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2023年10月 6日 (金)

半島のマリア 第3話:象牙海岸

ギターを買ってから1ヶ月くらい、まるで学生の頃のようにはまってしまい、食事もまともにとらないような日々が続いた。何十年もブランクがあったにしては、思ったより簡単に勘を取り戻せた感じがした。あまりに熱中したせいだろう、気がつくと体の節々が痛い上に、極度の疲労で体が動かなくなってしまった。いやはやこれはリハビリが必要だわい、と苦笑いしながらしばらく畳の上に転がっていると、なぜかふとあの上の舗装道路からうちの庭先まで続いている細道に、さらに先があるんじゃないかという予感にとらわれた。

 一度とらわれてしまうと、もう確かめずにはいられない。痛い足腰を引きずりながら外に出てみた。小春日和の午後の日差しがやけにまぶしい。しかし道は予感の通り庭先からさらに先に続いていて、いったん茂みの中に消えかかっていたが、20~30メートル先を丹念に探すとはっきりとした踏みあとがみつかり、それはどうやらずっと先まで続いているようだった。

 数分たどっていくと道は下りはじめた。雑木林が空を覆ってほの暗く、フィトンチッドが充満して、まるで気持ちのよいハイキングコースのようだった。道のすぐ脇に入り口が灌木や雑草で覆われた小さな洞窟があった。注意していないと気づかず通り過ぎそうだ。灌木をかき分けると、入り口には錆びたボルトや腐った横木の一部など柵がついていた跡があり、昔防空壕に使われていたようだった。柵の跡はおそらく崩落でけが人などがでないように、あるいは浮浪者が住み着かないように戦後閉め切られていた時期があったのかもしれない。入り口は小さかったが、中にはいると意外に広く、空き缶が2-3個転がっている以外は何もなくがらんとしていた。空き缶はそんなに古いものではない感じだったので、誰かが来ているのかもしれない。ひんやりとした砂地にしばらく座り込んでいると次第に目が慣れ、壁にいくつか落書きがしてあることがわかったが、暗くて判別は不可能だった。ここを「アルタミラ」と名付けよう。いや本家のヨーロッパの洞窟に申し訳ないので、いずれもう少しふさわしい名前にするべきであろうと思うが、すぐには他に名案が浮かばなかった。

 さらにどんどん下っていくと、見晴らしのいい岩場に出た。達矢が岩場に立つと、突然ざざっと音がして足下の方から海猫が飛び立った。一気に目の前に海が広がる気持ちのよい場所だ。何か名前をつけたくなった。海猫が休んでいたので、とりあえず「海猫岩」としておこう。ここからは壊れかけた土止めのある階段状の道が海岸まで急降下しているのが見えた。もうすっかり腰が痛いのも忘れていた。慎重に海岸沿いの道路まで降りてみた。そこは山肌がすぐそばまで迫り、道路を越えた海側は岩場の静かな入江だった。小さな砂浜もある。ここは竹内まりやの名曲にちなんで「象牙海岸」と呼ぶことにした。

 翌日もよい天気だったので、ギターを抱えて象牙海岸まで降りてみることにした。道路を見下ろす草地をみつけて腰をおろし、石ころで楽譜をおさえてギターを弾くと最高の気分だ。うまくいかない部分をなんとかこなそうと頑張っているうちに、周りが見えなくなるくらい夢中になってしまった。ふと我に返るとすっかり疲れ切っていた。どっと後ろに倒れて大の字になると、同時に「キャー」という叫び声が聞こえた。慌てて後ろを振り向くと、3人の女子学生が達矢を見下ろしていた。

「あー、ごめんごめん、気がつかなかったものだから」と達矢が謝ると、女子学生の一人が「おじさん結構ギターうまいね、東京のひと?」と声をかけてきた。
「いや、この上の方に最近越してきたんだよ」と答えると、別の一人が「この上っていうと、若松のばあちゃんのとこ?」とちょっと驚いた顔で訊いてきた。
「そういえば、不動産屋が若松さんとか言っていたような気がするなあ」
「ばあちゃんが畑で倒れてたのをウチらが見つけたんだよ」
「すぐに救急車呼んだんだけど、ダメだったのよ」などと、達矢が知らなかった事実を少女達が教えてくれた。
「昼間からこんなところでギター弾いてるなんて、おじさんひょっとしてプータローやってんの」
「まあそういえばそんなところかな」
「じゃあウチらにギター教えてよ」
「私はギター持ってないから、ボーカルやってあげる」などとやりとりしているうちに、週に1回彼らと関わりを持つはめになってしまった。

 誰にも避けられそうで避けられない偶然はやってくるのだろう。こんな不便なところなので、まともにギターの勉強をする者が押し掛けるはずもなく、また来てもらっては困るわけだが、とりあえず怪しい男と思われても困るので「田所音楽スクール」という手書きの小さな矢印の看板を、舗装道路の傍らに掲げることにした。海岸で出会った3人以外に、彼らの仲間の女子高校生が二人加わっただけの少人数の教室ではじめることになった。もともと教師が遊び半分なのだから、生徒がまじめにやるはずもなく、たまり場みたいなものだった。しかし帰宅時間はきちんとけじめをつけさせることにした。

 看板を掲げて開店したものの、いざはじめてみると、ギターのレッスンなんぞは余程生徒にやる気がなければできないし、教師もあまりやる気のない素人ときている。いっそのことバンドにしたらどうだろうと彼女たちに提案してみると、即全員の賛成を得た。ギターにベース、ドラムスにキーボードそしてボーカルと役割もスムースに決まった。言い出した手前、楽器は達矢が学生時代のバンド仲間のコネなどを使って探し、何とか中古品を用意してやった。キーボード担当の京子は小学校にあがる前からピアノを習っていたらしく、バンドのリーダーとして頼りになった。ベースの摩耶とドラムスの睦美は全くの素人で、自分が教えてあげるわけにはいかない楽器なので、とりあえずビデオを使った独学をしてもらった。早智はギターを持っていた。早智だけには自分のレベルまでは引き上げてあげるべく、多少のレッスンをしてやることができた。しかしそれもほんのわずかの間のことで、冬の間に彼女はたちまち達矢を乗り越えていった。

 最初は正直言ってよけいなことを始めてしまったと思ったが、教室をはじめてすぐに、象牙海岸でボーカルをやりたいと言っていた玲華が実に美しい声の持ち主であることがわかった。クリスタルな透明感のある美声だが、声を張っても刺激的でないところが素晴らしい。長明だって山で子供と遊んだと記述している。それどころかその部分は方丈記のなかでも異彩を放っていて、楽しい気分に満ちあふれている。実際達矢の場合も、少女たちと過ごす木曜日が次第に待ち遠しくなってきた。特に玲華が唄っているときは、まるで天国に迷い込んだかのようなエクスタシーのひとときだった。ただロックバンドの編成にしてしまったので、彼女の声質が十分に生かされないというのが悩みの種だった。理想をいえばチェロとかコンガとかが欲しかったが、いまさら摩耶や睦美に別の楽器をやれとは言えなかった。

 サラリーマンの頃は春といえば、転勤や退職につきものの送別会と、お花見のドンチャン騒ぎだ。集まるのは顔も話も飽きた同僚、ここぞと親分風をふかせる気分の悪い上司、人の顔色だけはみるくせに仕事はいい加減な部下、というのが定番だ。しかし職を辞した今、半島の春はといえばそこここに咲く草花、草いきれ、鳥のさえずり、かすかに聞こえる潮騒、太平洋を遙かに渡る風、そして元気のいい少女たちだ。春になっても相変わらず少女たちはやってきて、毎週大騒ぎをしては帰っていった。人間が到達できる幸福はこういうのがマックスなのではないだろうか。

 ここが一軒家であることに達矢は感謝せずにはいられなかった。どんなに大騒ぎをしても隣家からは文句の一つも言ってこない。だいたい温泉街まで数百メートルの間、人が住んでいそうな家など、少なくとも舗装道路沿いには見つからなかった。そんなある日、いつも木曜日が集まる日なのに、水曜日に玲華がひとりでやってきた。

「あれっ、今日は水曜日だよ。バカやったな。でもせっかくきたんだから、あがってコーヒーでも一杯飲んでいくか」
「いただきまーす。でも今日は曜日間違えたんじゃなくて、先生にちょっとお話があって来たんです」
「ほう、またあらたまってなんだろうね」

 達矢はコーヒー豆を挽きながら、あらためて玲華の顔を見た。いつもみんなと騒いでるときにはまだまだ子供だと思っていたが、こうして1対1になってみると、どうしてどうしてもう立派な大人の雰囲気が芽生えてきていた。

 コーヒーを飲み終えると達矢は「で? 話って何?」と少し動揺した心を隠すように水を向けてみた。すると玲華は小さな、しかしはっきりとした声で「先生、私たち実はオーディションに出てみたいんです」と切り出した。

「プロのミュージシャンになりたいの?」と達矢は少し驚きの表情を浮かべながら訊き直した。
「はい」
「自分たちの今の実力はわかってるんだろうな。」
「ダメですか」
「ダメだね」達矢は即座に答えたが、しばらく間をおいて続けた。「でも永遠にって訳じゃないぞ。やる気があるんだったら、明日から毎日きてもいいから猛特訓だな。といっても俺は場所を貸すだけだが。しかし果たして、みんなにもそんなにやる気があるのかな」
「おおありですよー。よーし。みんなにも言わなくちゃ」
「おまえたちにそんなにやる気があるとは思わなかったなあ」
玲華はそれには答えず、眼をそらすように窓の外を見た。
「今日はすごくいい天気。 先生ちょっと外に出てみませんか」
2~3日雨だったので、久しぶりの晴天がまぶしかった。二人は自然に海猫岩の方に向かった。海猫岩からは夕陽にキラキラと光る静かな海が見えた。ここから何度このすばらしい風景を眺めただろうか。しかし今日は一人じゃなくて玲華と一緒だ。いつもの風景なのに、角のとれた不思議なのどかさを感じるのが不思議だった。

ふと気がつくと足下にアネモネが咲いていた。達矢がそれに気づいたときには、すでに玲華が言葉を発していた。
「あれめずらしい。こんなところにアネモネが咲いてる。」
「アネモネっていうのはギリシャ語で風っていう意味なんだ。風が好きな花なのかなあ」
「あれ、先生ってどうしてそんなこと知ってるの」
「俺がロマンチックじゃ可笑しいかい」
「ちょっと変かもね」
「玲華、ケルンって知ってるか」
「ケルン大聖堂とか?」
「いやいや、そういうのじゃなくって、山で道しるべとか記念とかに作るものだよ」
「それって初耳」
「こうやって小石を積み重ねていって、小さなピラミッドみたいなのを作るんだ。きゃしゃにみえるかもしれないが、積み重なった石の重みは侮れないよ。結構長い間崩れないでもつものなんだよ」

あたりの小石を集めて積みながら、達矢はポケットから手帳を取り出し一枚のページを破った。紙切れと手帳についている細い鉛筆を玲華に渡して、達矢は言った。「ここに シンガー玲華」 と書くんだ。
「わかった。こうかしら」
玲華が書いた紙切れを受け取るとそこには
「田所先生 私はプロのシンガーになります 玲華」と書いてあった。達矢はそれを小さく折り畳んで小石の上に置き、さらに玲華と共に小石を積み重ねた。

「できたぞ」
「できたね」

玲華は海に向かってア・カペラで倉木麻衣の「いつかは あの空に」を唄ってくれた。
https://www.youtube.com/watch?v=N_EmEK_fB7Y
https://www.youtube.com/watch?v=9myzfQ0AltQ
https://www.youtube.com/watch?v=m2R0dnu7hBY&list=RDm2R0dnu7hBY&start_radio=1

達矢は膝をたたいてリズムをとった。最後の1フレーズだけ玲華は達矢の方に向き直って唄い終えた。達矢は拍手しながら「いいぞ玲華」と叫んでいた。

「アンコールは無しよ、もう上にあがりましょう」と玲華は少し恥ずかしそうに言った。二人はまるで恋人のように腕を組んで道を上っていった。家まであがってくるともう夕暮れの空だった。門まで送っていくと、玲華は急に振り返り上目遣いに達矢を見据えて、決心したように話し出した。
「先生 私は本当は学校の先生になりたかったの。でもうちは代々漁師の家でしょう。父は機嫌が悪いと私が学習参考書を読んでるだけで取り上げて投げ捨てるような、今時信じられないような人なの。女は勉強なんかしても意味はない、早く嫁にいけばいいんだという発想しかないの」
「うーん そういうことがこの時代にまだあるのかね 昭和だね」
「そうなんですよ。だから自分の道が分からなくなってたの。でも今日からは新しい自分」
そう言うと玲華は小走りに小径を駆け上がっていった。達矢はそれを見送りながら、世捨人であるはずの自分としては、少し重すぎる荷物をしょってしまったかなと体がこわばってくるのを感じた。

 あまりに皆が熱心に練習するせいだろう、それから2-3週間たったころ玲華と睦美の母親たちが尋ねてきた。「うちは旅館をやっているだから、こんなに遊んでばかりじゃこまるのよ。ゆくゆくはおかみになってうちをささえていかなくちゃいかないんだから。学校の勉強にもちっとも身が入らないし」と睦美の母親はまくしたてた。玲華の母親も「芸能人になるって言ったって無理に決まってるでしょう」と非難めいた言葉を達矢に投げかけた。

「いや私がプロの演奏家になれと勧めたわけじゃないんですよ。彼女たちが演奏することに夢中になって、それで人にも聴いてもらいたいと思うようになるのは自然なことじゃないんでしょうか」と達矢は答えた。それでも彼女たちは口々に「こんなところに通わせるんじゃなかった」「お父さんにおこられる」などとあきらめないので、達矢も「無理矢理やめさせたって、かえって反抗して波風が立つだけでしょ」と捨てぜりふを吐いて家に閉じこもった。玲華と睦美だけではなく、みんな大なり小なり家でのトラブルは抱えることになったに違いない。それでも女子学生たちはあきらめず、毎日のように「田所音楽スクール」にやってきた。

 

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