続・生物学茶話279: 大脳辺縁系 3.ヘンリー・グスタフ・モレゾン氏の貢献
20世紀の脳科学の進歩にマテリアルとして絶大な貢献をした人物がいます。その人の名はヘンリー・グスタフ・モレゾン氏で、2008年に亡くなりましたが」存命中はH・Mというイニシャルで呼ばれていました。彼は存命中ずっと脳科学の研究者に協力していましたが、死後もMRIで脳を9時間スキャンするとか、脳全体を切片にして保存するとか、彼の遺言に従って大きな貢献をしました。
モレゾン氏は10才でてんかんを発症し、次第に重症化してついに1953年27才の時にウィリアム・スコヴィル医師によって、内側側頭葉ロボトミーという実験的な手術を受けることになりました。スコヴィルは穿刺吸引法によって、両側の海馬(一部残す)・海馬傍回(一部残す)・扁桃体(ほぼ全体)などを吸い取り除去しました。現在の知識からみると、海馬傍回の嗅内皮質をすべて除去したため、海馬の一部を残したといってもほとんど機能していなかったと考えられます。
手術は成功してんかん発作は激減したのですが、モレゾン氏にはとんでもないことが起こっていました。昔のことはある程度覚えているのですが、病院内でのことはほとんど忘れていてトイレにすらいけません。また何も新しいことを覚えられなくなりました。これは脳科学者にとっては、脳における記憶の機能を遂行する場所を特定したという意味で驚くべき知見でした。
同時期にワイルダー・ペンフィールド医師も2人のてんかん患者に同様な手術を行い、その結果モレゾン氏と同様な結果になりました。ペンフィールドの場合片側の内側側頭葉ロボトミーを行った場合はモレゾン氏のような結果にはならないが、片側が機能していなかったり、再度の手術で両側を処置した場合に記憶障害が起きることまでわかりました。
ペンフィールドは自分の懐刀であるブレンダ・ミルナーをスコヴィルの研究室に派遣し、モレゾン氏らの状態を詳しく検討しました。この結果は次のような論文に結実しました。
SCOVILLE WB, MILNER B., Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions. J Neurol Neurosurg Psychiatry. 1957 Feb;20(1):11-21. doi: 10.1136/jnnp.20.1.11.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC497229/
この論文の要旨は
1)左右の内側側頭葉を切除すると患者は記憶障害を発症する
2)内側側頭葉は記憶を形成するために必要である
3)アンモン角・歯状回の背部にある海馬鉤・下部にある扁桃体を除去しても記憶障害はおきない
4)アンモン角と歯状回はどちらを除去しても記憶障害がおきる
というもので、精神病やてんかんに効果があるからと言って海馬を切除してはならないという警告を脳外科医に与えただけではなく、記憶研究のスタートラインとしても重要な成果でした。
モレゾン氏は知覚・抽象的思考・推論に関わる能力・パーソナリティーに障害はなく、記憶を構成する能力が著しく障害されていました。
図279-1 ぼくは物覚えが悪い 健忘症患者H・Mの生涯 スザンヌ・コーキン著 鍛原多恵子訳 早川書房刊(2014)
この本の著者スザンヌ・コーキンはブレンダ・ミルナーの研究室の大学院生としてキャリアをスタートさせました。そして米国に住むモレゾン氏にモントリールの研究室まで来てもらって研究するというやり方で研究を進めました。モレゾン氏は手術後のことはすべて忘れていましたが、手術以前のことについては人の顔をはじめとして多くのことを覚えていましたし、歯磨きや髭剃りなど日常的な動作にも支障はありませんでした。
脳科学で言う「短期記憶」は新規の電話番号を覚えるとか数十秒しか保たれない記憶のことですが、この能力についてはモレゾン氏はごく普通であり、手術後に損傷されているということはありませんでした。ところがその短期記憶を脳科学でいう「長期記憶」として定着することが彼にはできないことがわかりました。これだけでも記憶には2種類のプロセスがあるということを示したという意味で衝撃的な研究結果でした。
モレゾン氏はさらに詳細に何秒短期記憶を保つことができるかのテストを受け30~60秒の間であることがわかりました。それ以上記憶を保つには長期記憶のメカニズムが必要ですが、それが彼にはありませんでした。
ミルナーはモレゾン氏の作動記憶(ワーキングメモリー)についてのテストも行いました。作動記憶とは脳科学辞典によれば「ワーキングメモリーは、感覚情報、または想起した宣言的記憶などを、数秒から数十秒の間、短期記憶として頭に思い浮かべたまま保持し、それを用いて意思決定や計算、発話、思考など、他の様々な認知機能を実行する為の、脳の機能である」とされています。作動記憶が可能なら会話も可能です。
テストを行うには、図279-2のような4枚のカードをみせて、自分が持つカードをこの上に置かせます。
図279-2 作動記憶のテスト
たとえば自分の持つ赤い△△△カードを赤い△のキーカードの上に置いたときに正解というと、被験者はキーが同色・キーが同じ型の図形・キーが3つの図形などの選択ができますが、たとえばキーが赤色として次々赤カードを乗せていって正解が続いた後、ある時点で不正解にかわり、ここでルールが変わったので正解になるまで模索します。そうしてまた正解が続くとルールを変えます。このようなゲームにモレゾン氏は順応することができました。臨機応変に正解を探すことができたのです。ところが前頭葉の前部3分の1を両側切除した患者はいくら不正解が続いても、正解を模索することができませんでした。このような患者は作動記憶を行うことができないのです。モレゾン氏は数十秒の記憶しかないにもかかわらず作動記憶は可能でした。ただし彼の短期記憶のメモリー容量の限界を超えるような複雑な課題の処理はできませんでした。
スザンヌ・コーキンはこう書いています「彼はつらそうにふるまうことはほとんどなく、いつまでも途方にくれたり怖がったりもしなかった・・・中略・・・どの人に対しても寛容と信頼の精神で接した。彼は温厚で愛想が良く・・・」
図279-3 ヘンリー・グスタフ・モレゾン
それは長期記憶は人を心の痛み・辱め・裏切り・失敗・トラウマなどの負の殻に閉じ込めてしまうからでしょう。コーキンもそのように考えました。そんな殻を持てないモレゾン氏は永遠の現在に生きていて、それは解放感に満ちた世界だったのでしょう。とはいっても、彼は若い頃てんかんの発作を抑える薬を飲んでいたため、その副作用で小脳が委縮し、世話をしていた彼の母親とともに苦労の多い人生でもありました。
モレゾン氏が手術を受けたのは1953年でしたが、その際にどの部分が失われたのか正確な情報が得られたのは1993年にMRI検査を行ってからでした。この結果嗅内皮質・嗅周皮質・海馬傍皮質・偏桃体がほぼすべて失われ、海馬は一部残されていましたが外部からの入力を絶たれていたため役に立ってはいそうもない状態でした。2002年~2004年にさらに詳細なMRIの解析が行われ、これらの失われた構造が長期記憶を構成するために必要な領域であることが証明されました。ただ後の検査で嗅周皮質と海馬傍皮質の一部が残されていることがわかり、モレゾン氏がある種の長期記憶ができたのは、そのためであろうことが推測されました。
コーキンは長期にわたってモレゾン氏とテストを行い、モレゾン氏の視覚・聴覚・触覚が正常で、それらを覚えられないのは記憶障害のためであり、決して知覚できないせいではないことも証明しました。
通常医学の進歩は実験動物を用いて様々な研究を行い、最後に人間をマテリアルとした治験を行うわけですが、記憶の研究に関しては逆に最初に人間についての研究があって、それに触発されてアメフラシなどの動物で研究が進みました(1)。これは稀有なケースです。
ヘンリー・モレゾン(HM)の言葉
「僕が生きて、あなた方は学ぶ」
1)続・生物学茶話217: 記憶2 HMとアメフラシ
https://morph.way-nifty.com/grey/2023/07/post-c879b9.html
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