続・生物学茶話285:感情とは 2.ソマティック・マーカー仮説
アントニオ・ダマシオはポルトガルのリスボン医科大学で医学を学び、神経科学を専攻して学位を得ました。その後米国に移って主にアイオワ大学で研究を続けました。感情とその生物学的基礎がいかに意思決定に関与しているかについての仮説「somatic marker hypothesis」を提唱しました。これはどう訳したらよいかわかりませんが、脳科学辞典では somatic marker を身体信号と訳しています(1)。一般的にはそのまま「ソマティック・マーカー仮説」とされているようです。
アントワン・ベチャーラはカナダのトロント大学で学位を得て、その後米国のアイオワ大学で研究を続けました。ここでダマシオと共に Iowa Gambling Task (アイオワ・ギャンブリング課題、2)という意思決定の過程を検定するテストを開発して、ダマシオの仮説を実験的に確かめました。ダマシオとベチャーラの写真を図185-1に示します。
図185-1 アントワン・ベチャーラとアントニオ・ダマシオ
フィニアス・ゲージ氏のように前頭前野の損傷がある人や扁桃体に損傷がある人は、脳生理学のさまざまなテスト、IQ・数値計算・長期短期記憶・言語能力・運動機能・視覚聴覚などでは異常が発見されないくらい保たれているにもかかわらず、日々の行動計画をたてたり、過去の失敗を考慮してやり方を変えることなどの意思決定ができず、友人やパートナーを選ぶことができないなど様々な生きていく上で必要なことができないため、普通に生活することができません。この欠陥の原因を究明するため、ベチャーラとダマシオはアイオワ・ギャンブリング課題というテストを開発しました。
アイオワ・ギャンブリング課題とは、Senwisdomsというサイト(3)の説明をお借りすると、
まず4つのカードの束(ABCD)をつくります
A:報酬は100円。10枚に1枚の割合で1250円の罰金カードがはいっている
B:報酬は100円。4枚に1枚の割合で500円の罰金カードがはいっている
C:報酬は50円。10枚に1枚の割合で250円の罰金カードがはいっている
D:報酬は50円。4枚に1枚100円の罰金カードがはいっている
AまたはBを選び続けると損をしますが、CまたはDを選び続けると得をすることになります。
ベチャーラとダマシオの研究によると、健常者はこのテストを続けると、次第にCDを選んで得をすることになりますが、フィニアス・ゲージ氏のように大脳の腹内側前頭前野に損傷がある人(4、5、図185-2)や扁桃体(6)に損傷のある人は、いつまでたってもトータルで得をするような選択にたどりつけないことがわかりました(7、図185-3)。
図185-2 ヒト脳における腹内側前頭前野の位置
図185-3 アイオワ・ギャンブリング課題
ベチャーラとダマシオはカードを引くときの被験者の皮膚に流れる電流を測定しました。この結果健常者はABがある机からカードを引くと皮膚に流れる電流が強くなりますが、腹内側前頭前野に損傷がある患者はAB、CDのいずれの机から引いても差はなく、扁桃体に損傷のある患者の場合はそもそも電流が非常に弱いことがわかりました(7、図185-4上図)。
また健常者はカードを引く前から、ABのカードがある机から引こうとしたときには電流が強く流れることがわかりました(7、図185-4下図)。腹内側前頭前野や扁桃体に損傷がある患者の場合、そもそも電流が弱くまたABを引こうとした場合とCDを引こうとした場合で差はないことがわかりました(7、図185-4下図)。
図185-4 皮膚電気活動
このような健常者と患者の違いは被験者達がこのカードの仕組みに気が付く前からみられ、健常者は本能的に皮膚の電気信号がABを選択しようとしたときに強くなって、CDを選択することがわかりました。しかも驚くべきことに腹内側前頭前野に損傷がある人はカードの仕組みに気が付いた後も、得をするような選択ができないこともわかりました。つまり知性のはたらきによってCDを選択すべきであると結論が出ていても、それを選択するという意思決定は知性によってはできなくて、別の力が必要なのです。これは動物の脳のしくみに大きな示唆を与えました。
アイオワ・ギャンブリング課題などの実験結果から、ベチャーラらは適切な意思決定には腹内側前頭前野や扁桃体が引き起こす無意識の情動的身体反応が不可欠であるという仮説を立てました(7)。これを理解することは直感的にはできませんが、好き・嫌い・危険・安全など意思決定に関わる感情は無意識のうちにも存在し、人間は意外にもそのような無意識下の感情に従って意思決定をしているということなのでしょう。また感情の発生には脳以外の体の変化(ここでは手における電流の発生)がかかわっており、これは昔から議論になっている情動の理論に大きな影響を与えるものでもあります(8)。
もちろんソマティック・マーカー仮説によって腹内側前頭前野の機能がすべて説明されたわけではありませんし批判もありますが(9、10)、高度脳機能の解明のための大きなステップになったことは確かなのでしょう。
参照文献
1)脳科学辞典:ソマティック・マーカー仮説
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%BD%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E4%BB%AE%E8%AA%AC
2)Wikipedia: Iowa gambling task
https://en.wikipedia.org/wiki/Iowa_gambling_task
3)Senwisdoms 医療と育児と心理学 アイオワ・ギャンブリング課題とは
https://sengakuhisai.com/gambling-task/#google_vignette
4)続・生物学茶話284:感情とは1
https://morph.way-nifty.com/grey/2025/10/post-496aec.html
5)ウィキペディア::腹内側前頭前野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%86%85%E5%81%B4%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E#:~:text=%E8%85%B9%E5%86%85%E5%81%B4%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E%20(Ventromedial,%E3%81%AE%E5%87%A6%E7%90%86%E3%81%AB%E9%96%A2%E4%B8%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
6)続・生物学茶話283: 大脳辺縁系 7.扁桃体
https://morph.way-nifty.com/grey/2025/10/post-193960.html
7)Antoine Bechara and Antonio R. Damasio, The somatic marker hypothesis: A neural theory of economic decision., Games and Economic Behavior vol.52, pp.336–372 (2005)
https://doi.org/10.1016/j.geb.2004.06.010
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0899825604001034
8)続・生物学茶話284:感情とは1
https://morph.way-nifty.com/grey/2025/10/post-496aec.html
9)大平英樹 感情的意思決定を支える脳と身体の機能的関連 Japanese Psychological Review, vol.57, no.1, pp.98-123 (2014)
https://doi.org/10.24602/sjpr.57.1_98
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/57/1/57_98/_article/-char/ja/
10)大平英樹 感情史と生命科学―『感情史の始まり』へのコメント― 現代史研究 vol.67, pp.67-73 (2021)
https://doi.org/10.20794/gendaishikenkyu.67.0_67
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/67/0/67_67/_pdf/-char/ja
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コメント
以前から疑問なのですが、アイオワギャンブリング課題とソマティックマーカー仮説って本質的に関係がないと思いませんか?
アイオワギャンブリング課題で得られる結論は、筋電位の変化といった「無意識の(神経もしくは身体)活動が意思決定に影響を与えている」ということに尽きます。
※筋電位は交感神経系の影響ですが、交感神経系は扁桃体などを通じて高次処理によって制御されていることに注意してください。
他方、ソマティックマーカー仮説の謂わんとする所は、「意思決定において情動的な身体反応が重要な信号を提供する」(脳科学辞典)です。
この両者を結び付けるには「無意識の活動=情動的な身体反応」であるという重大な仮定が必要です。しかし、プライミングに代表されるように、「無意識の活動」には新皮質が関与するような高次感覚の非情動的な処理も含まれていることは勿論、この仮定は肯定しがたいものだと感じます。
従って、アイオワギャンブリング課題はソマティックマーカー仮説に何らの肯定的な証拠を与えないので、(重要な成果であることは確かですが)全く関係のない実験としてとらえるべきだと思うのです。
投稿: NiiiNonno | 2025年11月 4日 (火) 08:37
ご指摘の通り「無意識の活動=情動的な身体反応」という仮説は正しくないと思います。情動的な身体反応が無意識の活動のに含まれるということでしょうか。私はベチャーラらの論文を読んでいて、一番はっとさせられたのは「腹内側前頭前野に損傷がある人はカードの仕組みに気が付いた後も、得をするような選択ができない」ということでした。このことはアイオワギャンブリング課題をやってみなければわからなかったことだと思います。
投稿: monchan | 2025年11月10日 (月) 00:09