ペリー来航の絵に寄せて
ペリー来航の絵(ヴィルヘルム・ハイネ) ウィキペディアより
ペリーが1854年に日本に来航し久里浜に上陸したときの絵は有名で、ほとんどの日本人が見たことがあると思いますが、とても精密に描いてあってまるで写真のようです。いったい誰が描いたのだろうかという疑問を抱きました。調べてみるとそれはヴィルヘルム・ハイネという人だそうです(1)。ローレライの歌で有名なあの詩人ハイネとは別人です。
彼はドレスデンの生まれで当地で育ち、絵画や建築の勉強をしていましたが、成人になる頃(1849年)ドレスデン5月蜂起という民主派vs王政派の歴史的戦闘があって、彼は民主派として友人の音楽家ワーグナーやすでに革命家として有名であったバクーニンらと共に戦いました。民主派は敗北し、ハイネはワーグナーと共にパリに亡命し、さらにアメリカ合衆国に渡りました。ここで中米外交官の仕事を得て、大統領とも知り合いになり、ペリーに随行して日本遠征に加わることになりました。
私はペリーは太平洋を横断して日本にやってきたとばかり思っていましたが、それは間違いで彼らは大西洋を横断し、アフリカ大陸の南端を回ってインド洋経由で日本にたどり着いたそうです。燃料の確保に不安があったようです。ハイネはその後も何度も江戸時代の日本にやってきて、3度目の1860年には、シベリアの監獄から脱出して日本に来ていた旧友のバクーニンにも横浜で会っています。バクーニンとハイネはおそらく太平洋経由で米国に渡航し、バクーニンはさらに中米経由で欧州に帰りました。
私が見た中で最も印象深い映画の一つである 篠田正浩監督 イアン・グレン&本木雅弘主演 の「スパイゾルゲ」というのがあります(2)。ゾルゲは日本のドイツ大使館にスタッフとして潜り込み、日本とドイツの情報を得ていました。この映画のなかで、ゾルゲの上司がバクーニン派だったために粛清されて、ゾルゲはスパイでありながら故国ロシアに帰国できなくなったという話を思い出しました。ゾルゲはその正体が露見して政府によって処刑されましたが、墓は多磨霊園にあります(3)。愛人であった石井花子が戦後、雑司ヶ谷で白骨になっていたゾルゲの死体を探し当て、多磨霊園に改葬したそうです(4)。
e-徒然草にあった石井花子の画像
1)ウィキペディア:ヴィルヘルム・ハイネ(Peter Bernhard Wilhelm Heine)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8D
2)映画「スパイ・ゾルゲ」予告
https://www.youtube.com/watch?v=vzSLe58G6FY
3)リヒャルト・ゾルゲ:伝説のスパイの足跡を訪ねて
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu007005/
4)石井花子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%8A%B1%E5%AD%90
ふむふむ 寒い寒い 丸まって寝よー
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