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2020年1月26日 (日)

92.幹細胞

 幹細胞という言葉はES細胞や iPS細胞のおかげですっかり世の中に定着しました。しかし改めてきちんとその意味を復習しておきましょう。すでに述べたように、多細胞生物は不死の生殖細胞系列と死を運命付けられた体細胞系列からなります。確かに体細胞は死する運命にありますが、なにしろヒトの体細胞は数十兆個あります。まず大量の細胞をつくらなければなりません。その上で細胞分裂を繰り返しながら3つのグループ(外胚葉・中胚葉・内胚葉)に分かれ、それぞれがまた小グループに分かれて表皮・骨格・消化管などになります(図92-1)。
 体細胞は分裂を繰り返すごとに自分の可能性を狭めていき、最終的にひとつの目標に到達します。これは小学校ではまだ無数の可能性を秘めていた少年が、やがて進学校に合格、受験勉強を経て医学部に入学して卒業し医師免許を取得、医師として一生働くというようなことでしょう。体細胞は通常人為的な操作を加えない限り、可能性を狭めることはできても広げることはできません。これは至極当然で、皮膚の中に突然消化管が現われては困るわけです。
 脳神経細胞や心臓の筋細胞などは終末分化した細胞の典型例で、幼少時に分化した細胞はそのまま死ぬまで同じ場所で働きます。ここでひとつの疑問が生じます。なぜ大人になっても髪の毛は伸びるのでしょうか? 
 ヒトの毛髪は3日で約1ミリメーターくらい伸びるわけですが、細胞は高さが数マイクロメーターくらいの大きさなので、髪の毛の中の細胞縦1列について3日間で200個弱くらい新しい細胞が生み出されていることになります。1日60個とすると1時間で2.5個の細胞が毛根で生み出されていることになります。これは縦1列の分だけですから、毛1本分ではその数百倍の細胞ができているわけです。これは細菌の増殖速度にも匹敵するハイスピードです。ヒトは衣服を発明して毛は退化途上にありますが、サルまでの動物においては、寒さをしのいだり、何かとぶつかったときの皮膚の損傷を防いだり、紫外線が直接皮膚に当たるのを避けるために、毛はなくてはならない器官でした。しかも暑い季節になると毛を落とす必要があります。こうした理由から毛は高速増殖が必要だと考えられます。
 このように多細胞生物が体を構築するシステムは、必要な体細胞を最初に大量に作っておいて、あとはそれらが分化して死んだら個体も死ぬという単純なものではなく、同じ体細胞でも途中で自己複製し補充しながら成人の体をささえていくような細胞も存在します。毛髪・皮膚・爪・血液・小腸などは特に毎日大量の細胞をつくっています。これらの元になる自己複製しながら組織の細胞を供給していく細胞が幹細胞といわれるものです。幹細胞は細胞分裂が可能な若い細胞なのですが、かといって毛髪の幹細胞から爪や赤血球ができては困ります。各組織の幹細胞は、それぞれ運命が限定されています(1)。
 図92-1のように受精卵は成体のあらゆる細胞を製造する能力を秘めていますが、やがて生殖細胞系と体細胞系というグループにわかれ、体細胞系は外胚葉・中胚葉・内胚葉という能力が限定されたグループにわかれ、それぞれから様々な臓器が生まれてくるわけです。

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図92-1 生殖細胞と体細胞

 様々な臓器をつくるとき、例えば脳になるべき細胞群の中に爪になる予定の細胞が混じっているとか、筋肉になるべき細胞群の中に腎臓に予定の細胞が混じっているなどということは避けなければならないので、細胞分裂が可能な細胞は、分化が進行しつつある中間点のあるタイミングで、デジタル的に自分の運命をはっきりと決定しなければなりません。これが図2のA、B、Cのプロセスです。
 色がついている細胞は実際に分化した細胞ではなく、白い細胞に比べて分化する可能性が限定された細胞を意味します。A、Bの過程だけだと白丸で示した未分化細胞がなくなってしまうので、細胞がダメージを受けたり老化が進んだ場合、組織や臓器が必要とする細胞を補充することができません。脳神経細胞や心筋細胞は一生同じ細胞を使う場合が一般的なので、AやBのプロセスを経た色つきの細胞集団に近いと言えます。
 一方毛髪など生きている間は常時補填が必要な臓器はCやDの自己複製が可能な細胞(幹細胞)を維持していかなければなりません。幹細胞を定義すればCのように、細胞分裂した際に自分自身のコピーと分化していく運命にある娘細胞を作り出す細胞ということになりますが、実際には幹細胞のある場所にはCとDが共存していると思われます。A、Bのプロセスが活発に進行している組織では、Dのプロセスがなければ細胞が足りなくなってしまう可能性があります。

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図92-2 体細胞の4つの分裂様式  ここでは未分化細胞について記していますが、すでに分化決定した細胞(着色細胞)がそのプログラムを維持したまま細胞分裂を行う場合もあります。

 成人の体にも自己複製できる細胞が存在することは容易に想像できたわけですが、それを科学的に証明するのはなかなか困難でした。それを最初に行なったのはカナダの研究者 ティルとマックローチ(Till & McCulloch) で、1961年のことでした。放射線医学生物学分野の研究者なら、Till と McCulloch の業績は誰でも知っていますが、意外に他分野の研究者達は知らないのではないでしょうか。幹細胞の研究は長い間、ごく一部の研究者しか興味を持たないような不遇の時代が続いたという事情があります。
 Till と McCulloch の実験の概要を図92-3に示します。致死量の放射線を当てたマウスは造血ができなくなって、脾臓も紙のように薄くなって死亡します。マウスはヒトなどと異なり、主要な造血器官は骨髄ではなく脾臓です。放射線を当てたマウスが死亡する前に、他のマウスの骨髄細胞を注射すると、脾臓に「こぶ」のような細胞の固まり=コロニーができて造血を行い、本来なら死亡するはずのマウスが生き延びることを彼らは実証しました(2、図92-3)。つまり他の個体の骨髄に含まれていた造血幹細胞が脾臓に定着し、図92-8にみられるような様々な血液細胞が生成されて生き延びることができたということになります。

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図92-3 造血幹細胞の存在を証明したティルとマックローチの実験

 ジョンソンとメットカーフ(Johnson & Metcalf) はさらに造血幹細胞をシャーレの中で培養し、シャーレの中で1個の細胞からコロニーを作らせることに成功しました(3、図92-4)。そのコロニーの中に、様々な血液細胞が生成されていました。

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図92-4 ドナルド・メットカーフとシャーレの中で生育した血液細胞のコロニー

 その後血液幹細胞を培養するという実験は大流行し、そこからES細胞(胚性幹細胞)へと研究がつながっていったわけです。
 ES細胞やiPS細胞は血液細胞だけでなく、あらゆる細胞に分化する能力を持っています。幹細胞の分野ではES細胞や iPS細胞の作成で複数の研究者がノーベル賞を受賞していますが(4-5)、これらはむしろ応用技術であり、幹細胞の存在を証明したというルーツの業績を残した人々、すなわちティル・マックローチ・ジョンソン・メットカーフらが蚊帳の外というのは納得できないところです。応用技術というのは次々と技術革新が行なわれることによって乗り越えられていくものですが、ルーツを作ったあるいは原理を証明したという業績は永遠に残るべきものです。
 ヒトの体内にはさまざまな幹細胞が存在します。表皮の幹細胞のように表皮にしかならないもの、毛髪の幹細胞のように毛髪だけでなく、やけどをしたときは表皮も再生できるもの、造血幹細胞のように赤血球、血小板、白血球、リンパ球など様々なタイプの細胞をつくりだせるものなど様々ですが、そのまま個体を再生できる体細胞はありません。
 生物学の研究材料としては比較的ポピュラーな、プラナリアという生物がいます。水の綺麗な小川の底石をはがすとみつかることがあります。長さが1cmくらいの扁平な生き物です。プラナリアは体を切断すると、断片から個体を再生できます(図92-5)。このことは究極の幹細胞、すなわちあらゆる成体の組織を新生できる能力を持つ幹細胞を、彼らは多数体内に維持していることを意味します。
 体を細かく分断しても断片から全体を再生できるというのはいわゆる無性生殖であり、彼らは有性生殖も行なうので、進化の途上で体細胞に含まれる全能性の幹細胞を失わなかったというのが彼らの生き方です。ES細胞や iPS細胞はヒトのプラナリア化を可能にする技術とも言えます。

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図92-5 プラナリアの切断と再生

 一方線虫の1種であるC.エレガンス(Caenorhabditis elegans)は私達と同じく、体細胞は細胞分裂を繰り返すにつれてその可能性を狭めていき、最終的には特定の臓器に分化して死ぬという運命を持っています。違うのは成人が数十兆個の細胞を持っているのに対して、C.エレガンスの大人(雌雄同体)は959個の細胞しか持っていません。それらの細胞はひとつひとつ受精卵から終末分化するまで、まるで家系図のように出処進退が明らかにされています。
 C.エレガンスは結構個体そのものが活発に動きますし、さらに細胞は位置が固定されて動かないわけではなく、発生の過程で複雑に動くので、個々の細胞それぞれをきちんと最後まで見届けるのは途方もない作業ですが、サルストン(Sulston)と共同研究者達は、細胞に色をつけたりして綿密に追跡し、ついにその途方もない観察を成し遂げました(7、図92-6)。56ページの長大な論文ですが、専門外にもかかわらず私は手元に置いています。まさに人類の宝のような論文です。ウェブサイトにも公開されています(8)。サルストンは2002年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。図92-6の右下の系譜は大幅に省略した記載です。詳しくは原著をご覧下さい。

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図92-6 サルストンとC.エレガンスの細胞系譜

 サルストンらの驚異の業績と比べると小さな知見ですが、ヒトの造血幹細胞の分化系譜も明らかになってきました。まず古典的な系譜を示します(図92-7)。この図では、造血幹細胞はリンパ系の細胞と骨髄系の細胞に分かれます。骨髄系の細胞は好酸球・好中球・好塩基球のグループと単球(マクロファージ・樹状細胞)のグループ、そしてそれらとは別の系譜の赤血球・血小板系のグループに分かれたあと、それぞれの細胞系譜に分化していきます。
 赤血球・血小板系以外の細胞はすべて免疫関連細胞で、異物を排除するためのシステムに所属しますが、赤血球・血小板系は全く異なる役割を持っており、赤血球は呼吸=ガス交換、血小板は血液凝固=傷対策という機能を果たしています(1)。ただし、リンパ系のT細胞と骨髄系の単球に分化できる細胞(赤矢印)が存在するとの報告もあります(9)。この件について河本宏と桂義元が日本語で詳しく解説しています(10-11)。最近ではT細胞系は他の細胞と別系列だという考え方が主流のようです(図92-8)。

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図92-7 伝統的な血液細胞の細胞系譜

 骨髄にはおそらく図92-2のA~Dタイプの細胞が棲み着いており、条件によってコントロールされた増殖・分化を行なっていると思われます。最近の知見に基づけば、T細胞系の前駆細胞は骨髄に定着するB細胞とは離れた細胞系列で、胸腺に定着して増殖・分化してT細胞を生成するとされています。T細胞は抗体(イムノグロブリン)を産生する以外のさまざまな免疫機能、たとえば細菌に感染した細胞を識別して殺す、免疫機能を活性化するサイトカインを分泌する、B細胞の成熟分化をサポートする、などさまざまな機能を持っています。B細胞は抗体を産生する細胞です。図92-8をみると、B細胞はT細胞よりむしろ単球やマクロファージと近いことになり、B細胞とT細胞をまとめてリンパ球と称するのも疑問ということになります。

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図92-8 血液細胞の系譜(修正版)

 

参照

1)森岡清和著 「素顔の赤血球-その生いたちと運命をさぐる」 金原出版(1994)
2)Till JE, McCulloch EA: A direct measurement of the radiation sensitivity of normal mouse bone marrow cells. Rad. Res. 14, 213-222 (1961)
3)Johnson GR, Metcalf D: Pure and mixed erythroid colony formation in vitro stimulated by spleen conditioned medium with no detectable erythropoietin. Proc. Natl. Acad. Sci. USA pp. 3879-3882 (1977) 
4)https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/2007/evans-bio.html
5)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E4%BC%B8%E5%BC%A5
6)動物トリビアんワールド http://animalkun.org/archives/943
7)J.E. Sulston, E. Schierenberg, J.G. White and J.N. Thomson., The Embryonic Cell Lineage of the Nematode Caenorhabditis elegans., Developmental Biology vol. 100: pp. 64-119  (1983)  doi: 10.1016/0012-1606(83)90201-4
8)Wormatlas,  JE Sulston et al., The Embryonic Cell Lineage of the Nematode Caenorhabditis elegans.
http://www.wormatlas.org/SulstonembCellLin_1983/SulstonembCellLin1983.html
9)Nature 免疫:血液細胞の系譜を作り直す
http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/18591
10)河本宏・桂義元 “リンパ球系列” という既成概念からの解放 科学 vol. 79, no.6, pp. 605-613 (2009)
http://kawamoto.frontier.kyoto-u.ac.jp/common/images/contents_for_researchers/d_03/kagakusousetu.pdf
11)河本宏 免疫細胞はどこで、どんな細胞からつくられるの? 
http://www.jsi-men-eki.org/general/qa_pdf/kawamoto.pdf

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