣き始めた。みんな凍りついてしまった。すごく長い時間に感じたが、多分30秒くらいたったときに野口さんが立ち上がって彼女をかかえて階段を下りていった。そして忘年会はおひらきになった。

  その事件の後、お正月明けまでJさんは大学に出てこなかった。1月7日になってやっと出てきた時にはさっぱりとしたにこやかな顔だったので、私はほっと胸をなでおろした。バベットはまじめにインターナショナルスクールに通っているらしく、研究室には顔を出さなくなった。冬の大学はとても忙しく、あっという間に時は過ぎ去っていく。Jさんも留学のしめくくりに研究発表をすることになり忙しくなった。当然研究は完成していないが、中間報告をすることは求められる。残った仕事はオルセイで続行することに決めたようだった。彼女は野口さんに「教授にきちんと指導とサポートをしてもらえなかったのは残念です」とこぼしていたようだ。

  3月はじめにその発表会が開催された。彼女の研究発表はいつもの私たちの発表会とは少し趣を異にしたものだった。まだ日本語での発表は無理だったので一生懸命英語で発表するのだが、発音が完璧にフランス流だったのですごく違和感があった。例えば実験 experimentation はエクスペリマンタシオンと発音する。まあそれでも馴れればネイティヴの英語よりはむしろわかりやすかったのだが・・・。もうひとつ瞠目したのは、ただの折れ線グラフや棒グラフまでカラーのスライドで発表したことだった。当時このようなスライドはモノクロかせいぜい背景をブルーにするぐらいが普通だったので、彼女のスライドはとてもおしゃれに見えた。もちろん今はパワーポイントで発表するのが当たり前なので、カラーを使わない発表なんてほとんどあり得ないことになってしまったが。

☆ ☆ ☆

  忙しさにかまけているうちに、あっという間に時は過ぎ去ってしまう。Jさんたちとお別れする最後の日がやってきた。会議室でお茶会をやることになった。久しぶりにバベットも現れた。私はバベットに「今日でお別れだね。バベット泣く?」と訊いてみた。バベットは人差し指を立ててふりなかがら「ちっちっち」と言ってウィンクした。そうそうその仕草は母親も使っていたっけ。子供としては生意気な感じだが、でもバベットらしくて安心した。会がお開きになり、いよいよお別れと言うときに、私は研究室で撮影したバベットやJさんの写真をアルバムに整理してプレゼントした。バベットも私に一通の封筒をくれた。そして私に向かって「ボビー 偉くなってね」と生意気にも激励してくれた。私はバベットの手を強く握って「かもね」と言った。そして部屋を出て行くときJさんが振り向いて、はじめて私に微笑みながらウィンクしてくれた。なんだか私ははじめて彼女が大人として私に接してくれたような気がして嬉しかった。アパートに帰って封筒を開けると、1枚の便箋の中央に小さなハートのマークが描いてあり、下にカタカナで エリザベート(バベット)・ジョアシャン と署名があった。

  4月になると、東北地方の大学に研究補助員の仕事があるというので野口さんが出て行った。Jさんもバベットも野口さんもいない研究室は、私にとっては廃墟のようだった。すっかりテンションも落ちて、ただただ下宿と研究室を機械的に往復して研究を続けていた。

☆ ☆ ☆

  3人がいなくなって約1年経過し、私の修士論文の審査が終わって、なんとか博士課程に進学できそうだというめどがついた頃、ひょっこり野口さんが研究室に現れた。助手に昇格することができたそうで、教授に報告するために来たとのことだ。帰り際に彼は私の肩を抱いて、また御徒町のスナックに行こうと言った。私も久しぶりで野口さんと話がしたかった。春日通りを御徒町の方に歩いていく途中で、私が

「バベットが大人になったら、またJさんとバベットと野口さんと僕の4人で飲みたいですね」と言うと、野口さんはうつむいて

「それがなあ・・・。Jさんは先月亡くなったんだ。オルセイの研究所の知り合いから手紙をもらったんだが、膀胱癌が転移していて手遅れだったそうだ。」

私はショックで「えー」と言ったきり言葉が出てこなかった。湯島ハイタウンのバス停近くに座り込んでしばらく動けなかった。

「でバベットはどうしているんですか?」
「ブルターニュの叔母の家に行ったそうだ」
「・・・・・」

Jさんは発癌剤をいろいろ使っていたので、どこかで吸い込んでしまったのかなという思いに私は押しつぶされそうだった。

  結局御徒町のスナックには行かずに、JR御徒町駅で野口さんと別れた。私は山手線に乗って呆然とシートに腰掛けて、Jさんとのいろんなシーンを回想した。ぼーっと窓の外を通り過ぎるネオンをみつめているうちに3周くらい周回してしまった。やっと電車を降りて、暗い夜道を歩きながら私は「学位をとったら、きっとブルターニュに行ってバベットに会おう」と心の中で繰り返していた。

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2012年3月12日 (月)

あとがき

この作品集に含まれる物語はすべてフィクションです。実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。

この作品集に使用した写真は自分で撮影したもの以外に、「フリーフォトサイト足成」に投稿されていたものを一部利用させていただきました。フリーフォトサイト足成および投稿者の皆様に感謝します。

( monchan )

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2016年7月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために1: 川沿いの道を歩いて

A1820_000010Aが転校してきたのは小学校5年生の2学期だった。小柄で可愛い感じのおかっぱ少女だった。ただほとんど勉強はしないらしく、授業中の先生の質問には何も答えられなかった。指名しても立ったまま押し黙っているだけだったので、そのうちあてられなくなった。

しかしお習字の時間が来ると、人が変わったように生き生きと美しい字を書いていた。とても子供の字とは考えられないくらい立派な字だった。

2学期が終わる頃になって、授業の最後に担任の先生がある発表をした。それは給食の代金を支払っていない人がいるという話で、その名前を読み上げた。その中にAの名前があった。どうしてそんなことをやっていたのかわからないが、子供心にも「残酷なことをするんだなあ」と、不快な気持ちになったことを覚えている。発表は次の週にもあり、そのときはAだけが支払っていなくて、Aは昼休みに先生に呼びつけられ、親に連絡するようにきつく申し渡された。職員室ではなく、教室の隅でそんな話をするので、近くにいた者には聞こえてしまうのだ。

その後支払いがどうなったかはわからない。そして3学期になった。Aは目に見えて元気を無くしたように見えた。そのうちお習字の発表会があって、やはりAの作品はとびぬけて素晴らしかった。私はAのところに行って、「本当にきれいな字だね」と絶賛した。Aは微笑んだようにみえたが、次の瞬間顔を後ろに向けてうつむき、そのまま黙ってしまった。

翌日の放課後、Aの方から私のところにやってきて 「うちに来ない?」 と誘ってきた。私は 「いいよ」 と言って、彼女について行った。学校から川沿いの道を上流にしばらく歩いて行くと、民家も途切れて、舗装道路が山道のような細い道になった。さらに川沿いをさかのぼると、壊れかけたバラックのような建物が見えてきた。Aは小走りに家に入っていって、2~3分すると母親と2人で出てきた。母親は明らかに迷惑そうで、扉の外で頭を下げる私に挨拶しないばかりでなく、目も合わせなかった。

母親が家に引っ込むと、Aは「ここが私の家」と言って屈託なく(いや、ことさら屈託なさそうに)笑った。そして 「外に行こう」 と私の袖をつかんで、河原の方に降りていった。ふたりで並んで河原に座り込んだ。何か話したのか、何も話さなかったのか記憶にないが、しばらくするとAは立ち上がり、川面に石を投げはじめた。私も河原の石をひろってサイドスローで投げた。石はポンポンとバウンドして対岸まで届いた。Aは私の方を見て、(こんどは本当に)屈託なく笑いかけた。

2人はAの家までゆっくり歩いてもどり、戸口のところまで来ると、Aが 「じゃ、さよなら」 と言うので、私も 「さよなら」 と言って別れた。数十歩くらいだろうか、歩いた後振り返ると、Aは戸口に立ったまま、まだ私の方を見ていた。私は手を振って、また山道を下っていった。もうすぐ日没だった。

その後Aと2人で話す機会は一度もなく、私は6年生となり、Aはまた転校していった。

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寄る辺なき記憶の断片のために2: 青い眼の人

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今でも朝礼はやっていると思うが、私が小学校4年生の頃通っていた学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。

あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらかの基準(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。

その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして中に私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅した時に誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。

達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

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寄る辺なき記憶の断片のために3: トライアングル

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多分小学校4年生の2学期頃だったと思う。通常お昼は給食だったが、たまに給食が休みで弁当持参になる日があった。

当時の私たち一般生徒は、弁当箱にご飯とおかずを詰め込んだものを食べることになるわけだが、Bは違っていた。Bが持ってくるのは弁当箱ではなく、バスケットだった。まずバスケットからテーブルクロスを取り出して机の上に広げ、手作りの分厚い、しかもレタスやチーズがはみ出しているサンドイッチを取り出す。さらにオレンジ丸ごと1個と果物ナイフをとりだして、起用にオレンジの皮をはがして4分割する。そんな作業をしてから彼の昼食がはじまる。当時はまだマクドナルドのようなファーストフード店が日本に進出していない時代だったので、Bの昼食は結構ものめずらしかったのだ。

そんなBだから、クラスのみんなからは少し浮いていた。Bの母親は水商売をしているといううわさもあった。ただ私はそんなBに興味をひかれたのかそこそこ仲良くしていた。ある日Bが「二人でトイレのボックスに入って面白いことをしてみないか」と私に提案してきた。何をするのか好奇心はあったが、多少不安もあったので、私はCも誘って3人ではいることにした。誰もいないタイミングを見計らって、3人でボックスに入った。

Bはそこでみんなにズボンのチャックを下ろしてペニスを出そうと提案し、さっそく自分のものを引き出した。私はすぐに同調したが、Cがためらうので2人で強引にチャックを開けさせた。恥ずかしがっていたものの、Cも多少興味を感じたのか、ボックスから逃げ出しはしなかった。Bはすぐ私のペニスを握り、「お前もCのを握れよ」 と言った。言われたとおりに私はCのペニスを握り、CはBのを握った。トライアングルの完成だ。Bは私のペニスをしごき始めたので、私とCも同じ行動をはじめた。やわらかい包皮の感触がいまでも残っている。

2~3分やっているうちにベルが鳴って休憩時間が終了した。3人はあわててボックスを出た。幸いにトイレには誰もいなかった。授業が終わって、Bと帰途についた。Bはいつになく上機嫌だった。帰り道の途中にある急な坂道を息をきらしながら登り終えたとき、突然Bが 「セックスってどうやるのかなあ」 と訊いてきたので、私は 「知らない」 と答えた。その話題はそこでおしまいになり、先生やクラスメートの話をしながら帰った。その後3人になったときも、トイレでの出来事が話題になることはなかった。

今から考えてみると、Bは両親か近縁者のセックス行為を垣間見たのではないだろうか。今のように、雑誌やウェブサイトで子供がお手軽にポルノ画像をみられるような時代ではなかったので、多分そうだったのだろう。そして自分のペニスが勃起しないので心配になり、他人の手を使ってみようと試したに違いない。私もCも勃起しなかったので、自分だけに問題があるのではないという結果を見て、「子供には無理なのかもしれない」 という結論に達し、安心したのではないだろうか。私とCは彼の実験動物として使われたわけだ。

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寄る辺なき記憶の断片のために4: 白いワンピースに黒のベルト

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小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。

しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、男子に人気があって彼女の周りに集まってくるような人物ではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分が弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられ、クラスから浮き上がっているというのが実に嫌な気分だった。

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、今考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とお祝いを言ってくれた。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった(こちら)。それは南野陽子も通ったという私立女子中学の制服だった。私は彼女がその中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝くDをみて、本当に良かったなと思った。

(写真はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために5: シロアリ

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小学校の時はよく「いきものがかり」をやっていた。校庭の隅に動物小屋があり、数匹のウサギを飼育していて、「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。そういうわけで、中学校に入学してもそういう部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかけられたわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でも天下の理研でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためには腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギー源を得ることが必要なのだ。その原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在でも実現していないので、どだい困難きわまりないテーマだったということは、当時知るよしもなかった。

http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150512_2/

まず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていた位なので、見つかるわけも無く、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。アリがハチと近縁なのに対して、シロアリはゴキブリの仲間だ。全身が白い働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し、全部死んでしまうと言う事件もあって、グループリーダーは部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。私たちのグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで、城田先輩は私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちにふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋に誘導して、母親が病気だと告げた。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんも1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があったため、私たちもそれぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、就職したのはおそらく彼1人だったと思う。金銭的な事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で、私の最初の研究指導者だったと思う。貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。

(図はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために6: 生物教師

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私が通っていた学校(中高一貫)には、生物の先生がふたりいた。ひとりは京都大学出身のエリート然とした先生で(F先生とする)、生徒と親しく話しをすることはほとんどない人だった。

 

ただFは私たち生物クラブの生徒をよく山に連れて行ってくれた。Fは植物に詳しくて、種の識別方法など丁寧に説明してくれたが、今ではすっかり忘れてしまった(すみません)。特別な報酬もなく、夏休みや休日をつぶして私たちにつきあってくれたことにはとても感謝している。中高の先生が余裕を持って生徒に接してくれるということは、とても大切なことだと思う。現在の学校には欠けていることだ。

 

一番思い出に残っているのは、南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳に登り、鋸岳(のこぎりだけ)の稜線(写真)を縦走して中ノ沢乗越から熊ノ穴沢をおりてきた山行だ。北沢峠は現在では新宿からバスで行けるような場所だが、当時は東京や神戸から2~3泊しないとたどりつかないような秘境だった。

 

鋸岳周辺は、今ではおそらく随所に鎖や鉄梯子などが整備されていると思うが、当時は古いほつれかけたザイルだったり、木製のはしごもステップが腐って脱落し、2本の棒がところどころ残った桟でつながっているというような状況で、実態が露見すると懲戒ものの危険な山行だったと思う。しかし当時はみんなスリルを満喫できることの冒険心が勝っていて、文句を言う部員は誰もいなかった。帰宅したあとも、当然誰も親に「滑落の危険があった」などとはチクらなかったようだ。現在の地図をみても(下のリンク参照)、熊ノ穴沢の降り口には ”危”の文字が見える。

 

http://yama.ayu-ayu.net/?eid=1081380

 

山小屋に泊まるとき、Fはいつもランプの灯火で本を読んでいた。あるときこっそり覗いてみると、それはRシュトラウスの「アルプス交響曲」の楽譜だった。私ははじめて楽譜で音楽を楽しむ人を見て、ちょっと感動してしまった。もちろん当時 iPod などはなかった。

 

もうひとりの生物の先生(G先生とする)は生徒にフレンドリーな先生で、何でも気軽に質問や相談ができる人だったが、クラブ活動にはほとんどノータッチだった。今考えてみると、京大出のF先生に遠慮していたのかもしれない。そのG先生が、私たちが中学2年生の頃、まだ40才台なのに突然退職すると宣言したのには驚いた。

 

私たちの学校は受験校だったとはいえ、受験科目に生物を選択する生徒はわずかで、どうみても生物教師はプレッシャーのかからない気楽な稼業としか思えなかった。私は高校3年生の時、生物と化学を受験科目として選択するクラスに振り分けられたのだが、通常50人くらいのクラスが、そのクラスは4人だった。生物はいわゆる暗記物とされていて、勉強に時間をとられるのが嫌われるのだ。G先生がどうしてやめるのか、その理由は全く伝わってこなかった。

 

青天の霹靂で、学校もかなり慌てた様子だった。結局どこかから、赤ら顔でずんぐりむっくりの40才くらいの教師(H先生とする)を臨時採用することになった。Hは生物クラブにも興味があるようで、ときどき部室に現れた。しかし話すことが少しおかしいのだ。例えば「私は野口英世の弟子で、彼から直々に顕微解剖を教わった」と自慢するのだが、年齢的にGが野口英世の弟子というのはあり得ない話だし、だいたい野口英世は細菌学者なので、顕微解剖などやっていたのかどうかも疑わしい。ロックフェラーに留学していたような人が、どうして失業して臨時教師としてひろわれるのかというのも不可解だった。中学生でもそのくらいの疑念は持った。ただどこからかミミズを採集してきて、顕微鏡下でメスで切ったりして内臓などをみせてくれていたのは事実だ。

 

あるとき私がひとり部室で作業しているとき、Hが入ってきて、突然私の肩を抱いて耳に息を吹きかけきた。気持ちの悪いオッサンだと思ったが、そのときは単なる悪ふざけだと思っていた。しかし次の日には同じ姿勢から、私の耳元で「スキッ」とささやいたのだ。確かに「スキッ」と言った。私は硬直してなにもできなかった。

 

その事件があってから、私は悶々と過ごすことになった。「私は生まれつきホモに目を付けられる体質なのだろうか」という疑念に苛まれた。部室にも近寄れなかった。部活命だった私としてはとても辛い毎日だったが、2週間くらい経過して、ようやく意を決して部室に行ってみた。毎日出入りしていた私がしばらく部活を休んだので、心配したのかクラブ仲間が話しかけてきた。

 

「ひょっとしてHに何か言われた?」
私がもじもじしていると、彼は「ボクは告白されたんだ」と続けた。
私は仰天して「え、みんなに言ってるのか?」と訊いた。
彼は「やっぱりな。いや他にも言われた奴が何人かいるらしい」

 

私は彼と話し合って、F先生に相談してみることにした。しかしF先生は「そんなことはないだろう。ちゃんとまじめに指導してもらいなさい」と、まるで私たちがふざけているかのように、Hの言動についてまじめにとりあってくれなかった。私たちは本当にがっかりして落ち込んだ。

 

しかしHの言動は次第にエスカレートしていき、ついには授業でセックスの話とかをしはじめて、このままだとスキャンダルに発展しかねないような事態になっていった。さすがにF先生もHについては口をとざすようになった。それでも学校はHを解雇できず、結局2年間私たちはHにつきあわされることになった。悪夢のような2年間だったが、クラブではHがはいってきても全員シカトするというコンセンサスができて、そのうちHは部室には来なくなり、部活は正常にできるようになった。

 

さすがに2年経過して、私が高校生になる春にHは解雇された。びっくりしたのはHの後釜がG先生だったことだ。何事もなかったかのように、Gはまたニコニコと私たちに接する元通りの教師となった。

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2016年8月18日 (木)

小旅行

4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、その狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。たった1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もすっかりなじんでしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

 

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。
暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。
私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。
まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

 

「それにしてもここは何処なんだ」

 

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからマーラーの交響曲第9番の冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=XpxQaizlBtY

 

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンの荒い息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

 

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しばらくすると薄暗がりのなかで、中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

 

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

 

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

 

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。

 

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

 

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!
https://www.youtube.com/watch?v=7o13VEU5vus

 

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。
ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうち今生きている家族や友人たちや、サラとミーナにもまた会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに、私は意識を失ってしまった。

どのくらい経過したのだろう。突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの看護婦が、採血の準備をしていた。
「お目覚めですか」と看護婦は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。

 

看護婦がカーテンを閉めないで去ったので、けやきの緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

「もう少し生きろってことかな.....」 と私はつぶやいた。

 

(カローンの画像は wikipedia より)

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2017年10月 2日 (月)

誰かがおやすみとささやくバルコニーにて 1.夕暮れカミニート

夕暮れカミニート

そうね 出会いは渚のカフェで
誰もいない 遅い朝
どうして あなたは同じテーブルに
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の腕の中
私は赤く あなたは透明

そうね 別れは夕暮れカミニート
遙かな風の コレドール
どうして あなたは振り向かないの
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の胸の中
私の街に あなたはいない

カリブの海で、砂浜で、
気ままに泳いで 抱き合って
私はキール あなたはモヒート

私の街に あなたはいない
私の街に あなたはいない

(monchan)

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誰かがおやすみとささやくバルコニーにて 2.ピアノを弾くシルフィード

ピアノを弾くシルフィードへ

私の体の中の1番淋しい場所で
あなたを沐浴させてあげましょう
そこは生暖かい風が吹く何もない場所
だけど涸れることのない小さな泉があって
ずっと昔から誰かが来てくれるのを
待っています

私の体の中で1番激しい場所で
あなたはピアノを弾いてくれるでしょう
風にひらひらとシルフィードが踊る場所
やがて夕闇におおわれて風もやみ
ピアニッシモと秘密の香りが
傷を癒やすのです

( monchan )

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2023年7月14日 (金)

退院

退院

いかにも自信家らしい脳外科医が言った。

「人の顔が識別できなくなったということですが、専門的には相貌失認といいます。この病気は最新の技術で治療できるようになりました。AIのマイクロチップを脳に埋め込めば直ります。保険も適用できますから大丈夫ですよ。手術しますか」

私は妻に先立たれ子供も居ないので、もう勤めは辞めたし人の顔が識別できなくても特に不都合は無い・・・と思うのは早計だ。私の家はいわゆる団地なんだが、週に一度市と契約している見回り人が来て私の状態を確認することになっている。いわゆる孤独死のまま放置されるのを防ぐためだ。もちろん本人のためではなく、市や管理者の便宜のためだ。実際身寄りのない老人が孤独死したまま放置されると、市や管理人は大量の余計な仕事を抱え込むことになる。また週に2回家事手伝いの人を頼んでいるので、やはり人の顔を記憶できない識別できないということは、頼んでいる人の代わりに泥棒が来てもわからない ということなので致命的だ。

医師には「手術します」と答えるほかない。外科医は満面の笑みをうかべ「それはよい決断です。ただし病気になってから手術の前までに会った人の顔を思い出すことはできませんよ。手術後に見た人の顔を覚えることができるという手術だということをご理解ください。ただまだ例数がそれほど多くない手術なので、予想しないことが起こる確率はゼロではありません」と説明してくれた。私は了解した。

私は手続きをすませ、2週間くらい経った頃K病院に入院して手術した。以前にこの病院の近傍で仕事をしていたことがあるので土地勘はあった。だから退院して帰宅するときも当然ひとりで帰宅できると思っていた。手術はとりあえず成功した。開頭したのでしばらく病院生活を送らなければならない。その間友人がひとりだけ見舞いに来てくれた。昔勤めていた会社の同僚だ。彼の顔を覚えていて本当に良かったと思う。

入院している間、担当の看護師とはいろいろな話をした。彼女はまだ仕事をはじめて2年目だったがなんでも手際よくやっていた。それに私と同じFCバルセロナのファンだったのでつい盛り上がってしまって、同室の患者の顰蹙を買ったこともあった。考えてみるとFCバルセロナのファンと親しくお話しするのははじめてだったし、今後の私の人生でもありそうになかった。

ある意味自宅にいるより楽しい入院生活だったがそれも終わる時が来た。朝のさわやかな空気の中で、担当看護師が私を送り出してくれた。「長い間有り難うございました」と言って、私はドアを開けた。ドアのそばの花壇には夏のバラが咲いていた。看護師に手を振って、私はバス停に向かって歩き出した。両側に高く鬱蒼と成長した木々が並ぶ真っ直ぐな並木道だ。昔来たときよりも樹木は明らかに生長していた。セミがうるさく鳴いていた。

退院の開放感に浸りながら私はゆっくりとバス停まで歩いた。ちょうどバスがやってきたので何の疑問もなく乗り込んだ。駅は確か5つめの停留所のすぐ近くだ。ちょっと考え事をして、そろそろだなと窓からあたりの景色をみると、おやっ、知らない景色だ。私はあわてて電光掲示板を見た。全く記憶にない名前の停留所が並んでいた。

私は慌てて次で降りて、病院までもどらなくてはと道路を横断して道路の反対側にあるはずの停留所を探したが、どこにも停留所は見当たらなかった。どうも循環型のコミュニティーバスだったらしい。昔はそんなのはなかった。時刻表を見ると次のバスは3時間後だ。今日の午後には見回り人が自宅に来る手はずになっていて退院の報告をしなければならないので、それでは間に合わない。

仕方がないのでスマホを取り出して、タクシーを呼ぼうとした。ところがなんとしたことかスマホをうまく操作できない。病気のせいか手術のせいかわからないのだが、指の動きが不安定でなかなか思い通りにいかなくなっていた。全身から血が引いていくような感覚の中で、私は道路に座りこんだ。

私の病んだ脳はそれでも私を叱咤激励する機能は保持していた。私は立ち上がった。そう、頑張って道でタクシーを捕まえよう。タクシーを捕まえて駅に行かなければならない。しかし見知らぬ街でどこにいればタクシーを捕まえられるかわからない。10分くらい待ったが空タクシーは1台も通らなかった。少し周辺をうろうろして大通りがどこにあるか探したが、交通量の多い道はみつからなかった。

タクシー会社の電話番号を誰かに訊くしかないかもしれない。うろついているうちにようやくカフェ併設の洋菓子屋をみつけて一休みすることにした。窓際に席を取ると年配の婦人がすぐにやってきて「いらっしゃいませ。うちはモーニングはやってないけど、今の時間だとケーキをつけるとコーヒー半額になります」というので、私はチーズケーキとコーヒーを注文してやっと落ち着いた気分になった。

勘定をすませてから、ようやく私の本題を切り出した。「ところでこのあたりのタクシー会社の電話番号をご存じありませんか」と尋ねると、婦人は「タクシーはあまり使わないからわからないけど、調べてあげましょうか」と言ったので、私は渡りに舟でスマホを取り出し、「手が不自由でうまくつかえないので、お願いします」と彼女にスマホを手渡した。婦人は首尾良くタクシー会社と連絡ができたようだ。「5~6分で来るらしいから、席で待っててください」と元の席を指さした。有難い・・・助かった。

タクシーに乗り込んでほっとしたが、運転手に「どちらまで」と訊かれて、私はまた奈落の底に突き落とされた。駅の名前を思い出せないのだ。仕方なく「ここから一番近い電車の駅までお願いします」と言った。運転手は無言で5分くらい走って見知らぬ駅の前で私を降ろした。

幸いにして自宅の近傍の駅の名前は覚えていたので、駅員にその駅までどうやって行ったらいいかを訊いた。駅員は事務室にいた別の駅員を呼んで、私はその別の駅員に事務室で説明してもらった。結局紙に書いてもらってそれを渡してもらうことになった。有難い。看護師、ケーキ屋、駅員、生身の人間は少なくとも仕事にかかわることには親切なのだ。電車のなかで私はそんな人々の顔を思い出し、手術は成功したんだと確信した

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2023年7月29日 (土)

恩人

恩人

H先生の医院は割と歴史が新しいわが街の医院のなかでは草分けで、開業当時はドアの前に何十人も行列ができるほど繁盛していたそうです。私が通っていた数年前でも待合室にはいつも大勢の患者さんが座っていました。

私は血管が細くてしかも見えにくく採血が難航する場合が多いのですが、医院の技師さんや看護師さんはとてもお上手で、一度も失敗したことがありませんでした。それがその医院を選んだ理由でもあります。

当時私の病気は本当に危機的な段階に来ていて入院寸前だったのですが、おそらくH先生の選んだ薬が適切でなんとか通院で治療できるという状況にありました。どうしてそんな状況になったかというと、私の著書「生物学茶話:@渋めのダージリンはいかが」(リンクはこのブログのトップにあり)が脱稿間近のラストスパートの段階になっていて、熱中のあまりに健康に留意することを怠っていたからだと思います。

ところがあるとき2週間くらいの間に、採血を担当していたスタッフが二人とも次々と退職してしまったのです。H先生は「きちんと仕事をしてもらえないのでやめてもらいました」と言っていましたが、私はとても信じられませんでした。何かあったに違いありません。

その後はH先生が直々に採血することになったのですが、これがなんとも・・・。まず左腕でトライして何度も刺しますが失敗、次に右腕に変えても出血したりして失敗、また左腕に変えてようやくなんとか成功という情けない採血。私はきっとダメだろうと諦めていたので、最後に成功したときは万歳を叫びたくなりました。

しかし何度行っても上達しないで腕変えてやり直しを繰り返すので、本当に通院が憂鬱になりました。そんなある日私は見てしまいました。H先生がまだ退職せずに残っていた若いスタッフの一人(多分看護師)のお尻をなでていたのです。ああこれだなと合点がいきました。スタッフはまだ事務員も含めて3~4人残っていましたが、こんなことをやっていると、そのうち医院が立ち行かなくなるのではないかと不安になりました。

H先生の医院は10年くらい前から開業していました。もしその頃からこういう状態では経営が成り立つはずもないので、最近はじまった出来事としか思えません。調べてみると脳の病気でクリューバ―・ビューシー症候群をはじめとして性的な異常性を示す精神障害はいろいろあるということがわかりました。H先生の場合、普段は心優しく丁寧に患者と接するもの静かな方なので、まさか精神障害とは想像できません。でもそうかもしれません。それともただの不倫だったのでしょうか? それならやめた2人はそれが不快でやめたということになりますが、それは多分ないでしょう。

終末の兆候はありました。隣にあった薬局がなぜか店を閉めたのです。そしてそれからしばらくしたある日、突然入り口に当院は○月○日をもって閉院しましたという紙が貼ってあって、中をのぞくと薄暗くて誰も居ないようでした。ドアの前に数人の患者が集まって話していたので私も加わりましたが、H先生の消息を知る人は誰もいませんでした。そのうちホームページにもメッセージは掲載されましたが、どこに移転するとかの情報はなく、患者へのメッセージはお詫びだけでした。

患者は困りました。検査したまま結果がわからないという人も居たようです。私も困りました。別の医院に通うことになりましたが、状況を説明してなんとか看てもらうことになりました。後で聞いた話では、私だけでなく複数の患者が同じ事情で押し寄せてきたそうです。次のハードルは私が服用していた薬が特殊なものだったということでした。医師はそんな薬は聞いたことがないと怪訝な顔をするので、私が知っている限りの知識で縷々説明して、ようやく処方箋を出してもらうことになりました。処方箋は出してもらったのですが、肝心の薬が隣の薬局にはなく、イオンの薬局にも置いてなくて、新橋まででかけて何軒か薬局回りをしたのですがどこにもなく、結局私が通う医院の隣の薬局に薬が到着するまで待つことにしました。

その薬はその後1年くらい服用していたのですが、非常勤で勤務している別の先生に当たったときに、「今使っている薬は少し強すぎるかもしれません。病状が落ち着いているので薬を変えましょう」ということになって、一般的な薬に変更して現在に至っています。

もとH医院があった場所はときどき前を通るのでわかりますが、閉院後何年もそのままで誰かが借りた形跡はありません。一方同じビルの2Fはずっと予備校が営業しています。なので医院が貸主の都合で追い出されたという訳ではないようでした。

3年くらい経過してそんな騒ぎもすっかり忘れた頃、ふと思いついてH先生の名前をグーグルに入力してみると、なんと東京湾岸に近い街でH医院が再開されているではありませんか! 割と珍しい名前なので同姓同名ではないと思います。HPをみると写真が首から下だけで顔は隠していました。それから2年くらい経っても閉院していないので、どうやら病気であれば治癒したようです(それともスタッフを男性だけにしたのか)。女性問題であれば解決したのでしょう。ともあれなにしろ私の命の恩人なので、本当に良かったと思いました。ご活躍を心からお祈りしております。

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2023年9月22日 (金)

半島のマリア 第1話:風穴

 湖畔の公園に立ち並ぶ満開の桜の林のむこうに、くっきりと白い航跡を残してクルーザーが疾駆していく。公園の広場では子供達が凧揚げをしているが、風が弱いせいかうまく揚がらないようだ。しかし何度失敗しても、子供達は歓声を上げながら糸を持って走るのをやめない。そんな景色を横目にふらふら歩いていると、段差に気が付かず転んでしまった。子供達がそれに気づいて笑う。健二はそちらの方はなるべく見ないようにして、少し歩くスピードを速め、目的地のカフェ「ぶーふーうー」に着いた。ここは古くからやっている店だそうだが、インテリア代わりにふんだんに観葉植物が配されていて、いつ来ても気分をリフレッシュできる。

 今朝は穏やかな晴天なので、テラスに席をとった。前庭には鮮やかな黄色のレンギョウの花が咲き乱れていた。白い椅子にもたれて湖畔を渡るここちよい風にふかれていると、そのまますやすやと眠りこんでしまいそうだ。富士山も今日はかすんだ風情で空に横たわっている。
 昨夜は来週に予定されているレコーディングのためのリハーサルが午前2時頃まであったのだが、そのあとビールとバカ話で盛り上がり、夜が明ける頃からやっとスタジオ内の休憩室で2時間ほど仮眠しただけだった。アームにもたれてうとうとしていると、ウェイトレスに「お待たせしました。モーニングセットをお持ちしました」と声をかけられた。どうも本当に眠ってしまっていたようだ。

「ああ どうもありがとう」と健二は目をこすりながら答えた。
「ちょっと寝不足でね。わるいわるい」
「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスは吹き出すのをこらえるように立ち去った。

 深煎りのコーヒーをゆっくりと飲み干した頃、赤い長袖シャツにジーンズの早智が、バックパックを揺らしながら、軽やかなあしどりでやってきた。彼女はスタジオミュージシャンで、昨日のリハーサルに参加していたが、バカ騒ぎには加わっていなかった。そのせいだろう、さっぱりとした顔ではつらつとしていた。彼女はケラケラと笑いながら「なに、その髪」と健二のピンと髪の立った頭頂から後頭部を指さしながら言った。
「いや さっきここで眠ってしまってね」

 そういえば目が覚めてから、健二は一度も鏡を見ていなかった。くそ、それでさっきウェイトレスが嗤ったのか、と心の中で悪態をつきながら健二はウェイトレスを目で捜したが、彼女はこちらに背を向けてマスターと話しているところだった。健二は早智に鏡を借りてあわてて髪を直した。直し終わって振り向くと、また件のウェイトレスが嗤っていた。さっきは子供にも笑われたし、今日はあまりいい日じゃなさそうだ。


「これってポルシェよね。まさか買った訳じゃないんでしょう」
「ボクのポンコツ車の方がよかったかな。いつも平凡なデートじゃつまらないかもしれないと思ってね。知り合いに頼み込んで借りたんだよ。傷でもつけたらマジで大変なんだけどね。」
「ふーん。健ちゃんってお金持ちの友達がいるんだ」
「まあ一応ヤブ医者なんだけど、現金で買ったんじゃないみたいだよ」
「それじゃなおさら壊しちゃたいへんね。今日はハイキングだって聞いてたからそのつもりできたんだけど。ところでいったいどこに行くの」
「青木ヶ原樹海って言ったらどうする」
健二は早智に断られたらどこに行こうかと考えながら訊いてみた。
「ええー。ドクロ探しでもするの」
「いやそうじゃなくて富士風穴に行ってみない。観光地の富岳風穴なんかと違って、ちょっとしたアドベンチャー気分が味わえるかもしれないよ」
「むむ。 それって面白いかも」

 健二はひょとしたら「まだ3回目のデートの場所にこんなところを選ぶのは非常識」と断られるかもしれないと思っていたので、意外な早智の反応にほっとした。そういえば彼女の実家は東京近郊とはいえかなり不便なところにあるという話だった。そうか、カントリーガールなんだ。健二はどこかで彼女を山の手のお嬢様感覚でつきあおうとしていた自分が可笑しくなった。笑いをこらえながら「よーし、じゃあ青木ヶ原へ突入だ」と叫んで車を走らせた。


 富士山の周辺では頻繁に火山性微動が観測されていた。先週ははっきり体感できる地震も2度あった。富士山の火山活動を長年監視している大学の研究室では、近々大規模な噴火がある可能性が強いとの結論を出し、各方面に警告を発していた。関係自治体は合同対策本部を設置し、御殿場や河口湖周辺では避難訓練も行われた。しかし今までにも頻繁な地震の後何事もなしということが何度かあったので、あまり大学の情報を信用していない関係者も多かった。

「まったくうちの会社もどうして河口湖なんかにスタジオ作ったのかなあ。この頃地震なんかもあるし、富士山大爆発の噂なんかも飛び交っているんだよね。作ったばかりで溶岩の下敷きなんてシャレにならないよ」
「東京の本社に異動してもらえないの」
「ダメダメ、まだここにきて半年もたってないんだから。それにある意味では、ここは会社の最前線と言ってもいいんだよ。だからあの時々来る不気味な揺れさえなけりゃ、最高の職場なんだけどなあ。まあそんなにマジに心配しなくてもいいかも。だいたい富士山が前に噴火したのは江戸時代だろう。知ったこっちゃないよね」
「まあそういえばそうかもね。それにこんな空気がきれいで、景色もいいところで仕事ができるんだから文句も言えないか」

ちょっと会話がとぎれた頃、西湖が見えてきた。
「お 西湖に着いたぞ。この先に車を止めていよいよアドベンチャーだ」

健二たちは車をとめて、徒歩で青木ヶ原に分け入った。といっても車も通れそうな立派な林道を歩くだけだ。

「今日はサンドイッチを用意してきたのよ」
と早智はバックパックをポンとたたいて先に進んでいった。健二も防寒具、サーモス、地図、懐中電灯などを詰め込んだ学生時代から使っている年代物のリュックを持って歩き始めた。
「樹海ってもっと鬱蒼とした暗い森だと思ってたけど、木の高さは低いし意外に明るいのね。それにちゃんと立派な道がついてるじゃない。これで道に迷って白骨になるっていうのはまぬけよね」
「いやあ、ここで白骨になる人はちゃんと覚悟してくるんだろう」
「でも殺されて捨てられた人もいるかもね」
「それじゃあ成仏できないだろうなあ。でも話題を変えない?」
「そうね」

富士風穴に着くと、それは想像を超えたものだった。まるでUFOが着地したような巨大な縦穴が開いていて、その縁に階段が切ってあった。階段を数段下りただけで、周辺の温度が下がったことに気がつく。底に着くと横穴が開いていて、ここが富士風穴の入り口だった。中を覗くともちろん奥の方は暗闇だったが、もう春だというのに入り口から2ー3メートル先には氷が見えた。

「どう少しは怖じ気づいたかな」
「びびってるのはあなたの方じゃないの、私は平気。でももうお昼よ。中を見物する前にサンドイッチでも食べましょう」と早智がバックパックをおろしてファスナーを開き、バスケットを開けようとした時だった。ドドドドっという地響とともに地面が縦に揺れ始めた。
「やばい」と叫んで健二は早智の手を思い切り引いて階段の方に突進した。階段を駆け上がる30秒くらいの時間がとてつもなく長く感じられた。やっと縦穴から抜け出したとき、ドーンという鈍い音とともに大きな横揺れが来て、二人とも草地に伏せて地面にしがみついた。揺れがどうやらおさまって、二人はようやく地面に座り込んだ。
「これは東海大地震、いや富士山が噴火したかもな」と健二は言ったつもりだったが、声が震えているのが自分でも分かった。
早智は放心したように座り込んでいて、何も返事はしなかった。そのとき二人は信じられないような光景を目にした。縦穴の向こう側の縁がゆっくりと、まるでスローモーションのように崩れ落ちたのだ。
「ひょっとしてこっちもやばいんじゃない」と早智が叫んだ。健二は早智を引きずるように10メートルほど穴の縁から遠ざかった。振り向くとあたりはもうもうたる埃で夕方のようだった。
どのくらい座り込んでいたかわからない。健二は早智の声でわれに返った。

「あれー サンドイッチはどうなっちゃたのかしら」
「それより、俺リュックを下に置いてきちゃったよ。身分証明書に運転免許、カードにカギに現金にスマホ、だめだ。とってくる」
「ダメよ。もう一度崩れたらどうするの」
「大丈夫 さっきので打ち止めだろう。洞窟での防寒用に買ったキルティングジャケットだって、結構バカにならない出費だったんだよ。スマホ持ってるよね」
「持ってるけど」
「じゃあいざってときは頼むよ」
「ほんとに行くの」
「行く」
「じゃ気をつけて。上で見てるからね」

埃はやっとおさまってきた。健二はまた階段を下ったが、下は石ころや倒木などでむちゃくちゃになっていて、逃げ遅れていたらと思うとぞっとした。やっとリュックを見つけだし、やれやれと思ってあたりを見回すと、視線の先に妙なものがあることに気がついた。それは大きな氷の中に何かが埋まっているという感じだった。近づいてみると、埋まっているものはどうも人のようだった。思わず「おー」と声を上げて、健二は後ろにひっくり返った。「どうしたのー」と叫ぶ早智に答える暇もなく、階段をはいずり上った。
「人間だよ人間。死体じゃないか。シ・タ・イ。はやく警察に電話しなくっちゃ」


河口湖にもどってみると、世の中は大変なことになっていた。富士山が小規模の噴火をして登山者に何名かの死者も出たということで、パトカーや救急車が走り回っていた。河口湖あたりでも倒れた家もあったようで、通りに人が大勢出てごった返していた。地震の被害の全貌はまだ明らかになってはいなかったが、このぶんでは多くの死傷者が出ていても不思議じゃない。健二のみつけた死者は、夕刻までには警察に運ばれた。

健二と早智は警察で事情を聞かれた後、ちょっと待機しててもらえませんかと頼まれた。最悪の1日だ。夜になってからやっと刑事がまた声をかけてきた。
「あんた達もこの忙しいときにえらいものをみつけてくれたもんだね。ま、それは冗談だがホトケが外人さんなんだよ。パスポートや身分を明らかにするものもないんで、ちょっと時間かかるかもな。とりあえず今度はちゃんと顔が見えるので、もう一度見てくれませんか」と刑事が頼みにきた。安置室の死体は氷も溶かされてきれいになっており、顔にかかっている白布をめくると人相がはっきりと識別できた。
「ややや これはエディという男です」
「お知り合いですか」
「いや、知り合いってほどじゃないんですが、外国人の社員は彼だけだったので顔を覚えています。うちの会社に米国の音楽出版社から出向で来ていて、新たな業務提携の話などを詰めていたという話を聞いてました。いったいどうしてこんなことに・・・」
「そうですか。いや待つててもらってよかった。おおいに助かりました。お疲れのところ有り難うございます。」と刑事は健二に礼を言ってハンカチで額をぬぐった。
「あ それから、お知り合いとはまあとんでもない偶然とは思いますが、また後ほどお伺いしたいことができるかもしれませんので、連絡先をここに記入しておいてください」

書類を渡して去ろうとする刑事に、健二は思い切って声をかけた。
「刑事さん。ちょっと聞いていただきたいことがあるんですが」
刑事はふりむいて「いいですよ。何でしょう」と言ってくれたので、「実は昨年、うちの会社で売り出そうとしていた新人歌手の居所がわからなくなるという事件がありまして、同時期にエディが帰国したらしいので、何か関係があるんじゃないかと一部でうわさになったことがあります。エディが日本で死体でみつかるなんて、ただごとじゃありませんよ。うちの歌手の件もあわせて捜査してくださるよう、是非ともお願いします」と健二は一気に自分の思いを吐き出した。

話を聞いていたのか、怖いと言って部屋の外にいたはずの早智が、いつの間にか健二の隣にきていた。
「その歌手は浜本玲華という私の友達なんです。エディさんと交際していたと聞いています。玲華がいなくなったのは、きっと事件にまきこまれたに違いありません。是非探してください。お願いします」と早智は刑事にすがるように懇願した。
「ほう」と刑事はメモをとりながら、するどい視線を健二たちにあびせた。
「私は河口署の大貫というものですが、お話の件につきましては、担当部署と連絡を取りましてきちんと対処したいと思います。その件についてもまたお伺いしたいことができるかもしれないので、その節は宜しくお願いします。何か気が付いたことがあったら、いつでもここに連絡してください」と刑事は名刺を渡して部屋を出た。健二と早智も屍に一礼して後に続いた。長い一日がようやく終わった。

警察署から外に出ると、もう深夜で空気がひんやりとしていた。さすがに夕刻の喧噪とは別世界の静けさだったが、二人の心臓の鼓動は静まらなかった。とんでもないことに巻き込まれてしまった一方、これをきっかけに、もうあきらめかけていた玲華の行方がわかるかもしれないという一縷の希望が二人の心をひとつにしていた。空を見上げると、噴煙のせいだろうか、星は全く見えなかった。

 

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2023年9月29日 (金)

半島のマリア 第2話:ペギーズハウス

夏の間は海水浴客や別荘族で賑わう街も、秋風が吹き始めると嘘のように閑散としてくる。目抜き通りも人影はほとんど無く、時折思い出したように車が数台走り抜ける。それとシンクロするように薬局の店先の漢方薬のノボリがぱたぱたと音をたてる。砂塵がさっと舞い、そしてまた午後の静かな日差しがもどってきた。県道沿いの山側には古ぼけたコンドミニアム、海側には雑木林の間にヨットハウスが軒をのぞかせている。ウェブでみつけた不動産屋はこの先にあるはずだった。

 棕櫚の木が揺れるコンドミニアムの前を通り過ぎ、200メートルほど進むと信号のある交差点が見える。その角にベンチを店の前に出している和菓子屋があった。近づいていくと、その和菓子やの筋向かいに目指す不動産屋があることに気づいた。だが急ぐ旅ではない。和菓子屋の店先のベンチで一休みしていこう。達矢は和菓子屋に入り、律儀そうだが陰気な感じのおやじから、うぐいすもちと黄身しぐれをひとつづつ買った。外に自販機があったので、そこで冷茶を買ってどっかりとベンチに座りこんだ。

 9月になってもまだまだ暑い日が続いている。俺が死ぬのと地球が温暖化して破滅するのとどちらが先か、などとぼんやり考えているうちに和菓子を食べ終えていた。つい最近までサラリーマンだった自分は、ほとんど何も自分で決めなくても自動的に事が運んでいく毎日だったということを、やめた今になってつくづく思う。会社員時代は自分に与えられた仕事をなんとかこなして、ただ挫折しないよう頑張るだけだった。しかし退職した今は、すべて自分で決めていかなければ事がひとつも進まない。若い頃には当然のように独身寮に住み、家庭を持ってからは社宅に住んだ。今は住む場所も自分で決めなければならない。そして年をとってしまったということは大きな問題だ。ここでベンチから腰を上げることすら、気合いとちょっとしたエネルギーが必要だ。こんなことで、これからちゃんと生きていけるのだろうか。

 角の不動産屋の前までいくと、その先にもう一軒別の不動産屋の看板がみえた。角の店は総ガラス張りの小綺麗なつくりで、中で数人の中年男が談笑している様子が窺えた。先にあるもう一軒の方は、ところどころ剥がれた白ペンキ塗りで、古ぼけてはいるがアーリーアメリカン風の風情のある店だった。なんとなくそちらの方に足が向いた。店の前に立つとドアは開放したままで、ドア脇の白地の看板に「不動産ペギーズハウス」と青ペンキで書いてあり、その下に黒ペンキでREAL ESTATE <PEGGY’S HOUSE>と小さく英語の表記があった。歴史のある保養地には、かえってこちらの方がふさわしい佇まいのように思われた。

 ソフトウェア開発の現場から子会社にとばされたのは、確かに大きな衝撃だった。会社の創生期から30年近く開発一本でやってきて、嘗ては飛ぶように売れたソフト開発にもかかわってきたという自負はある。50歳を過ぎてから、もうお前のようなクズはいらないといわんばかりに切り捨てるとはなんとしたことか。いままでにもそんな例はなかったとは言わないが、「まああの人なら仕方がない」と多くが納得する人事だったと思う。それが今度は俺だというのは、達矢には到底納得がいかなかった。しかし、しばらく時が過ぎて冷静に考えてみれば、今のご時世仕事があるだけでもましな方かもしれないし、別に陰湿なイジメにあったわけでもない。一般常識として、退職するほどの理由はなかった。

 いろいろ軋轢はあっても子会社でなんとか頑張ればよかったのだろう。結局これが潮時と判断して自分がやめのだ。3年前に妻に先立たれてから、そのことは時々頭をかすめていた。子供は二人とも結婚あるいは独立し、帰宅しても空虚な空間が存在するだけだった。ときどき嵐のような虚脱感に襲われることもあった。ずっと会社人間でやってきたが、会社は報いてはくれなかった。達矢たちの世代の居場所は確実にになくなりつつあった。子会社の社長も事情があって、このお払い箱の中高年社員を受け入れてくれたのだろう。ならば歓迎ムードじゃないのも当然だろう。

 ともかくこの状況から抜けださないと、心のバランスが崩壊してしまうような気がした。とりあえず考えついたのは、鬱滅とした自宅会社往復の無限反復空間から逃げ出すことだった。何も変わらないかもしれないが、ひょっとすると何かが変わるかもしれない。それでも定年まで数年を残して退職届を出すことは非常に勇気が必要だったが、達矢はその道を選択した。もう元には戻れない。30年勤務した会社から出向になったときには、永年勤務した社屋を振り返ってしばらく手を合わせて一礼した。あれはいったい何に手を合わせたのだろうか。一礼した後に涙が止まらなくなり、慌てて下を向いてまるで競歩のように地下鉄の駅に急いだことを覚えている。しかし出向先を退職した今回は何の感慨も無くさばさばしたものだった。

 白ペンキの不動産屋にはいると中は薄暗く、若い男が事務机に向かって書類をめくっていた。古いエアコンが喘ぐような音を立てていたが、むしろ天井の大きな扇風機がきいているのか、思ったより涼しい。もう一人奥の方のソファーで女が所在なげにタバコをふかしていた。先に達矢に気がついた女の方が「物件をお探しですか」とこちらにやってきてソファーに案内した。達矢はボロ家でいいから土地付きの一軒家、つまり不動産屋サイドからいえば古家つきの土地を紹介してほしいと告げた。交通は不便なところでもいいし、海が見える場所とかの贅沢は言わないということで、一千万円台なら有難い旨さらに付言した。若い男が女を姉さんとよぶので二人は姉弟らしい。見たところ弟は20台後半、姉は30才前後というところか。店構えの古さから考えると、多分親の代からやっているのだろう。

「君たちは二代目なの」と訊いてみた。

「いえいえ、祖父の代からここでやってるんですよ。ボクはもちろんまだ生まれてない時代の話ですが、祖父は戦後しばらくはよく外国人の案内なんかもしていたみたいですよ」と弟らしき方が答えた。

「そういえば昔このあたりの別荘を米軍が接収して、将校などを住ませていたという話は聞いたことがあるね。それで××不動産なんて無粋な名前じゃくて、こんなこじゃれた名前の店になったというわけか」

弟が店の名前の故事来歴を語ろうとしたとき、「セカンドハウスをお探しなんですか」と姉が遮るようにビジネスに引き戻した。多分このあたりにはマーガレットをよく見かけるので、その愛称を店の名前にしたのだろう。

「別荘が欲しいというわけじゃないんだ。そんな悠々自適じゃないんだよ。ただもう東京に住むのに飽きてねえ」と姉の方に向かって言うと、姉は数秒指を額に当てて考えた後「則夫、あの若松さんのところはどう」と弟に目を向けた。「ああ、あれね。ちょっと待ってください」 則夫とよばれた弟はファイルをパラパラとめくった。

「これです。小規模な農業をやっていたところなんですが、ちょっとご覧になりますか」
達矢がうなづくと、前に開いたファイルが置かれた。「ここから車で15分くらい奥に入ったところで、まあ便利なところとはいえないかもしれませんが、車があればどうってことないですよ」。達矢はまあ狙ってた線かなとファイルをしげしげとながめた。気がつくと姉がすぐ後ろに立っていて「ご案内致しますよ」と声をかけてきた。達矢が頷くと間髪を入れず「則夫、ご案内して」と話を進めてきた。

 則夫という男は結構なおしゃべりだった。車で物件に向かう途中、あれは某芸能人の別荘だ、あれは某政治家の別荘だなどとあれこれ解説してくれた。しかし車が海を離れ、舗装されているとはいってもかなり細いつづら折りの道を登っていくと、すっかりリゾートの雰囲気はなくなり、雑木林と小さな畑が交互に現れる山村風景になった。おしゃべりもとぎれ、則夫はカーラジオのスイッチをいれた。ラジオからはボサノバが流れてきた。のどかな日だ。こんな日が続くなら、ずっとこの車を運転してどこかに(天国でもいい)連れて行ってくれないかと則夫に頼みたいところだ。そろそろ尾根の頂上に近いかなという頃、則夫は路肩に車を止めた。

「この上をちょっと見てください。灯台が見えるでしょう。今はもう灯台としては使ってないみたいですが、いい目印にはなります」達矢も見上げてみると、道路から数十メートル程離れた高台に設置された灯台の上半分くらいが見えた。則夫は「灯台と周りの土地は、最近国からアメリカに移管したという噂です。軍の関係者だと思いますが、うちで扱ったわけじゃないしよくわからないんですよ。軍服を着た人間が出入りしているという話も聞きませんし」とコメントをつけた。

 則夫は「ここからちょっと下るんですよ」と言って、車を降りてドアを開けた。則夫は路肩から派生している細い山道に入って行く。達矢も彼に続いた。雑草が生い茂って、まるで道というより踏み跡と言った方がいいような道を少し下ると小さな荒れた段々畑に出て、そのあぜ道をさらに2ー3分下っていくと、少し開けた場所に出た。3DKくらいと思われる平屋がぽつんと佇んでいた。古い家だったが綺麗に使ってあったようで、則夫の話によれば、風呂場などの水回りを少し補修すれば問題なく使用できるとのことであった。ガスはプロパンだが、電気も水道もきているようだ。

「以前に畑をやっていた若松さんという人が亡くなりまして、その後畑は放置してあるんですが、田所さんは農業には興味ありますか」とまじめに訊いてくるので、「いやあ、都会育ちには無理だろうなあ」と達矢は苦笑しながら答えた。しかし心中では困ったらやってみようかと考えていた。

「そうですかあ。残念だなあ。やる気があれば結構使えるいい畑かもしれませんよ」
「だからって、ここが気に入らないってわけじゃないんだよ」と達矢は答えた。
「まあ今は関心なくても、いずれということもありますし。駐車場は上の道を2-3分先に歩いたところにあります。うちで契約できますよ」と則夫は付け加えた。

 結局他にも2-3カ所あたってみたが、すべて家が古すぎて、とても住む気がおこらない代物だった。かといって壊して新築するには懐が不安だった。まさか農業をやってローンを支払うわけにもいくまい。とりあえずその日は最初の物件の手付けを置いて引き上げたが、結局半月後にはその一軒家を購入することになり、2ヶ月後には引っ越しを完了した。新居の入り口から舗装道路を5分ほど先の方に歩くと、2軒のホテルと何軒かの民宿などが並ぶちょっとした集落があり、コンビニなどもあって、これからの生活には大いに役立ちそうだった。ホテルがあるあたりは海の眺望があって気持ちの良い場所だった。

 海沿いの道に出るには、ホテルと反対側に歩いて近道を通っても1時間くらいかかりそうだという話だったし、バスも二時間に一本くらいの間隔でしか通ってなくて、あまりあてになりそうもなかった。確かに不便な場所だ。車は必須だ。温泉と家の間に不動産屋が言っていた小さな駐車場があり、契約することにした。

 鴨長明の方丈記を読むと、隠者はどうやってメシを食えばいいかについては詳しい説明がないが、住居についてはかなり具体的な解説がある。この家は長明が住んでいた小屋よりはかなり広そうなので、これから長命よりはかなりリッチな生活をすることになる。引っ越して二週間くらいして、息子が一晩泊まりにきた。「こんな山の中で、古ぼけた家にほんとに一人で暮らすつもり? 親父が東京に住んでれば出張旅費が浮くのになあ」とあきれ顔で帰っていった。

 水回りや屋根の補修、草刈り、ペンキ塗りなどで瞬く間に1ヶ月が過ぎ去った。業者に頼むのは最小限にしてこつこつと励んだおかげで、たいした金もかけずにそこそこ小綺麗な感じの住処ができた。窓を開け放して畳の上に転がっていると、東京での鬱滅とした日々との落差に、ちょっとした感慨を感じないわけにはいられない。かすかに潮の香りがする爽やかな空気に満たされたこの地は、どんなに深く傷つけられた心も浄化する不思議な力を持っているようだ。だがこれはただ今だけ刹那のことで、遠からぬ未来にまたあのいやな感じ、あえて説明するとすれば憂鬱や虚脱感の塊で頭が締め付けられるような、あるいは悪霊のエネルギーの嵐のような感覚が襲ってくるのだろうか。ショパンの「雨だれ」を聴くと、ひょっとすると彼もこの悪霊に悩まされていたのかと思う。まあそれでもいい、それまで束の間の解放感に浸ろうじゃないか。

 達矢はそのいやな感じがやってくる前に、もう一度方丈記を読んでみた。そして気がついたのは、鴨長明は琵琶を演奏することでずいぶん救われているに違いないということだった。達矢も学生時代にはバンドのメンバーでギターを弾いていたこともあった。メンバーが社会人になってからも、数年の間はたまに集まってセッションを楽しんだりしていたのだが、そのうちみんな忙しくなって立ち消えになってしまった。そういえばあのギターはどこに行ってしまったのだろう。引っ越しに紛れてなくしてしまったのか。しかし気になりだすと止まらない。孤独を慰めるのはギターだというのが、ひとつのドグマのように頭にこびりついて離れなくなった。結局はるばるお茶の水まで出かけて、中古のちょっと値の張るアコースティックギターと新品のストラトタイプのエレクトリックギター、それにピックやカポタストなどの小物と数点の楽譜を買い求めてきた。ただ問題は長命は琵琶演奏の達人だったが、達矢はもはやほとんど演奏を忘れてしまっているということだ。

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2023年10月 6日 (金)

半島のマリア 第3話:象牙海岸

 ギターを買ってから1ヶ月くらい、まるで学生の頃のようにはまってしまい、食事もまともにとらないような日々が続いた。何十年もブランクがあったにしては、思ったより簡単に勘を取り戻せた感じがした。あまりに熱中したせいだろう、気がつくと体の節々が痛い上に、極度の疲労で体が動かなくなってしまった。いやはやこれはリハビリが必要だわい、と苦笑いしながらしばらく畳の上に転がっていると、なぜかふとあの上の舗装道路からうちの庭先まで続いている細道に、さらに先があるんじゃないかという予感にとらわれた。

 一度とらわれてしまうと、もう確かめずにはいられない。痛い足腰を引きずりながら外に出てみた。小春日和の午後の日差しがやけにまぶしい。しかし道は予感の通り庭先からさらに先に続いていて、いったん茂みの中に消えかかっていたが、20~30メートル先を丹念に探すとはっきりとした踏みあとがみつかり、それはどうやらずっと先まで続いているようだった。数分たどっていくと道は下りはじめた。雑木林が空を覆ってほの暗く、フィトンチッドが充満して、まるで気持ちのよいハイキングコースのようだった。道のすぐ脇に入り口が灌木や雑草で覆われた小さな洞窟があった。注意していないと気づかず通り過ぎそうだ。灌木をかき分けると、入り口には錆びたボルトや腐った横木の一部など柵がついていた跡があり、昔防空壕に使われていたようだった。柵の跡はおそらく崩落でけが人などがでないように、あるいは浮浪者が住み着かないように戦後閉め切られていた時期があったのかもしれない。入り口は小さかったが、中にはいると意外に広く、空き缶が2-3個転がっている以外は何もなくがらんとしていた。空き缶はそんなに古いものではない感じだったので、誰かが来ているのかもしれない。ひんやりとした砂地にしばらく座り込んでいると次第に目が慣れ、壁にいくつか落書きがしてあることがわかったが、暗くて判別は不可能だった。ここを「アルタミラ」と名付けよう。いや本家のヨーロッパの洞窟に申し訳ないので、いずれもう少しふさわしい名前にするべきであろうと思うが、すぐには他に名案が浮かばなかった。

 さらにどんどん下っていくと、見晴らしのいい岩場に出た。達矢が岩場に立つと、突然ざざっと音がして足下の方から海猫が飛び立った。一気に目の前に海が広がる気持ちのよい場所だ。何か名前をつけたくなった。海猫が休んでいたので、とりあえず「海猫岩」としておこう。ここからは壊れかけた土止めのある階段状の道が海岸まで急降下しているのが見えた。もうすっかり腰が痛いのも忘れていた。慎重に海岸沿いの道路まで降りてみた。そこは山肌がすぐそばまで迫り、道路を越えた海側は岩場の静かな入江だった。小さな砂浜もある。ここは竹内まりやの名曲にちなんで「象牙海岸」と呼ぶことにした。

 翌日もよい天気だったので、ギターを抱えて象牙海岸まで降りてみることにした。道路を見下ろす草地をみつけて腰をおろし、石ころで楽譜をおさえてギターを弾くと最高の気分だ。うまくいかない部分をなんとかこなそうと頑張っているうちに、周りが見えなくなるくらい夢中になってしまった。ふと我に返るとすっかり疲れ切っていた。どっと後ろに倒れて大の字になると、同時に「キャー」という叫び声が聞こえた。慌てて後ろを振り向くと、3人の女子学生が達矢を見下ろしていた。

「あー、ごめんごめん、気がつかなかったものだから」と達矢が謝ると、女子学生の一人が「おじさん結構ギターうまいね、東京のひと?」と声をかけてきた。
「いや、この上の方に最近越してきたんだよ」と答えると、別の一人が「この上っていうと、若松のばあちゃんのとこ?」とちょっと驚いた顔で訊いてきた。
「そういえば、不動産屋が若松さんとか言っていたような気がするなあ」
「ばあちゃんが畑で倒れてたのをウチらが見つけたんだよ」
「すぐに救急車呼んだんだけど、ダメだったのよ」などと、達矢が知らなかった事実を少女達が教えてくれた。
「昼間からこんなところでギター弾いてるなんて、おじさんひょっとしてプータローやってんの」
「まあそういえばそんなところかな」
「じゃあウチらにギター教えてよ」
「私はギター持ってないから、ボーカルやってあげる」などとやりとりしているうちに、週に1回彼らの関わりを持つはめになってしまった。

 誰にも避けられそうで避けられない偶然はやってくるのだろう。こんな不便なところなので、まともにギターの勉強をする者が押し掛けるはずもなく、また来てもらっては困るわけだが、とりあえず怪しい男と思われても困るので「田所音楽スクール」という手書きの小さな矢印の看板を、舗装道路の傍らに掲げることにした。海岸で出会った3人以外に、彼らの仲間の女子高校生が二人加わっただけの少人数の教室ではじめることになった。もともと教師が遊び半分なのだから、生徒がまじめにやるはずもなく、たまり場みたいなものだった。しかし帰宅時間はきちんとけじめをつけさせることにした。

 看板を掲げて開店したものの、いざはじめてみると、ギターのレッスンなんぞは余程生徒にやる気がなければできないし、教師もあまりやる気のない素人ときている。いっそのことバンドにしたらどうだろうと彼女たちに提案してみると、即全員の賛成を得た。ギターにベース、ドラムスにキーボードそしてボーカルと役割もスムースに決まった。言い出した手前、楽器は達矢が学生時代のバンド仲間のコネなどを使って探し、何とか中古品を用意してやった。キーボード担当の京子は小学校にあがる前からピアノを習っていたらしく、バンドのリーダーとして頼りになった。ベースの摩耶とドラムスの睦美は全くの素人で、自分が教えてあげるわけにはいかない楽器なので、とりあえずビデオを使った独学をしてもらった。早智はギターを持っていた。早智だけには自分のレベルまでは引き上げてあげるべく、多少のレッスンをしてやることができた。しかしそれもほんのわずかの間のことで、冬の間に彼女はたちまち達矢を乗り越えていった。

 最初は正直言ってよけいなことを始めてしまったと思ったが、教室をはじめてすぐに、象牙海岸でボーカルをやりたいと言っていた玲華が実に美しい声の持ち主であることがわかった。クリスタルな透明感のある美声だが、声を張っても刺激的でないところが素晴らしい。長明だって山で子供と遊んだと記述している。それどころかその部分は方丈記のなかでも異彩を放っていて、楽しい気分に満ちあふれている。実際達矢の場合も、少女たちと過ごす木曜日が次第に待ち遠しくなってきた。特に玲華が唄っているときは、まるで天国に迷い込んだかのようなエクスタシーのひとときだった。ただロックバンドの編成にしてしまったので、彼女の声質が十分に生かされないというのが悩みの種だった。理想をいえばチェロとかコンガとかが欲しかったが、いまさら摩耶や睦美に別の楽器をやれとは言えなかった。

 サラリーマンの頃は春といえば、転勤や退職につきものの送別会と、お花見のドンチャン騒ぎだ。集まるのは顔も話も飽きた同僚、ここぞと親分風をふかせる気分の悪い上司、人の顔色だけはみるくせに仕事はいい加減な部下、というのが定番だ。しかし職を辞した今、半島の春はといえばそこここに咲く草花、草いきれ、鳥のさえずり、かすかに聞こえる潮騒、太平洋を遙かに渡る風、そして元気のいい少女たちだ。春になっても相変わらず少女たちはやってきて、毎週大騒ぎをしては帰っていった。人間が到達できる幸福はこういうのがマックスなのではないだろうか。

ここが一軒家であることに達矢は感謝せずにはいられなかった。どんなに大騒ぎをしても隣家からは文句の一つも言ってこない。だいたい温泉街まで数百メートルの間、人が住んでいそうな家など、少なくとも舗装道路沿いには見つからなかった。そんなある日、いつも木曜日が集まる日なのに、水曜日に玲華がひとりでやってきた。

「あれっ、今日は水曜日だよ。バカやったな。でもせっかくきたんだから、あがってコーヒーでも一杯飲んでいくか」
「いただきまーす。でも今日は曜日間違えたんじゃなくて、先生にちょっとお話があって来たんです」
「ほう、またあらたまってなんだろうね」
達矢はコーヒー豆を挽きながら、あらためて玲華の顔を見た。いつもみんなと騒いでるときにはまだまだ子供だと思っていたが、こうして1対1になってみると、どうしてどうしてもう立派な大人の雰囲気が芽生えてきていた。

 コーヒーを飲み終えると達矢は「で? 話って何?」と少し動揺した心を隠すように水を向けてみた。すると玲華は小さな、しかしはっきりとした声で「先生、私たち実はオーディションに出てみたいんです」と切り出した。
「プロのミュージシャンになりたいの?」と達矢は少し驚きの表情を浮かべながら訊き直した。
「はい」
「自分たちの今の実力はわかってるんだろうな。」
「ダメですか」
「ダメだね」達矢は即座に答えたが、しばらく間をおいて続けた。「でも永遠にって訳じゃないぞ。やる気があるんだったら、明日から毎日きてもいいから猛特訓だな。といっても俺は場所を貸すだけだが。しかし果たして、みんなにもそんなにやる気があるのかな」
「おおありですよー。よーし。みんなにも言わなくちゃ」
「おまえたちにそんなにやる気があるとは思わなかったなあ」
玲華はそれには答えず、眼をそらすように窓の外を見た。
「今日はすごくいい天気。 先生ちょっと外に出てみませんか」
2~3日雨だったので、久しぶりの晴天がまぶしかった。二人は自然に海猫岩の方に向かった。海猫岩からは夕陽にキラキラと光る静かな海が見えた。ここから何度このすばらしい風景を眺めただろうか。しかし今日は一人じゃなくて玲華と一緒だ。いつもの風景なのに、角のとれた不思議なのどかさを感じるのが不思議だった。

ふと気がつくと足下にアネモネが咲いていた。達矢がそれに気づいたときには、すでに玲華が言葉を発していた。
「あれめずらしい。こんなところにアネモネが咲いてる。」
「アネモネっていうのはギリシャ語で風っていう意味なんだ。風が好きな花なのかなあ」
「あれ、先生ってどうしてそんなこと知ってるの」
「俺がロマンチックじゃ可笑しいかい」
「ちょっと変かもね」
「玲華、ケルンって知ってるか」
「ケルン大聖堂とか?」
「いやいや、そういうのじゃなくって、山で道しるべとか記念とかに作るものだよ」
「それって初耳」
「こうやって小石を積み重ねていって、小さなピラミッドみたいなのを作るんだ。きゃしゃにみえるかもしれないが、積み重なった石の重みは侮れないよ。結構長い間崩れないでもつものなんだよ」

あたりの小石を集めて積みながら、達矢はポケットから手帳を取り出し一枚のページを破った。紙切れと手帳についている細い鉛筆を玲華に渡して、達矢は言った。「ここに シンガー玲華」 と書くんだ。
「わかった。こうかしら」
玲華が書いた紙切れを受け取るとそこには
「田所先生 私はプロのシンガーになります 玲華」と書いてあった。達矢はそれを小さく折り畳んで小石の上に置き、さらに玲華と共に小石を積み重ねた。

「できたぞ」
「できたね」

玲華は海に向かってア・カペラで倉木麻衣の「いつかは あの空に」を唄ってくれた。

達矢は膝をたたいてリズムをとった。最後の1フレーズだけ玲華は達矢の方に向き直って唄い終えた。達矢は拍手しながら「いいぞ玲華」と叫んでいた。

「アンコールは無しよ、もう上にあがりましょう」と玲華は少し恥ずかしそうに言った。二人はまるで恋人のように腕を組んで道を上っていった。家まであがってくるともう夕暮れの空だった。門まで送っていくと、玲華は急に振り返り上目遣いに達矢を見据えて、決心したように話し出した。
「先生 私は本当は学校の先生になりたかったの。でもうちは代々漁師の家でしょう。父は機嫌が悪いと私が学習参考書を読んでるだけで取り上げて投げ捨てるような、今時信じられないような人なの。女は勉強なんかしても意味はない、早く嫁にいけばいいんだという発想しかないの」
「うーん そういうことがこの時代にまだあるのかね 昭和だね」
「そうなんですよ。だから自分の道が分からなくなってたの。でも今日からは新しい自分」
そう言うと玲華は小走りに小径を駆け上がっていった。達矢はそれを見送りながら、世捨人であるはずの自分としては、少し重すぎる荷物をしょってしまったかなと体がこわばってくるのを感じた。

 あまりに皆が熱心に練習するせいだろう、それから2-3週間たったころ玲華と睦美の母親たちが尋ねてきた。「うちは旅館をやっているだから、こんなに遊んでばかりじゃこまるのよ。ゆくゆくはおかみになってうちをささえていかなくちゃいかないんだから。学校の勉強にもちっとも身が入らないし」と睦美の母親はまくしたてた。玲華の母親も「芸能人になるって言ったって無理に決まってるでしょう」と非難めいた言葉を達矢に投げかけた。

「いや私がプロの演奏家になれと勧めたわけじゃないんですよ。彼女たちが演奏することに夢中になって、それで人にも聴いてもらいたいと思うようになるのは自然なことじゃないんでしょうか」と達矢は答えた。それでも彼女たちは口々に「こんなところに通わせるんじゃなかった」「お父さんにおこられる」などとあきらめないので、達矢も「無理矢理やめさせたって、かえって反抗して波風が立つだけでしょ」と捨てぜりふを吐いて家に閉じこもった。玲華と睦美だけではなく、みんな大なり小なり家でのトラブルは抱えることになったに違いない。それでも女子学生たちはあきらめず、毎日のように「田所音楽スクール」にやってきた。

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2023年10月16日 (月)

半島のマリア 第4話:ラ・ボエーム

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(2002年8月ー2002年12月)

はっきりした目標ができると、モチベーションはもちろん高まる。夏が近づくと演奏は結構手慣れた感じになってきて、レパートリー、といってもカバーばかりだが10曲くらいは何とかなりそうだった。曲目についてはバンドメンバーが好きな曲をそのままやるんじゃなくて、玲華の声質にあわせてまず達矢が慎重に選曲し、さらにメンバーがふるいにかけるという手順を踏んで決めた。誰もが知っている曲とあまり人に知られていない曲をバランスよく組み合わせることに気を配った。

 しかしオリジナルが1曲もないんじゃアマチュアバンドとしてもかっこわるいということで、京子と早智が苦心してなんとか数曲を作った。早智は若いのに古い音楽が好きで、達矢が若いころによく聴いたような音楽も結構勉強しているようだった。出来上がった曲もミディアムスローのしっかりしたメロディーラインのものが多くて、達矢の世代には何の抵抗もなく受け入れられるものだった。却ってこのような曲が今の時代に受け入れられるだろうかという心配が先に立った。しかしCMなどでもやたらとオールディーズが流れている昨今だから、逆に受け入れられるのではないかと達矢は自分に言い聞かせることにした。

 作詞は京子が担当した。達矢はこの分野は作曲以上に無縁の徒だったので、どう評価したものかさっぱり分からなかったが、京子は大苦戦の早智に比べてあまり苦労もしないで作業をすすめているようだった。京子に多少なりとも作詞の才能がありそうだという発見は思わぬ収穫だった。楽譜も京子がつくってくれた。このバンドをまとめられるのは京子だけかもしれない。

 素人集団の作業だったが、力を合わせて何かをつくるというのは、本当にエキサイティングで楽しい経験だった。メンバー同士の絆もより深くなったと感じられた。もし彼女たちがギターを教えてくれと言ったときに断っていたら、これらのすべては起こらなかったのだ。こんなすばらしい人生の1ページができたのだから、東京でボロボロになってもいいじゃないか。またここに帰ってくればいい。

 バンドの名前は京子の提案で「REIKA with Basil」ということになった。ピンと来たわけではないが、達矢もこれといったアイデアはなかったのでとりあえず了承した。渋谷でオーディションを毎月やっているライブハウスがあると聞いていたので、達矢の自宅で収録した演奏をUSBメモリーで送ったら、なんと数日後に一度うちでライヴをやってみたらという好感触の返事が来た。

 このチャンスを逃してはならない。達矢は早速渋谷まで出向いて店長に会ったみた。店長は中井というやせぎすの中年の男だった。ちらちらと上目遣いに人を見る神経質そうな感じの男だったが、言葉遣いはあくまでも慇懃だった。数グループのアマチュアバンドが出演するライヴで、2-3曲づつ演奏するということであった。達矢はその場で中井が経営する渋谷のライヴハウス「ラ・ボエーム」の9月の出演を決めた。

 具体的に日取りが決まったということで、さらに練習には熱が入る。達矢はこんどはブレーキをかける方に回らざるを得なかった。肝心なときに誰かが倒れたりしたら、特に玲華の声が変調をきたしたら今までの努力が水の泡だ。

 こんなに簡単にステージに立つことができる、お客さんに聴いてもらえることができるとは拍子抜けだった。みんな舞い上がってしまって、明日にでも売れっ子バンドになれそうな勢いだったが、それがステージではよい方向に出て、達矢が見ても実力を存分に発揮出たと思う演奏だった。それに答えて客席の反応も上々だった。ここまではこれ以上ないくらいうまくいったといえるが、これでプロへの道が開けた訳じゃない。と気持ちを引き締めていたとき、後ろから中井が達矢の肩をたたいて言った。「ちょっと事務所の方にきてもらえませんか」 くたびれたソファーを勧められて腰をおろすと、中井は如才なく笑って見せながら「どうです、また11月に今日みたいな感じでやってみませんか」と誘ってきた。達矢はもちろん一も二もなく応諾し、懐から十万円はいった封筒をとりだして、中井に差し出した。次回の出演をお願いするため、田所があらかじめ用意していたものだ。

 「なんですか? こういうのは困りますよ」と中井は受け取らなかった。しかし達矢は言葉を継いだ。「いや私たちは芸能界に知り合いもいないし、中井さんにはこれからもお世話になるわけですし」としばらく押し問答になったが、しばらくの沈黙のあと中井が「じゃあ今度は然るべきところにチケットを回しておきましょう。あと玲華ちゃんといいましたか。彼女はたいした原石だと思いますよ。知り合いにボイストレーナーがいるので面倒見てあげるようにいっておきましょうか」と折れてきた。達矢は何度も頭を下げながら「それは渡りに船だ。是非よろしくお願いします」と中井の手を握った。

 2ヶ月はあっという間に過ぎる。出演の日が近づいたある日、達矢はバンドメンバーを集めてはじめて真顔で話した。そこで「今度が正念場だ。然るべき人が見に来てくれる可能性があるし、チャンスは1回しかないかもしれないぞ。ベストを尽くそう」とハッパをかけるつもりだったのが、実際に口をついてでてきたのは「5人でしっかりと手をつないで、今度も楽しい演奏をしよう」という言葉だった。

 気合いの入ったリハーサルを十分に重ねた結果、11月のライヴは9月以上に素晴らしいデキだった。達矢自身も緊張のなかでも十分楽しめたくらいで、よけいなプレッシャーをかけたりしないでよかったなと胸をなでおろした。ライヴのあとで、中井は一人の男を紹介してくれた。男はきちんとしたブランドものらしいスーツに身を包み、サラリーマンとしてはちょっと派手すぎる大きな花柄のネクタイを緩めに締めていた。年は田所と同じくらいだろうか。
「こちらはバンドの後見の田所さん。こちらはマノスミュージックの長谷川さんで、うちにもときどき足を運んでくださるんですよ」

 名刺を見ると、マノスミュージックエンターテインメント、企画部・部長 長谷川達夫とあった。達矢は自分も財布から名刺を出そうとしたが、それが会社の名刺だと気が付き、あわてて「名刺を切らして申し訳ありませんと」謝った。体中に冷や汗がどっとふきだした。長谷川は挨拶が終わるなり、いきなり「田所さんですか。バジルなかなかいいじゃないですか。どうでしょう、うちで面倒見る方向で検討させてもらえませんか」といきなり切り出した。達矢は突然のことだったのでどぎまぎしながら「いやー、そういうことになれば願ってもないことですが、その際は本当によろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

 「玲華君でしたっけ。彼女の素質は大いに買っていますよ」と最後にそう言って、長谷川はやはり背広姿の若い男と連れだって立ち去った。達矢と玲華達一同は、まるで凱旋する軍隊のように半島に引き上げた。引き上げてしばらくしてから、あのとき長谷川が言ったことは、単にその場の雰囲気に任せて、たいした意味もなく口をついてでた挨拶みたいなものだったのかもしれない、という疑念が達矢の頭をよぎったが、まもなくそうではないことが明らかになった。マノス社から電話がかかってきたのだ。

 達矢は指定された通り会社を訪れた。青山通りに面した一等地に建つビルの2Fと3Fを占める会社の一室に、長谷川と数人の若い男女が待っていた。達矢がはいっていくと、長谷川が出迎え
「遠くからお運びいただきまして恐れ入ります。バジルの件についてはこの高野君に任せますので、こちらで話を聞いてやってください」と言いおいて出ていった。すぐにその高野という30過ぎ位の長身でハンサムな男が、名刺を取り出しながら話しかけてきた。こんどは達矢も名刺を用意しておいた。田所音楽スクール校長・田所達矢という名刺ができあがってきたとき自分でも恥ずかしかったが、こうとでも書くしかなかろう。高野は長テーブルの角の席を達也に勧めた。高野と他に2人のスタッフが席に着いた。高野の話では、驚くべきことにもう玲華たちを売り出すための担当者が決まって、今日が3回目の会議だというのだ。

「私たちは皆玲華ちゃんの素質を認めています。こんなに皆の意見が一致することなんて珍しいんですよ。で、ひとつ言いにくいことなんですが、バンドにこだわらずに彼女の将来を考えてみたいんですよ」と突然高野が切り出した。達矢にとっては寝耳の水の話だった。

「え、それはバンドを解散しろってことですか」と達矢は少し慌てて聞き直した。
「いや・・・」と高野は口を濁したが、その後は気まずい沈黙がしばらく続いた。達矢は茫然自失状態から回復するにつれて、次第に興奮してくる気持ちを抑えることができなかった。
「5人はもともと友達で、そもそものはじまりから共に練習し、喜怒哀楽を共にしてきたんですよ。高校生のバンドだって堂々とデビューしてるでしょう。夏休みにツァーをやってる連中だっているんだ。若いんだからやってるうちにどんどんうまくなります。彼女たちにはそれができないっていう根拠でもあるんですか」

「いやそういう訳じゃないんですが、玲華ちゃんの場合ちょっと違うでしょう。」
テーブルの奥の方からも、次々と遠慮無い言葉が投げつけられた。「恰好さえ付いてればなんでもいいってわけにはいかないんですよ。ちゃんと個々のキャラクターとか資質とか考えてプロジェクトを組んでいかないとね」「学芸会に毛の生えたようなのをやってるところもありますけど、うちはそういうのはやらないんですよ」「仲良しクラブじゃないんだから、勘違いされちゃ困るんだよね」

 高野は「まあまあそんなに最初からガンガンやらなくても」と納めにかかったが、会議の雰囲気はすっかりしらけた。達矢はやっと「この件については持ち帰って、頭を冷やして考えてから出直したいと思います」と頭を下げて呆然と部屋を出た。しかし廊下を歩いているうちに、おみやげに持参した菓子折の袋をまだ手に下げていることに気がついて、会議室にとってかえすことにした。前まで来るとドアが少し開いていて、隙間から声がもれてきた。

「玲華ちゃんもかわいそう。あんなじじいがくっついてるんじゃ苦労するよな」
「まったく先が思いやられるわね」
「あのバンドは使えないってことがわからないんだから困っちゃうなあ」
などと口々に達矢を非難する言葉が聞こえてきた。
達矢は踵を返して足早にその場を立ち去った。

 ビルを一歩出ると外はもう暗くて寒い。そういえばもう12月だ。青山通りに出てみると、クリスマスのイルミネーションがそこここに点滅している。しかし達矢にはまるでそれが奈落の底まで続いているように思われた。今日のことをどう彼女たちに伝えるかを考えると、頭が肩にめり込みそうな気分だ。しかし足はゆるゆるながらも勝手に進む。そうしてどんどん道を下っていくと、奈落の底は渋谷だった。

 渋谷の喫茶店で少し頭を冷やすことにした。会議室で投げつけられた言葉は、すべて達矢も頭の片隅では気がついていたことだった。玲華をロックバンドにはめ込もうというのはやはり無理なのだ。ただ自分が作ったバンドのことだから、いろんな不安や問題点は練習を重ねることで解決できると自分に思いこませていたのかもしれない。いや、もう一度うちのバンドでコンセプトを練り直してもらうよう頼むべきじゃないのか。いろいろな考えが頭をよぎる。不意にとりあえず高野に電話しなければと思いつき会社に電話したら、もう9時を過ぎていたがまだ高野が居たので、達矢は今日の会議で興奮したことを謝罪した。高野という男は思ったとおり冷静な男だった。

「まあ長い目で考えましょう。今日明日決めなくちゃいけないってことじゃありませんし」とかえって慰めるような言葉を返してくれた。この業界で会社に捨てられたらゴミ同然であることは、もともと内部の人間じゃない達矢にもわかる。「何とか説得してみますから、少し時間をください」と喫茶店の電話の前で頭を下げている自分は情けないが、それ以上に今言ったことを本当に実行しようとしている自分がみじめだ。

 

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2023年10月22日 (日)

半島のマリア 第5話:青山

半島に帰ってもすぐにはメンバーの前で、自分たちが置かれている状況を説明することができなかった。下手にやって玲華までがやる気を無くしてしまったら一巻の終わりになってしまう。宙ぶらりんのまま正月を迎えることになった。年が明けるとなぜかマノスミュージックの紹介で、バンドをあるデパートでのイベントに使ってもらえるという話が来た。急な話だったので、おそらく何らかの原因で穴が開いた分を埋める必要があったのだろう。それにしても、解散させようとしているバンドを使うとはマノスもやってくれるではないか。

 久しぶりの人前の演奏でバンドは盛り上がった。こうして実績を積み重ね、皆でしっかり手を取り合って成長していけたら、どんなに素晴らしいだろう。しかし、それはやはり夢物語だった。イベントが無事に終わったあと高野が来て「今回出演していただけたということは、ひょっとしてまだバンドの件については話されてないんですか」と訊いてきた。
「いや面目ない。そうなんだ。」と答えると、「実はこちらの方では話がかなり煮詰まってきてるんですよ。今日はバンドの皆さんのために一席もうけることになっておりますので、おいでいただけますよね」と思わぬ展開が待ち受けていた。ということは今回のイベントの一件も、ひょっとすると高野が最後にバンドに花を持たせてくれたのかもしれない。

 会社のマイクロバスに乗ったメンバーは、東京のレストランで食事ができるということで、みんな無邪気に盛り上がっていた。達矢だけは誰にも顔を見られない最前列の席で黙り込んでいた。会社の近くのビルの地下にある、静かなフレンチレストランの隅の席に神妙に座り、フルコースの料理をいただくというのは、多分メンバーの大部分にとってははじめての経験だっただろう。これが会社の経費で落とせるのだろうかなどと達矢が心配をはじめた頃、高野が口火を切った。

 「今日は楽しいパフォーマンスを見せていただきまして、皆さん誠にお疲れさまでした。実は今日は私の方から皆さんにひとつお願いがあるんです。単刀直入に申し上げます。わが社としては、とりあえず玲華君をデビューさせたいという意向がありまして。バンドのバジルの方々につきましては、あらためて考えさせていただくということになりました」

 高野の爆弾発言で、場の雰囲気は一気に冷却し、修羅場に突入していった。「えー、改めてと言ったってうちのバンドのボーカルは玲華しかいないんだから、玲華をとられたらどうしようもないじゃん」と摩耶が高野の言葉にかみついた。睦美はもっとはっきりと「うちらはポイッてことよ、でしょ先生」と言って達矢をにらみつけた。「えっ うそでしょ」と摩耶も鋭い視線を向ける。達矢はしばらく視線を下に落として沈黙していたが、意を決して立ち上がり、口を開いた。「バンドをやろうといったのは私だ。みんなでしっかりスクラム組んで頑張ろうといったのもほかならぬ私だ。ラ・ボエームに連れてきたのもこの私だ。今回のことは昨年から聞いていたんだが、今まで切り出す踏ん切りがつかずに来てしまったというのが事の真相なんです。皆には何とお詫びしたらよいのかわかりません」

 しばらくの沈黙の後、睦美が「じゃあ先生、私たちをを騙していたのね。今日のライヴは何だったの」と達矢の目をきっと見つめて口火を切った。摩耶も「先生と会社はグルってこと」と追い打ちをかけてきた。結局睦美は「こんなところにいてもしょうがないよ。帰ろう摩耶」と摩耶を誘って出ていった。早智と玲華は泣いていた。京子だけがうつむいて静かに座っていたが、いばらくして口を開いた。
「こんな会社信用できないよ。玲華、これでいいの。みんなでほかに売り込みましょう」玲華は顔を壁の方に向けてハンカチで涙をぬぐい、黙り込んだ。

 高野はひとりでディナーをたいらげ、「田所さん、もう少しお話があるんですが。場所を変えませんか。皆さんはゆっくりしていってください。お勘定は済ませておきます。それから、早智さんと京子さんにはわかっていただきたいんですが、私どもは君たちを切り捨てるのが目的じゃないんです。いろいろと考えてるんですが、まだ具体的な結論が出てないんです。少し時間をください」と諭すような口調で早智と京子に言い置くと、田所の背中を押すようにして店を出た。

 田所と高野は青山通りを少し渋谷の方向に歩き、少し路地に入った場所の地下にあるバーに降りていった。高野のなじみの店らしく、カウンターに座ると女性のバーテンがすぐ声をかけてきた。
「どうしたの高野さん。らしくないわね。そんな深刻な顔して」
「いやちょっとしたトラブルがあってね、まあこれがボクのビジネスといえばビジネスなんだけどね」
「ゆっくりしていってくださいね」とバーテンはスコッチのボトルを棚からおろして水割りをつくった。

 「どうぞ」と高野は達矢にグラスをすすめた。達矢は「いただきます」と一口飲んで、高野の方を振り向き「ところで正直言って、玲華のことはすべて高野さんにおまかせして、私は玲華とバンドの世話人という立場から降りようと思うんですが。彼女たちを裏切ったことにもなるわけだし、私も全くの素人ですから、マネージメントなんてきちんとできる自信もありませんし」ともやもやした思いを一気にはきだした。

「お気持ちはわかりますが、実務の方面はさておきもう少し何らかの形で彼女たちを見守ってあげてはいかがでしょう。彼女たちもそれを必要としていると思いますよ」

「どうすればいいんでしょう」

「できない部分はしかるべきところに依頼すればいいんです。私の知っている事務所もいくつかあります。田所さん達がそことマネージメントの契約をすればいいんです。その辺のところは私に任せていただければきちんと致しますよ。そうそう、田所さんは以前コンピュータの技術者だったんですよね。これは私のちょっとした思いつきなんですが、玲華ちゃんのホームページを立ち上げてみてはどうですか。これはとても大事なんですよ。彼女の声とルックスならすぐにファンがつきますよ。動画の編集とかもどうですか」

 高野が自分の経歴まで調べたのだろうかと少し動揺したが、達矢はそれをおさえて「芸術的センスはないもんであまり自信はありませんが、HTMLや動画編集くらいは分かりますので、お手伝いできるのは有難いことです」と答えた。「グラフィックや写真のことならうちの契約社員に役に立つ者がいるかもしれません。後日紹介しますので使ってやってください。事務所の件については、私が打診してみましょうか」。ここはもう高野のペースに乗るしかないと観念して達矢は「お任せします」と答えた。

 達矢はそう言うと、ほっと一息ついてグラスのウイスキーを飲み干した。自分の50年の人生経験からの印象では高野は信頼できる男だとみてとれる。懸案がとりあえず一段落して、達矢は肩の力が抜けていくのに自分でも気がついた。しかし高野はため息をついて、さらに話を続けた。「実はもう一つハードルがあるんですよ。さっきもう少しお話があると言ったのはこのことなんですが、私どもが以前から目をつけていた東友大学の男性アカペラボーカルグループがありましてね。ゴスペル系のグループなんですが、玲華プロジェクトとしては彼らを玲華ちゃんにくっつけようと画策しているんです。これがなかなか難行しておりましてね。こちらの仕事も大変だということもおわかりいただけますか」

 達矢はその言葉を聞いてハッとした。確かに他とは違うテイストを持っていなければ、成功はおぼつかないかもしれない。高野は玲華についてどういうアイデアで売り出そうとしているのか、もう少し詳しく聞きたくなった。アルコールの入った高野はさらに興に乗って話を続けた「玲華ちゃんの音楽は、声とかキャラなどから言ってもねらいは癒し系ということになりそうなんですが、シェフとしてはきっちりひと味つけて勝負したいんですよ。このジャンルも最近は競争がきびしくなりましてね。ヒーリングというジャンルにはいる音楽ということではなく、本当の意味でのヒーリングミュージックを狙いたいですね」

「高野さんのアイデアはよく分かりました。玲華のことはひとつよろしくお願いします。私もできるだけのことはしますので。会社の邪魔はしない程度にね。」高野もますます酔いがまわってきたようだ。「玲華ちゃんを立派にデビューさせるというのが今の私の最大目標ですよ。これは本当です。まあそういうことになれば、みんながあっと驚く場外ホームランといきたいもんですね」

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2023年10月29日 (日)

半島のマリア 第6話:エディ

6 エディ
(2003年4月)

「ハイ レイカ ゲンキー」といつも陽気なエディが会議室にはいってきた。
「どうしたんですか。今日は変にハイですよ」と玲華は少し驚いて答えた。エディは玲華がはじめて面と向かって話したアメリカ人だが、英語で話したことはなかった。エディはゆっくりではあったが、ほとんど正しいと言っていい日本語をしゃべるので、会話に不自由はなかった。相手が日本人だった場合、たいして話したこともない人に「レイカ」と呼び捨てにされるというのは不快に感じるかもしれないが、相手がアメリカ人なら許せてしまうのが不思議だった。

「何しろ広い部屋を使わせてもらってるのは有難いんだけど、ずっとひとりで仕事してると息が詰まりそう」
「コーヒーでも淹れましょうか」
「おお玲華、やさしい。あなたのビデオを長谷川さんにみせてもらいました。心をうたれました」
「エディさんは日本語のプロね。心をうたれるなんて言葉をよく知ってますね」
玲華は面と向かってほめられたてれかくしにエディをほめた。
「ドキドキってことでしょう」
「ちょっと違うかもね」

 エディが出ていくと、シンとした会議室に玲華一人とりのこされた。窓から外を見ると、近くの建物の庭に桜の木が1本だけぽつんと満開になっていた。道路を見下ろすと、半袖のTシャツで歩いている人もいるくらいで、すっかり世の中は春だった。レッスンやボイストレーニング、イベントのお手伝いなどあれこれと忙しくて、長らく東京の社員寮住まいになってしまい、玲華は最近学校に行ってなかった。まだデビューもしていないのに雑誌の取材や写真撮影まであって、自分はどうも実力以上に期待されているんじゃないかいうことを不安に思わないわけにはいかなかった。

ドアがガチッと開く音がして高野が会議室にはいってきた。
「みんなもうすぐ来るから少し待って」と高野は長机をはさんで、玲華の向かい側に機嫌の良さそうな顔で座った。
「玲華ちゃん。朗報だよ。東友大学のヘヴンズビーチが一緒にやってくれるそうだよ。これでプロジェクトがスタートできる。今日が玲華プロジェクトが本格的に始動する日だ」
間もなく数人のメンバーが次々と集まってきた。最後に学生らしい人物が二人席に着くと、高野は少しあらたまった様子で椅子から立ち上がった。

「今日は皆さんもうご承知のように、玲華プロジェクトの実質的なスタートの日です。まず浜本玲華さん、ヘヴンズビーチの牧君と古賀君の初顔合わせなのでご紹介します。今日はお二人だけですが、ヘヴンズビーチは5人の構成で、これから一緒にお仕事を進めることになるのでよろしくお願いします。今日はいつもの企画部と宣伝部のメンバー以外に、特に制作部の秦さんにも加わっていただきました」
「秦です。よろしくお願いします」
「最初の日からごちゃごちゃと細かいことをやるのもなんなので、初対面の方もいらっしゃることですし、今日はケーキでもいただきながらフリートークでいきましょう」

 ちょうどタイミングよく事務員がコーヒーとケーキを運んできた。机に並べているときにひょっこり田所が入ってきた。
「いやいや遅刻だ。申し訳ありません」
 背中を曲げてこそこそと入ってくる田所を見ると、玲華はかすかな幻滅を感じないわけにはいかなかった。これは若くて有能な高野という男を知ってしまったからだろうか。それともエディのせい? いや田所の年齢を考えると、年相応のくたびれ方ではあろう。彼への思いが色あせてきたことで玲華は自分が少し大人になったことを感じたが、それはもちろんほろ苦いものでもあった。それでも玲華にとって田所が師であり、自分の運命を決めてくれた人という気持ちには変わりなかった。高野が立ち上がって話し始めた。

「ちょうど田所さんが来られたので、皆さんにお知らせしておくことがあります。実は田所さんが玲華ちゃんのマネージメントをやっていく自信がないとおっしゃるので、以前にうちで仕事をなさっていたこともある神山さんのラタンハウスという事務所でお世話していただくことに決まりました。これは親御さんにもすでにご了解を得ております」

 高野に続いて田所が立ち上がって言葉を引き継いだ。
「みなさまの御陰様で、玲華が世に出る準備が整ったということで感謝しております。私はこれまで芸能界には無縁の衆生だった上に、玲華のお母さんにおこられちゃったことなんかもありまして、こういうことになりましたが、これが却ってよい結果に結びつくと確信しております。幸いウェブデザイン関係での仕事をいただきまして、微力ながら玲華のプロモーションの方面でお手伝いさせていただくことになりました。今後ともよろしくお願いします」

 フリートークだなどといいつつ、高野は誰に曲作りを依頼すればよいかとか、玲華とヘヴンズビーチの共同ユニットの名前をどうするかなど重要なテーマをつぎつぎ手際よく煮詰めていった。田所が推測するところでは、秦と高野の間ではほぼ事前に話ができあがっていて、あとの連中はただそのなかで泳がされているだけという進行のようだった。結局名前は「マリア・ロザリー&HB」ということで学生達を納得させ、数曲を結構売れている作家達に依頼することになった。ロザリーというのは数珠のことでみんなで繋ぐという意味があると高野は自慢げに付け加えた。プロジェクトはもう引き返せないところに来た。

 長い会議が終わると、もうあたりは暗くなっていた。玲華がビルを出て地下鉄の階段を下りようとしているとき、うしろからエディが声をかけてきた。
「レイカ 疲れてますね。こんどはコーヒーおごります」
実際に疲れていたし、断る理由もみつからなかったので、近くのビルの二階にあるカフェに入ることにした。

「エディさんはどんな仕事してるの」
「エディさんじゃなくて、エディと呼んでもらえるとうれしいです。正式な名前はエドウィン・ロスバーグです。アメリカ合衆国のロゼットというレコード会社の契約社員として仕事をしています。ロゼットはマノスレコードに日本でCDなどを売ってもらってるんだけど、主にその契約や業務提携の仕事をしているんです。時間のあるときはプロモーションみたいなことも少しやります。仕事上の直接の関係はないんですが、一応長谷川さんの部下ということになっていて、いろいろ相談相手になってもらっています」
「どうしてそんなに日本語が上手なの」
「軍の仕事で沖縄に3年いたことがあるんです。その時に日本語のコースをとって勉強したんです。軍隊をやめたあと、日本人相手に仕事をすればもうかると思ってね」
「ご両親はアメリカにいらっしゃるのね」
その質問をしたときに、エディの顔に一瞬暗い陰が走ったような気がした。やはり「両親とも亡くなりました」という短い答えがかえってきた。玲華は不意をつかれて「ごめんなさい」と言ったまま、気まずい沈黙になってしまった。

助け船のようにコーヒーが運ばれてくると、エディは笑顔を作って
「今度はボクのクエスチョンタイム。レイカはどうして歌手になったの」と訊いてきた。
「偶然もあるけど、小さい頃から歌は好きだったの」
「どんな曲が好きですか?」
「アメリカ人だったら、ちょっと古いけどナタリー・コールなんて好きよ」
「なるほど、mona lisa, mona lisa, men have named you」
「ひょっとして歌ってる?」
「ナタリーのお父さんの歌です」
「うーん なんか聴いたことがあるかも」

 田所や高野とは親しいといっても、やはり年齢や立場という壁があって友人ではない。玲華は高校ではつるんでいたクラスメートは女子ばかりだったので、男子の友達はいなかった。エディは多分高野くらいの年齢だとは思うが、唯一の異性の友人候補かもしれない。それにしても、知り合ったばかりなのにどうしてこんなにフランクに話せるのか不思議だった。

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2023年11月 3日 (金)

半島のマリア 第7話:箱根

(2003年5月)

マノス・ミュージック社の創立記念日5月3日は、会社名義の箱根の貸別荘でパーティーがあった。まだデビュー前なのに、玲華もパーティーに呼ばれていた。林に囲まれた瀟洒な別荘のまわりの庭は芝生が敷き詰められていて、そこでバーベキューをやるのが毎年恒例の行事だった。このとき建物の2階では、会社にとって重要な取引先などの数名の招待者と会社の取締役達が会食することになっている。接待や運営のために社員や契約しているタレント達の一部も集められる。

 高野は長谷川に「長谷川さんも来年は2階組ですか?」といたずらっぽく聞いてみた。軽く返されるかと思ったら、意外に真顔で「おい高野、それはお前次第だ。いい玉を連れてきてやったんだから、シングルヒットくらいじゃダメだ。ホームランを期待したいね」と押してくるので「そんなにプレッシャーかけないでくださいよ」と返すのが精一杯だった。「玲華ちゃん、聞いたかい。君は部長の人生もしょってるそうだよ」と高野は玲華の方にふりむいて苦笑いした。

 2階ではシャンペンを飲みながら、ロゼット社のマクマホン会長が通訳の役目を果たしているエディを交えて、マノスの真野社長に向かって大きな身振りで熱弁をふるっていた。
「マノスを売ってくれと言ったら、真野さんどうしますか」
「これは穏やかな話じゃありませんなあ」
「冗談ですよ。びっくりしましたか」とマクマホン会長は真野社長をギロリと睨み、いたずらっぽい中にも毒気のある笑いを浴びせかけた。真野はこのまま引き下がっては甘く見られると考えて言葉を継いだ。

「この会社は3代前から引き継いで日本の文化の一翼を担っていると自負しているんですよ。いくらロゼットさんといえども、そう簡単には渡せませんよ。それとも乗っ取っちゃいますか」
「真野さん。ことはスマートに運んだ方がいいと思いますよ。実際日本の大手レコード会社は一部の例外を除いて、ほぼ外国資本の傘下にはいることになりましたから、出遅れ組の我々がくっつくのは自然のなりゆきだと思うんですがねえ」
「いやいや、うちはファミリー的にまとまってやってる会社ですから、そのよさをこれからも生かしてやっていきたいと思っているんですよ。もちろんロゼットさんのお手伝いはできる限りやらせていただくつもりですよ」
「真野さんはなかなか手ごわいですね」
「とんでもない。これからもお手柔らかにお願いしますよ」

 エディは通訳の立場を超えて付け加えた「マクマホン会長は大統領にプライベートで電話ができる人なんですよ。これがどんなにすごいことかおわかりいただけますか?」 真野はエディという男がただの契約社員というより、マクマホンと何か特別なつながりがある人物のような気がしたが、詮索するのは控えた。だいたい電話できるっていっても、大統領が交代したらただの人じゃないか。

 庭の方ではバーベキューパーティーもたけなわとなり、マノスの看板シンガーである結城カンナや蔡順花などが次々仮設ステージにあがってヒット曲を披露すると、取材できていた音楽出版社のカメラマンもストロボを光らせた。玲華は一番後ろで聴いていたが、人垣でステージがよく見えないし、まだ親しく話ができるような人もあまりいなかったので退屈だった。庭のまわりは鬱蒼とした雑木林で、表門に通じる道路以外にも何本か細い道が縦横に通じていて、そこここにベンチや花壇がしつらえてあった。こんな貸別荘を借りに来る人が日本にもいるんだ。自分は別世界に迷い込んだのかもしれない。

 玲華はそんなことを考えながら散歩しているうちに裏門まで来てしまった。そこで外の林の蔭に隠れるように3人の男が別荘を指さしながら何か話しているのが見えた。そのうちひとりは動画を撮影しているようだった。何をこそこそやっているんだろうと不思議だったので、玲華はあとで高野に報告しようと思った。

 ふと気がつくと怪しい男たちだけではなく、秦がちょっと離れたところから機器を持って自分を撮影しているのに気がついた。玲華はびっくりして「秦さーん、そんなところで何してるんですか」と大声で叫んだ。秦は少し残念そうに「とうとう見つかっちゃったか。あとでプロモーションビデオでも作ることになったら役に立つかもと思ってね」とスイッチをオフにしてこちらにやってきた。
「ずっと、ぼーっと歩いてただけだから役になんかたちませんよ。これまでもこっそり撮ってたりしたんですか」
「いやいやいくらなんでもそこまで暇人じゃないんだよ。もうやらないから心配しないで」と秦はバツ悪そうに謝った。

 ロゼットのマクマホン会長はエディを伴って庭に降りてきていた。続いて取締役と共に真野社長も降りてきた。その中の一人と長谷川が玲華のベンチの方にやってきた。「専務、これがこんどデビューする我が社期待の新星玲華君ですよ」と長谷川は玲華を紹介した。玲華は急だったので、身体が固まってしまい「よろしくお願いします」とぎこちなく頭を下げるのが精一杯だった。しかし専務と呼ばれた男は玲華にはあまり関心を示さず「あ、そう」と言ったきり長谷川の肩を抱くようにしてひそひそ話をはじめた。玲華には「マクマホンは本気だ。困ったことになった。我々も腹を据えてかからないと。それにちょっと面倒なことを抱え込むことになったんだよ。あのエドウィン・ロスバーグという男のことなんだけどね・・・」という専務の言葉がきこえたが、専務がこちらを振り向いたので聴いてはいけない話かもしれないと思い、玲華は会釈してそっとその場を離れた。

 

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2023年11月20日 (月)

半島のマリア 第8話:レコーディング

8 レコーディング
(2003年6月)

 6月になって曲がほぼ出来上がってきた。駐車場にあじさいの植え込みがある麻布十番のスタジオは、まるで玲華やスタッフを待ちかねていたかのように満開で迎えてくれた。プロデューサーの秦をはじめとするスタッフも新人歌手の初レコーディングということで張り詰めた雰囲気がただよっている。リハーサルでは細かいダメが出て、CDを制作するのは本当に大変だと玲華も思い知ることになった。一度達也が同席したときも、玲華は体調を少し崩していたらしく、歌唱が不安定でスタッフが渋面になるような場面があった。しかし玲華はうっすら涙を浮かべながらもにこやかに対応し、辛抱強く頑張っていた。達也はその姿を見て、もうこの子は自分を必要とすることはないだろうと感じた。

 自分の家で無邪気に大騒ぎしていた頃の玲華が懐かしくもあるが、よくここまで成長してくれたという安堵の気持ちがこみ上げてきた。それにしても秦も大したものだ。詞も曲も素晴らしいものを集めていた。7月初旬に一気にレコーディングが進み、CD発売も11月25日に決まった。プロモーションの日程や、ささやかながらタイアップも決まった。すべてが順調に進んでいる。

 玲華にとってははじめてのレコーディングだったので、しかもミニアルバムでのデビューということで、スムースにいくかどうか秦は当初かなり危惧していた。しかし仕事を進めるうちに、高野がこの子にいれこんでいる訳が分かってきた。玲華はシンガーになるために生まれてきたのだという、ある種「天の啓示」のようなものを秦も感じないわけにはいかなかった。バックを担当するヘヴンズビーチもハマっていた。高野の言うとおり、玲華だけでは繊細すぎてインパクトが弱いという問題点も、彼らは口・鼻・手を使ってやる楽器演奏まがいの技も使えるし、もちろん心地よいハーモニーの上に玲華の声を乗せると効果は抜群だった。出来上がってきた曲の中に「半島のマリア」という彼女にぴったりのバラードがあったので、ミニアルバムのタイトルは「半島のマリア」に決まった。

 全曲の収録が終わった後「玲華ちゃん、おめでとう。よくここまで頑張りましたね」と秦は玲華に手をさしのべた。玲華はこみ上げてくるものがあったが、ただ「有難うございました」と言って、その手を強く握り返した。「8月にジャケットやアーティスト写真の撮影があるんだけど、それまで2週間くらい間があいちゃうね。これも思ったより順調にレコーディングが進んだ御利益だから、君は少し休んでていいよ。秋にCDが発売されると、とても忙しくなるから体力つけといてね」と秦は玲華の肩を軽くたたいた。

 レコーディングが終わった開放感から、玲華は久しぶりで京子と話したくなってメールをいれると、すぐに京子から電話がかかってきた。

「めずらしいじゃない。どうしたの」
「ごめんね。ここんとこレコーディングでほんとに忙しくて、気持ちの余裕がなかったのよ。でいまどこにいるの」
「実は東京にいるのよ。高野さんにアルバイトを紹介してもらって、イベントのお手伝いなんかをやらせてもらうことになったの。早智も東京に出てきてるのよ。早智はすごいよ、転校してこちらに住むことを決めたみたい」
「ふーん。ところで今晩つきあってよ。やっとレコーディングが終わったのよ。私がおごっちゃうから」

 二人は青山の裏通りにある小さなレストランで食事することにした。まだ二人とも18才だったのでジンジャエールを注文して乾杯した。

「京子にちょっとお願いしたいことがあるんだけど、言ってみてもいい」
「え、なにその変な言い方は」
「京子って昔からしっかりしてたじゃない」
「何言ってんの それは誤解よ」
「実はまだ私のマネージャーが決まってないのよ。当面はマノスの経理やってる人が面倒見てくれることになってるんだけど、もしよ、もし京子がそばにいてくれることになったら心強いんだけど」
「私って経理とか税金とか全然わからないから無理よ」
「来年からでいいの、お願い。田所先生や高野さんにもサポートお願いしてみるから」
「うーん・・・わかった。一応考えとくから」
「有難う。そのうち高野さんが事務所を紹介してくれると思うんだけど、知らない人とずっと一緒に行動するってちょっと怖いのよ。私ってまだまだ大人じゃないのね」

「ところで、玲華ってまだ大人じゃないの」
「あれっ 京子はもうご卒業なの」
「ノーコメント」
「訊いたくせに、・・・実は気になってる人はいるんだけどね」
「ほんとに で 誰? 私の知ってる人?」
「知らないと思うわ。会社の人なんだけど、外国人なのよね。私このまま売れなくて消えちゃったら、ロスあたりで主婦やってたりしてね」
「ふーん、玲華の英語の成績ってどうだったっけ」
「いてて、それは言わないで。ところで早智はどうしてるの」
「早智はスタジオミュージシャンになりたいみたいよ。腕は確かだからチャンスをもらえばいけるんじゃない。きっちり決断できるってところはうらやましい。私は優柔不断だから。早智も今日誘ったんだけど、ちょっと都合がつかないって。ま 急だしね」
「彼女って人に好かれるタイプだし、積極的にチャレンジするバイタリティーがあるのよね。きっとうまくやっていくと思う」

ウェイターがラストオーダーをとりにくるまで時間に気がつかないほど、二人は夢中で話し続けた。

 

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半島のマリア 第9話:交点

9 交点


(2003年7月) 5人が去ってから田所音楽スクールは閑古鳥が鳴いていた。学生たちは今夏休みだが、誰も戸をたたいてはくれない。温泉街を散歩していて睦美や摩耶と会うこともあったが、挨拶するだけでもう話し相手にはなってくれなかった。彼女たちのバンドとかかわってからもう2年経っていた。前の住人が残してくれた畑に野菜でも植えて、のんびり暮らすという人生もあったと思うが、象牙海岸で玲華達と会ったという偶然が、この2年の忙しかったが多くの人と関わった豊かな経験、あえて言えば幸福な経験をもたらしてくれたことを思うとここに住んで良かったと思う。あとは彼女たちがそれぞれ良い人生を送ってくれるよう祈るだけだ。

 旅館街の裏手にある丘は、海は見えないが見晴らしの良い場所で、達也のお気に入りの場所の一つだった。ベンチも置いてある。ちょっと汗はかくかもしれないが、風は涼しいのであそこに行ってみよう。そう思いついて達也が細い砂利道を上っていくと、行き止まりの見晴らしスポットで、双眼鏡で景色を見ている人がいる。自分と同年配の男らしい。どうも古い灯台の方向をずっと見ているようだ。作業服のような服装で観光客には見えない。

 達也は「今日は見晴らしがいいですねえ」と声を掛けてみた。男がこちらを振り向くと、あれっ、見覚えのある顔だ。

「お前 ベースのひろたんじゃないか!」
「ああ ひょっとして達也か」
「正解 だけどこんなところで何やってるんだ?」
「いや 景色がいいって旅館で聞いてきたんだ。達也こそどうして?」
「俺はここに住んでるんだよ、旅館街のすぐそばに」
「なんだ そうなのか」
「せっかく出会ったんだ。俺の家によっていけ。ワインぐらいならあるから」
「そうしたいところだが、ここで待ち合わせてる人がいるんだ」
「奥さん? じゃあ来るまで俺も待つよ」

しばらくしてやってきたのは奥さんではなく男だった。

「あれ あなたはマノスでお見かけしたエディさん?」
「エドウィン・ロスバーグです」
「私はときどき会社に出入りしている田所達也です。玲華ってご存じですか?」
「もちろんです」
「私も曲がりなりに一応玲華のプロジェクトに参加しているので宜しくお願いします」

「そうですか、そういえば玲華と話しているところをお見かけしたような気もします。それにしてもこんなところで会うとはね。こちらこそよろしく」

達也はエディが「玲華」と呼び捨てにしたので少し驚いたが、まあ外国人だからかもしれない。

「ここは玲華の故郷ですよ。うちもこの近くなのでよかったら後で寄ってください」

ひろたんとエディは目配せして、どうやらOKになったようだ。

「ひろたんはどこに泊まってるの?」
「望洋荘だよ」
「それって玲華が以前にバンドを組んでいたときドラムたたいてた睦美の家だよ」

エディは驚いた様子で、口笛を吹いた。

「じゃあ夕方5時頃になったら家に行くよ。場所は旅館で聞けばわかるかな?」
「旅館街を通り過ぎて、コンビニの先に田所音楽スクールという小さな看板があるので、そこから細い道にはいればすぐだよ」

 そう言って達也は旅館街の方にもどることにした。それにしてもひろたんとエディはこんなところで待ち合わせしてどんな話をするつもりだったのか不可解だった。ひろたんが双眼鏡で見ていた旧灯台の方を見ると、めずらしく駐車場に車が駐まっていた。あそこに人がいるのを達也は見たことがなかった。

 夕方になると二人がやってきたので、用意しておいたビールとつまみで小宴会になった。
ひろたんは「不思議に思うかもしれないが、今日のことは胸にしまっておいてくれ。いろいろあるんだよ 俺たちにも」と懇願するように言った。てことは・・・ひろたんとエディはかなり親しい、あるいは共同作業をしているってことなのか? それも秘密で?

「それはまあいいけど、ひろたんは今どこに勤めてるの? マノスの関係?」
「ロゼットというマノスが提携している米国の会社だよ」
「私の勤めている会社ですよ。マノスには派遣で来ているので」とエディが付け加えた。

 かなり酔いがまわってから、ひろたんは「実は俺はロゼットの社員じゃなくて、マクマホン会長に個人的に頼まれて仕事をしている」と漏らした。

 エディが歌えるというので3人でジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」のセッションをやった。
https://www.youtube.com/watch?v=q2dbtA_NXpc

 数日後にコンビニで睦美の母親に会ったので立ち話で聞いてみると、ひろたんは数人のグループでなんと2週間も滞在しているそうで、毎日測定機器らしきものや潜水の道具を乗せた車で海に出かけていたそうだ。沈没船の宝探しでもやっていたのだろうか。気になったので玲華の家に行って父親に話を聞いてみると、何でも高額で船を貸してくれという人がいたので、漁をやめて2週間ほど貸した奴がいるということだった。

 沈没船の財宝については水難救助法が適用され、1年以内に遺失者が現れなければ発見者のものになる。このあたりの海で太平洋戦争中に沈んだ輸送船があって、数年前に政府関係の調査隊が来たという話は聞いたことがある。マクマホンは金持ちの道楽で世界中で財宝探しなんてやっているのだろうか。そういえばひろたんと名刺交換してなかったことを達也は後悔した。今度マノスに行ったときに、彼が何をやっているのかエディに訊いてみよう。

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2023年12月 7日 (木)

半島のマリア 第10話:ワシントン

10 ワシントン
(2003年5月)

 ハイデン大統領は毎朝数名の補佐官と朝食会を開催するのを習慣としていた。いつもは冗談も飛び交うなごやかな雰囲気なのだが、その日はロバート・アーウィン補佐官から重要な報告があるというので緊張した雰囲気でみんなアーウィンを待っていた。アーウィンは最後にやってきた。

大統領「ボブ、眠そうだが大丈夫か」

アーウィン補佐官「ご心配には及びません。では始めます。昨日カーチス弁護士事務所から連絡があって、緊急に話があるというので会談しました。弁護士の話では東京の事務所にネイビーのある下士官がやってきて、「ホワイトハウスに伝えて欲しいことがある」と言ってとんでもない話をしたというのです。その内容というのは今年の4月10日に最新鋭の潜水艦「ブルーシャーク」が日本近海で深夜浮上航行しているときに、その下士官は甲板で風に当たっていたそうなんですが、何かを海に投下する音がしたので、そちらの方に行ってみると暗くてよくわからなかったらしいですが、ガイルス副艦長らしき人がいて、慌てた様子で海に飛び込んだと言うのです。彼はすぐに艦長に報告したのですが、部屋を出るなと言われて艦長だけが部屋の外に出て30分くらいして帰ってくると、厳しく他言を禁止されたそうです。翌日艦は横須賀に入港したのですが、点呼の時ガイルス副艦長はいなくて、あれはやはり副艦長だったんだと確信したそうです」

大統領「それでネイビーには事情を訊いたのか」

アーウィン補佐官「この件について問い合わせると、ガイルスは休暇中だが連絡がとれないというのです。ブルーシャークから紛失した物品はないか訊いたのですが、そのような報告はないということでした」

大統領「隠蔽か? どう思うハミルトン」

ハミルトン補佐官「ともかく真相がどうなのかを至急確かめる必要があります。間違いやいたずら以外に謀略の可能性もありますしね」

アーウィン補佐官「情報が確かなら、ともかく投下された中身が何だったのかというのが一番の問題ですね。あとガイルスの生死と生きていればどこに居るのか。彼が飛び込んだ場所から海岸までは2kmくらいなので泳げない距離ではありません。いずれにしても、もっと詳細な情報が必要です」

ハミルトン補佐官「まさか核弾頭じゃないと思うが、重要書類とか、密輸品、ドラッグ、プルトニウムの可能性も無しとはしないね」

アーウィン補佐官「ネイビーは隠蔽しているのかもしれないので、そこにとりあえずさわらないとすれば、真相を調査するスタッフを調達する必要があります。とりあえず情報提供者とガイルスについては私たちも調べますが」

大統領「極秘で調べるにはシークレットサービス(SS)を使うしかないかな。DHS(国土安全保障省)の長官は懇意だからそこから漏れることはないと思う。しかし公的機関を使う前にまず民間か民間を装ったスタッフを使って調査の下準備をさせようと思う。ネイビーに直接調査団を差し向けてヘソを曲げられても困るし、下手をすると選挙に響く。まず情報提供者を特定して極秘でエージェントと接触させよう どうだボブ」

アーウィン補佐官「下準備といっても民間まかせというわけにはいかないでしょう。軍関係やCIAを使わないのなら、SSから民間人を装うサポートチームを出しましょう。」

ハミルトン補佐官「それならヒロタというベテランスタッフがいますよ。日本語ネイティブです」

大統領「信用できるのか?」 

ハミルトン補佐官「もう20年くらいSSの仕事をやっていますし、問題ありません。私の友人でもあります」

大統領「わかった。じゃあヒロタに必要なスタッフをつけてなるべく早く日本に送れ。SSを派遣というのはまずいので、どういう形にするかはあとで考えよう。民間人の方はマクマホンを使おうと思う。彼は私の古い友人で信用できる男だ。、日本へビジネスを広げようとしているのでちょうどいいし、私の頼みはきいてくれると思う」

ハミルトンもアーウィンもマクマホンは以前に大統領に紹介されていて、大統領が出席するパーティなどでも何度か会っており、知己があった。

ハミルトン補佐官「ではヒロタをマクマホンのスタッフとして日本に送り込みましょう。この調査案件はボブが統括しますか、それとも私がやりましょうか」

大統領「君と言いたいところだが、わかったことは直ちに私に報告するようにしてくれ。指示は私が直接したいので。それでいいか?」

ハミルトン補佐官「わかりました」

大統領「では他の者は今日の話は聞かなかったというこにしてくれ。マクマホンには私から直接頼んでみる。費用に制限はかけない。この件のすべての情報はボブとハミルトンと私の3人で、できる限り時間のずれなく共有するということでいいな。」

 補佐官達が退出すると、大統領はすぐにマクマホンに電話で連絡を取り、ホワイトハウスに来てもらって、アーウィンとハミルトンも同席して任務遂行の了解をとった。マクマホンによれば、日本進出のためにすでにマノスという会社と提携していて、社員もひとり東京に送り込んでいるそうだ。エドウィン・ロスバーグという海兵隊に所属した経験もある信頼できる男なので、スタッフを送り込むのなら彼と接触してくれということだった。大統領らは情報提供者が判明したら、サポートスタッフがすべてお膳立てした上で、そのロスバーグと情報提供者を接触させようという段取りを決めた。

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半島のマリア 第11話:接触

第11話:接触

(2003年 6月~7月)

情報提供者の特定は意外に簡単だった。カーティスの東京事務所に盗聴器を仕掛けたら数日も経たないうちに名前が判明した。スタッフの会話がうまく拾えたのだ。情報提供者はメイソンという下士官で名簿で顔も特定できたが、今はグアムに居ることがわかった。ヒロタとスタッフ、それにロスバーグも東京にいるので、メイソンがグアムでは作戦を立て直さなければいけない。ハミルトンに連絡すると、グアムでの作戦はあらためて考えるということで、とりあえず日本でできることをやってくれということだった。

 ヒロタらは事件が起こったあたりに近い海岸を回って、遭難者・水死者・不審な外国人の調査を行ったがこれと言った情報は得られなかった。ならばいっそのこと事件が起こったあたりの海底の調査をやってみようと思って、ハミルトンにお伺いを立てると「やっていい」とOKが出たので潜水夫を2人雇い、ヒロタと2人のスタッフを含めて旅館に滞在し、船も借りて本格的な調査を開始した。おそらく計画的に投下したとすれば、そのブツには音波発生装置がついていると思われるが検出できなかった。長い間沈めておくには、連続的に音波を発生すると電池が消耗するので、なんらかの信号を使うアクティベーションが必要なのかもしれない。

 この問題が解決しないとすると、しらみつぶしに海底を調査してみるしかないと覚悟を決めたのだが、ひとつ気になることがあった。どうも頭上にいつもドローンが飛んでいて監視されているようなのだ。非常に気持ち悪いのでスタッフに調べさせたところ、古い灯台の敷地を基地にしていることがわかった。その灯台は点灯することはないので使われてはいないようだ。にもかかわらず駐車場に車がいる。ナンバープレートは米国式ではなく US NAVY の表示もなく、日本式表記のYナンバー車だった。つまり公用車ではないということだ。しかしYナンバーなので軍の車で、やはり灯台の敷地を使ってドローンを飛ばし、問題の海域を監視しているに違いない。作戦を間違ったかもしれない。これで自分たちも全員ネイビーにメンが割れてしまった上に、何をやっているかもバレバレだ。一方ネイビーのアジトらしき場所が判明した上に、車のナンバーまでわかったことは大きな収穫だった。

 もうバレてしまったのだから仕方がない。根気よく海底調査を続けていると、ハミルトンから朗報がはいった。メイソンが7月に休暇を取って東京に来るらしいのだ。海底調査はいったん打ち切り、とりあえず一度ロスバーグと会うことにした。それとネイビーのアジトらしい旧灯台を監視するために、ハミルトンに頼んでスタッフを増やしてもらった。ここを監視していればネイビーの動向がつかめるに違いない。司令部を監視していても情報は得られない。実際に行動する部隊にアジトがあるとすれば、そこを見ていると動向がわかる。監視するには最適の場所をみつけた。旅館街から少し上ったところのあまり人気の無い展望台だ。相手は車1台だからせいぜい3~4人だろう。灯台を基地とするドローンは自分たちを監視しているわけではなく、問題の海域を監視していた。それが彼らの任務なのだろう。おそらく海岸あたりにも別のスタッフを配置して、何かを引き上げようとする者がいればすぐに対処できるようにしているに違いないが、海岸のスタッフについてはヒロタらはまだ誰だかつかめていなかった。近隣の駐車場の車を調べればわかると思ったが、それより優先すべき仕事がある。

 ロスバーグとは展望台に行く道の道標がある場所で会うことにした。しかしそこにやってきたのはロスバーグじゃなく、学生時代にバンドを組んでいた達也だった。30年くらい会ってなかったのに、どうしてこんなところでばったり会ってしまうのだろう。びっくりするしかない。遅れてロスバーグもやってきて、達也には接触を見られてしまった。さらにびっくりしたのはロスバーグと達也が顔見知りだったということだ。神様は不思議なことをやってくれる。

 ともかく夕方宴会をやるという約束をして達也とは別れ、ようやくロスバーグと2人になれた。何をやって欲しいか概要はマクマホンから聞いていたはずだが、段取りを詳しく説明できてほっとした。達也の家が近くにあるというので、その日は3人で思い切り飲んで騒いだ。翌日望洋荘にハミルトンがよこしたスタッフがやってきたので、バトンタッチしてヒロタらは東京に帰った。メイソンとロスバーグを会わせる段取りをしなければいけない。しかし自分とスタッフの顔がバレたというのはまずい。これから自分たちはネイビーに監視される可能性があるということは常に頭に入れておく必要がある。

 ロスバーグとメイソンの接触は箱根のマノスの別荘で7月の最終金曜日に行うことにした。メイソンには監視がついている可能性がある。その週の初めから灯台を監視するために呼んだスタッフも箱根に集めて、総勢7名で作戦を練った。新たに加わったスタッフは電波妨害装置を持ってきていたが、これは万一の場合にだけ使うことにする。トンネル内に同じタイプの車を停めておいて、ドローンにダミーを追跡させる作戦をとることにした。メンが割れている3人を含む5人は木曜日から別荘に入って待機することにした。残りの2人は東京からメイソンを車に乗せて連れてくる役目だ。ロスバーグとメイソンが別荘に到着したら要人警護の要領で彼らを保護すれば良いので、これはSSにとってはいつもの職務なので慣れている。ロスバーグはメンが割れていないし、まして監視されてもいないだろうから問題なく無事に到着できるだろう。

 しかしそれは甘かった。ネイビーはマクマホンの動向については、大統領に近い要注意人物として5月に来日したときからマークしていた。彼らはマクマホンが日本を訪問したときにマノスが所有する箱根の貸別荘に来たことを知っていて、メイソンが箱根に向かったことを知ると別荘に人を貼り付けたのだ。メイソンは近隣の駐車場に車を止めて、スタッフの案内で徒歩で裏口から別荘にはいったのだが、ロスバーグは正面玄関から車ではいろうとしたため、隠れていたネイビーの車が現れて中に入る前に妨害された。ロスバーグは慌ててバックして切り返し逃げることにしたが、ネイビーは追ってきてカーチェイスになってしまった。しばらく逃げていたがこのままだと事故を起こすに違いないと思い、車止めに乗り上げ徒歩で逃げようとしたが、後ろからタックルされて倒れてしまった。次の瞬間にもう一人に首に注射を打たれ、意識がなくなった。ふたりはロスバーグを車に運んで走り去った。

 別荘の二階から外を監視していたスタッフが、ロスバーグが妨害されるのを目撃したが、建物から門までは少し距離があり、目視しながら車で追跡するのは不可能だった。大失態だ。当初の計画は崩壊した。東京に向かう道は多くないので、スタッフにはロスバーグの捜索と救援を頼み、ヒロタ自身は身分を明かしてメイソンから事情を聴くことにした。

 メイソンによるとガイルスが投下した物体は、投下時に大きな音がしたのである程度重量があることは推定できたが、闇夜ということもあり実物をはっきり見たわけでもなく、形状はわからなかったらしい。ガイルスはメイソンがいたことに非常に驚いたらしく、あわてて海に飛び込んだ感じで、あらかじめ泳いで逃げることを予定していたとは思えなかったとも証言した。メイソンが報告したとき艦長は真っ青になって呆然自失の様子だったが、厳しく「部屋を出るな、これは命令だ」と言って、マスターキーを持って一人で部屋の外へ出たこともわかった。

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2023年12月25日 (月)

半島のマリア 第12話:失踪

 レコーディングが終わると秦が言ったとおりスケジュールがゆったりしてきて、玲華がエディと会う機会も増えた。はじめてホテルで夜を共にしたときは、あまりの痛さに玲華が泣いてしまったので、エディもびっくりしてそれ以上の性交渉をあきらめざるを得なかった。二人でぼんやりベッドに横たわっているうちに、エディは玲華に「ボクの両親はイスラエルに住むユダヤ人だったんだけど、実はテロでアラブゲリラに殺されたのです。それが今日と同じ8月6日です。多くの友人達も軍隊に入ってゲリラと戦っていますが、私も戦わなければならないことはよくわかります。でもこれは玲華にしか言わないことですが、ボクはイスラエルのやり方にも問題があると思います。日本でもいろいろ報道されているでしょう。もっと本当のことを言うと、イスラエル軍は強力なので、ゲリラは怖くはありませんが、復讐という感情の日常化にはボクは耐えられません。それで親戚を頼ってアメリカ合衆国にわたり、アメリカ人になることをめざしました。宗教もカソリックに改宗しました。だからボクはユダヤ人としては裏切り者です」と告白した。

 玲華は「そういえば今日は広島に原爆が落ちた日でもあるわね。戦争なんて考えるのもいやよ。ユダヤのことは知らないけど、日本人から見るとエディの気持ちはよくわかる気がする」とエディをなぐさめた。もっといろいろ言いたかったが、所詮自分は遠い部外者だという感覚が玲華の口を重くした。そのかわりもう一度エディを強く抱きしめた。エディはもう一度挿入してきた。今度はなんとか我慢できた。セックスは人を接近させる。エディとは肉体だけでなく精神的にも、軽々しく踏み込んではならない領域まで一気に深く進入してしまった。

 秋になって玲華も忙しくなったが、エディとは暇をみつけてデートしていた。ただここしばらくエディは忙しいらしくて会ってくれない。電話には出てくれるが、どちらかといえば上の空という感じだった。私には興味を無くしたのだろうか? 明日も土曜日なのに、エディは忙しいので会社で夜まで仕事をすると言っていた。エディは訊いても具体的な仕事の内容はあまり教えてくれなかったが、一応サラリーマンなのでそう自由がきくわけではないと玲華は自分を納得させていた。

 仕事もなくて玲華には久しぶりに空白の土曜日だった。昼前にやっとベッドから起きあがり、京子と早智に電話してみたが二人とも出てくれなかった。ひょっとして夕方になるとエディの仕事も終わっているかもしれないと確かめるため電話してみたが、エディは出なかった。おかしい、どうして出ないのだろう。胸騒ぎがして、玲華は会社に行ってみることにした。

 会社に行ってみると、土曜日で本来は休日だというの大勢の人がロビーにたむろしていたりして、何かイベントでもあるのかざわついていた。顔見知りの人たちの姿もチラッと見えたが、玲華は隠れるようにさっさとエレベーターに乗って、3Fのエディの部屋に直行した。ノックしても返事がないので、知っている4桁の番号をプッシュして無断で部屋に入った。エディはやはり不在だったことを確認すると少し不安になり、また腹立たしくもあった。会社で仕事をするって言っていたのに、私にウソをついてどこで何をしているんだろう。エディのスマホにまた電話をかけてみたが、相変わらず応答はなかった。仕方なく、「今日はどうしたの。会社にもいないじゃない」とメッセージをスマホにいれてみたが、送ったあとで嫌なメッセージを入れた事を後悔した。玲華はすっかり落ち込んで、エディの椅子に沈み込んだ。

 涙がこぼれ落ちそうになったので、机上のパソコンのスイッチを入れてみた。パスワードを訊いてきたので、生年月日、星座、血液型などを組み合わせて入力してみたが、すべて失敗した。REIKAといれてみてダメだったときは少しがっかりした。彼が私の前で歌った曲の歌手ナットキングコールといれてみたら、これもダメだった。ところが根気よくやっているうちに、ナットキングコールの本名のNATHANIELの後にシャープをいれ、さらにエディの両親の命日0806をいれるとなんとロックが解除された。時計を見るともう午後9時になろうとしていた。いったい何時間トライしていたのだろう。コーヒーでも入れて一息つこうかとしていたその時、ノックの音がしてドアを開けると守衛が立っていた。「あれ、玲華さん。こんなに遅くまでどうしました」と訊いてくるので、「ちょっと電話番をたのまれちゃって。あと少しでエディが帰ってくるんで、打ち合わせしたら帰りますから」といい加減な答えをしたら、幸いにも「帰るときは一声かけでくださいよ」と言って退散してくれた。

 やっと解除できたのにここでシャットダウンして帰る手はないとは思ったものの、画面には訳の分からないアイコンがたくさん現れて、何がなんだかわからない。見たこともないアイコンばかりでどれがメールソフトかもわからない。私以外に女がいれば発見してやるという意気込みも萎えそうになる。

 しかしいじっているうちにメールボックスのフォルダーらしきものがみつかった。しかし開こうとするとするとパスワードを要求された。さっきと同じものを入力したが、今回はダメだった。「ああもうダメ、こんなのにつきあってられないよ」と叫んでみたが、すっかり気力を喪失してしまった。とりあえず京子や早智と楽曲制作の時に使っていたクラウドストレージにフォルダーごとコピーして共有することにした。玲華自身はPCを東京に持ってきていなかった。作業を終わってぐったりと机につっぷしていると、突然部屋に二人の男が入ってきて口を布でふさがれた。首にチクッとした痛みを感じると、すぐ玲華は気を失った。

 玲華からたってのマネージメントを手伝ってくれという依頼を受けて、京子はむげに断るというわけにもいかなかった。自分はミュージシャンとしてはやっていく自信はなかった。高野がピアノで生計を立てようとするのはあまり得策ではないと言っていたが、それは理解できた。何か特別な運かコネでもないかぎり、ピアノの腕ひとつで生活していくのが困難なことは京子にも十分想像できた。この点では早智がうらやましかった。彼女は物怖じせず、すぐに人と親しくなれる性格で、しかもルックスもそこそこ可愛いということで、自然にギターひとつで自分の道を切り開きつつあった。京子はどちらかと言えば人付きあいが少ない引っ込み思案な性格で、高野には作詞の勉強をしてみればと言われていた。

 玲華が失踪した土曜日は京子は午後から東京に来ていたが、とても忙しい日でメールチェックをする余裕もなく、ようやく解放された午後10時頃に見てみると、めずらしく玲華から「東京にいるのよね。今晩一緒に食事しない。今会社にいるのよ。連絡待ってる」というメールがはいっていた。これは何か話したいことでもあるのかなと慌てて連絡してみたが、玲華の応答はなかった。

 翌週の火曜日に玲華への雑誌の取材があったのだが、時間がきても玲華が現れなかったことから騒ぎが始まった。玲華は時間にはきちんとしていて、それまで打ち合わせなど約束の時刻に遅刻したことは一度もなかった。秦は実家や立ち寄りそうなところなどあちこち手をつくして探したが、全く連絡はとれなかった。京子に連絡すると「土曜日には会社にいたはず」とのことだった。守衛も土曜日の午後9時頃にはエディの部屋にいたことを確認している。玲華はとりあえず社員寮に住んでもらっていたので、寮監に連絡して部屋を確認してもらったがそこにも玲華はいなかった。病気で倒れていたという事態ではなかったので多少はほっとしたが、どこかで交通事故にあったのかもしれない。秦も高野も呆然とするしかなかった。プロジェクトは雲散霧消してしまうのだろうか。

 しばらくしてマノスにはもうひとつの失踪が発生していることがわかった。エディがしばらく出社していないので、長谷川がマクマホンに国際電話で問い合わせると、マクマホンが驚いてそちらにすぐ人をよこすというのだ。エディが最後に目撃されたのは先週の金曜日、玲華が最後に目撃されたのは土曜日だ。ふたりはほぼ同時に失踪したことになる。マクマホンに電話を入れてから2時間くらいで広田という人物が長谷川を訪ねてきた。名刺をみるとロゼット社ではなく Secret Service と書いてあった。以前に専務からエディは実はホワイトハウスの指示をうけて仕事をしていると聞いていたので長谷川はそれほど驚きはしなかったが、マクマホンもエディの居所を知らなかったというのはただ事ではない。広田には長谷川が知っていることをすべて話した。広田はこの件は最小限の人間にしか話さないようにと長谷川に忠告したが、長谷川は「警察には連絡しますよ」と言って110を押した。

 すぐに警察がやってきたが、エディが米国政府がらみで内密の仕事をしていたことがわかると彼らは一気に腰がひけた様子になった。玲華とエディの失踪事件(?)はマスコミで報道されることはなかった。腰が引けたとは言っても彼らが何もしなかったわけではない。警察の調べでは、会社関係者のなかに玲華とエディが一緒に歩いているところを見たという者が複数いたことがわかったようで、2人の失踪はセットであることも考えられた。では駆け落ちなのか?

 しかし少なくとも玲華の失踪については不審な点があった。午後9時以降歩いて会社を出る彼女の姿は守衛も見ていないし、監視カメラでも確認できなかったのだ。事件の可能性があることが示唆された。通常の出入り口以外に、外からは入れないが外に出るのは自由な非常口がひとつあったが、玲華がそんなところから外に出る可能性は低い。土曜日は会社のホールでイベントがあったので、入り口は開放されていて不特定多数の来場者があり、監視カメラによる人物の特定は不可能だった。実家にも会社にも犯人からは身代金要求などの連絡はなかった。

 エディの失踪については全く情報が得られなかった。ただエディが使っていた部屋から彼のPCが紛失していることが判明し、紛失した日時は確定できないものの、玲華の失踪と同時である可能性が高いと思われた。おそらく犯人の狙いはPCであり、玲華は運悪くPCを使っていたために拉致されたのだろう。しかしこれらはすべて推測であり、ふたりの居場所について有力な情報も皆無だった。エディが玲華を連れて自らの意志で失踪した可能性も考えられないわけではなかった。しばらくして長谷川は「この件は別の部署に移管された」と警察の担当者から耳打ちされた。長谷川は秦と高野にはエディの「特別な」役割の件と、シークレットサービスの広田が会社に来たことは秘匿し、玲華プロジェクトの解散を指示した。

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2024年1月 6日 (土)

半島のマリア 第13話:ドローン

 達也は半島の自宅にいたので、東京で何が起こっているのか全く知らなかったが、京子が訪ねてきて詳細を伝えてくれた。達也にも玲華が失踪する理由は全くみつからなかった。これからデビューしようとしている玲華が自ら姿を消すなんてことは考えられない。エディと付き合っていたという話には驚いたが、そういえばエディと会ったときに玲華を呼び捨てにしていたことを思い出した。しかしそのエディも行方不明とはいったい何が起こっているのだろう。京子と共に首をかしげたまま、しばらく沈黙が続いた。しかしじっとしていてもpはじまらない。何かをやらなくてはいけない。

「駆け落ちする理由なんてないし、全然訳がわからない。ともかくスマホに連絡がきてるかもしれないから見てみよう 京子もみてくれ」
「わかった。うーん ないわね。そうだ、クラウドストレージになにかあるかもしれないから、念のために見てるね。あれっ なにかあるわ」
「どれどれ、あーこれは鍵かかってるね」
「鍵かかってる玲華のファイルなんて、見たことない。いやこれフォルダーよ。フォルダーごと鍵かかってる。先生のPCにコピーして調べてみて」
「わかった コピーしよう。これヤバいファイルかもしれないからストレージからは消しとくね」
「そうしてください。こんなの抱えたままスマホを使うのは気持ち悪いし」
「昔会社にいた頃の部下に送って解錠できないか訊いてみるよ。会社には高性能のコンピュータがあるし、そいつはおたくだからなんとかなるかもしれない」
「先生、こんなことやっていて私たちやばくならないですか?」
「でも玲華の居所を知るためのヒントがあるかもしれないよね。身代金の要求とか誘拐の証拠がなければ、行方不明者の捜索なんて警察が本気でやってくれるとは思えないからね。このフォルダーのことは当分秘密にしておこう。一応早智にも事情を話しておいてくれ。見たかもしれないからね」

 それから数日後にひろたんが達也の家にやってきた。昼食を作ってやって一服すると、彼は達也を散歩に誘って展望台まで行くことになった。達也もそこに行くのは久々だった。

「いつきてもここは気持ちがいい」
「灯台を見ろよ。今日は乗用車のほかに、大型のワゴンが止まっている」
ひろたんは双眼鏡を取り出して、その車を注視した。
「ワゴンは米国式のナンバープレートをつけてる。ひょっとするとネイビーの車かもしれんな」
「だとするとどうなんだい」
「ひょっとするとだが、あそこに玲華ちゃんがいるかもしれないよ」
「ええー それどういうこと?」
「お前は知らない方がいいことだ。明日あそこを訪問する予定なんだ。それで相談なんだが、明日1日お前の家を貸してくれないか、頼むよ ただヤバいことになる可能性もあると思っていてくれ」

 玲華がいるかもしれないなどと言われては、達也もこの申し出を断るわけにはいかない。了承するとひろたんは懐から分厚い封筒を差し出した。達也が断ると、「これは自分からの謝礼ではなくて、必要経費として上から出ているお金なんだ。だから受け取ってくれ。」と懇願された。「上って」と訊くと、「信じられないかもしれないが、米国政府なんだ」とひろたんは素っ頓狂な返事をした。しかし外国の車だの、ネイビーだの、そういえばあの旧灯台は米軍が買収したというような話を不動産屋から聞いたことなどを思い出した。達也がやむなく受けると、ひろたんは「領収書はいらないから」と言った。金額も金額だし、領収書がいらないというのは本当にヤバいことにかかわることになったようだ。

 翌日ひろたんの部下6名が達也の家にやってきた。なにやら作戦を立てているようだったが、家を出て行くときにひろたんは達也に忠告した。「お前はこれからこの家を離れて、旅館にでも行っていてくれないか。夕方までには仕事を片づけて連絡するから」「危険な仕事なのか?」「かもしれないね、そうじゃないことを願っているけど」。達也は最後に「わかった」と言って、一行を送り出した。

 達也はLEDランタンと本を一冊、あとは水とチョコレートをバッグに入れてアルタミラと名付けた洞窟に行くことにした。ひろたんらが何をしているのか気になったが、それでも洞窟で本を読み終えた。時計を見ると3時間くらいたっていた。それから夕方までボーッとしていたが、ひろたんからの連絡は無かった。しびれを切らして、そろそろいいかなと思って家の方にあがっていくと、家の周辺に外国人が数人うろついているのが見えてあわてて草陰にかくれた。薄暮だったのではっきりと確認はできなかったが、彼らは倒れている人間を運んでいるようだった。達也が息を潜めてみていると、すべて運び終えたのか誰もいなくなり、上で車が出る音がした。とんでもないヤバいことが起こったらしい。

 達也は警察に通報した。警察には「しばらく家を明けていたら、庭に数名の外国人が侵入して何かやっていた」とだけ言った。「なにか盗まれた物はありませんか」と訊かれたが「なにも盗まれていない」と答えた。警察は「パトロールを強化しますので、気をつけてください」と言って帰って行った。

 夜になって一人で食事していると、キッチンの床下にある食料保管庫からひろたんともう一人の仲間が出てきた。

「うわっ お前生きてたのか」
「ほんとにヤバいことになってしまった、すまん」
「一体何なんだよこれは」
「あの灯台に侵入しようとしたら、ひとりドローンに吹き矢でやられたんだ。それでここまで逃げてきたんだが、ドローンに追いかけられて、ここで4人やられた。無事だったのは俺たちふたりだけだ。まさかエリア外で武器を使うとは想定外だった。えらいことになったよ」

 あの外国人達が運んでいたのはやはりひろたんのスタッフ達だったのだと達也は納得し、ひろたんにもそれを伝えた。ひろたんは「死なせたかもしれんな。失敗した。俺は切腹だ」とがっくりした様子で言った。しかし彼は気をとりなおしたように「そうだ 外した吹き矢が落ちているはずだから回収しよう」とふたりで庭にでていった。もうあたりは暗かったので、高性能のランタンを煌々と照らしてしばらく探していたが、ようやくひとつみつけて帰ってきた。

「すまんが これをフリーザーに保管しておいてくれないか」と達也に吹き矢を手渡した。達也は了解した。「で やはりあそこに玲華がいるかどうかはわからなかったんだな」と確認すると、ひろたんは「そうだ すまん」と答えた。

「それで今日のことを警察に言っていいのか」と訊くと、ひろたんは
「お前がそうしたいのなら言ってもいいよ。でもこれは警察の手に負えることじゃないんだ。」と言った。続けて「明るくなったら奴らが外した吹き矢の回収にくるはずだ。今夜暗いうちに逃げた方がいい。俺たちの車に乗れ」と言った。

「ここは俺の家だぞ。逃げてそれからどうするんだ」
「すまん。とんでもない迷惑をかけたが、移住の費用は出ると思う。ただ俺も上司も今回の件でクビになりそうなので、決断は早いほうがいいよ。とりあえず今日は東京のホテルに泊まれ」

 死人が複数出ているような事件だ。これはもうひろたんの言う通りにするしかないと決断して、達也は荷物も持たずに暗い道を駐車場までひろたん達と歩いた。うまれてはじめての恐怖の行進だったが、ようやく車までたどり着き、東京に向かった。車の中で達也は「お前らこんなヤバいことをやっているのに、武器は持ってないのか」と訊いたが、「バカ言え、ここは日本国だぞ。発砲して警察がでてきたらどうするんだ。それにしてもドローンに吹き矢を装備するとは想定外だった。俺たちの負けだ」という答えだった。「じゃあ玲華はどうなるんだ」と達也は答えを期待しないでつぶやいたが、やはり誰も次の言葉は発しなかった、

 2ヶ月ほど経過して、第7艦隊司令官とハミルトン大統領補佐官が解任されたことが英字新聞で報道されたが、関心があるマスコミのウォッチャー達もなぜだかはわからなかった。その頃達也は昔の部下から「遅くなってすみません。コンピュータの予約取るのも大変なんですよ。この間の件ですけど、米軍の原子力潜水艦でトラブルがあって、エドウィン・ロスバーグさんはその件を調査していたようですよ。もう少し時間をいただければ報告書にして送ります。田所さん一体何をやっているんですか」という連絡を受けた。達也は「有難う。そうしてくれ。詳しいことが訊きたければ会って話すよ」と礼を言った。

 やっぱりエディも玲華もひろたんも米軍関連の事件に巻き込まれて酷い目に遭ったのに違いない。しばらくひろたんの忠告とサポートで東京のホテルで生活していたが、達也は移住するのはやめて、やはり半島の家に帰ることにした。ひろたんに連絡したら、彼は米国での仕事を終えて、日本で警備の仕事を探しているそうだ。そして朗報がもたらされた。ひろたんによれば玲華は米国で生きていることがわかったそうだ。ネイビーがサポートしているので生活には困らないが、居所は不明で日本にも帰れないとのことだ。そしてそのことは家族には話さないでくれと釘をさされた。確かに家族が騒ぎ出すと玲華が消されるかもしれないということは達也にも理解できた。

 

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2024年1月 9日 (火)

半島のマリア 第14話 捜査(第1話 風穴 から続く)

 第一発見者がホトケの知り合いだったとは何という幸運だろう。なにしろホトケは外国人らしい上に、スマホもパスポートも所持していなかったのだ。身元が確認できそうなので、関係者から話を聞けば自殺の理由も推定できるだろうし、すぐに処理できる案件だと小室は判断した。しかし検死の結果はあまり芳しいものではなかった。死因がはっきりとしないらしいのだ。結局血液を科捜研で検査してもらうことになって、時間がかかることになった。しかも米国人とはいえなかなか係累がみつからず、引き取り手がないまま屍体を保管することになって想定外の面倒な事態になってしまった。

 そしてしばらくすると、科捜研からとんでもないことがわかったと知らされた。血液から日本でも米国でも使用が許可されていな筋弛緩剤と思われる薬物が検出されたということだ。しかもそれは非常に不安定な物質で死体が凍結状態にあったのでなんとか検出できたが、正確な化学構造は決められないというのだ。
 
 折から富士山の噴火が近そうだと言うことで、県警は多忙を極めていたが、ともかく科捜研の報告を受けて今後の方針を決めるための会議が幹部を集めて行われた。簡単には解決できそうもない殺人事件の捜査本部を立ち上げるのは大きな負担になる。ホトケが外国人でしかも未登録の薬物による殺人と言うことになると、外国の組織による謀殺という可能性が高い。しかしそこで問題になったのは、小室刑事が第一発見者からきいたという、ホトケと関係があったとみられる日本人の女性が同時に行方不明になっているという話だった。そっちは東京の事件なので、投げられるものなら警視庁に投げたいという意見も出た。もちろん合同捜査本部を立ち上げるべきだという意見もあった。しかし会議をやっている最中にもやや大きめの地震が発生して室内灯が点滅しはじめると、みんな黙り込んでしまった。

 そんなときに警視庁から朗報?がもたらされた。マノス社関連の二人の行方不明の件は公安の外事で前からやっているので、今回の山梨の事件は警視庁で非公開の捜査を行なうということだった。県警は一気に安堵の雰囲気で充たされた。しかし「どうぞ」とは言えない。ロスバーグの死体の発見現場はあくまでも山梨なのだ。小室とあと一人英語が堪能な中野を地震関係の動員からはずしてこの事件の専従とし、警視庁の了解をとって捜査に参加させることとした。

 とはいっても警視庁の公安が田舎の刑事と情報共有するはずもなく、結局自分たちが東京で捜査しても黙認するということになったと小室は理解した。とりあえず樹海の死体を通報してくれた二人に会うことからはじめようと、建二が勤めるマノス社に行った。あらかじめ早智さんにも来てもらうようにと連絡を入れておいたので二人から話を訊くことができた。

「先日はご通報有難うございました。今日は亡くなったエディさんのことと、先日伺いました同時期に行方不明になったという玲華さんのことについてうかがいたいのですが」と小室が用件を告げると、建二は「それなら私は顔見知り程度なので、早智に訊いてもらったほうがいいと思います」と答えた。

「では早智さん、エディいやエドウィン・ロスバーグさんのことについて、ご存じのことをお話しいただけますか」
「エディさんのことはあまり知らないんですよ。私の友達の玲華がここからシンガーとしてデビューすることになっていて、同じ会社のエディさんとお付き合いしているという話は聞いています」
「ではエディさんが誰かに恨まれているとか、仕事上のトラブルとかはありませんでしたか」
「わかりません」
建二も「それは知りません」と答えた。
「玲華さんについてはどうですか」
「ふたりが行方不明になった年の夏頃ですが、最近エディが会ってくれないと玲華が言ってました」
「ほう でその理由はわかりますか」
「いえ わかりません。でも京子か田所先生には何か話しているかもしれません」
刑事達は彼らの住所をメモして「ご協力有難うございました」と言い、立ち去った。

 小室らはマノス社の他の社員にも当たってみたが、唯一長谷川部長から有益な情報が得られた。それはエドウィン・ロスバーグはマノスに出向という形をとっていたが、実際には米国政府のエージェントだったということだ。それで血液から検出された特殊な筋弛緩剤や、警視庁の公安が関心を持っていることとつながった。ならば玲華は巻き添えを食った可能性が高い。
 中野は「こんな事件 うちらで解決できますかねえ」と弱音を吐いたので、小室は「若い女性が行方不明になっているんだよ。次はロスバーグの自宅があった場所に行ってみよう」とせきたてた。

 世田谷の閑静な住宅街の一角にあるマンションの管理人は、エディのことをよく覚えていた。「前にも警察に話したんだけど、おとなしくて礼儀正しい人でしたよ。よく日本語で挨拶してくれました」と話してくれたが、「何かトラブルのようなことはありましたか」と訊くと、「神奈川の警察から車が放置されていたので、警察で保管している。引き取りに来るように伝えてくれという電話がかかってきたことがありました。エディさんが不在だったので、管理人に連絡が来たたのでしょう。でもそれから一度もエディさんを見ていません」と答えた。重要な情報だが、こんどは神奈川だ。これは署長を通さないとまずい。しかしまずいついでに残る田所という人物にも会っておこうということで、翌日ふたりは半島の田所の家を訪問することにした。

 早智の教えられたギター教室のパネルのある小径を下っていくと田所の家に着いた。田所は玲華やエディ、そしてひろたんやドローンのことも隠さず話した。ただ玲華の行方についてひろたんに聞いたことだけは話さなかった。

「ああそうだ。広田らが攻撃を受けた吹き矢を1本預かっているんですよ。フリーザーに入れてありますが、持って帰りますか?」と達也が言うと、小室はエディの血液から出た不安定な筋弛緩剤のことをすぐに思い浮かべた。

「それは不安定なものかもしれないので、あらためて準備をして受け取りにきます。それまでそのまま保管しておいてください」と小室は達也に頼んだ。田所邸を辞したあと、京子の家にも立ち寄ったが、残念ながら京子は不在だった。しかしたった2日間の聞き取りで大きな成果を得たことに小室達は興奮した。ただ田所の話に出た旧灯台にも立ち寄ったが、ボタンを押しても応答がなく、駐車場にも車はなくて人の気配が感じられなかった。さすがに撤収したのだろう。事件のストーリーはだいたいわかったが、玲華さんの行方については残念ながら情報は得られなかった。

 山梨に帰ると、いよいよ富士山が噴火するという情報がはいっていて県警には緊張が高まっていた。小室は噴火がおきてしまったら、あのエディの死体の発見現場もどうなってしまうかわからない、もう一度みておこうという気持ちがたかまってきた。帰投翌日、中野に「神奈川はあとにして、ともかくもう一度富士風穴に行こう」と言って、二人で再び死体発見現場に向かうことにした。
 
 富士風穴は観光客もなく、静かに彼らの到着を待っていた。発見現場はそのままというより、崩壊が進んでいてより危険な状態になっていた。中野は「もう一度大きいのが来るとうちらも埋まってしまうかもしれませんよ」としりごみしたが、小室はいさいかまわず穴に降りていこうとしたとき、中野の予想が当たって大きな揺れが来た。小室は階段を踏みそこない尻餅をついた。揺れはおさまらず、大きな崩壊が起こって、砂が舞い上がり何も見えなくなった。ふたりは砂埃がおさまるまでしばらく待つことにした。

 揺れが収まり、しばらくして砂埃も薄らいでくると中野が奇声をあげた「あれー、死体がまた出ましたよ」。土砂の中に人間らしきものが横たわっているのが見える。小室は「なに あ ほんとうだ」ともう一度降りていこうとした。そのとき中野がもう一度奇声をあげた「あれー マグマです マグマ」。小室が洞窟の方を見ると、マグマが一気に噴き出してくるのが見えた。小室は大声で叫んだ「退却だ、退却」。二人は全力で車まで走り、中野が震える手でハンドルをにぎってアクセルをふかした。小室が後方を見ると、マグマの「しぶき」のようなものが見えた。全身の血が逆流してきた。無線をとって小室は署に「噴火が始まりました」と時間と場所、噴火の状況などを報告した。報告を終わり、もう一度後ろを見るとマグマは見えなくなっていた。小室は中野に「事故を起こすなよ、落ち着いて運転しろ。もうマグマは見えないから大丈夫だ」と指示した。小室は心の中で、「これでもう県警でエディ達の事件に関心を持つ者など誰もいなくなるだろう」とつぶやいた。しばらくして中野は「今日見たのは男性のようでした。玲華さんではありませんね」と言った。小室はマグマに埋まってしまうであろう、新たにみつかった死体に手を合わせた。

(完)
 
この作品に含まれる物語はすべてフィクションです。実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。

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2024年5月 2日 (木)

あの自動販売機まで せーので走ってみよう

気がつくと 昔見たSF映画のように
チューブを通ってワープしていた

デカルトは「我思う ゆえに我あり」と言ったが
スクワイヤとカンデルによると、それは間違い
「我記憶する ゆえに我あり」が正解だそうだ

そんなことを考えていたら 突然
私は見知らぬ街に放り出された
呆然と辺りを見回していると
サラがまっすぐにこちらにやってきた
そして私に「お前も仲間に入れてやるから、ここで暮らしな」
と相変わらず女王口調で言った

いつの間にかミーナも現れて3匹で歩いていると
向こうの方にベンダーが見えた
先を歩いていたミーナが振り返って私に言った
「あの自動販売機まで せーので走ってみよう
あなただけが 私のヒーローだから」

Let's have a race to that vending machine.
You are my only hero.

私がミーナと走っていると
道ばたで坂井泉水が微笑んでいるのが見えた

https://www.youtube.com/watch?v=NJYCyMa1cTc

https://lyricstranslate.com/en/hero-hero.html-28

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