続・生物学茶話262:脳の不思議な世界(一色出版)について 後半
第6章は脊椎動物に近縁な生物群の中枢神経系について述べられています。対象の動物(ギボシムシ、ホヤ、ナメクジウオなど)はみな非常に興味深く、この本の中心的課題を取り扱う章と言えます。しかしこの章のライターは調子に乗って話をどんどん進め、読者のわかりやすさを顧みないという悪癖があり、エディターがもっと手を入れて文章を整理し、わかりやすくするという努力をすべきだったと思います。異論はあると思いますが、個人的にはホヤは変異が著しいグループなので概ね省いて、ギボシムシとナメクジウオをメインに構成した方が良かったように思います。230ページの図14をみてもホヤの異様さはよくわかります。
ギボシムシ(半索動物)が脊索・神経管・下垂体・甲状腺とそれぞれ相同の組織を持つことがはるか昔から知られていたとは驚きでした。また運動ニューロンの軸索が交差するというのも興味深いお話です。軸索交差は私は合理的ではなく、進化過程の事情でやむなくそうなってしまったのではないかと思いますがどうでしょうか。
ナメクジウオが保有している4つの目のうち2つが前口動物型だというのは非常に興味深く、この動物が後口動物が分岐する前の始原的左右相称動物の特徴を保持していることを思わせます。体型的にも竹輪型です。
第7章はいよいよ脊椎動物の登場です。
260ページから261ページにかけて非常に重要なことが述べられています。従来脊椎動物の脳と無脊椎動物の脳は起源を異にするものであり、相同ではないと考えられていたのですが、近年の分子発生学の進展によって、両者を作る遺伝子の組み合わせがよく似ていることから、前口動物と後口動物の共通祖先の段階から始原的な脳が準備されていたことが明らかになったということです。
ロンボメア形成と脳の機能は、脳の形成過程を知る上で非常に重要であり、私も「続・生物学茶話212:ロンボメア」で取り上げました。興味のある方はご覧ください
https://morph.way-nifty.com/grey/2023/05/post-9ee757.html
私がこの本を購入した一つの理由は両生類の脳についてまとまった知識が欲しいと思ったからですが、それは空振りに終わりました。特にどうして両生類の小脳が魚類に比べて著しく退化しているように見えるのはなぜか知りたかったのですが、全く記載がなく、そもそも小脳に関する記載が非常にプアなのにはがっかりしました。おそらく著者が得意ではない領域だからだと思いますが、両生類の件については論文が非常に少ないのかもしれません。推察するに両生類は非常に限られた極限環境に生きる魚類から進化したため、その誕生の原点から小脳が退化した状態だったのでしょう。カエルやイモリより動きが鈍い爬虫類や哺乳類はいくらでもいますが、彼らは本来小脳がやるべき仕事を脳の他の部分で代替しているのかもしれません。
視床下部が終脳より前方という新しい考え方は興味深いものがありました。また円口類の終脳が非常に進化した構造を持つことにも驚かされました(多分収斂の結果だと思われます)。
第8章は魚類について。脊椎動物の繁栄の基盤は魚類によって作られました。魚類以外の脊椎動物は海から追い出されたいわば負け組の子孫です。脊椎動物成立直後の始原的イメージを継承する円口類と別れて顎を持つ魚類が生まれた後、初期に分岐した軟骨魚類(サメ・エイ)、普通に魚と呼ばれている条鰭類、私たちと条鰭類の中間にある肉鰭類(シーラカンス・ハイギョ)などが魚類に相当しますが、えこひいきなくフラットな分類学の目で見ると、私たち四肢動物を魚類に含めても不思議ではありません。
魚類の脳の構造は私たちの脳と非常によく似ています。特に橋・小脳・中脳・間脳・終脳という並びは同じです。延髄の構造は私たちより複雑で、終脳の前に臭葉があるなどの相違点はあります。ただ基本構造は同じでも各パーツの大きさには大きな違いがあり、環境に適応して脳のパーツのサイズを変えることによって、特に条鰭類は大繁栄してきたと言えます。この章を読むことによって私たちの脳についての基本的な知識を得ることができます。出発点は293ページの脳の俯瞰図です。でもこの図を見ていると、ヒトの脳は本当に奇形だなあと感じます。
ただこの章のタイトル「水生に最適化した脳の多様化」には違和感があります。魚類およびその祖先はすべて水生なのですから、水の中以外の環境はなかったわけですからこのタイトルの意味はよくわかりません。それに最適化したのに多様化するのはなぜと言いたくなります。ところで私たちの脳は陸生に最適化されているのでしょうか?
第9章は両生類かと思いきや、スキップして爬虫類。とはいえ爬虫類の脳についてはほとんど何も知らなかったので、いろいろ学ぶことができました。特にDVR領域についてのカルテンとブエイエスの論争は興味深く読みました。コラムのマムシは赤外線を感知するピット器官というのを持っていて、この情報は視覚の一部として認識されているという話は、全く知らなかったのでびっくりしました。若い頃に沢を歩いていると、周りに昼寝しているマムシがいっぱいいたことがあり、恐ろしい記憶が蘇りました。
第10章は鳥類の脳です。これは各部位がほとんど英語の3文字略語で表記されているので慣れるまでが大変です。例えば図6は日本語で表記してあるのは「大脳基底核」だけで、RA・NCM・HVC・CMM・LMAN・AreaX・DLMなどと並べられると、この本は一体どんな読者を想定しているのだろうと首をかしげます。最低でもどこかに略さないフルネームと略号の対照表を示すべきでしょう。
とはいえ鳥のさえずりを制御する脳の部位についての記述はとても興味深いものがありました。仲間のさえずりを模倣するための部位と、自分の独自性を加味するための部位が異なることなどがわかっているようです。鳥の鼻の穴の形から、いつ恒温化がはじまったかを推定するというお話にはちょっと感動しました。
第11章は脳研究のコアともいうべき哺乳類の脳についてです。膨大な知識がコンパクトにまとめられていて素晴らしい章です。さらに哺乳類の祖先動物にもふれられていて、ジュラ紀のハドロコディウムには立派な大脳皮質があったが、三畳紀のモルガノコドンの大脳皮質は非常に小さく、哺乳類に特異的な6層構造はできていなかったという情報は新知識でした。
ただ全体的な情報量としてはやや物足りないものがありました。なにしろクジラについてのモノグラフである次の12章よりもページ数が少ないのです。クジラの脳については全く知らなかったのであとでじっくり読んでみようと思っていますが、この本の構成として、両生類についての章がないのにクジラについて1章を割くというのはいかにもアンバランスで奇形的です。これがこの本の最大の欠点です。
フィナーレは第12章で人類に関するものですが、小難しい話はあまりなくて気軽に読める内容です。ただ私は毛の研究をしていたことがあるので、ケラチン遺伝子の周辺にネアンデルタール人由来の遺伝子が多いというお話にはびっくりしました。
人類の歴史は700万年前頃からはじまっているそうですが、400万年前頃に生きていたとされるアウスロラピテクスまであまり脳の進化はなく、250万年前のホモ・ハビリスから急速に進化したそうです。
最近スペインのマルトラヴィエソ洞窟で、ホモ・サピエンスがヨーロッパに現れるはるか以前に描かれた手形が発見されて研究されています(1)。これはもちろんネアンデルタール人によるものです。
1)Christopher D. Standish et al., The age of hand stencils in Maltravieso cave (Extremadura, Spain) established by U-Th dating, and its implications for the early development of art., J.Archael.Sci., vol.61 (2025)
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2024.104891
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2352409X24005194
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