続・生物学茶話284:感情とは 1.プロローグ
感情は確かに存在しますが、それを単独に自然科学が取り扱うことはまだ困難だと思います。同じ脳の活動でも知性はIQ測定などの方法がありますが、感情を測定して数値化するのは困難です。ただ感情によって現れた筋肉・行動・体内組成の変化などについては測定できるので、間接的方法による様々なアプローチは昔から行われてきました。
ヒトの感情と脳のはたらきについての科学的考察を行うに際して、最初に多くの人の注目を集めた事故について触れないわけにはいきません。それは1848年に米国の鉄道建設技術者フィニアス・P・ゲージ氏に起こった出来事です。彼はバーモント州で鉄道の路盤を建設するための工事に携わっていましたが、路盤を突き固めるために使っていた鉄棒が頭に突き刺さるという悲惨な事故にあいました。彼の肖像写真とその事故の状況を図284-1に示します(1)。この事故によって彼の左前頭葉の機能はほとんど失われました。
図284-1 自分の頭に突き刺さった鉄棒を持つフィニアス・P・ゲージ氏の肖像と脳に突き刺さった鉄棒の状況
彼はこの事故で死亡せず、ジョン・マーティン・ハーロウ医師らの処置で生き延びることができました。事故が起こったのは9月13日でしたが、9月23日から10月3日まで昏睡状態になりましたが、10月7日には起き上がり、1か月後には歩くこともできるようになりました。翌年の春には左目を失い、顔面に少し麻痺が残ったほかはすっかり回復したとハーロウも認めました。
しかし体は回復したものの、彼には精神上の変化がありました。ウィキペディアにあるハーロウの記述を引用します。
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彼の知的才覚と獣のような性癖との均衡というかバランスのようなものが、破壊されてしまったようだ。彼は気まぐれで、礼儀知らずで、ときにはきわめて冒涜的な言葉を口にして喜んだり(こんなことは以前の彼には無かった)、同僚にもほとんど敬意を示さず、彼の欲望に拮抗するような制御や忠告には我慢ができず、ときにはしつこいほどに頑固で、しかし気まぐれで移り気で、将来の操業についてたくさんの計画を発案するものの、準備すらしないうちに捨てられてほかのもっと実行できそうなものにとって代わられるのだった。知性と発言には子供っぽさが見られ、強い男の獣のような情熱を備えていた。事故以前は、学校で訓練を積んでいなかったものの、彼はよく釣合の採れた精神をもち、彼を知る者からは抜け目がなく賢い仕事人で、エネルギッシュで仕事をたゆみなく実行する人物として敬意を集めていた。この視点で見ると彼の精神はあまりにはっきりと根本から変化したため、彼の友人や知人からは「もはやゲージではない」と言ったほどであった
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このハーロウの記述およびゲージ氏の健康状態の記録によって、ヒトは左前頭葉を失っても健康に生きられるが、性格は大きく変化するということが示唆されました。しかしその一方で感情の制御や知性のレベルには大きな問題が発生することも示唆されました。
ゲージ氏の事件は感情を科学的に説明しようという科学者を刺激しましたが、一方でこれだけ広範な脳の部位が失われても生きていられるということがわかり、精神障害者などにロボトミーを行って治療しようという脳外科医の活動を刺激することにもなりました。動物実験でよく知られているのは、クリューバー・ビューシー症候群で、サルの動物実験で両側の扁桃体が破壊されると、見境のない接近行動(恐怖を感じない)、なんでも食べようとする、同性や他種動物とも性交しようとする、恐怖を感じなくなるなどの変化が起こることが知られています(2、図284-2)。
図284-2 クリューバー・ビューシー症候群
ロボトミーは昔の話と思うのは間違いで、現在でもてんかんの治療で海馬と扁桃体を除去するという手術(選択的海馬扁桃体切除術)は普通に行われているそうです(3、4)。脳科学という勝手な観点から言えば、どちらか片方にしてほしいと思うわけですが、VICEというサイトに扁桃体だけを除去した人についての記事がありました(5)。「」内はその引用です。
「2020年米国エモリー大学のサヌ・ファン・ルーイ(Sanne van Rooij)はてんかんとPTSDを併発した患者2名を対象に研究を行なった。2名とも、それぞれのトラウマを想起させる物に対して高い恐怖反応を示していた。しかし、それぞれにレーザーによる右扁桃体の切除手術を行なったところ、共にPTSD症状が大幅に改善。具体的に言うと、患者の過覚醒症状(落ち着かなさや過剰な警戒心など)や驚愕反射の改善が示された。」
患者ジョディ・スミス氏は手術の結果、爬虫類に対する異常な恐怖感がなくなったとか死に対する恐怖がなくなったとか顕著な変化があることに気づきました。また道で強盗に襲われた時も、顔色も変えずに歩き続けたので、強盗が驚いて何も奪わずに去っていったそうです。
恐怖というのは感情の中でも進化の過程で非常に早くから生まれと思われます。なぜならカンブリア紀には食物連鎖が発生し、ほとんどの動物は上位の動物に食べられる危険性があるので、「恐怖」という脳のフォルダー=神経細胞の特殊な集合体に、さまざまな上位動物の画像・臭い・音などのファイル=長期記憶=シナプスの変化を収納して、それらを検知したときにはすぐに恐怖?を感じ、運動プログラムを起動する必要があったと思われるからです。
このように「感情」の発現には前頭葉と扁桃体が重要な役割を果たしていると考えられていますが、ここでは「感情」の問題が科学者によってどう取り扱われてきたか、少し歴史をたどりたいと思います。最初に述べたように「感情」は自然科学の対象として取り扱えるかどうかは微妙なので、日本の自然科学者は「情動」という言葉を使います。これは感情によって現れた測定可能な変化を含むものです。ただ英語には残念ながらこの言葉に相当する単語がなく emotion という言葉が使われる場合が多いようです。
情動の研究については昔から自律神経系の活動が先か中枢神経系の活動が先かについて論争があり、様々な学説をまとめたのが Simic らが示した図284-3です(6)。ここで中枢神経系の働きは cognitive appraisal (経験的事実認識による評価 or 認知的評価)という難しい言葉で表現されています。ウィキペディアをみると「環境中の刺激に対して個人が行う主観的解釈 あるいは個人が生活の中でストレス因子に反応し、解釈する方法」と定義されています(7)。わかったようなわからないような定義ですが、ともかくたとえば図にあるヘビをみて脳が感じる恐怖がそれに相当するようです。一番上の James-Lange説では、先に感覚器官→自律神経系の働きによって筋肉が緊張したり、心臓の鼓動が早くなったりする結果、中枢神経系による「恐怖」の感覚が発生するということになっています。それに対して Lazarus説では感覚器官の情報はまず中枢神経系に集められ、そこで怖いものと判断されてから感情や自律神経系の活動が発生するということになっています。
図284-3 情動についての古典的学説
参照文献
1)ウィキペディア:フィニアス・ゲージ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B8#cite_note-reliablesources-30
2)脳科学辞典:扁桃体
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E4%BD%93
3)宇田武弘 他 てんかん外科手術に必要な解剖学的知 脳神経外科ジャーナル 33巻 7号 460~467ページ(2024) https://doi.org/10.7887/jcns.33.460
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcns/33/7/33_460/_pdf/-char/ja
4)はしぐち脳神経クリニック
https://hashiguchi-cl.com/page/brainpedia/%E5%86%85%E5%81%B4%E5%81%B4%E9%A0%AD%E8%91%89%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93/
5)VICE:脳の一部を切除して恐怖を感じなくなった男(2021)
https://www.vice.com/ja/article/brain-surgery-cant-feel-fear/?
6)Šimic, G. et al Understanding Emotions: Origins and Roles of the
Amygdala. Biomolecules vol.11, no.823 (2021)
https://doi.org/10.3390/biom11060823
https://www.mdpi.com/2218-273X/11/6/823
7)ウィキペディア:認知的評価
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E8%A9%95%E4%BE%A1
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