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2020年1月22日 (水)

68.脂肪酸と油脂

 脂肪というとすぐ中性脂肪とかセルライトが気になるわけですが、エネルギーを蓄えておくためのツールとして脂肪は重要です。動物にとって飢餓は日常的であり、いざというときに生き残れるかどうかは、水があるとすればどれだけ脂肪とグリコーゲンを体内に蓄えておけるかにかかっています。人間については、現在世界で9億2500万人が飢餓状態にあり(1)、日本でも2011年の厚生労働省の調査では年間1746人が餓死しています(食糧不足+栄養不足、2)。現在でも貧困化が進んでいるので、この数字が減っているとは思えません。食べ物がないときに生き残るには冬眠・夏眠が有効ですが、残念ながらヒトにはその能力はありません。かといって冬眠・夏眠の研究が進むと、その成果が為政者によって都合よく利用されるという恐ろしい社会が現実化するかもしれません。日本の食料自給率はカロリーベースで37%です(3)。
 しかし生物にとって飢餓対策が課題になるより進化上はるかに前の段階で、脂肪は細胞膜の最も主要な成分として、すなわち生命と外界を分かつパーティションとしての役割がはじまったはずです。これは生命誕生のひとつの条件であり、たとえ熱水噴出口近傍の金属片の上で核酸や酵素が生成されたとしても、それらが細胞膜で包み込まれるまでは生命体とは言えないでしょう。そして現在では、脂肪はホルモンや情報伝達物質としても重要な役割を果たしていることがわかっています。
 脂肪の基本は脂肪酸です。最初に脂肪酸を発見したのは誰だか私にはわかりませんが、ステアリン酸やオレイン酸を発見して精製したのはミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールです(4、図68-1)。彼はフランス革命とエッフェル塔建設の両方を目撃した数少ないフランス人だそうです。エッフェル塔の展望室の少し下の壁に、フランスの偉人の名前が刻まれていますが、シュヴルールの名も図68-2の赤の矢印の下にみつけることができます(5)。

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図68-1 ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール(1786~1889)

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図68-2 エッフェル塔にはフランスの偉人の名前が刻まれています(黄色枠の中段あたり) 赤矢印の下にシュヴルールの名があります。

 脂質は脂肪酸関連物質、芳香族化合物の環構造を持つ物質、複合脂質の3つのグループにわけられると思いますが(図68-3)、量的に言えば脂肪酸関連物質が生体内には圧倒的に多量に存在します。カルボン酸をR-COOHと書くとすると、Rが水に溶けないCとHからなる場合脂肪酸といいます。ただしRがH、CH3、CH3CH2あたりまではカルボキシル基の影響が強く、脂肪らしくない性質なので、通常脂肪酸とは呼びません。CH3CH2CH2(酪酸)あたりからは脂肪酸と呼びます(図68-4)。これらの脂肪の性質を与える炭素+水素の鎖を、鎖の長さを問わずアシル基と呼ぶことがあります。

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図68-3 脂質の分類(3グループ)

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図68-4 脂肪酸とは

 常温で液体の脂肪酸は世の中で最も「臭い」物質の1グループだと思います。吉草酸やカプロン酸の臭さは半端じゃありません。私が学生実習などでかいだ臭いの中では、ピリジンとトップを争う悪臭と思います。屍体の臭いは多数の物質の混合臭なので比較することはできません。
 これらの低分子量の脂肪酸は確かに毒性の強い物質ですが(6)、特別にそのような脂肪酸を忌避する能力(臭いと感じる能力)が私たちに備わっていることには何らかの理由があるまたはあったのでしょう。炭素原子数が10くらいになると常温で固体なので、臭いは気にならなくなります(図68-5)。図5にはR-COOHのR部分にC=Cの二重結合がない、いわゆる飽和脂肪酸のリストを示しました。カプリル酸より分子量が大きい脂肪酸は食用に使えます。

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図68-5 飽和脂肪酸(炭素と炭素の結合がC-Cのみで、C=Cはない) 数値の:より左側の数値は炭素原子の数、右側の0は二重結合が無いことを意味する

 カプリル酸はウィキペディアによると母乳に含まれているそうですが、カプリル酸には殺菌作用があるので、免疫機構が未発達の新生児には有益なのかもしれません。
 脂肪酸は生合成されるときに炭素が2個単位で重合していくため(7-8)、生体内に存在する主要な脂肪酸の炭素の数は偶数になります(7、図68-5)。ただしメインであるアセチルCoAとマロニルCoAとの縮合ではなく、プロピオニルCoAとマロニルCoAの縮合を出発点とする経路もあるので、炭素が奇数の脂肪酸が全く存在しないわけではありません。
 脂肪酸は数値表現されることがあり、図68-5の左端列に示してあります。コロンの左側が炭素分子の数。コロンの右側が二重結合(C=C)の数になります。飽和脂肪酸の場合二重結合がないのでコロンの右は0になります。数値表現はわかりやすくて便利です。
 二重結合(C=C)が分子内に存在する脂肪酸を不飽和脂肪酸と呼びます。炭素数が18の例を図68-6に示しますが、例えば18:2(9、12)というのは炭素数=18、二重結合が2ヶ所に存在し、(9、12)は二重結合がカルボキシル基から数えて9番目と10番目および12番目と13番目の炭素によって形成されているという意味です。オレイン酸はステアリン酸から生合成されますが、ヒトの場合、生きていく上で必要なのにもかかわらず、リノール酸、リノレン酸、EPA、DHAなどは生合成できないので、これらは必須脂肪酸とされています。

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図68-6 不飽和脂肪酸  図68-5と同じですが、( )内の数値はC=Cの位置を示します

 図68-6では炭素の鎖が途中で180度折れているように描いてありますが、慣用表記のひとつであり、実際にこのような急角度で分子が折れているわけではありません。分子の屈曲は二重結合の性質(シスかトランスか)、数、位置によって異なります。図68-7に例を示します。αリノレン酸は大きく屈曲しています。

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図68-7 脂肪酸の立体構造  二重結合の存在によって、脂肪酸が大きく屈曲した構造をとることがあります

 混乱して困る話なのですが、脂肪酸の命名法のなかに、カルボキシル基と反対側のCH3から数える方法もあって、ω:オメガ法ではα-リノレン酸は3つめに最初の二重結合があるのでω3脂肪酸、γ-リノレン酸は6つめに最初の二重結合があるのでω6脂肪酸などと呼ばれます(図68-8)。n-数値という表現も逆から数えた表現法です。α と γ は習慣的に使用している表現法に過ぎません。

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図68-8 オメガ(ω)法による脂肪酸の命名

 C=Cの二重結合にはシス型とトランス型があって、一般にシス型すなわち二重結合の片方にふたつのHが来る場合、図68-9のように分枝は屈曲します。自然界に存在するオレイン酸はほとんどシス型なので、通常オレイン酸と言った場合シス型を意味します。シス型の二重結合が二つあった場合、屈曲が修正されることがあります。人工的に製造されたトランス脂肪酸は食べると健康に悪影響があることがわかっています(9)。アメリカの食品医薬品局(FDA)は、マーガリンなどに含まれる「トランス脂肪酸」の発生源となる油の食品への使用を、2018年以降原則禁止すると発表しました(10-11)。

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図68-9 脂肪酸の二重結合におけるシス型とトランス型

 グリセリン+脂肪酸=油脂+水という公式は、中学の化学の時間に皆さん習ったはずですが、再掲しておきます(図68-10)。油脂は生体内では最もメジャーな脂質です。油脂は図68-10のように、グリセリン(グリセロール)1分子に脂肪酸3分子がエステル結合(-OC[=O]-)したものです。これによってグリセリンのOH、脂肪酸のCOOHという親水性の部分が消滅するので、典型的な疎水性の物質ができます。
 3分子の脂肪酸はそれぞれ種類が指定されないので、例えば10種類の脂肪酸が用いられるとすると、10x10x10で1000種類の油脂ができ得ることになります。実際には脂肪酸の種類はもっと多いので、油脂の種類は無数にあることになります。

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図68-10 油脂(トリアシルグリセロール)

 グリセロリン脂質はグリセリンのOHのうち、R1・R2は油脂と同じ脂肪酸と結合し、R3のOHがリン酸エステル(-OP[=O、-O]-)結合したものです。リン酸に結合する物質によって、フォスファチジルコリン・フォスファチジルセリン・フォスファチジルエタノールアミンなどが知られています(図68-11)。これらは脂質であるにもかかわらず、親水的な部分が存在するという特異な性質を持っています。この性質は細胞の内側と外側の両方で水と接触する細胞膜にとって、あるいは脂肪を血液中で運搬する作業にとって重要です。これらについては別のセクションで述べます。

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図68-11 グリセロリン脂質  フォスファチジルコリン フォスファチジルセリン フォスファチジルエタノールアミン

 動植物の細胞膜中に最も多量にあるのはグリセロリン脂質ですが、次に多いのはスフィンゴ脂質です。哺乳類では特に中枢神経に多いとされています(12)。スフィンゴ脂質の基本骨格はスフィンゴシンです。アミノ基1個とOHを2つ持つ直鎖状の分子です(図12)。このアミノ基に1分子の脂肪酸がアミド結合したものがセラミドです。 
 セラミドの末端のOHにフォスフォコリンやフォスフォエタノールアミンが結合したものを、スフィンゴミエリンといいます。スフィンゴミエリンは神経のサヤである神経鞘の主成分です。セラミドは保湿剤として化粧品に配合されている場合があります(13)。「うるむセラミド」などというキャッチフレーズもありました。

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図68-12 スフィンゴシン セラミド スフィンゴリン脂質

 スフィンゴシンやセラミドを発見したのはトゥーディヒョウム(図68-13 日本ではツディクムとも発音されます Johann Ludwig Wilhelm Thudichum 1829~1901)。1884年に刊行された ”Chemische Konstitution des Gehirns des Menschen und die Tiere(Chemical constitution of the brain)” という本に彼の業績が記載されているようですが私は読んでおりません。
 竹富保の「"神経化学の父"ツディクム」という文献が、廃刊となった「自然」誌に掲載されています(14)。 トゥーディヒョウムはドイツ生まれで、主にイングランドで仕事をしました。英国ではJohn Louis William Thudichum と名乗っていました。彼の業績はNIHが公開しています(15)
  トゥーディヒョウムは多才な人だったようで、ウィキペディアにはお料理の本を出版しているという記載があります(16)。日本の糖脂質研究の泰斗である山川民夫は、トゥーディヒョウムの故郷であるビューディンゲンまで行って(とんでもない田舎)で記念碑の除幕式に出席したそうです(17)。当時の欧州には、どんな田舎からも天才を発掘する力があったということなのでしょう。

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図68-13 神経化学の父 トゥーディヒョウム

 アラキドン酸(5,8,11,14-Eicosatetraenoic acid)は図68-14のとおり何の変哲もない不飽和脂肪酸の1種なのですが、そこからプロスタグランディン、トロンボキサン、ロイコトリエン(すべて総称で特定の化学物質を指しているわけではありません)を生合成する経路が派生しています(アラキドン酸カスケード)。これらの物質は免疫反応と深い関わりがあり、薬学の分野では数十年間、間断なく注目を集めています。

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図68-14 アラキドン酸カスケード(エイコサノイドはアラキドン酸を骨格に持つ化合物またはその誘導体)

 

参照

1)JIFH(日本国際飢餓対策機構)集計: https://www.jifh.org/joinus/know/population.html
2)国家公務員一般労働組合 5時間ごとに1人、1日に5人近くが餓死する日本-生活保護改悪は国家による殺人を増幅させるhttp://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11541237843.html
3)農林水産省 日本の食料自給率 http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html
4)Michel Eugène Chevreul, Recherches chimiques sur les corps gras d'origine animale. (1823)
https://books.google.co.jp/books?id=94_H7hfQfS0C&hl=fr&redir_esc=y
5)生物学茶話@渋めのダージリンはいかが68: 脂肪酸と油脂
https://morph.way-nifty.com/lecture/2017/04/post-684d.html
6)職場の安全サイト ヘキサン酸 https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/142-62-1.html
7)福岡大学教育資料 脂肪酸の合成 
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/fa-syn.htm
8)ウィキペディア: 脂肪酸
9)ウィキペディア: トランス脂肪酸
10)農林水産省 トランス脂肪酸の摂取と健康への影響
http://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/trans_fat/t_eikyou/trans_eikyou.html
11)日本経済新聞 米、トランス脂肪酸の食品添加禁止 18年6月から 
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ17HQH_X10C15A6000000/
12)ホートン 生化学第3版 東京化学同人(2003)
13)【スキンケア】肌に必要なセラミドって何!?【skin care】
https://www.youtube.com/watch?v=8RtDw0FKzPk
14)竹富保「"神経化学の父"ツディクム」 自然 / 中央公論社 vol. 29, 12号、pp.44-52 (1974)  国会図書館に収蔵されているようですが、デジタルコンテンツとして読むことはできませんでした。
15)J.L.W. Thudichum Papers 1885-1942 
https://oculus.nlm.nih.gov/cgi/f/findaid/findaid-idx?c=nlmfindaid;idno=thudichum122
16)Wikipedia: Johann Ludwig Wilhelm Thudichum                              https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Ludwig_Wilhelm_Thudichum
17)山川民夫 「糖脂質物語」 講談社(1881)

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