70.ステロイド
ステロイドというと一般的には炎症を抑えるために処方されるコルチゾール系の薬品を意味しますが、学術的にはもっと幅広く、性ホルモン・胆汁酸・コレステロールなども含みます。ステロイドという生体物質は、脂肪酸や油脂とは全く異なり、図70-1に示されるような風変わりな基本構造(ステロイド骨格)を持っています。この基本構造はA,B,Cという3つの6員環とDというひとつの5員環からなり、通常3の位置がヒドロキシル化(-OH)またはカルボニル化(=O)されています。また10と13の位置はメチル化、17の位置はアルキル化されています。アルキル化というのはCH3、CH2CH3、CH2CH2CH3、・・・ などCnH2n+1が結合するという意味です。
ステロイド骨格そのものは脂溶性で水に不溶ですが、ヒドロキシル化されていると多少水に溶ける場合があります。17位に結合しているアルキル基がヒドロキシル化されることもあります。
図70-1 ステロイド骨格における炭素の番号
ステロイドはほとんどの真核生物の体内で生合成され、細胞膜の重要な構成成分となっているほか、胆汁に含まれる胆汁酸やホルモン類(性ホルモン・副腎皮質ホルモンや昆虫の変態ホルモンなど)として、幅広く利用されています。ただしステロイドは真核生物だけに合成能力があり、細菌や古細菌にはみられません。したがって例えば化石にステロイドが含まれていれば真核生物と示唆されます。もちろん現生生物による汚染の問題は常に考慮されなければなりません(1)。
話は変わりますが、多くの硬骨魚類は鰾(うきぶくろ)を持っていますが、サメなどの軟骨魚類はもっていません。従って泳がないと海底に沈んでしまいます。このような事態をさけるために、一部のサメは肝臓に多量のスクワレンという脂質を蓄えて浮力の足しにしています(2、3)。サプリメントの肝油というのはこの種のサメの肝臓の抽出物です(4)。辻本満丸は1906年にサメの肝油からスクワレンを発見して記載しています(5、図70-2左)。後日書籍にもなっているようです(図70-2右)。
図70-2 辻本満丸によるスクワレンの発見
スクワレンの分子構造は、1929年になってイアン(イシドール)・ヒールブロンによって明らかにされました(6)。 スクワレンはクエン酸回路やβ酸化にもかかわっている、いわば代謝の交差点のようなアセチルCoAから生合成されます(図70-3)。そしてスクワレンがステロイド合成の起点となります。
図70-3 スクワレンの合成経路 スクワレンが起点となってステロイドが合成される
スクワレンはスクワレンエポキシデース(7)とラノステロールシンテース(8)という2種の酵素のはたらきで、ラノステロールというステロイド骨格をもつ化合物に変化します。
図70-4 スクワレン(スクアレン)からステロイドへの合成経路 ラノステロールの合成
ラノステロールはあらゆるステロイド化合物の前駆体ですが、自身もラノリンの成分として動物の皮脂腺から分泌されており、毛皮に水分が浸透しないように保護する役割があるとされています(9)。実は毛根は表皮を経由せず直接外界と接しているので、もし皮脂がなければ容易にウィルスや細菌が侵入してきます。したがって毛穴を皮脂で埋めておくことは大事なことです。ですから、毛根鞘の死細胞を取り除くというメリットがあるとしても、毎日髪をシャンプーで洗うことは健康には良くないと言えます。髪を洗うと風邪を引くというのは、バリヤフリーとなった毛根にウィルスが感染するからかもしれません。なのにどうしてヒトは髪を洗うと気分が良くなるのか、生物学的には不思議な現象です。もちろん毎日シャンプーで毛を洗う生物なんて、ヒト以外にあり得ません。
ラノステロールからコレステロールが合成される経路をステロイド合成3として図70-5に掲載しました(10)。
図70-5 ラノステロールからステロイド骨格形成に至る経路
これらの複雑なステロイド生合成経路を解明した業績で、コンラート・ブロッホとフェオドル・リュネン(図70-6)が1964年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。ブロッホはユダヤ人で、ナチスから逃れて米国にたどりついた人です。リュネンはミュンヘンで生まれ育ち、ミュンヘン大学教授からミュンヘンのマックス・プランク細胞化学研究所の研究所長になりました。伝説の京都大学故沼正作先生はこの方のお弟子さんだそうです(11)。
図70-6 コンラート・ブロッホ(1912~2000)とフェオドル・リュネン(1911~1979)
代表的なステロイド系化合物の構造を図70-7に示しました。コレステロールは細胞膜の構成要素、コール酸は胆汁の成分、テストステロンは男性ホルモン、エストラディオールは女性ホルモン、コルチゾールは副腎皮質ホルモンです。
図70-7 代表的なステロイド系化合物
ではステロイド系化合物は生体内でどんな役割を果たしているのでしょうか。図70-8にみられるように、コレステロールは細胞膜の構成要素です。細胞膜の基本構造はリン脂質が「親水部位」を細胞外および細胞内の外側向け、「疎水部位」を膜内部にむけて整列した2重膜構造になっていますが(12)、コレステロールも親水側を細胞外または細胞内に向け、疎水部をリン脂質の疎水部位に埋め込んだ形で存在します。
コレステロールが膜構造に加わることによって、膜の流動性(しなやかさ)が高くなり、温度が下がることによって発生する相転移(硬くなる)が阻止されます。細胞膜は単なる壁ではなくて、その中で化学反応や分子構造の変化、物質の出し入れなどが行われているので、それなりの可塑性の高さが必要です。
図70-8 細胞膜の構成要素 コレステロールは細胞膜の構成要素のひとつ
コレステロールが特に集積している組織として、ミエリン鞘が知られています。ミエリン鞘は神経細胞の軸索を被うカバーのような組織です。その実体は図70-9に示すように、シュワン細胞はが「ふとん」で軸索が「人」だとすると、「ふとん」でぐるぐる巻きにしたような構造になっています。すなわち細胞膜が何重にもなっているような構造なので、細胞膜の脂質は当然大量に含まれることになります(13)。脳の白質はミエリン鞘が集積している組織なので、特に脂質が豊富です。
図70-9 ミエリン鞘
コレステロールというと、すぐに健康診断でのHDL・LDLの値が頭に浮かぶわけで、ここを避けては通れません。コレステロールは水への溶解度が低く(95マイクログラム/リットル)、体の中を移動するにはタンパク質と結合して、リポタンパク質の形をとらなければなりません。コレステロールは主としてLDL(low density lipoprotein)またはHDL(high density lipoprotein)というリポタンパク質として移動します。LDLはコレステロールを肝臓から末梢組織へ供給し、HDLは過剰なコレステロールを末梢組織から肝臓に戻す役割があると言われています。HDLでもLDLでもコレステロール自体の分子構造に変わりはなくて、結合するタンパク質の方が異なっています。
LDLは悪玉コレステロール、HDLは善玉コレステロールと呼ばれていますが、これは害虫と益虫のような自然科学とは乖離した命名で、科学者としては使いたくないのですが、LDLが動脈硬化の一因であることは確かなようです(14)。
LDLが細胞内で発生する活性酸素によって酸化されると、マクロファージに貪食され、大量にLDLを取り込んだそのマクロファージが死ぬと、死んだ場所にコレステロールの塊(胆石はコレステロールまたはビリルビンの塊です)が残されます。これによって動脈硬化が促進され、最悪心筋梗塞や脳梗塞に至ります。
HDLが少なすぎても、余分なコレステロールを肝臓にもどせなくなって動脈硬化が進展すると思われますが、かといってどんどんもどすと肝臓の脂肪細胞が巨大になって、脂肪細胞が分泌するホルモンなどが過剰になり生理活性物質のバランスがくずれると思うのですが、そのあたりのことは解明されていません。
肥満になると脂肪細胞から分泌される物質(アディポサイトカイン)が異常となり、生活習慣病を誘発すると指摘している書物はあります(15)。ただウィキペディアをのぞいてみると、意外なことにHDLのないマウスも生きているみたいなので、コレステロールを運搬する別経路があることも示唆されています(16)。ならば健康診断の結果を見て、指導員がHDLが少ないからどうしろこうしろというのも、本当に妥当な指示なのでしょうか。まだまだ基礎研究によって確認しなければいけないことが山積しているように思われます。
コレステロールは最終産物として機能するだけはなく、さらに有用な物質の中間生成物でもあります。コール酸は肝臓でコレステロールから合成されてたあと、グリシンやタウリンと結合してグリココール酸やタウロコール酸となります(図70-10)。これらは抱合胆汁酸と呼ばれますが、胆嚢に蓄積された後、胆汁の成分として腸内に放出され、脂肪をミセル化して腸に吸収されやすくします。脂肪をミセル化した代表的食品として図70-10のマヨネーズがあります。
コレステロールから生合成されるさまざまな性ホルモンについては、あらためて述べる機会もあると思います。ここでは最後に糖質コルチコイド(=グルココルチコイド)について少し述べておきます。コルチコステロン・コルチゾール(図70-7)・コルチゾンなどがこれに相当します。デキサメタゾンなどは自然に存在するものではなく、人工的に合成された薬剤であり、主として炎症をおさえるため、または免疫反応を抑制するために使用されます。
図70-10 グリココール酸とタウロコール酸
生体に存在する糖質コルチコイドは副腎皮質で作られ、抗炎症作用や免疫抑制作用のほか、図70-11のようにインスリンと逆の役割で、血糖値を上昇させる作用があります。主に生体がストレスを感じたときに分泌されます。
糖質コルチコイドなどのステロイドホルモンは一般的に細胞膜を通過することができ、細胞質にある転写調節因子と結合して核内に侵入し、転写を調節することによって機能が発揮されます(17)。
図70-11 インスリンと糖質コルチコイド
参照
1)神無久 サイエンスあれこれ 真核生物の起源再考
http://blog.livedoor.jp/science_q/archives/1861037.html
2)松縄正彦 mark の部屋 浮き袋を持たない魚、なぜ浮き袋がないのか?
http://markpine.blog95.fc2.com/blog-entry-69.html
3)ウィキペディア: スクワレン
4)えがおの肝油 鮫珠
http://www.241241.jp/products/supplement/same/
5)辻本満丸 “黒子鮫油に就て”. 工業化学雑誌 vol. 9 (10): pp. 953-958. doi:10.1246/nikkashi1898.9.953 (1906)
6)Heilbron, I. M.; Thompson, A. , "CXV.—The unsaponifiable matter from the oils of elasmobranch fish. Part VI. The constitution of squalene as deduced froma study of the decahydrosqualenes." J. Chem. Soc. pp. 883–892. (1929) doi:10.1039/JR9290000883.
7)榊原順、小野輝夫、スクアレンエポキシダーゼ -もうひとつのコレステロール合成律速酵素 蛋白質 核酸 酵素 vol. 39 (9), pp. 1508-1517 (1994)
http://lifesciencedb.jp/dbsearch/Literature/get_pne_cgpdf.php?year=1994&number=3909&file=j9768PH3xxMJB18tkcGRUQ==
8)阿部郁朗、スクワレン閉環酵素の生物有機化学 蛋白質 核酸 酵素 vol. 39 (10), pp. 1613-1624 (1994)
http://lifesciencedb.jp/dbsearch/Literature/get_pne_cgpdf.php?year=1994&number=3910&file=c/RbruPLUSYUeEJB18tkcGRUQ==
9)ウィキペディア: ラノリン
10)ウィキペディア: コレステロール
11)日本の科学と技術 ~研究の世界~ 沼研の伝説的なエピソード
http://scienceandtechnology.jp/archives/9655
12)ウィキペディア: 細胞膜
13)Wikipedia: Myelin. https://en.wikipedia.org/wiki/Myelin
14)FMD検査 動脈硬化の進展を知る http://fmd-kensa.jp/pg2.html
15)近藤和雄 「人のアブラはなぜ嫌われるのか」 ~脂質「コレステロール・中性脂肪など」の正しい科学 技術評論社 (2015)
16)Wikipedia: High-density lipoprotein. https://en.wikipedia.org/wiki/High-density_lipoprotei
17)管理薬剤師.com ステロイドの作用機序 https://kanri.nkdesk.com/hifuka/ste2.php
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