サリーの帰還
サリーの帰還
サリーは知人の飼い猫が産んだオスの雑種白ネコだった。その知人の女性は自宅でブリーダーまがいのこともやっているようだった。彼女の話によれば、母猫は血統書付きの純血種だったのに、ちょっと目を離した隙に野良猫と交配して、商品価値のない雑種を数匹産み落としたそうだ。そういうわけで、1匹でもいいから引き受けてくれないかと彼女は私に持ちかけてきた。私は狭いマンション暮らしだったので、それまで犬猫を飼ったことはなかったが、興味がないわけではなかった。御用聞きにきているクリーニング屋の話だと、「このマンションでは自分が出入りしているうちで、半分くらいの部屋で動物を飼っている」ということだったので、表向きの取り決めはともかく、動物飼育禁止にはできない実態があるらしかった。しかし一番の決め手は、その知人の女性というのが職場のお局様で、ご機嫌をそこねたくないという思惑だった。
生後数週間の仔猫のときに譲り受けたが、半年くらい経つと眼は透き通るようなブルー、真っ白な短毛系の体毛、長くてまっすぐなしっぽという大型の美しい猫にすくすくと育った。ネズミや鳥の羽のおもちゃをわたすと、何時間もひとりで遊んでいるような無邪気な性格だった。私が「サリー」と呼ぶと、家の中のどこにいても子犬のように走って私の前にやってきた。ただサリーにはちょっと風変わりな習性というか癖があった。最もリラックスしているときには、例えば頭は右、後足は左という風に、体を180度ねじって眠るのだ。人間だったらちょっとしたアクロバットだ。
そんなサリーだったがさすがにおもちゃにも飽きてきたのか、ガールフレンドを探しに行くのか、ときどきベランダの手すりづたいに外に遊びに行くようになった。私の部屋は3Fにあったので、並びの3Fの数軒のベランダのどこかに遊びに行っているのだろうと思っていた。ベランダに出るのは部屋飼いのネコにとって貴重な息抜きの時間なのだろう。サリーもベランダに出るとすぐノビをしてリラックスする様子だった。
人間だって狭いオフィスに閉じ込められて仕事をしていると、たまには屋上にでも出てリラックスしたくなる。ネコはもともと巣を作って引きこもって生活するような動物ではないので、室内飼い自体が一種のストレスなのだろう。とはいってもベランダから外出するネコを放置していた私は、ネコ飼育の常識として、飼い主として失格だった。手すりから転落すると墜落死や大ケガの可能性があるし、なんとか無事だったとしても、道がわからなくなって帰れなくなるかもしれない。交通事故・喧嘩によるケガや感染症の危険もある。飼い主としてこのような外遊びを放置するのは許されることではない。
しかし当時は隣家のベランダとの境界になっているバリヤの隙間をうめたり、3F全部屋に連続している手すりを完全に封鎖するというのは困難だと思って、ずるずると放置していた。日曜大工で境界封鎖などやっていると、隣人に変な人だと思われるという不安もあった。それにまさかサリーが1Fまで降りるとは想像できなかった。今でもどうやって降りたのかわからない。ベランダにはケヤキが枝を伸ばしているが華奢な細枝で、とてもネコがジャンプして飛び移り、伝って歩けるようなものではなかった。他の部屋のベランダの端の方にはやや太い枝が伸びていたが、そうは言ってもかなりの距離があり、飛びつくには相当なジャンプ力が必要なはずだ。まさかサリーにそんな能力があろうとは予測できなかった。やはり転落したのだろうか? そうだとすると猫らしからぬドジということになるが、それならよく大ケガをしないで生き延びたものだと思う。もうひとつの可能性は、他の部屋の窓が開いていてそこから侵入し、玄関のドアが開いたときに外に出たのかもしれない。知的障害がある子供がいる部屋があって、バタバタ扉を開けたり閉めたりしていたので、その家からこの方法で外出した可能性が一番高いと思った。
最初の頃は外出してもすぐに帰ってきたが、それはまだ3Fのどこかの部屋のベランダにとどまっていたからだろう。ある時家出したまま、ついに数日経っても帰ってこなかった。いったん下に降りてしまうと地理の感覚が狂ってしまって、猫の知能ではもどるのは困難だろう。並びの3Fの住民の部屋はすべて訪問して確認したが、どこにもいなかった。その後数日かけて2Fと1Fの住人にも訊いてみたが、有益な情報は得られなかった。
あちこち探していると、ある日近所の公園でベンチに座っている男から弁当を分けてもらっている白ネコをみつけた。間違いなくサリーだと思ったが、首輪が外れていて確認できなかった。思い切って話をしてみようと近づいたとき、男が立ち上がって歩き出した。すると、その白ネコも男の後をついて歩き出した。私は彼らの後をつけた。そしてたどり着いたのは、向かいのマンションの1Fの部屋だった。白ネコは男とドアの中に消えていった。リードもつけずに人の後をついていくとは、男と白ネコの関係はもはや相当深いとみるべきだろう。ただ首輪をしていないのがちょっと不安ではあったが・・・。私は首が太くなっても自力ではずせるよう、伸縮性のある青白ストライプの脱出首輪をサリーに装着していた。
それから数日の間私はとても複雑な気分で、仕事も手につかず悶々と暮らした。しかし一週間・二週間と経つうちに、「あの男に可愛がられているのなら、それもサリーの運命。まあ仕方がないか・・・。それにあの猫がサリーだと確かめる方法もない」というあきらめの割り切りができて、男と白ネコを発見した公園や、飼い主の男の部屋には近寄らないようにしようと決断した。
☆ ☆ ☆
サリーが私の部屋にやってきたのは冬だったが、季節が巡り、また冬がやってきた。窓から見えるケヤキの大木もほとんど落葉し、風が吹くたびに数枚の枯れ葉が殺風景なベランダでカサカサと音をたてていた。空を見上げるとオリオン座が南の空に輝いていた。勇者は2匹の犬を引き連れている。おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンは冬空を飾る宝石だ。私は電気を消してこんな冬空を窓からぼんやり眺めているのが好きだった。
その日もこんな寒い夜だった。玄関の方でニャーニャーとうるさく鳴く声が聞こえるので扉を開けてみると、なんとサリー(いやあの白ネコ?)がぽつんと座っているではないか!「まあ入れサリー」と声をかける間もなくそのネコは玄関に突入し、さっさとリビングに走っていってコタツに潜り込んだ。うちにいた頃もよく潜り込んでいたコタツだ。「これは間違いなくサリーだ」と確信した瞬間だった。サリーは昏々と眠り続けた。久しぶりでエサと水とトイレをいそいそと用意した。次の日、会社を休むわけにはいかなかったので、眠り続けるサリーを残して出勤したが、サリーが病気じゃないかと気になって、そわそわと終業時間を待つだけの1日だった。しかしその心配は杞憂だった。帰ってみるとエサはすっかりなくなっているし、立派なウンチも確認した。サリーは家の中を何度もぐるぐる巡回して点検した。昔も1日2-3回は、家の隅から隅まで巡回していた。点検が終わると、またコタツに潜り込んでぐっすり眠る。そっと覗くと、なんと昔のように体を180度ねじっていた。
サリーは私の知らない赤い首輪を装着していた。私は昔していたような青と白のストライプの首輪を購入し、赤い首輪をはずしてサリーに装着した。「そうそう、こうじゃないとサリーじゃないよな」と私はつぶやいた。今度はベランダから隣に逃げられないように、ディスカウントショップでパーティションを購入して、隣接するベランダとの境界に注意深くバリヤーを築いた。手すりからも移動できないように万全を期した。隣人がどう思おうが、そんなことは気にしないことにした。
サリーがいない間は、帰宅するとただ黙って重い扉を開けるだけだったが、久しぶりで「ただいま、サリー」と挨拶しながら扉を開ける幸福にひたることができた。サリーは私がベッドにはいると、ぴょんとベッドの上に飛び乗って、私のふとんの中に潜り込んで眠るようになった。朝になると寝ぼけている私の顔をなめて、目覚まし時計の役を果たしてくれる。自宅に生き物がいるって、なんて素晴らしいことなのだろう。
そんな日々がしばらく続いた後のこと、ある日酔って深夜に帰宅したとき、いつものように扉を開けると、ただいまの「た」も言わないうちに、何かの塊がすきまから飛び出した。サリーだと気がついたのは数秒後だった。一気に酔いがさめた。サリーはそのまま脱走し、朝まで近所を探し歩いたが見つからなかった。
次の日は会社を休み、パソコンで写真入りの張り紙をつくって近所に貼って歩いた。それから毎日、帰宅するとネコ探しの日々だった。サリーを飼っていたと思われる男の部屋も訪ねてみたが出張なのか返事はなく、裏に回ってみても部屋に電気はついていなかった。男とサリーのいた公園にも毎日立ち寄ったが、男もサリーも居なかった。しかしある日、ついに男をみつけた。彼は公園のベンチに一人で座って、不機嫌そうに弁当を食べていた。話しづらい雰囲気だったが、私は思いきって男に声をかけた。
「すみません。以前に白いネコを飼っておられましたよね」
男はうさんくさそうにこちらに目を向けた。
私はあわてて「私はあの向かいのマンションの3階に住んでいる新井という者です」と付け足した。男はやっと重い口をひらいた。
「ああ、マサオのことですか・・・。家出して帰ってこないんですよ」と男は暗い表情で答えた。そしてさらに「マサオは昔この公園にいた野良猫で、うちに連れて帰ってしばらく飼っていたのですが・・・。ときどきまたここに来ないかとベンチで待っているんです。もし見かけたら教えてください」と男は私に名刺を差し出した。
最後の望みが絶たれた気がした。なぜだか急に涙があふれてそうになってきたので「そうですか、わかりました」とだけ言って、私はその場を立ち去った。どんどん歩いてふと振り返ると、男はヒザをかかえ、うつむいてベンチの上にじっと座っていた。
それから白い野良猫をみつけると、いつもサリーと呼びかけてみた。しかしいつからか、それも心の中で呼びかけるだけになり、年月を経て私の脳裏からサリーは離れていった。そしていま私の手元に残されたのは数枚の写真だけになった。それでもときにはアルバムを開いて私はサリーにそっと言うのだ。
「ただいま サリー」
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