カール・ダイセロス 「こころ」はどうやって壊れるのか (Karl Deisseroth: Projections a story of human emotions)
カール・ダイセロス著 「こころ」はどうやって壊れるのか 最新「光遺伝学」と人間の脳の物語
大田直子訳 光文社 2023年刊
Projections by Karl Deisseroth : Penguin Random House LLC (2021)
このブログで以前に多光子顕微鏡について記したことがあります。多光子顕微鏡を用いれば、頭蓋骨に穴を開ければ、1mmくらいの深度まで生きたままの脳の組織を検鏡できるようです。マウスの場合大脳皮質の厚みは1mm以下なので、ほとんどの皮質の細胞が観察できます(1)。ということはそこまで光が届くと言うことで、この赤外光に反応するロドプシン(タンパク質の部分はオプシン)の遺伝子を神経細胞のゲノムに組み込んでおけば、特定の細胞に光を当てることによってロドプシンを活性化することができます。
ヒトの場合ロドプシンは膜7回貫通型のいわゆるGタンパク質結合受容体ファミリーであり、Gタンパク質が光が当たったという情報を細胞に伝えて視覚情報処理が行われます。ところが2002年にペーター・ヘーゲマンがクラミドモナスという藻類に光が当たると陽イオンを透過させるチャネルロドプシンがあることを発見し、この遺伝子を生物に組み込めば光をあてることによって神経細胞を興奮させることができるようになりました(2)。誰も気にとめないような藻類の研究が、神経生物学の革命的進展ひいては精神病の治療に光明をもたらすことになったのです。
組織の深部に光を届かせるには赤外光に反応するチャネルロドプシンが必要ですが、その開発は日本で行われています。井上圭一らはロドプシンのアミノ酸を改変することで、従来より長波長の光で操作が可能な新しい人工ロドプシンタンパク質を作製することに成功しています(3)。その他多くの研究者の努力によって、光遺伝学というジャンルの科学が発展しました(4)。その中心人物がこの本の著者カール・ダイセロスです(5)。
ダイセロスはもともと精神科の医師であり、この本も光遺伝学の解説書という体裁ではなく、病気の種類によって章をわけてある精神医学の本という形をとっています。それはいいのですが、彼は文学にも造詣が深いらしく、たとえば「だがその瞬間、記憶の、というか私自身の物語の、細くて切れやすい巻きひげが表面に這い出てきた」などというまわりくどい文学的表現に満ち満ちていて、読んでいてイライラします。とはいえアンドリュー・パーカーの「眼の誕生」ほどひどくはないので、我慢して最後まで読んでみました。
ひとつ驚いたのはダイセロスが医師なのに、まるで生物学者のようにいつも進化について考えていることです。人はサルから急激に脳だけ巨大化した特殊な生物です。ですからその進化の過程で無理が発生していることは十分に考えられ、ダイセロスはそのことに注目しているようです。確かにそれは急激な変化であり、自然淘汰によって整理されるにはまだ時間が必要だと思われます。ヒトは人権の問題があるので、自然淘汰はしにくい生物ですが、その分遺伝子工学や医療の進展によってそれを補うことができます。
境界性人格障害について述べた第4章には驚きました。この精神障害の原因が、幼少期のストレスと無力感が松果体の手綱の活動を強めたためという可能性があるという記述は、非常に興味深いものがあります。手綱の活動はドーパミンニューロンを抑制し、人をネガティヴにするのです。ならばその手綱の活動を抑制すればこの病気を治療できるのではないかと思いますが、著者はそこまで言及していません。現時点ではそれはできないからでしょう。
拒食症や過食症には進化上の意味があると思います。前者は少ない食料でも生きられる個体を選別するシステムのエラーだと思われますが、これは飢えを経験しない動物は地球の歴史上なかったに違いないので、いかにもありそうな病気です。後者は過度な食事によって体内に蓄えを作ることができる個体を作るためだと推測されます。熊のように体内に蓄えをすることができれば、冬眠が可能になります。冬眠できる動物は、種が絶滅しそうな大災害が起きたときにも個体を残すことができます。これは少ない食料でも生きられる個体を作るより、さらに種の存続に有効かもしれません。
統合失調症については、誰かに操られるという感覚は宗教と密接に結びついていると思います。急激に脳が発達する過程で十分に全体を統合できず、統合できない部分が脳にできやすくなったということは進化のプロセスとして理解できます。欧米人は子供の頃から聖母マリアや家畜小屋で生まれたジーザスや東方の3賢人などをはじめとする聖書の話をさんざんきかされて育つので、自分以外に神があやつる自分という部分が脳に形成されるようトレーニングされています。
では日本はどうでしょうか? 日本国憲法も一条から八条までは天皇に関するもので、非科学的な実体によって心があやつられることを宣言し容認しています。憲法第二十条では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」という規定があるにもかかわらずです。それでも太平洋戦争以前に比べると大幅に「進化」したとは言えるでしょう。生物学的タイムスパンでは進化など語るのもおこがましい千数百年前の最近まで、日本は卑弥呼などのシャーマンが支配する国であって、そのお告げによって人が操られていたのです。最近でも文鮮明によって操られている人々がいることが問題になりました。そんな人々を統合失調症とは言わないのでしょうか? いや人は自分という統合体とは別の脳の部位によって操られる危険性を誰でも持っているのでしょう。
この本は光遺伝学について知りたいという人にとっては期待外れですが(実は巻末に東大の加藤秀明氏が「オプシンと光遺伝学」というタイトルでかなり長い解説を書いています)、脳の進化と病気についていろいろと考えさせてくれるという意味では良書だと思います。最後に専門家としてひとこと言わせてもらえば、鬚が先にあってその後体毛ができたというような考え(p159)は間違っていると指摘したいです。というのは鬚の構造は体毛より圧倒的に複雑で、これが体毛より先にできたというのは進化的にあり得ないと思います。鬚で暗闇を探るような生活をする前から、キノドンなどの単弓類の一部は寒さをしのぐために体毛を持っていたに違いありません。キノドンが繁栄していたのは恐竜が繁栄するひと時代前のことです。
参照
1)続・生物学茶話220:多光子顕微鏡
https://morph.way-nifty.com/grey/2023/09/post-c627c3.html
2)ウィキペディア:ペーター・ヘーゲマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%9E%E3%83%B3
3)科学技術振興機構プレスリリース 光でイオンを輸送するタンパク質、ロドプシンの吸収波長の長波長化に成功~脳深部の神経ネットワークを解明する技術へ~
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20190510/index.html
4)ウィキペディア:光遺伝学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%A6
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