続・生物学茶話277: 大脳辺縁系 1.イントロダクション
大脳辺縁系=Limbic system という考え方は James Papez (ジェイムス・ペイプズ)という人が1937年に発表した論文(1)に基づいているそうです。この論文の冒頭で著者は hypothalamus(視床下部), gyrus cinguli(帯状回), hippocampus(海馬) のアンサンブルが感情の解剖学的根源であると述べています。彼の肖像写真はウェブサイトで閲覧できます(2)。感情と脳の構造を結びつけたわけですから、この論文が世の中に与えた反響は大きかったでしょう。
現在では limbic system (大脳辺縁系)とは、帯状回・内嗅皮質・海馬傍回・海馬・視床下部・視床・中隔・扁桃体・眼窩前頭皮質・前頭前野・前側頭葉を含む広大な領域を指します(3)。ただし研究者・論文によって異なる場合があります。Limbic とはラテン語のlimbus=辺縁を語源とし、大脳の辺縁にある領域として19世紀にブローカというフランスの解剖学者がこの言葉を使ったとされています(4)。Limbic system という術語は米国の神経科学者マクレーンによります(4)。
広辞苑で辺縁とは「ヘリの部分、末端」としてあるので、大脳辺縁といえばすべて大脳に含まれていなければなりませんが、これは脳科学にはよくある不適切用語で明らかに大脳をはみ出している部分もあります。辺縁系の全貌を示す画像はウィキペディアからお借りして示します(図277-1、日本語化してあります)。
図277-1 大脳辺縁系を構成する主要な構造
ただし海馬傍回・内嗅皮質は図277-1ではほんの少し見えているだけなので、別に図277-2に示しました(5)。海馬傍回は大きな組織で、内嗅皮質はその一部です。内嗅皮質は海馬と他の脳領域間の情報通路であり、短期記憶のほか空間認識や感情の統合も行います(6)。
図277-2 海馬傍回と内嗅皮質
辺縁系の中心となるのはやはり短期記憶などを行う海馬(狭義の海馬+歯状回)でしょうが、この組織の研究はほとんど哺乳類と鳥類で行われています。とはいえ魚類にだって日常の生活に短期記憶は必要でしょう。しかし海馬に相当する組織は魚類にはみつかっていません。植松らはおそらく魚類は小脳で短期記憶を行っているであろうと示唆しています(7)。
両生類の場合魚類に比べて小脳は非常に退化しているので、おそらく短期記憶も別の場所に移行したと思われ、実際両生類では medial pallium(内側外套)に祖先的形態の海馬がみられるようです(8)。ただし Burmeister は歯状回に相当する構造はそこにはないと述べています(8)。鳥類は哺乳類と相同な海馬に相当する組織を保有しているので(9、図277-3)、爬虫類(鳥類)と哺乳類の共通祖先が短期記憶や空間認識を行う海馬という構造を獲得したものと思われます。
鳥類の前頭部にある Wulst というのは英語にはない言葉で、もともとはソーセージを意味するドイツ語ですが、解剖学でふくらみという意味をもたせることもあります。鳥類ではここが視覚情報処理や運動制御にかかわる重要な領域です(10、図277-3)。
図277-3 鳥類と哺乳類の海馬の位置(水平断面)
辺縁系において海馬グループとともに重要なパーツとして扁桃体グループがあります。ヴァトースとマリヤはMRIによって詳細な検討を行い、扁桃体の主要な出力先が分界条であり、ここから図277-4に示されるような様々な領域に出力されることがわかりました(11)。
両側の扁桃体を切除したサルでは怒り・恐怖・不安などの反応を示さなくなることが知られています(クリューバー・ビューシー症候群)。さらに視覚はあるにもかかわらず、視覚によってそれが何であるかを認識することができなくなります(12、13)。つまり視覚に関わる記憶にアクセスできなくなってしまうのです。
図277-4 扁桃体・分界条からの出力 参照文献11からの図を改変
扁桃体が情動や視覚記憶に関する役割を持っているのに対して、海馬が損傷すると陳述記憶ができなくなること(14、15)などから、扁桃体-脳基底核グループと海馬-大脳皮質グループというある程度独立した2つのグループが脳では機能していると思われます。
扁桃体グループは図277-5でピンクの下線をひいた部分で、扁桃体-拡張扁桃体-尾状核-分界条-分界条床核-被殻 というふたつのリング(左・右 それぞれにおいて脳基底核の一部と辺縁系の一部が一体化している)を形成し、脳の中心部に位置しています。これとやはり脳の中心部に位置する海馬グループのバランス(情と知)によって行動するのが哺乳類の基本です。
図277-5 脳基底核・辺縁系における扁桃体と関連組織 Anton J M Loonen と S. A. Ivanova による(2017) 参照文献16
参照
1)James W. Papez, A proposed mechanism of emotion. Arch Neurol Psychiatry vol.38, no.4, pp.725-743. We can see now on The Journal of Neuropsychiatry and Clinical Neurosciences.,
https://doi.org/10.1176/jnp.7.1.103
https://psychiatryonline.org/doi/10.1176/jnp.7.1.103?url_ver=Z39.88-2003&rfr_id=ori:rid:crossref.org&rfr_dat=cr_pub%20%200pubmed
2)McLeod country museum of history
https://mcleodhistory.pastperfectonline.com/Photo/3CAF3957-443F-475D-AB5E-345779772540
3)Arash Kamali et al., The Cortico‑Limbo‑Thalamo‑Cortical Circuits: An Update
to the Original Papez Circuit of the Human Limbic System., Brain Topogr., vol.36(3): pp.371-389. (2023) doi: 10.1007/s10548-023-00955-y.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10164017/
4)ウィキペディア:大脳辺縁系
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10164017/
5)Daniel J. Bell Radiopedia: Entorhinal cortex
https://radiopaedia.org/articles/entorhinal-cortex
6)Igarashi KM. Entorhinal cortex dysfunction in Alzheimer's disease. Trends Neurosci. vol.46(2): pp.124-136.(2023) doi: 10.1016/j.tins.2022.11.006.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9877178/
7)植松一眞 魚類の小脳のふしぎ 脳機能の起源を探る 化学と生物 Vol. 42, No. 10, pp.658-660 (2004)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/42/10/42_10_658/_article/-char/ja/
8)Sabrina S. Burmeister, Ecology, Cognition, and the Hippocampus: A Tale of Two Frogs., Brain Behav Evol vol.97: pp.211–224 (2022) doi: 10.1159/000522108
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/35051940/
9)渡辺茂 鳥類における空間記憶と海馬 The Japanese Journal of Psychology
Vol. 71, No. 2, pp.144-156 (2000)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/71/2/71_2_144/_pdf/-char/ja
10)Karten HJ. Vertebrate brains and evolutionary connectomics: on the origins of the mammalian 'neocortex'. Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. vol.19; 370 (1684):20150060 (2015) doi: 10.1098/rstb.2015.0060.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26554047/
11)Vattoth S, Mariya S. Practical microscopic neuroanatomy of the limbic system and basal forebrain identifiable on clinical 3T MRI. Neuroradiol J. 2023 Oct;36(5):506-514. doi: 10.1177/19714009221122250. Epub 2022 Aug 22. PMID: 35996275; PMCID: PMC10569190.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10569190/
12)桔梗が原病院リハビリテーション研究会
https://www.keijin-kai.jp/news/4243
13)Joe M. Das; Waquar Siddiqui., Kluver-Bucy Syndrome, Stat Pearls NIH
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK544221/
14)佐藤病院 記憶とは?
https://midori-satohp.or.jp/feature/feature-62/
15)脳科学辞典 海馬
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC
16)Circuits regulating pleasure and happiness: evolution and role in mental disorders Acta Neuropsychiatrisa vol.30(1): pp.1-14 (2017) DOI: 10.1017/neu.2017.8
https://www.researchgate.net/publication/316737135_Circuits_regulating_pleasure_and_happiness_evolution_and_role_in_mental_disorders
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コメント
拡張扁桃体がどこにあるのか今まで具体的なイメージが得られずにいたのですが、わかりやすい図を示していただいてありがとうございます!尾状核に隣接していたのですね。
大脳辺縁系が大脳の一部ではないのは確かに訳が悪いですね。
次の投稿も楽しみにしてます!
投稿: NiiiNonno | 2025年8月22日 (金) 15:09
>Niiinonno 様
いつもコメント有難うございます。単なるスタディノートなのでお気軽にお読みください。Extended Amygdala につきましては論文を引用してなかったことに気が付き追加しました。
monchan より
投稿: monchan | 2025年8月22日 (金) 23:07