続・生物学茶話268:基底核 1:イントロダクション
ヒトの大脳に相当する脳のパートは魚類では主として臭いの判別に用いられていましたが、進化するにつれて大脳は多くの仕事を受け持つようになりました。なぜそうなったかはよくわかりませんが、脊椎動物は進化によって新しい仕事ができると、それを脳の前の方(ヒトの場合は上の方)の部分に細胞をつくってやらせるというのが標準となっています。魚類はヒトより高速で泳いだり、方向転換したり、転回したりできますが、餌を鰓でつかんで口に運んだり、寄生虫を鰓で払い落したりすることはできません。ヒトでは言葉を覚えたり、キーボードをたたいたり、編み物をしたりという複雑な作業を進化した脳にやらせています。
そういうわけでヒトでは大脳は巨大になり、その制御システムも複雑になりました。それを最も簡略に模式化した図で示すと図268-1のようになります。しかし言葉の定義にはいろいろ問題があります。大脳辺縁系というのは言葉のイメージとしては大脳の外側にあるような感じですが、なぜか内側にあります。英語では limbic system ですが、名詞の limbo は物事が決まらないこと、忘れられていた状況、どっちつかずの場所などを言いますが、天国と地獄の間の場所という意味もあり、誰かがこれを「辺獄」と訳したことに関係があるようです。本当は間脳と大脳の間のどっちつかずの組織という意味でしょう。
それを踏まえると、大脳基底核というのはあまりにも不適切な言葉になります。英語では basal gannglia であり、どこにも大脳という言葉はありません。中間(リンボ)より間脳寄りなのですから、大脳基底核というのは無理でしょう。脳基底核か単に基底核とするほうが妥当だと思います。さらに言えば「核」という言葉にも問題があります。普通、核=神経核は組織未満のニューロンの集合体を指しますが、たとえば線条体などは臓器と言ってもいいくらいのまとまりがあって、これを核と称するのは失礼でしょう。
視床という言葉も変です。まるで視覚だけに関係しているような印象を与えます。そもそも生物学の立場から言えば、大脳が大きいのは霊長類だけで、脊椎動物全体から見ればごくごくわずかな生物を基準にして言葉を決めるのはおかしいわけで、一般的な意味では終脳ということを生物学者達は推奨しています。ただ確かにヒトでは大脳は大きいので、ここでは大脳という言葉を使います。
どうしてこんなに脳科学の基本用語が不適切用語のオンパレードになっているのか不可解です。脳科学というのは医学・医療と深くかかわっているので用語を使う人の裾野が広大なために、一度決めるとなかなか変えられないという事情があるのかもしれません。前置きが長くなりました。御託はこの辺にして、図268-1は巨大化した大脳皮質を制御するための4層構造を示しています。実際の立体配置もこれに近い構造になっています。視床は間脳の一部ですが、特に大脳と深くかかわっています。この構造はヒエラルキーを意味しません。むしろネットワークです。
図268-1 脳の最も簡略な模式図
図268-2も模式図ですが、図268-1よりずっと実際の配置に近く描かれています。今回の話題は基底核(脳基底核)ですので、その位置がわかるように描いてあります。基底核は見た目脳の中心周辺に位置しています。ただしこれは脳を左側から見た図で同じ構造が右側にもあります。全体の立体構造を把握するには図268-3のような水平断面図も合わせて把握することが必要です。
基底核は脊椎動物が地球上に出現した頃に近い形態のままのヤツメウナギにも存在します(1、2)。おそらく脊椎動物においては、進化の早い時期から大脳(終脳)+基底核+視床はセットで機能していたと思われます。ナメクジウオにはこのようなセットはありません。扁桃体は構造的に尾状核と連結していますが、現在の脳科学では基底核ではなく大脳辺縁系に含まれることになっています。
図268-2 脳基底核の位置
図268-3はヒト脳を水平に切ってみた1断面ですが、これをみると脳の中心は視床で、そのまわりを基底核と脳室が取り囲む構造が見えます。模式図でなくMRIで実際に水平断面を見た構造は、例えば参照文献3に便利な画像が提供されています(3)。
図268-3 脳の水平断面
大脳皮質と基底核、そして両者と深い関係にある視床がどのような神経回路でつながっているかは古くから研究されていて、大まかには解明されています。それをまとめたのが図268-4です。一つの神経細胞ができることは2つしかありません。それは連絡先の細胞を興奮させるか興奮を抑制するかです。そういう意味では神経系はデジタル的なシステムです。
基底核からの出力は黒質網様部と淡蒼球内節から行われますが、両者ともGABAによる抑制性の情報出力で、これは常時行われています。このことは私たちが手足を動かしていないなどのデフォルト状態のときには常に抑制性のシグナルが出ていて、その抑制性のシグナルが抑制されることによって行動が開始されるという私たちの体の基本的なメカニズムと深い関係があります(4)。
図268-4 脳基底核・大脳皮質・視床のネットワーク
大脳皮質・基底核・視床にかかわる神経伝達については、直接路・関節路・ハイパー直接路という伝統的な分類が行われています。ウィキペディアの記述によれば(5)、下記のようになります。図268-4で赤のグルタミン酸が伝達物質となる経路は興奮、青のGABAが伝達物質となる経路は抑制行います。ピンクのドーパミンが伝達物質となる場合は受容体によって興奮・抑制の両者の場合があります。
1.直接路:
大脳皮質→線条体→淡蒼球内節・黒質網様部→運動性視床核→大脳皮質運動野
2.関節路:
大脳皮質→線条体→淡蒼球外節→視床下核→淡蒼球内節・黒質網様部→運動性視床核→大脳皮質運動野
3.ハイパー直接路:
大脳皮質→視床下核→淡蒼球内節・黒質網様部→運動性視床核→大脳皮質運動野
基底核から直接脳幹経由の運動指令が出されるケースは非常にマイナーですが、視床からは直接脳幹に投射する経路もあります(4)。多くの場合大脳皮質から脳幹に運動指令が出されます。ただ正しい運動指令を出すためには大脳皮質-基底核-視床のネットワークが必須です。
基底核は運動に関するいわば奥の院なので、ここに不具合が起こるとさまざまな病気が発生します。たとえば黒質緻密部のニューロンに不具合がおきると、線条体への興奮刺激が低下し、線条体からのGABAによる抑制シグナルが低下するため、黒質網様部や淡蒼球内節による視床への抑制シグナルをおさえられなくなり、常に運動を行わないような指示が出ている状態になります(図268-4)。このためパーキンソン病のような運動障害が発生してしまいます(6、図268-5)。逆に黒質網様部や淡蒼球内節のニューロンに不具合がおきると、視床への抑制が効かなくなり、不随意で持続的な筋収縮がおきてジストニアを発病します(7、図268-5)。またハンチントン病は尾状核のニューロンに不具合が起きた時に罹患する病気として知られています(8)。
図268-5 脳基底核の不調によって発生する病気
ここでは運動に注目して述べてきましたが、基底核は認知機能、感情、動機づけ、学習など様々な機能に関わっているため(5)、その不具合は様々な症状を引き起こします。まだ十分に解明されていない部分も多いと思われます。
参照文献
1)Sten Grillner and Brita Robertson, The Basal Ganglia Over 500 Million Years., Current Biology 26, R1088–R1100, (2016) doi: 10.1016/j.cub.2016.06.041.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/27780050/
2)続・生物学茶話241:基底核の起源 ヤツメウナギの場合
https://morph.way-nifty.com/grey/2024/07/post-35ba6c.html
3)病気が見える 7:脳・神経
https://www.byomie.com/gallery/vol7/mri_axial/index.html
4)国立生理学研究所 生体システム部門HP
https://www.nips.ac.jp/sysnp/ganglia.html
5)ウィキペディア:大脳基底核
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%84%B3%E5%9F%BA%E5%BA%95%E6%A0%B8
6)ウィキペディア:パーキンソン病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E7%97%85
7)ウィキペディア:ジストニア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A2
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コメント
ちょっと私の好きな分野なので長めにコメント失礼します。
名前は本当に私も嫌いで、いくつか新しい名前を考えて心の中ではその名前を使っていたりしますが、如何せん改名というのは余程の権威でもないと厳しいわけで。将来有名な研究者になって不自然な名を改めることは私の夢でもあります。
とはいえ既存の名前にも弁護の余地はあります。
「辺縁」というのは「中心以外」のことで、すなわち「大脳辺縁」とは「大脳の中心以外」なのですから、新皮質を中心と思えば納得できます。もし「脳辺縁」といったならば私も怒りますが、大脳辺縁系は大脳の(球の)内側でありながら(部分の)外側なので、仕方ないことでしょう。
「核」は別に組織未満をいうのではなく、「皮質」に対する詞ですから問題ないでしょう。ブドウの「皮」も「核」(=種子)も立派な組織であるように、青斑核やマイネルト基底核なども組織と呼んでいいはずです。
とはいえ"gannglia"を「核」と訳してしまったことで、本当は「基底核」と呼びたかったところを、たとえば扁桃体の「基底核(nuculeus)群」と大脳の「基底核(ganglia)」で呼び分けられなくなってしまうので、已むを得ず「大脳」を冠したために述べられているような問題が起きたことは遺憾です。
ご存じかも知れませんが、神経管の背側が「弁蓋」で腹側が「基底」です。終脳の中、神経管の腹側(=基底)の、皮質より内側の組織(=核)から発生するので基底核といいます。至極真っ当な名前だと思います。(「じゃあ『終脳基底核』じゃないか!」というのは、その通りだと思います)
「視床」は欧名を逐訳した結果ですが、当の欧名は「視」がなくなって「床」だけになっています。だからと言って日本語で「床(シヨウ)」と云っても、単音節で聞き取り難いからそのままなのでしょう。手綱(タヅナ)核みたいに「床(トコ)」といえば解決する気もしますが。※ユカではありません。寝床の方です。
扁桃体は確かに線条体とつながっていますが、同時に皮質ともつながっており、或る核は外套下部(線条体)由来で、また或る核は外套(皮質)由来ですから、まさにどっちつかずな「辺縁」に含めるのが当然に思います。(本当の経緯はそうではありませんが)
あと、図268-3のマイネルト基底核は、位置といい大きさといいあまりにも事実と乖離していて、私もこれに混乱させられた有害な図なので、あまりこの図を広めないでほしいと個人的に思っています。マイネルト基底核以外は分り易いのですが。
続編楽しみにしています!
投稿: NiiiNonno | 2025年5月11日 (日) 16:26