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2016年10月28日 (金)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが42: 二重らせん

アーウィン・シャルガフ(1905年~2002年 図1)は現在のウクライナで生まれたユダヤ人です。ベルリン大学で研究をしていましたが、ナチの台頭でフランスに逃れ、さらにニューヨークのコロンビア大学に職を得て、40年間勤めました。

シャルガフはもともと核酸の研究者ではありませんでしたが、1944年に発表されたエイヴリーの論文の結論「遺伝物質はDNAである」(前項参照)に「筆舌に尽くしがたい衝撃」を受け、それまでやっていた研究を全部やめて核酸の研究にのめりこんでいきました(1)。

発表された当初、多くの研究者がエイヴリーの論文に衝撃を受けたというわけではなく、シャルガフによればほとんどの科学者が関心を持たなかったそうです。それは彼の言葉によれば「みな権力の回廊で自らのコマ廻しに忙しすぎたので見逃してしまったから」ということになりますが(1)、当時の知識では、DNAの種特異性がわかっていなかったので、あまり重要なことではないとみんな注目しなかったのでしょう。

 

180pxerwin_chargシャルガフにとって幸運だったのは、ちょうど1944年にペーパー・クロマトグラフィーという分析技術が報告され、DNAに含まれる4種の有機塩基をきれいに分離することができるようになった上に、同時期に紫外線分光光度計が売り出され、各塩基の検出も簡単にできるようになったことです。

シャルガフと共同研究者達はこれらの先進的な技術を使って、様々な生物のアデニン(A)・グアニン(G)・シトシン(C)・チミン(T)の量を測定し、それらの比率が同じ種の生物の組織・器官では同じですが、別の種では様々に異なることを示しました(図2)。

これは当時主流であったエイヴリーのテトラヌクレオチド仮説の理論には相反するものでした。しかし彼はさらに研究を進めて1950年に、

A=T、G=C、しかし A=G=C=Tではない

 

という驚くべき法則を発表しました(2)。

 

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生物種によってA・G・C・Tの割合はまちまちですが、AとTの比率およびGとCの比率は極めて1に近いということがわかりました。シャルガフもこのことを論文に書くのは怖くて迷いに迷い、結局校正の段階でやっと決断して追加したそうです。

この発表は主にDNAの構造をX線解析によって研究していた人々の注目を集め、実際シャルガフは英国のウィルキンスをはじめ何人かの研究者にDNAのサンプルを譲渡したそうです(1)。

シャルガフは1952年に英国のケンブリッジ大学に行って、ジェームス・ワトソン(1928年~)とフランシス・クリック(1914~2004)(図3 ウィキペディアより)にこの法則について説明したそうですが、その時の詳しいいきさつは文献(1)に詳述してあります。ワトソンの著書にもこのことは書いてあって、シャルガフの法則はDNAの分子モデルを考える際に大いに参考になったと思われます。

シャルガフはこの時に二人かららせん構造についての話しを聞いていたのですが、彼はDNAの特異性に関してはトポロジーが重要だとは思っていたものの、らせん構造については余り興味を持たなかったようです。

シャルガフはAとT、およびCとGが構造的に隣接しているという考え方を以前にしていたことがあるが、それは廃棄したとこの会談で述べたことを記してします(1)。その廃棄した理由が、本の説明(1)では私にはよくわかりませんでした。ワトソンとクリックも廃棄するに足る十分な理由はないと考えたと思います。

 

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結局この会談はシャルガフが、ワトソンとクリックはふたりとも化学のど素人だと判定した段階でうまくいかず、気まずく終わったようです。シャルガフがヨーロッパを訪問したもっと重要な用は、パリでの国際会議で、そこではハーシーとチェイスがDNAが遺伝物質であるという決定的な証拠を示し(前項参照)、いよいよDNAが分子生物学の主戦場となることは明らかになりました。

その頃英国ではDNAの構造研究の中心は、ワトソンとクリックがいたケンブリッジ大学ではなく、ロンドン大学のモーリス・ウィルキンス(1914~2004)の研究室でした。ところがそこでは若手研究者だったロザリンド・フランクリン(1928~1950)とボスのウィルキンスが激しく仲違いをして、プロジェクトがうまくいっていませんでした。

その間隙を縫ってワトソンとクリックはDNAの3重らせんモデルを考案し、フランクリンに見てもらったのですが、リン酸がらせんの内側にあると水分子を置くスペースがなくなると即座に否定され、彼女におもちゃを使って遊んでいるバカ者共という印象を与えてしまったのです。これでふたりはDNAの研究から手を引かされるという羽目に陥りました(3)。

しかし二人にとって、ここで思わぬ幸運が舞い込んできました。それは1953年に当時生体物質の構造化学では第一人者であるライナス・ポーリング(1901年~1994年)が、二人が考案したものに近い間違った3重らせん構造のモデルを提出したことでした。しかも彼のモデルではリン酸基がイオン化しておらず、それじゃあ核酸は酸じゃないのかというおまけまでついていて、これでワトソンとクリックは俄然勢いづきました。

彼らはロンドン大学のグループにもう一度らせん構造を考えてみようと説得に行き、ウィルキンスにフランクリンの学生であるゴスリングのX線回折写真を見せてもらうことに成功しました。それはまさしくらせん構造を示す回折像だったのです(3)。ところがこれはフランクリンの許可を得ていなかったため、後に問題になりました。

ウィルキンスに写真をみせる権限があったことはわかりますが、フェアーなやり方とは言えません。またフランクリンが書いた非公開の年次レポートを、閲覧する権限のあるペルーツが部下のクリックに渡したとされており(4)、これもさらにフェアーとは言えません。ただこのようなことは研究の世界では日常茶飯事であることもまた事実です。

ワトソンはアデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれペアで存在するために可能な構造を示し(図4)、それを見たクリックは2本の鎖が逆向きの2重らせんの構造をすぐに思いついたそうです(図5)。このモデルは直ちに Nature 誌に投稿され、受理されました(5)。

ワトソン・クリック・ウィルキンスは、「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に対して、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。ロザリンド・フランクリンは1958年に37才の若さで亡くなっていたので、受賞対象にはなりませんでした。

 

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ワトソンとクリックにしてみれば、フランクリンは執拗にDNAのモデル構築に反対して、まるで自分たちの仕事が妨害されたように見えたでしょうし、フランクリンにしてみれば荒唐無稽なモデルをもてあそんでいる彼らとまともにつきあう必要はないと考えたというのもうなづけます。ただフランクリン(ゴスリング)の写真を見なければ正しい分子モデルはできなかったはずで、DNAの二重らせんモデルはこの3人に等しく栄誉が与えられるべきだったと思います。

 

ロザリンド・フランクリンの業績については友人のアンネ・セイヤーが1975年に本を出版しており(6、図6)、最近ではきちんと評価されています。また最初に鮮明なDNAのX線回折写真を撮影したレイモンド・ゴスリング(1926~2015)は、当時博士課程の学生だったので蚊帳の外になってしまいましたが、その後も素晴らしい写真を撮影して、大いにDNAの分子モデルの作成に貢献しており、本当は彼もノーベル賞をもらうべきだったのかもしれません。

 

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参照:

1) 「ヘラクレイトスの火 (Heraclitean Fire)」 アーウィン・シャルガフ著 村上陽一郎訳 岩波書店 (1990)

2) Chargaff, Erwin; Chemical specificitiy of nucleic acids and mechanism of their enzymatic degradation. Experientia vol.6, pp.201-209 (1950)

3) DNA: The secret of Life. James D. Watson and Andrew Berry, Arrow Books, 2004.  邦訳:青木薫 講談社刊

4) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3

5) J.D. Watson and F.H.C. Crick: Molecular structure of deoxypentose ribonucleic acids. Nature vol.171, pp.737-738 (1953)
http://www.nature.com/nature/dna50/watsoncrick.pdf

6) Rosalind Franklin and DNA, written by Anne Sayre, W.W. Norton New York and London (1975)

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生物学茶話@渋めのダージリンはいかが41: 遺伝情報を担う物質は何か?

フレデリック・グリフィス(1879年 - 1941年)は第一次世界大戦中に設立された英国保健衛生省の病理学研究室で研究を行いました。彼の仕事は多くの患者から肺炎菌を集めて培養し、分類を行うことでした。

この仕事を進めているうちに、グリフィスは菌の種類・株によってホストの免疫機構に対する耐性が大きく異なることに気がつきました。細菌のなかには細胞壁(セルウォール)の外側に莢膜(カプセル)というオーバーコートをかぶっているものがあり、これらの菌は感染した際に、ホストの免疫機構によって排除されにくいのです。この理由としてカプセルの主成分である多糖類がタンパク質に比べて抗体との反応が弱いということがあげられますが、その他にもカプセルをもつ細菌は、白血球やマクロファージに食べられにくいという性質があります。

カプセルを持つ菌はヒス染色(ゲンチャナバイオレットという色素で染色する方法)という方法で識別できます。カプセルを持っている場合、菌体は強く紫色に染色され、そのまわりでピンク色で囲まれているような感じに染色されます(1)。

肺炎菌のR株(図1青)はカプセルを持たず病原性がありませんが、S株(図1赤)はカプセルを持っており病原性があります。S株は熱処理によって病原性を失いますが、この熱処理したS株と非病原性のR株を同時にマウスに投与すると、意外にも病原性が復活してマウスは死亡しました。グリフィスは死んだS株の形質転換因子(transforming principle) がR株の形質を転換し(transform)、病原性を与えたと説明しました(2)。この形質転換因子こそDNAだということが後にわかるのですが、当時は全くわかりませんでした。

 

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1形質転換のメカニズムを解明しないまま、グリフィスはナチス・ドイツによる1841年のロンドン・ブリッツ(ロンドン大空襲)によって不慮の死をとげてしまいました。

彼が実験室で爆撃を受けたという説がありますが、研究によって、自宅に居たときの空爆で死亡したということになったそうです。

1941年のランセット誌5月3日号には obituary (=死亡記事、参照3)が掲載されています。それによるとグリフィス(図2)は犬の散歩が趣味の、大変慎重な人で、一生涯 「Almighty God is in no hurry - why should I be?」 という主義を貫いたそうです。

同じページに、彼の同僚で著名な細菌学者のウィリアム・スコットも空爆で死亡したという記事が掲載されています。

 

 

 

2グリフィスが残した課題はオズワルド・エイヴリー(1877年 - 1955年、図3)によって引き継がれました。

彼はグリフィスが言う形質転換の原因は細菌がまわりの環境から遺伝物質をとりこむことができるからだと考えました。

そこでS菌の細胞を破壊し、内容物をタンパク質分解酵素で処理してR菌の培養液に加えました。するとこの処理が無効だったことがわかり、タンパク質は形質転換に関与していないことが示唆されました。

ところがDNA分解酵素で処理すると、R菌は形質転換を起こさなかったのです。これはDNAが形質転換に関与していることを強く示唆しました(4)。

この論文が発表されたのは1944年ですからエイヴリーはすでに67才でした。しかも太平洋戦争の真っ最中です。日本ではほとんどの学術雑誌が休刊していましたが、米国では発行されていて、しかもこのような重要な基礎研究の論文が発表されていたということです。私はこれは国力の違いもありますが、さらに文化の違いもあると思います。基礎科学の振興が民族・国家さらには人類にとって決定的に重要だということは、現在の日本人にも浸透していないと思います。

とは言っても、当時はDNAが遺伝物質だなんて考えている人は極めて少数だったので、エイヴリーの実験結果もそれほど注目されるには至りませんでした。

ハーシーとチェイス(図4 左:アルフレッド・ハーシー 1908年 - 1997年、右:マーサ・チェイス1927年 -
2003年)は大腸菌に感染するT2ファージ(ある種のウィルス)を使って実験しました。このときチェイスはまだ博士号を取得していませんでしたが、共同研究者の扱いになっています。T2ファージはタンパク質とDNAだけからなっており、大腸菌に感染すると菌内で増殖して、菌細胞を破壊して外界に出て、また大腸菌に感染するというライフサイクルを行います。ですから子孫をつくるための情報はタンパク質かDNAのどちらかが持っているはずです。

彼らが以下の実験をしてみようと思ったきっかけは、トーマス・アンダーソンが撮影したT2ファージが足で細菌の表面に付着している電子顕微鏡写真をみたのがきっかけだそうです。

 

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彼らはまずシャーレAの培地に放射性のリン(P32を含むオルトリン酸)を加え、もうひとつのシャーレBには放射性の硫黄(S35を含む硫酸マグネシウム)を加えてT2ファージと大腸菌を培養します。それらからP32を含むファージとS35を含むファージを分離します。

DNAは硫黄を含まず、ファージのタンパク質はリンを含まないので、シャーレAから分離したファージはDNAが放射性Pを含み、シャーレBから分離したファージはタンパク質が放射性Sを含んでいます。それぞれを大腸菌に加えて感染させます(図5)。ファージは細菌にくっついて自らの遺伝物質を細菌に注入します(図5の1)。

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感染したタイミングを見計らって、培養液をブレンダーに入れて激しく攪拌し(図5の2)、ファージを菌体から引きはがします。次に遠心分離法によってファージと菌体を分離します(図5の3)。上清がファージで沈殿が菌体というかたちで分離できます。

そして沈殿から回収された菌体に含まれる放射性物質を検査するとそれはP32で、S35は含まれていませんでした。すなわち遺伝情報の担い手はDNAであり、タンパク質ではないことが示されました(図5の4、参照 5)。この研究はエイヴリーが提唱していた<<DNAが遺伝情報の担い手である>>という説を強くサポートするものであり、この研究などによってハーシーは1969年にノーベル医学生理学賞を授与されています。一方チェイスは離婚や痴呆症のため、後半生はよい人生を送ることができなかったようです。

ウィルスによって被害を受けるのは細菌だけではなく、哺乳動物なども被害を受けるわけですが、哺乳動物に感染するウィルスはT2ファージのようにDNAを細胞に注入するというような方法ではなく、細胞に吸着したあと、そのまま細胞に食べられるというような形で取り込まれるとか、ウィルスの外殻と細胞膜が融合して、中身が細胞内にはき出されるとかさまざまな形で細胞に侵入します。メカニズムの詳細は現代医学においても重要な研究課題です。

 

参照:

1) http://www.mutokagaku.com/products/reagent/bacterialstain/hisstain/

2) Frederick Griffith, THE SIGNIFICANCE OF PNEUMOCOCCAL TYPES. Journal of Hygiene,
vol.XXVII, pp.113-157, (1928)
 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2167760/

3) Obituary, The Lancet vol.237, no.6140, pp.588-589, (1941)   http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0140673600951742

4) Oswald T. Avery, Colin M. MacLeod, and Maclyn McCarty, STUDIES ON THE CHEMICAL
NATURE OF THE SUBSTANCE INDUCING TRANSFORMATION OF PNEUMOCOCCAL TYPES. Journal
of Experimental Medicine vol.79, no.2, pp.137-158, (1944)   https://profiles.nlm.nih.gov/CC/A/A/B/Y/_/ccaaby.pdf

5) A. D. HERSHEY AND MARTHA CHASE:INDEPENDENT FUNCTIONS OF VIRAL PROTEIN AND
NUCLEIC ACID IN GROWTH OF BACTERIOPHAGE. The Journal of General Physiology
vol.36, pp.39-56 (1952)
http://jgp.rupress.org/content/jgp/36/1/39.full.pdf

 

 

 

 

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2016年10月21日 (金)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが40: 核酸構造解析のはじまり

Photo_10アルブレヒト・コッセル(図1)はミーシャーが生化学・生理学を学んだホッペ=ザイラーの研究室、といってもチュービンゲンではなくてストラスブール(現在はフランス)にあった研究室で1877年から1881年まで助手をしていました。

当時ホッペ=ザイラーはミーシャーが発見した奇妙な酸性物質ヌクレイン(後に核酸と呼ばれる)に関心を寄せていて、コッセルも巻き込まれることになりました。その後ベルリン大学、大学、マールブルク大学、ハイデルベルク大学で教鞭をとりながら研究を進めました。

19世紀末から20世紀初めにかけてコッセルは化学の手法のみによって、エミール・フィッシャーをはじめとする多くの研究者の協力を得て、核酸(DNA)が4種類の成分、アデニン・グアニン・シトシン・チミンと糖を含むことを証明しました(図2)。

現在では低分子物質の化学構造は分析機器によって簡単に判るわけですが、当時は大変な作業で、いろいろと紆余曲折を経てようやく構造決定にこぎつけました。アデニン・グアニン・シトシン・チミンはまとめて核塩基と呼ばれます。

 

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コッセルはこの業績によって1910年にノーベル賞を受賞しています。受賞講演の中で彼は、「核酸などの生体分子はビルディング・ブロックにたとえられる部品(ある種の原子のグループ)の集合体で構成されており、部品の段階で体内に吸収されて、体内で計画に基づいて生体分子が形成される」という考え方を述べています(1)。これは非常に先進的な考え方であり、コッセルのセンスの良さを感じます。

もうひとつの核の塩基ウラシルは、1900年にアルベルト・アスコーリによって酵母の核酸から発見されました。現在ではウラシルはDNAにはほとんど含まれず、もうひとつの核酸であるRNAの成分であることが知られています。現代的表現の構造式を図3に示します。

 

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コッセルは核酸には糖が含まれることを見いだしましたが、糖と核塩基との関係、さらにミーシャーが核酸の成分としているリン酸との関係は明らかではありませんでした。これらの構造的関係を明らかにしたのがフィーバス・レヴィン(図4)です。

レヴィンは1905年にニューヨークのロックフェラー医学研究所の研究室長に抜擢され、ずっとそこで研究を続けました。当時この研究所には野口英世も在籍していました。

 

Photo_5レヴィンは1909年に核酸に含まれている糖がリボース(D-ribose)であるとし、1929年にはこれがデオキシリボース(2-deoxy-D-ribose)であると修正しました。

現在ではDNAの成分がデオキシリボース、RNAの成分がリボースであることが判っています。ここにいたってようやく ミーシャーのリン酸、コッセルの有機塩基、レヴィンのデオキシリボースというDNAのすべての構成要素が出そろったわけです。

レヴィンのもうひとつの大きな業績は糖・核塩基・リン酸の構造的関係を明らかにしたことです。

図5で示されるように、リン酸-デオキシリボース-塩基が化学結合し、核酸の基本的な構成ユニットとなっていることをレヴィンは解明しました。このユニットはヌクレオチド(nucleotide)と命名されました。

 

 

 

 

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ここまでは卓越した業績だったのですが、このあとレヴィンはひとつの失敗をしでかしました。レヴィンはこの構成ユニットがどのように連結されているかについて、テトラヌクレオチド仮説という誤った仮説を発表し、学界に大きな混乱をもたらしたのです。彼の仮説によると、アデニン-糖-リン酸、グアニン-糖-リン酸、シトシン-糖-リン酸、チミン-糖-リン酸という4つのユニットが図6のように連結されて核酸を構成していることになります。レヴィンの業績については文献(2)にまとめられています。

 

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テトラヌクレオチド仮説に対する決定的な反論はスウェーデンの科学者、スヴェドヴェリ(Theodor Svedverg
1884-1971、参照3)によって行われました。スヴェドヴェリは超遠心機を開発し、分子の沈降速度からその分子の大きさを計測しました。それによれば、DNAはテトラヌクレオチドのような分子とは比較にならないくらい巨大な分子であることがわかりました。

このほかもしレヴィンの説が正しければ、アデニン・グアニン・シトシン・チミンは常に1:1:1:1で存在しなければなりませんが、測定が精密になればなるほどそうではないことが明らかになってきました。こうして謎が深まる一方の状況で、レヴィンは1940年に亡くなってしまい、世界は第二次世界大戦に突入します。

最後にヌクレオチド関連物質の命名法について述べておきましょう(図7)。

5炭糖(炭素原子5個を含む糖、時計回りにそれぞれの炭素原子に1~5の番号がつけられています)のデオキシリボースまたはリボースは、炭素原子4個と酸素原子1個からなる複素環の5の位置にもう一つ炭素原子が結合した形になっています。1の位置の炭素が有機塩基(図7では Base と書いてあります)の窒素と結合してC-N結合でつながっています。このデオキシリボース(またはリボース)と有機塩基が結合した分子をヌクレオシド(nucleoside, ヌクレオサイド)と呼びます。

ヌクレオシドの5炭糖の5の位置の炭素にリン酸が結合した分子をヌクレオチド(nucleotide,
ヌクレオタイド)と呼びます。ヌクレオチドにはリン酸が1個または2個または3個結合する場合があり(図7)、区別が必要な場合はそれぞれ、ヌクレオシド1リン酸、ヌクレオシド2リン酸、ヌクレオシド3リン酸と呼びます。

 

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ヌクレオシドには塩基として、アデニン、グアニン、チミン、シトシンが結合している分子があり、糖の2の位置がHだった場合、それぞれデオキシアデノシン、デオキシグアノシン、(デオキシ)チミジン、デオキシシチジンと呼びます。糖の2の位置がOHだった場合は、それぞれアデノシン、グアノシン、RNAの場合にはチミンでなくウラシルが結合していて、この場合ウリジンと呼びます、そしてシチジンです。チミジンの場合、ウリジンと判別が容易なので、頭にデオキシをつけないことがあります。

次にヌクレオチドですが、例えばアデノシンに3つのリン酸が結合している場合、アデノシン3リン酸(ATP=adenosine triphosphate)と呼びます。2つのリン酸が結合している場合はアデノシン2リン酸(ADP=adenosine diphosphate)、ひとつだとアデノシン1リン酸(AMP=adenosine monophosphate) ということになります。これらの物質の名前は、生化学を学ぶときには嫌と言うほど頻繁に登場します。

5炭糖の2の位置の炭素にHが結合する場合デオキシリボース、OHが結合する場合リボースと呼びます。DNAに構成要素はデオキシリボースです。アデニンとグアニンをまとめてプリン、チミンとシトシンとウラシルをまとめてピリミジンと呼ぶことがあります(図7)。

 

参照:

1)アルブレヒト・コッセルのノーベル賞受賞講演
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1910/kossel-lecture.html

2)レヴィンの業績:PHOEBUS AARON THEODOR LEVENE 1869-1940、Proc NAS USA XXIII 
pp.75-126 (1943)
http://www.nasonline.org/publications/biographical-memoirs/memoir-pdfs/levene-phoebus-a.pdf

3)https://en.wikipedia.org/wiki/Svedberg

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2016年10月17日 (月)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが39: DNAの発見

Friedrich_miescher_2フリードリッヒ・ミーシャー(1844-1895 図1)の父親はスイスのバーゼル医科大学解剖学・生理学の教授でした。ミーシャーは父の跡を継いでバーゼル医科大学を卒業し、耳鼻科の医師になるトレーニングをはじめましたが、子供の頃からの難聴のせいで診察はうまくいきませんでした。

また彼自身はもともとそんなに医師への興味はなく、むしろ生命現象の科学的解明に強い関心を抱いていたので、ドイツのチュービンゲン大学ホッペ=ザイラー教授の下で1868年から生理学の研究をはじめました。

ミーシャーは畑違いなので勉強していなかったと思いますが、1866年にはメンデルが遺伝の法則を発表しており、また同じ年にエルンスト・ヘッケルは遺伝情報が核にあるという説を発表していました。後者はおそらくミーシャーも知っていたと思われます。

ミーシャーは当初から生命現象を化学によって解明しようという目的で、生化学の創始者であるホッペ=ザイラーを師に選んだのです。ホッペ=ザイラーの研究室は中世からあるチュービンゲン城を改装した場所にあり、図2はミーシャーの研究室の有名な写真です(ウィキペディアより)。この部屋は中世には厨房として使われていたそうです。

 

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ミーシャーはまず細胞の化学組成を解明しようと考えました。選んだ細胞はシンプルな球形で、遊離細胞であるリンパ球です(図3)。最初はリンパ球を実験動物のリンパ節やヒトの血液から採取しようとしましたが、採取できる量が少なすぎたため、ホッペ=ザイラーの助言に従って、患者の膿(うみ)から採取することにしました。当時は消毒もいいかげんで、負傷者や手術した患者の包帯から大量の膿がとれたので、実験は軌道に乗りました。

膿というのは、若い人の中には見たことがない人もいるかもしれませんが、生体防御反応のひとつで、細菌を殺すために出動した白血球やリンパ球およびそれらの崩壊産物が主成分です。

 

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ミーシャーの実験プロトコルは次のようなものでした。

1: 当時 "核" の未知タンパク質が遺伝物質ではないかというヘッケルらの考えがあったので、ミーシャーはまずこのアイデアが正しいかどうか検討することを目的として、"核" と "細胞質" の分離を試みました。

試行錯誤の結果、ブタの胃の抽出物に含まれるペプシンというタンパク質分解酵素を含む液に、膿の細胞を数時間浸しておくと、細胞が溶けて核が分離できることがわかりました。ペプシンはあの細胞説で有名なテオドール・シュワンが1836年に発見していました。

2: こうして得られた核を弱いアルカリで処理し、抽出した物質の溶液に酸を加えると、未知物質の沈殿が生じることを見つけました。同じような物は肝臓、睾丸、酵母、鳥の赤血球からも抽出可能でした(哺乳類の赤血球には核がない)。ミーシャーはこの物質が、それまで知られていたどのタンパク質とも異なることを確かめ、ヌクレインと命名して1869年に学会で発表しました(論文出版は1871年(1))。

このヌクレインが、現在の知識に照らせばまさしくDNAだったわけです。論文(1)はホッペ=ザイラーが出版する雑誌に投稿されましたが、ホッペ=ザイラーは1年間かけて、自分ですべて追試した上で掲載を許可しました。当時としてはリン酸が多量に含まれていたり、強い酸性だったりすることがなかなか信じてもらえなかったわれです。そのくらい異常で重要な意味のありそうな論文だと、ホッペ=ザイラーも感じていたと思われます。

3: 彼はヌクレインの元素分析を行ない、通常タンパク質が含む炭素、水素、酸素、窒素以外にリンを含むことを明らかにしました。ミーシャーはヌクレインの成分に多量のリン酸が含まれることから、ひょっとするとこれはタンパク質ではないかもしれないとは考えていたようです。

その後ミーシャーはバーゼル医科大学の生理学の教授となってヌクレインの研究を続けましたが、講義は苦手で研究環境としてはあまり良くなかったようです。さらに彼のヌクレインのサンプルは単に普通のタンパク質に無機リンが混入しただけだろう、という批判にはっきり答えられなかったため、しだいに忘れられそうになっていました。しかしそれでもミーシャーはこつこつとヌクレインの精製法の改良を続け、材料として理想的な鮭の精子から、かなり純粋な段階にまで精製することに成功しました。

細胞の染色法やミトコンドリアの発見で知られているリヒャルト・アルトマンは、タンパク質をほとんど含まない画分にヌクレインが存在することを確かめ、ヌクレインを核酸 (nucleic acid) と改名することを提唱し、この物質がタンパク質とは異なることをアピールしました。ヌクレイン=核酸の精製法の進展はミーシャーの死後、シュミーデベルクによって論文にまとめられています(2)。

彼らは核酸をバラエティーのない固定した構造の物質と考えていたので、大きなバラエティーが必要な遺伝子の担い手としては不適切だと考えざるを得ませんでした。しかしいろいろな時代的制約などによる限界がありましたが、もちろんミーシャーやアルトマンと共同研究者達こそがDNAの発見者であり、彼らの萌芽的研究から20世紀の輝かしい分子生物学の歴史が誕生したことに疑いの余地はありません。ミーシャーの業績は Ralf Dahm によってまとめられています(3)。

 

P_04717322ミーシャーにはヌクレインの精製以外にもうひとつの業績があります。それは鮭の精子からプロタミンを発見し、精製したことです(4)。

プロタミンは塩基性のタンパク質で、ヌクレインの酸性を中和する役割が考えられました。現在から見ても、核の基本的な構成要素であるヌクレオソームは核酸とヒストン(またはプロタミン)の複合体であり、重要な知見であると言えます。

鮭の精子から採取されたDNAは現在でもよく研究用に使用されます(図4)。精製されたDNAは白い繊維状のもので、使うときはピンセットで一部を引き裂いて使います。

スイスのバーゼルにはミーシャーの名を冠した ”Friedrich Miescher Institute for Biomedical Research”
が1970年に設立され、現在も活発に活動しています(5)。またチュービンゲンのマックス・プランク研究所には Laboratory of Friedrich Miescher があります(6)。

 

参照:

 

1) Miescher F. Uber die chemische Zusammensetzung der Eiterzellen. Med.-Chem.
Unters. 4, 441-460 (1871)

2) Schmiedeberg O., and Miescher F.
Physiologisch-chemische Untersuchungen uber die Lachsmilch. Arch. Exp. Pathol.
Pharm. 37, 100-155 (1896)

3) Ralf Darm, Friedrich Miescher and the
discovery of DNA. Develop. Biol. 278, 274-288 (2005)

4) Miescher F. Das
Protamin - Eine neue organische Basis aus den Samenfaden des Rheinlachses. Ber.
Dtsch. Chem. Ges. 7, 376 (1874)

5) http://www.fmi.ch/

6) http://www.fml.tuebingen.mpg.de/

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2016年10月 9日 (日)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが38: ハエ部屋

メンデルの法則と染色体の挙動を結びつけたサットンの業績は大きかったわけですが、まだメンデルの言うエレメント=遺伝子が染色体上にあるという証明にはなっていません。染色体の上にあると考えるとメンデルの法則をうまく説明できるというレベルです。

サットンの研究者廃業のあとを受け継いで染色体説を発展させたのはトーマス・ハント・モーガンです。モーガンはもともと遺伝学者ではなく、発生生物学者でプラナリアなどの再生や発生を研究していました。プラナリアというとよく教科書に出てくる、頭を切れば頭が生えてくる、尾を切れば尾が生えてくるというあの生物です(図1)。モーガンは再生に必要な物質の勾配という概念を提出し、それは最近になって阿形らによって証明されました(1)。

 

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Tsuda_umekoモーガンは若い頃ブラインマーカレッジという女子大学で教鞭を執っており、この頃の彼の学生の中には後に津田塾大学を創設する津田梅子(図2)もいて、彼女にはカエルの発生の研究をやらせていたそうです(2)。

発生生物学をやっていると、遺伝学者の考えていることが単純すぎるようにみえることは理解できます。というのは、たいして特徴のない受精卵から、さまざまな組織・器官が時間の経過と共にできてくることを観察していると、形質というものは発生とともにどんどん動的に変化するもので、遺伝子で単純に規定される静的なものではないという考え方になりがちだからです。

しかし当時はメンデルの再発見で大騒ぎとなっており、彼がウィルソンに呼ばれて来たコロンビア大学にはサットンという減数分裂を目視した俊英の大学院生がいました。モーガンがメンデルの法則や染色体説の真偽に関心を抱いたのは当然でしょう。モーガンはまたド・フリースの突然変異説に傾倒し、ダーウィンの自然選択が成立するためには突然変異が重要な役割を果たすものと考えました。そして1907年頃から、それらの課題を研究するために最適な実験動物としてキイロショウジョウバエを選択しました。

 

キイロショウジョウバエ(図3)はいわゆるコバエの一種であり、体長2~3ミリで、乾燥酵母・オートミール・蔗糖などで手軽に飼育することができます(図4)。メスが10日で成熟して、一度に50個前後の卵を産むことができるというのが研究上の魅力です。モーガンはこれで飛躍的に研究が進むと期待したのでしょうが、最初の頃はまったくうまくいきませんでした。それは突然変異体を検出するのが非常に難しかったからです。何千何万という小さなハエを観察して変異を同定するのは骨が折れます。

 

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しかし1910年になって彼の前に救世主が現れました。それは白眼の突然変異体(ミュータント)で、これを野生型のメス(赤眼)と交配させるとF1はすべて赤眼となりますが、F2のオスは50%の確率で白眼になることがわかりました(図5、参照3)。

 

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この少し前にウィルソンとスティーヴンスはショウジョウバエのメスは2本(1対)のX染色体を持つが、オスはX染色体を1本しか持っていないことを観察していました。このことを考え合わせて、オスの1本のX染色体に変異が発生すると白眼になり、それはメンデルのいう劣性変異のため2本の性染色体を持つメスでは発現しないとするとうまく説明できます。すなわちこの白眼の変異は性染色体Xと挙動を共にすることがわかりました。

ショウジョウバエはヒトと同じくメスはXX、オスはXYという性染色体をもっていますが、オスが父親から引き継ぐY染色体には眼の色にかかわる遺伝子は存在しないので、この場合考慮しなくていいのです。

この研究結果によってモーガンは染色体説に強固な根拠を与えることになりました。モーガンの研究室にはスターティバント、ブリッジス、マラーなどの多くの優秀な学生が集結するようになり、人海戦術でショウジョウバエのミュータントを解析すると、次々と変異が見つかり(図6)、モーガン研究室はまさしく世界の遺伝学の中心となっていきました(4)。

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カルヴィン・ブリッッジスは突然変異体を探し出す特異な才能があり、1925年にカタログ記載された突然変異体365種類のうち240種類は彼が発見したものだそうです(5)。モーガンが最初の2~3年全く突然変異体を検出できなかったことを考えると、これは驚異的です。

そのほかにもブリッジスはいろいろと研究室発展の基盤となるような知見や技術を開発しました。ただ彼は知り合った女性すべてを口説くというドン・ジョバンニのような男で、ドン・ジョバンニはつきあった女性のカタログを従者につくらせていましたが、彼は自分でつくっていたそうです。そして寒い日にカブリオレでデートして心臓麻痺をおこし、若死にしてしまいました。

ショウジョウバエの染色体はわずか4対で、しかもそのうち1対は非常に小さなもので(図7の中央あたりにみえる)、わずかな遺伝子しか乗っていません(図7)。ですから2つの形質に着目したとき、それらが同じ遺伝子に乗っている確率はほぼ30%で、23対の染色体を持つヒトなどと比べると非常に高い確率です。すなわちメンデルの独立の法則が成立しない場合が非常に多いということです。

 

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図8のようにAとbという形質が同じ染色体に乗っていれば、遺伝の際にまるで一つの形質のように行動を共にするはずなのですが、時にそれが分かれてしまうことがあります。このことについて、1909年にベルギーの生物学者ヤンセンスが、減数分裂で4つの染色体が集合した際に、それぞれの染色体の1部が交換されるということを発見していました。Aとbの形質の間で染色体がちぎれて、a、Bの相方と交換されるとAB、abという新しい連鎖が成立します。染色体の一部が交換されてできた新たな染色体を組み替え型染色体といいます(図8)。

 

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ここでアルフレッド・スターティバントは考えました。染色体がランダムな位置でちぎれるとすると、染色体上で離れた位置にある遺伝子は別れやすく、近傍にある遺伝子は分かれにくいと想定されます。すなわち「組み換え型染色体ができる確率は遺伝子A、Bの染色体上の距離に比例する」という公式が成立します(図9)。ですから組み替え型染色体ができる確率を多くの遺伝子について調べれば、遺伝子地図の作成が可能であることに気がついたのです。

 

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例えばAという形質とBという形質に注目したとき、両者が組み替えによって別れる確率が10%であるとします。そしてBとCは5%だとすると、さらにAとCについて検査してみると15%だった場合、A、B、C という形質は染色体上に図9に示されるような順と距離で配列されているということが推定されます。

組み替え確率の%を距離に置き換えて、センチモルガンという単位を使用します。染色体全体を100センチモルガンとして、多くの形質について上記のような検査を行うと、原理的には何百何千という遺伝子を染色体上に並べることができます。こうして染色体地図を製作することができます。これは遺伝子が染色体上にあるということの決定的な証明となりました。

ハーマン・マラーはX線照射によって突然変異が誘起されることを発見し、遺伝学・放射線医学生物学の進歩に大きな足跡を残しました。彼は筋金入りの共産主義者で、一時期レニングラード(現サンクトペテルブルク)に移住して、ソ連の科学アカデミーで活躍していたこともあるそうです。しかし彼の理想とは裏腹に、次第にソ連の遺伝学界はルイセンコに汚染され、彼を招いてくれたヴァヴィロフも獄死しました。

「ハエ部屋」と呼ばれていたモーガンの研究室からは、モーガン自身以外にも上述のマラーや後で登場するビードルというノーベル賞受賞者をはじめとして多くの遺伝学者が輩出し、スターティバントの弟子のデルブリュックやルイスもノーベル賞を受賞しました。

「非凡な農民:http://www.agr.ryukoku.ac.jp/teacher/nakamura_george_beadle/chapter5.html」 というサイトに興味深い記述があったので、最後に引用させてもらいました。

以下引用:
モルガンと彼の学生達が生み出す知的なエネルギーは物理的な環境の劣悪さをものともしなかった。コロンビア大学構内のシェルマホーン・ホールの6階に位置する彼らの仕事場は16 x 23 フィートの広さの一部屋で、そこには8つの机が所狭しとばかりに詰め込まれていた。コロンビア大学はまだ大きな居住用アパート群に囲まれてはおらず、実験室からは近くの牧草地で草を食むヤギの群れが見えた。訪問客は即座に部屋の汚さと乱雑な様子に気づいて驚くのだった。中でハエが飛び回るガーゼで蓋をしたガラス瓶が、紙切れや終了した実験から出た屑ゴミで溢れた机と棚の空間を奪い合っていた。ハエ・グループの神秘的雰囲気の一部は、ハエを収めるミルク瓶が近くの家々の玄関先から収穫されたものではないかという疑いから来ていた。ハエは割り当てられたミルク瓶に閉じ込められてはいたが、あらゆる隙間と割れ目に潜むゴキブリがハエの餌や他の食物の残り滓の上を自由に這いずり回っていた。もちろんネズミが部屋の汚物置き場に集まった残り物の中から食物を探して運動会をしているような有様だった。部屋には酵母と腐りかけたバナナの匂いが漂っていた。時折、建物の友人や同僚達が壁を飾るバナナの茎をもらいにやって来たりした。
:引用終了

ヒトが生活している中で、最もめざわりで迷惑な生物はハエ・ゴキブリ・マウス・ラットなどですが、それらが大変有用な実験動物として利用されていることは、一般の人々に理解して欲しいことです。迷惑動物を材料に使って研究しているからといって、白い眼で研究者をみるのは無知の証明です。

図の多くはウィキペディアから借用させていただきました。

 

参照:

1)http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/news6/2013/130725_1.htm
The molecular logic for planarian regeneration along the anterior-posterior axis. Umezono et al. Nature 500, 73-76 (2013)

2)http://argmyntbk.exblog.jp/9395215

3)https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Hunt_Morgan

4)「細胞学の歴史 生命化学を拓いた人々」 Arthur Hughes 著 西村顕治訳 八坂書房 1999年刊

5)http://www.agr.ryukoku.ac.jp/teacher/nakamura_george_beadle/chapter5.html

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2016年10月 5日 (水)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが37: 染色体説

Birthofthドイツの生物学者シュライデンとシュワンが細胞説(生物の体は一般に細胞から成り立っている)を発表したのは1838・1839年ですが、1832年にベルギーの生物学者デュモルティエが細胞分裂を報告しているにもかかわらず、シュライデンとシュワンは細胞の増殖については正しい理論に到達しませんでした(1)。

ドイツの病理学者ルドルフ・フィルヒョウが「すべての細胞は細胞から生じる」という理論を提唱したのは1958年であり、メンデルが1860年代に遺伝の法則を発表する直前でした。その頃にはまだフィルヒョウの考え方が一般に認められていたわけではないようです。

ドイツの生物学者テオドール・ボヴェリはウニの発生の研究から、正常な胚発生のためには分裂した細胞それぞれにすべての染色体が存在することが必要であることを示しました。また染色体が異常になることが「がん」の原因であるという学説を提唱しました(2)。すなわち生物の形質には染色体が大きな影響を与えることを示唆したわけです。

細胞説誕生に関する詳細は文献(3、表紙は図1)に詳しい記述があると思われます(私は未読)。

 

 

Suttonメンデル再発見直前の1898年、ウォルター・サットン(図2)はカンザス大学の細胞学者クラレンス・E・マクラングの学生として染色体研究を始めました。

1900年からはマクラングの勧めでニューヨークのコロンビア大学に移り、細胞学の大家であるエドマンド・B・ウィルソンの元で博士課程の大学院生として研究を行いました。

 

 

 

 

 

 

Photoマクラングはバッタ Brachystola magna (図3)において性染色体を発見し、その研究を行っていました。このバッタは染色体が大きく、観察しやすいという細胞学研究上の利点がありました。

サットンはこの昆虫のオスの精子形成では、生殖細胞に特異的な細胞分裂=減数分裂の過程にある染色体が大きくはっきりと観察できることを見いだし、その観察を行いました。

彼はこの研究をウィルソンの研究室で発展させ、減数分裂における染色体の挙動はメンデルの法則に従うとする「染色体説」を提唱しました (4,5)。

 

もしメンデルの言うエレメントを母親からひとつ、父親からひとつ受け継ぐとすると、F1のもつエレメントは2つです。そうするとF2は4つ、F3は8つのエレメントをもつことになり、もしエレメントに物理的実体があるとするとすぐに膨大な数になって理論は破綻します。親が持つエレメントの数を常に同じ数にするためには、生殖細胞(動物の場合は精子と卵子)のエレメント数は親の半分でなければいけません。

サットンは精子形成過程において、この減数がおこなわれているのではないかと考え、顕微鏡で熱心に観察しました。皆さんも中高時代にムラサキツユクサ(図4)などで観察したことがあると思います。

 

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この結果図5のように精子の染色体の数は体細胞の半分で、これは精子形成過程で減数分裂という特殊な細胞分裂が行われることを示しています。親細胞と同じ娘細胞が2個できる通常の体細胞分裂と違って、減数分裂では染色体の数が半分の娘細胞が4個できることがわかりました。

このことからサットンは体細胞はメンデルの言うエレメント=染色体を2セットずつ持っており、精子は1セットづつ持っていると考えると、それまで概念的な理論であったメンデルの法則が染色体という実体をともなってうまく説明できると考えました。簡単に言えばこれがサットンの「染色体説」です。サットン自身の記述を引用しておきましょう(4より)。
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I may finally call attention to the probability that the association of paternal and maternal chromosomes in pairs and their subsequent separation during the reducing division as indicated above may constitute the physical basis of the Mendelian law of heredity.
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きちんと述べると次のようになります。

1.メンデルの言うところの”要素=エレメント”は卵や精子(花粉)のような配偶子を通じて次世代に伝達される。卵と精子には均等に要素が含まれる。

2.細胞核の構成成分のうち、染色体は細胞分裂のとき娘細胞に均等に分配される。”要素”は卵と精子が均等にもっているはずなのに、卵の細胞質は巨大で、精子の細胞質は非常に乏しいことから、細胞質ではなく核(染色体)に要素が含まれると考えられる。

3.染色体は核の中で、メンデルの考えた”要素”という考え方に沿ったかたちで、対になって存在する(相同染色体) → ”要素”は染色体の上に乗っていることが示唆される。

4.卵や精子がつくられるときは、通常対になっているはずの染色体が分離し、そのうちの一つづつがランダムに選ばれて卵や精子に受け継がれる。たとえば体細胞がAaBbCcという要素をもっているとすると、卵や精子は、ABC, ABc, AbC, Abc, aBC, aBc, abC, abc の2の3乗通りの種類が考えられる。人の場合だと23組なので2の23乗通りの卵と精子が存在する。

5.染色体の数に比べて要素の数は非常に多いので、ひとつの染色体に多数の要素が相乗りしており、これらの相乗りしている要素についてはメンデルの独立の法則は成立しないと予測できる。

これは大発見であり、サットンは次世代の生物学を担うホープと期待されました。しかし生来の熱血漢である彼は、あまり薄暗い実験室で顕微鏡を覗いてばかりというような生活は、自分の性格や生きていくポリシーと合わないと考えたのでしょう。大学院時代に歴史的論文を2編発表した後、研究をやめてカンザスにもどり外科医に転業します。そして第一次世界大戦のときにはヨーロッパに渡り、フランスで兵士の治療にあたっています。サットンの面目躍如というところです。

デンマークの遺伝学者ウィルヘルム・ヨハンセンは1909年にメンデルの「エレメント」を遺伝子(gene) と呼ぶよう提唱しました。そして形質という漠然とした概念をはっきりと「遺伝子型 genotype」と「表現型 phenotype」にわけて定義しました(6)。

ヨーロッパから帰還してまもなく、サットンは虫垂炎にかかってしまいます。そしてこの手術が失敗に終わり、わずか39年の生涯を終えることになりました。もう少し生きていれば、間違いなく1901年からはじまったノーベル賞を受賞していたと思われるので、誠に残念な悲劇でした。彼の遺骸はサットン家の立派な霊廟に眠っています。

減数分裂について、より詳しい知識や顕微鏡写真に興味がある方はサイト(7~9)を参照されることをお勧めします。

 

参照:

1) 細胞説:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E8%AA%AC

2) ボヴェリ:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2247478/

3) 「The birth of the cell」 by Henry Harris, Yale University Press, 1999
https://www.amazon.com/Birth-Cell-Professor-Henry-Harris/dp/0300073844/ref=mt_hardcover?_encoding=UTF8&me=#reader_0300073844

4) W. S. Sutton. "On the morphology of the choromosome group in Brachystola magna" Biological Bulletin, 4:24-39, 1902.
公開されています--- http://dev.esp.org/foundations/genetics/classical/wss-02.pdf

5) W. S. Sutton. "Chromosomes in heredity" Biological Bulletin, 4:231-251, 1903.

6)Roll-Hansen, Nils (1979). "The Genotype Theory of Wilhelm Johannsen and its Relation to Plant Breeding and the Study of Evolution". Centaurus. 22 (3): 201–235. doi:10.1111/j.1600-0498.1979.tb00589.x

7) 細胞分裂と細胞周期 http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textbook/celldiv.htm

8) ムラサキツユクサを使った減数分裂の観察 http://www.aichi-c.ed.jp/contents/rika/koutou/seibutu/se22/gensuubunretu/gensuubunretu.html

9) 走査型電子顕微鏡による減数分裂の観察: 鈴木晶子、高橋正道 香川生物(Kagawa Seibutsu)(19):53-58,1992.   閲覧できます→AN00038146_19_53.pdf

 

 

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2016年10月 4日 (火)

生物学茶話@渋めのダージリンはいかが36: メンデルの再発見

「メンデルの再発見」というのは科学史上の大事件ですが、「再発見」というのに少しひっかかります。昔の論文の追試をしたら、その通りの結果が出たとも言い換えられるわけで、そんな実験結果が次々と発表されたのが1900年という年だったのです。

中沢信午氏の著書「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」(1)を読むと、メンデルの論文が発表された1866年から、再発見される1900年まで、誰もがメンデルの研究を忘れていたわけではないそうです。実際メンデルの論文はスウェーデン・ロシア・ドイツ・USAの科学者達によって引用され、ブリタニカ百科事典第9版(1881~1895)にも紹介されているそうです。

気にしていた科学者はそこそこいたのですが、きっちり検証しようとした人は少なかったということでしょう。ド・フリースはケシの花色について、メンデルを意識した実験を行いました。そうすると花色の遺伝の様式がメンデルの法則にきっちり合っていることがわかり、さらに他の多くの例を追加して、メンデルの正しさを証明しました。

普通ならド・フリースがメンデル再発見の栄誉をひとりじめできたのかもしれませんが、彼はちょっとした失敗をしてしまいます。1900年に彼は研究結果をほぼ同時にフランス語とドイツ語の論文にして発表したのですが、そのフランス語の論文にメンデルの論文が引用されていなかったのです。後の検証によって、これは編集上のミスだったとされています。家族の不幸のためにきちんと校正をやってなかったらしいです。

しかしこのフランス語の論文を読んだチェルマクとコレンスはびっくりしました(彼らのところに送られてきたのはフランス語の論文でした)。彼らもメンデルの実験の追試をやっており、メンデルの正しさを確認していましたが、コレンスは追試なので発表するほどの価値はないと思って、データをしまっていたのです。まるでド・フリースが自分でメンデルの法則を発見したかのような論文の書き方に、彼らが激怒したのは理解できます。しかもチェルマクは1898年にド・フリースを訪問しており、そのときにド・フリースがメンデルの研究を知っていることを確認していました。コレンスはあわてて論文をまとめて発表しました。チェルマクもも同じ年に論文を発表しました。このような事情によって、この3人がメンデルの再発見者ということになっています(図1)。

 

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メンデルの法則が動物にも適用できることをはじめて証明したのはカイコ研究の泰斗である外山亀太郎です。農学関係者は誰でも知っていることですが、意外に他分野の研究者にはあまり知られていません。彼は若い頃は設備がなく自宅で研究していて、カイコのエサは窃盗で調達していたそうです。もうすこし設備があれば1900年までに研究が発表できて、あの3人に並んで再発見者になれたのにと悔やんでいたとのこと(2)。メンデルに関しては公益財団法人日本メンデル協会という組織があって、雑誌 Cytologia 刊行・講演会・展示会など活発に活動しています(3)。

メンデルの論文「雑種植物の研究」は、はやくも1928年に小泉丹によって翻訳されて岩波文庫で出版されています。私が持っているのは第14版ですが(図2左)、これはさすがに旧仮名遣いで読みにくいので、  岩槻 邦男 ・須原 凖平 によって再翻訳され1999年にやはり岩波文庫で再出版されました(図2右)。読むのならこちらを推奨します。

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Trofim_lysenko_portraitメンデルの理論はその後染色体説などによって補強され、遺伝の原理として認められましたが、1934年にルイセンコ(図3)が獲得形質の遺伝を主軸とした反メンデル理論を発表し(4)、これがスターリンや、第二次世界大戦後もフルシチョフ、毛沢東、金日成などによって支持され、特にソ連(現ロシア)ではメンデル支持者の投獄や処刑が行われるという、まさしく焚書坑儒のような悲惨な事態を招くことになりました。

ここまでひどくはありませんでしたが、欧米や日本でもメンデルに固執する学者は守旧派で、遺伝を説明する新しい理論を求めるのが新時代の科学者という風潮はひろがっていました。これを見事に粉砕したのがワトソンとクリックによるDNAの構造解明で、これによってメンデルの正当性に分子生物学による基盤が付与されることになりました。この点については後にふれることがあると思います。

 

 

 

 

 


参照:

1) 「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」 中沢信午著 新日本新書 1998年刊

2) 外山亀太郎が興したカイコの遺伝学の今日的意義  嶋田透 第33回東京大学農学部公開セミナー
http://www.a.u-tokyo.ac.jp/seminar/33-yousisyu.pdf

3) 日本メンデル協会HP: http://square.umin.ac.jp/mendel/

4)こちら

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生物学茶話@渋めのダージリンはいかが35: メンデルの法則

メンデルは純系のエンドウマメを作成し、それらを親(ペアレント)として交配しF1(雑種第1代)を作成しました。F1は花粉と胚珠(おしべとめしべ)からそれぞれ遺伝情報を伝えられているので、両者の情報がF1でどのように発現しているかは遺伝学の超基本です。

優劣の法則とは、花粉と胚珠から伝えられた遺伝情報は、平等にF1の形質に反映されるわけではなく、どちらかが優先的に発現し、片方は隠されることになるという法則です。図1のように紫色の花のマメと白色の花のマメを交配すると、F1はすべて紫色の花のマメになります。メンデルは親はそれぞれ AA、aa という情報を持っており、これらを交配するとF1はすべて Aとa という2種類のエレメント(メンデルは遺伝情報の単位をこう呼びました)を保有することになります。このときに a は隠され、Aが優先的に発現するわけです。遺伝学ではAをドミナント(優性)、a をリセッシヴ(劣性)といいます。この場合紫色の花がドミナント、白色の花がリセッシヴということになります。

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ではAaのF1同士を交配させると、白色の花のマメはもう現れないのでしょうか。いえ実は25%の確率で現れるのです。このことを説明するのが分離の法則です。

Aとa という2種類のエレメントを持っているF1の配偶子(花粉または胚珠)はAを持つ可能性が50%、a を持つ可能性が50%としますと、これらを交配するとAA:25%、Aa(50%)、aa (25%)ということになり、白色の花のマメ(aa)が現れる確率が25%であることが説明できます(図2)。

もしF1の体内でAとa が混じり合ってしまうと、このようなことは起こりえません。すなわち a という形質はF1において隠されているだけで、そのままの状態で保管されていなければなりません。そうすればAとa がF2で分離して、紫色の花と白色の花の両者が発現することが可能となります。これが分離の法則です。

 

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メンデルはエンドウマメの多くの形質について、分離の法則を確認する実験を行っており、その結果はほぼF2において優性形質の発現:劣性形質の発現=3:1であることが証明されました(図3)。どうしてぴったり3:1にならないのかという疑問があるかもしれませんが、それはひとつは統計上のゆらぎであり、いまひとつはサヤにマメがほとんど含まれていない場合や小さいマメが多数含まれている場合などに、それらのデータを棄却したことが影響していると思われます。実験に関係のない要因で異常が発生したと思われるときにデータを棄却するのは妥当なことだと思います。どのようなデータを棄却するかは科学者のセンスで、もちろん後に批判の対象になることもあります。

 

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最後に独立の法則ですが、これはランダムに2種類の形質に着目し、例えば(丸い種・しわの種)と(緑のさや・黄色のさや)という形質を取り上げた場合、丸い種のものは緑のさやになりやすい、あるいは黄色のさやになりやすいなどという傾向があるのか、それともランダムなのかということを検証してみたところ、図4のようにF2において両形質はお互いに影響を与えず、(丸い種・緑のさや):(丸い種・黄色のさや)黄色のバック:(しわの種・緑の種)赤い波線:(しわの種:黄色のさや)黄色のバックかつ赤い波線=9:3:3:1となることがわかりました。

 

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メンデルの法則は物理学の法則のように、あらゆる事象にあまねく適用できるというものではなく、むしろ一定の法則が適用される場合を選んだという意味もあるので、物理学の法則とは少し違う意味合いがあります。非常に複雑そうに見える遺伝という現象のなかに、あるシンプルな法則に従う場合があることを示したことが、以後の遺伝現象研究の突破口になったという意味で重要なのです。

むしろメンデルの法則が適用できない場合は無数にあるわけですが、それぞれなぜ適用できないかということの探求が遺伝現象の本質を解明する手がかりとなりました。生物の形質はひとつの遺伝子によって決まるという場合はむしろ少なく、複数の遺伝子がからんでいる場合が普通です。その場合当然メンデルの法則は単純には適用できません。

AAとAaでは、例えばAの実体が酵素であった場合、AAはAaの2倍酵素があるという場合もあるわけで(すなわち a は酵素が活性を失った変異だとしましょう)、2倍あれば赤い花、1倍ならピンクの花ということもあり得ます。この場合優劣の法則は成立しません。また生物は染色体を複数持っていますが、同じ染色体にのっかっている遺伝子は、当然F1でもF2でも一緒に行動するわけで、独立の法則は適用できません。メンデルの時代には染色体上に遺伝子が並んでいることなどわかっていなかったわけですから、独立の法則を適用できない場合があることは説明が不可能でした。

ヒトを例にとるとメンデルの法則を単純に適用できる形質を見つける方がむしろ大変で、例えば富士びたい(優性)、耳たぶがない=密着型(劣性、図5 ウィキペディアより)、舌を巻いてU字型にできる(優性)などがあり、これらはひとつの遺伝子で決定される形質と思われます。

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メンデルは研究結果をブルノ自然研究会会誌第4号pp4~37(1866)に発表しました(1)。タイトルは「植物雑種の研究(Einleitende Bemerkungen)」でした。この雑誌は500部印刷され、各地の大学や図書館に配布されていて、多くの学者は簡単にみることができたはずですが、全く注目されませんでした。実はその論文は数式が頻繁に出てくるような、当時の生物学者としては見慣れない書き方だったので、多くの生物学者は理解できないと思って読むのを放棄したのではないかと考えられています。

メンデルは修道院の院長に選挙で選ばれ多忙な中で、さまざまな生物の遺伝について自分の理論があてはまるかどうか精力的に研究を続けたのですが、エンドウマメほどきれいな結果が得られず、失意のうちにその生涯を終えました。高名な作曲家であるヤナーチェクはメンデルの修道院で聖歌隊の指揮をしており、メンデルの葬式にあたっては、ヤナーチェクの指揮で荘厳なミサが行われたそうです。


参照:

1) http://www.mendelweb.org/Mendel.plain.html


参考にした文献:

「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」 中沢信午著 新日本新書 1998年刊

「コンドルは飛んでいる メンデルは跳んでいる」 こんどうしげる
http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/mendel.html

 

 

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生物学茶話@渋めのダージリンはいかが34: 19世紀のヨーロッパ

突然ですが、話は19世紀のヨーロッパに飛びます。現代生物学の基礎を築いたのは、19世紀のヨーロッパで活躍した科学者達です。図1の5人はその中でも卓越した業績を残し人々です。

 

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英国のダーウィンは、生物は限られた資源を個体で争ううちに、生存に有利な変異を行った個体が子孫にその変異を伝えることによって進化がおこるという「自然選択説」を提唱し、生存中にこの理論は人々に受け入れられて、亡くなったときには国葬まで行われました。またパスツールはワクチン開発など医学に貢献したほか、自然発生説の否定、ビールや牛乳を日持ちさせる方法の開発など社会に大きく貢献する業績があって、存命中から大変有名な科学者でした。

しかし残りの3人、ミーシャー・アルトマン・メンデルは全く無名で、論文もあまり注目されないまま亡くなりました。ダーウィンもメンデルの仕事を知っていた”ふし”はあるのですが、獲得形質の遺伝というラマルク的な間違った理論を信奉していたくらいです。しかしDNAを発見したミーシャーとアルトマン、遺伝の理論を確立したメンデルは20世紀以降の生物学の根幹となる圧倒的に重要な業績を残したと言えます。

3人の業績について述べる前に、ここではパスツールとダーウィンに少しだけ寄り道したいと思います。パスツールの業績は多岐にわたっていますが、生物学の観点からみると、生命の自然発生説を否定したことが際立っています。生命はもちろん20億年以上前に自然発生したわけですが、19世紀に現存する生物が自然発生するわけがありません。さすがにパスツールの時代には、ネズミがゴミ箱に自然発生するというような説は否定されていましたが、微生物は自然発生すると思われていました。パスツールはこれに反論するため、有名な「白鳥の首フラスコ」の実験を行いました(図2)。

 

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フラスコの中に肉汁を入れて煮沸滅菌し、そのままフラスコの口をバーナーで熱して伸ばし、図のような湾曲した細い管にします。フラスコと外界は細い管でつながっていますが、このような状況でフラスコを放置しても肉汁は腐敗しませんでした。

自然発生派は煮沸滅菌した密閉容器で腐敗が発生しないのは、腐敗菌に必要な外気が供給されないからだと言っていたわけですが、この実験によって外界との通路が確保されていても腐敗はおこらないことが証明されました。

ところが白鳥の首を根元から折ったり、一番低い部分に無菌液をいれて(この状態だと左の入り口から液に落下菌がたまる)、しばらくしてからフラスコに流入させるとたちまち腐敗が誘導されました。つまり上から落下してくる菌がフラスコの中の液にはいると腐敗することがわかりました。菌は肉汁から自然発生するのではなく、空気中から落ちてきて増殖することが判明したわけです。

これで自然発生説は否定されたように見えましたが、肉汁の代わりに干し草の抽出液をいれると、煮沸滅菌しても枯草菌が自然発生してしまいました。ティンダルは枯草菌が芽胞という耐熱性の状態になる場合があるため、煮沸滅菌しても死ななかったということを解明して、ようやくこの問題に決着がつきました(1)。現在では完全に滅菌するためにはオートクレーヴという料理で使う圧力釜のような装置を使って、120°C、2気圧で15分以上処理します。

ダーウィンの自然選択説はいろいろ修正を加えられながらも、現在ではほぼすべての生物学者に認められた考え方です。しかし例えば2016年に米国の共和党大統領候補選挙に出馬して、そこそこ人気があったテッド・クルーズなどは進化論否定論者ですし、米国では進化論と同時に「インテリジェント・デザイン説=何らかの知的な存在がすべての生物を創造した」も学校で教えなければならないという勢力が健在で、激しい論争が続いています。現在(2016年)でも米国人の1/3強は進化論を否定しています(2)。

メンデルの法則もソ連(現ロシア)などでは20世紀になってからも激しい抵抗があり、ルイセンコ(1898年~1976年)は農業技師ミチューリン(1855年~1935年)の仕事(寒いロシアに適応した栽培品種をつくる研究、寒さに晒した種子は寒さに強い品種となり、それから採れる種子も寒さに強い品種になっている)を評価し、メンデルを否定しました。つまり、獲得形質の遺伝(ラマルク説)を支持したわけです。ルイセンコは政府にとりいりメンデル支持派を粛清・シベリア送りにしました。まさか自分の理論を支持したために処刑される人がでるとは、メンデルも墓の中で腰を抜かしたことでしょう(3)。

メンデルはチェコのブルノ市郊外の農家で生まれました。彼は大変苦学してオロモウツ大学付属の哲学学校に入学し、ここで宗教・ラテン語・自然科学などの勉強をして、宗教家・科学者としての基礎を身につけました(4)。オロモウツ大学は1576年創設で、日本では織田信長の時代です。いかにチェコの学問研究の土壌が古くから培われてきていたかということがわかります。哲学学校を卒業したメンデルは、1843年にブルノ修道院に修道士見習いとして就職します。日本は江戸時代でしたが、1839年にはすでにブルノ~ウィーン間に鉄道が敷設されていました。地名とその位置については図3を参照してください。これは高速道路地図ですが、チェコの西側(ボヘミア)の中心はプラハ、東側(モラヴィア)の中心はブルノであることがよくわかります。ブルノ修道院の現況は図4に示します。

 

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当時の修道院は宗教の中心であるのみならず、科学技術の中心でもありました。1840年にはブルノ修道院が主催してドイツ農業技術会議という大規模な学会が開催されています。院長のナップはメンデルの優秀さを認め、修道院の植物園を管理し、ブルノ哲学学校の教授でもあったクラーツェルにつけて植物学の研究をやらせようとしました。これがメンデルの生物学者としてのキャリアのはじまりだったわけです。

クラーツェルは1848年までメンデルと共に、修道院の植物園を管理し、植物学の実験研究をやっていたそうです。しかしクラーツェルは当時チェコを支配していたウィーン政府からのチェコ独立を指導する反逆者として追放され、後に米国に渡って客死しますが、彼はダーウィンの「種の起源」を読んでいて信奉していたので、メンデルも当然影響を受けていたと思われます。つまりダーウィンはメンデルを知りませんでしたが、メンデルはダーウィンをよく知っていた可能性が高いということです。

メンデルは植物学のキャリアは積みましたが、決して優秀な修道士ではありませんでした。教員資格試験に落第し、看護師の仕事をさせると評判が悪いということで、困ったナップは彼をウィーン大学に留学させることにしました。

当時のウィーン大学は世界最高クラスの科学者が集まっていた大学で、メンデルは多くの知識や考え方を学ぶことができたのでしょう。特に植物生理学者のフランツ・ウンガーはメンデルの法則の基礎となるような考え方をすでに持っていて、メンデルに影響を与えたと思われます。またメンデルはカール・ゲルトナーの植物の交配に関する実験結果を熱心に勉強していたようです。ゲルトナーは交雑一代目は親のどちらかの性質を受け継ぎ、交雑二代目に、交雑に用いた元の植物のそれぞれの性質が現れることをすでに見いだしており、このことは後のメンデルの法則の基盤になる知見です。

メンデルはもともと記述的な生物学が得意ではなくて(だから教員資格試験に落第した)、物理学や数学が好きだったようです。ブルノに帰ったメンデルは遺伝という現象をなんとか数式で表現できないものかと考えて実験計画を練り上げました。メンデルはまず次のような仮説をたてました。

メンデルの仮説: 生物体は各種の遺伝子の組み合わせで出来ており、その組み合わせに対応して形質が発現する。この過程は何らかの数学的な法則に従う。

1)この仮説を検証するため、メンデルは遺伝的に均一な(つまり雑種ではない)エンドウマメを自家受粉を2年間繰り返して作成し、こうしてできた純系のエンドウマメを出発点として交配を行い、上記の仮説の数学的法則があるかないかを検討しました。

2)メンデルはエンドウマメの形質のなかから、解析しやすいものを慎重に選択しました。メンデルは遺伝子のはたらきが現れた表現形質の集合体が生物だと考えていました。

3)メンデルが偉大だったのは、ひとつの形質はひとつの遺伝子によって決定されるものではなく、ある遺伝子とその対立遺伝子の優劣や相互作用によって決定されると考えたことです。これはあとでわかったことですが、実際に遺伝子は多くの場合ペアとなる染色体にひとつづつ存在し、それらのはたらきによって形質が決定されます。

次回はメンデルの法則についてみていくことにしましょう。

 

参照:

1) こちら1

2) こちら2

3) こちら3

4) 「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」 中沢信午著 新日本新書 1998年刊

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生物学茶話@渋めのダージリンはいかが33: 私たち以外の人類

今回は人類の歴史について考えてみます。私たちはホモ・サピエンスという学名の1属1種の生物ですが、私たちがチンパンジーとの共通祖先から進化する過程で、多くの種が生まれては消えていったと考えられます。少なくとも数万年前までは私たちホモ・サピエンス=現生人類とは異なるホモ・ネアンデルターレンシス=ネアンデルタール人が生きていました。ネアンデルタール人が2~3万年前に絶滅して以来、人類は1属1種となりました。

スミソニアン研究所がアップしている人類系統図(1)を簡略化して示したのが図1です。これによると人類は4つのグループに大別され、私たちはホモ・グループに属するとされています。他の3つのグループは100万年前以前に絶滅したため、最近100万年の間に生きていた人類はすべてホモ・グループ(ホモ属)ということになります。

 

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ネアンデルタール人とわれわれ現生人類はおそらく共通の祖先を持つ近縁種だと考えられます。ネアンデルタール人の遺伝子はかなり詳しく調べられていて(2,3)、現生人類とは80万年前に分岐したとされています。分岐はアフリカで行われましたが、ネアンデルタール人の祖先は40~30万年前にアフリカを出てヨーロッパで繁栄しました。彼らの化石は主として南欧・南ドイツ・東欧の南部・中東から発掘されています。

ネアンデルタール人と現生人類の頭蓋骨を比較すると(図2)、まずネアンデルタール人の頭が前後に長いということがわかります。もうひとつは眉の部分が張り出し、眼窩上隆起を形成しているということです。このことで思い出すのはキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック共演の映画「スピード」で、バス運転手を演じていたホーソーン・ジェイムスです。彼の顔が画面に登場したとき、「うぁネアンデルタール人じゃないか」とのけぞりました(4)。

 

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図3が復顔されたネアンデルタール人です(ウィキペディアより)。もちろん顔はひとそれぞれですから、こんな人もいたんだなということですが。

 

Photo_3_2現生人類=ホモ・サピエンスは25万年前に東アフリカで誕生したとされていますが、彼らはネアンデルタール人よりかなり遅れて10万年前くらいにヨーロッパや中東に進出したようです。

その後ネアンデルタール人と現生人類の祖先、そしてシベリアに住んでいたデニソワ人が小規模ながらも混血して、われわれ現在の現生人類が生まれたようです。デニソワ人はネアンデルタール人から分岐した人類であるとされています。

現在のメラネシア人はデニソワ人固有の遺伝子を4~6%保有していることがわかっています。また現生人類の遺伝子を持ったネアンデルタール人もロシアとモンゴルの国境付近で発見されています。

これはひとつの学説ですが、ネアンデルタール人が絶滅したのはイタリアの火山の噴火のためかもしれません。人口が激減して、サピエンスとの交配が可能なら、次第にネアンデルタール人の血が薄まってしまったと考えられます。

すなわち現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人は別種であるにしても、交配して生殖能力がある混血の子孫をつくることができたということです。あるいはこれらの人類はすべてホモ・サピエンスであり、亜種レベルでの違いとすべきであるという主張も可能です。

21世紀になってからもう1種の人類、ホモ・フローレシエンシス=フローレス人がインドネシアのフローレス島の洞窟で発見されました(図4)。当初は1万2000年前まで生きていたとされていましたが、現在では5万年くらい前まで生きていたということになっています(5、6)。考古学の世界は Nature のような雑誌に投稿された論文でも、すぐにひっくり返ってしまいます。ホモ・サピエンスがフローレス島に上陸したのが5万年前とされているので、ホモ・フローレシエンシスは現生人類=ホモ・サピエンスに滅ぼされたという可能性が高いということになりました。

 

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フローレス人は骨の構造が現生人類とは大きく異なるので、体が小さい(大人でも身長1mくらい)のは小人症などではなくて、ホモ・ハビリスが島嶼化によって小型化したと考えられています。島嶼化というのは、島に隔離された生物は食糧が乏しいことと、天敵がいないことで体が小さくなる傾向があるというという動物学の概念です。一方で国立科学博物館の海部陽介氏らは、ホモ・エレクトゥスの亜種であるジャワ原人がフローレス人の祖先であると主張しています(7、8)。

いずれにしてもフローレス人も洗練された石器や火を使っていたらしいので、彼らなりに独自の進化を遂げていたと思われます。フローレス人の復元像は国立科学博物館で見学できるそうです(私はまだ見ていません)。

 

参照:

1) http://humanorigins.si.edu/evidence/human-family-tree

2) K. Prufer et al., The complete genome sequence of a Neanderthal from the Altai Mountains. Nature  505, 43-49 (2014)

3) http://www.nytimes.com/2013/12/19/science/toe-fossil-provides-complete-neanderthal-genome.html?_r=0

4) こちら

5) http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/033100119/

6) スミソニアン研究所のサイト http://humanorigins.si.edu/evidence/human-fossils/species/homo-floresiensis

7) http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130529/352350/

8) http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130530/352490/

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生物学茶話@渋めのダージリンはいかが32: 現代の大絶滅

800pxlacanja_burn生物学茶話では、これまで生物の歴史を俯瞰してきました。そのなかで、ほとんどの生物が死滅してしまうという危機(大絶滅)が何度か地球に訪れたということを見てきました。代表的なのはペルム紀末と白亜紀末の大絶滅ですが、どうやら現在の私たちはそれら以上の大絶滅のまっただ中にいるようです。

現在地球上では、ひかえめにみて毎日100種を超える生物が絶滅しています。絶滅というのは、その種に属する個体がすべて死ぬということですから、半端じゃありません。例えば広島に原爆が投下されたときにも、広島市民全員が死亡したわけじゃありません。それよりも何千・何万倍もおぞましいことが毎日おこっているというのが現代です。

種が絶滅したとすると、その種に食べられていた生物が異常発生してしまったり、その種を主食としていた生物が道連れ絶滅したりする可能性があり、巡り巡ってどんな人間にとっての不都合が発生するかは計り知れません。たとえばミツバチが絶滅してしまったら、ミツバチに依存している農業がたち行かなくなります。

Jurriaan M. De Vos博士らの試算によると、現代の種消滅速度はバックグラウンドの約1000倍で、このままいくと将来10000倍までその速度があがるそうです(1)。

生物の大絶滅によって、自然の秩序が失われ、地球の自然浄化作用も失われて、地球環境は加速度的に悪化し、私たちが住めなくなるようなひどい状態が来るのはここ100年以内の話しかもしれません。レッドブックに記載された生物を救うことは大事ですが、最も重要なことではありません。種の異常な速度による消滅は地球環境悪化のサインであり、そのことに気がついて、その消滅速度を遅くすることが重要です。ではどうすれば、遅くできるのか?

今地球で普遍的に行われている資本主義は、投資したお金が増えて返ってくることを前提としています。すなわち生産活動の拡大が必須となります。このために人も企業も国も努力するわけです。それを阻害しようとする勢力は排除されます。これをやっている限り、森林伐採(写真 ウィキペディアより)・自然破壊・環境汚染は避けられず、地球によって人類は報復されます。その報復が「適度」なうちに気がついてやめればいいのですが、このままでは人類はきっと最後まで資本主義をやめません。結局無数の生物種を道連れにして、人類は消滅するのでしょうか?

私はCO2排出の協定なんて、極地の氷が溶けてメタンガスが出始めた今となっては意味がないとは言いませんが、手遅れの可能性が高いと思います。とりあえず企業の生産活動の拡大を制限する国際的ルールを定めるくらいのことはやらないとダメでしょう。まず「世界中すべての株式市場を閉鎖する」ということからはじめたらどうでしょうか。これによって企業による生産活動の拡大はかなり防げると思います。これすら中国や米国の反対でできないのなら、もうお手上げです。

そうなったら、大部分の人類が滅びても自分たちだけは(日本だけは)生き残る・・・という方策を探すしかありません。ちょっとした大雨によるインフラ破壊を修復するめどもたたない日本政府に、そんな芸当ができるでしょうか? ダメだろうね。要するに日本政府(=日本人)は企業活動を拡大あるいは維持するために死にものぐるいになっているので、自分たちが生物大絶滅を加速して自殺行為を行っていることなど、全く頭の片隅にもないのです。

キーポイントはマスコミです。「景気をよくしろ」とか「株価をあげよう」とか「生産活動を拡大しよう」とかの方向でマスコミが発信している限り、資本主義という<<生産活動が拡大しないとなりたたない>>制度を廃止することはできません。大絶滅阻止活動は日本だけやっても意味がないので、世界レベルでのマスコミの発信が必要になります。そのためには、まず新聞記者やTVプロデューサーと環境問題専門家による国際会議を行うことが必要でしょうね。

地球環境の危機は、その資本主義の総本山である米国の機関からも警告されています(2)。

<<米国自然史博物館からの警告>>

1)我々は生物大絶滅時代のまっただ中にいます。このことは多くの生物学者が認めていることです。

2)生物多様性の消滅によって、地球が本来もっている空気や水の自浄作用が失われることになります。

3)生物大絶滅は次の世紀における人類の生存を危うくするほどのものなのに、多くの人々はそのことに気がついていない。

<<企業活動と生物多様性>>
ネスレ社がキットカットをつくるために大規模な森林破壊を行ったことで、バッシングを受けましたが、それだけでなく多方面から生物多様性について分析しているサイトがあります(3-5)。

<<三畳紀末の大絶滅との類似性>>
ダンヒルやウィルスは三畳紀末の大絶滅に注目しています。この大絶滅は火山の大噴火によって発生したのですが、最初は火山周辺の生物が絶滅しましたが、そのうち地球全体の生物が影響を受け、多くの種が失われました。このときの状況が現在と類似していると著者は警告しています(6-7)。

<<ミツバチの減少は何をもたらすか >>
多くの植物は、ミツバチによって花粉を運んでもらっています。ミツバチが死滅すると、困るのは人間です(8-9)。

最近ようやく現代の大絶滅をとりあげるサイトも増えましたが(10ー11)、科学者や科学愛好家だけが叫んでいたのではお話にならないのであって、政治家がこのことをとりあげないといけないのです。株式市場を閉鎖するなんて荒唐無稽な主張だと言われるかもしれませんが、それは最初にやるべき第一歩にすぎないのであって、そのあとも地球温暖化や資源の争奪戦をはじめとする多くの難題に取り組まなければなりません。

おそらく人類の知能レベルから言って、それらのすべての試みは失敗し、結局ペルム紀の大絶滅を生き延びた生物のように、穴に潜り眠るということしか出来ないのかもしれません。科学者が出来ることと言えば、遺伝子操作でヒトに夏眠の能力を付与するくらいのことでしょうか。あと地上に太陽光パネルを並べるくらいのことはできるかな。

それにしても私のPC(Win10)はスイッチを入れるたびに「Resume from Hybernation」というメッセージが出るのが不思議です。スリープは使う習慣がないのに、こうなるのはなぜ?

 

参照:

1)Jurriaan M. De Vos et al.,  Estimating the normal background rate of species extinction., Conservation Biology, Volume 29, Issue 2, pp. 452-462,  (2015)
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/cobi.12380/abstract;jsessionid=78F8B9C7E39C7F662636CB049B9D4E71.f02t01

2)NATIONAL SURVEY REVEALS BIODIVERSITY CRISIS - SCIENTIFIC EXPERTS BELIEVE WE ARE IN MIDST OF FASTEST MASS EXTINCTION IN EARTH'S HISTORY
http://web.archive.org/web/20070607101209/http://www.amnh.org/museum/press/feature/biofact.html

3)http://agrinext.jp/archive/tayousei/chapter1/

4)http://agrinext.jp/archive/tayousei/chapter1/page02.html

5)http://agrinext.jp/archive/tayousei/chapter1/page03.html

6)Alexander M. Dunhill & Matthew A. Wills., Geographic range did not confer resilience to extinction in terrestrial vertebrates at the end-Triassic crisis.,  Nature Communications 6, Article number: 7980 (2015)
https://www.nature.com/articles/ncomms8980

7)「現在は6度目の大量絶滅期」 英誌に衝撃の論文…環境破壊で「第4次」酷似
https://www.sankei.com/life/news/150822/lif1508220002-n3.html

8)ミツバチがいなくなったら、いったいどうなるの?
https://www.greenpeace.org/japan/sustainable/story/2015/02/06/2688/

9)農業においてミツバチはとっても重要!いなくなるとどうなる?
https://nira-melon.net/news/agricultural-honeybee/

10)http://karapaia.com/archives/52241943.html

11)こちら



 

 

 

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