続・生物学茶話223 視交叉
生物の体の構造は解剖学的にはほとんど明らかになっていますが、なぜそのような構造になっているのかわからないことも残されています。視神経や運動神経の交叉もその種の謎でした。しかし視神経の交叉については、最近ウィキペディアの visual system という項目の図(1、図223-1)を見てなるほどと納得しました。
図223-1は網膜は側頭側と鼻側の神経で別々の求心性径路をたどることを示しています。すなわち左目も右目も右半分の網膜の情報は右脳の外側膝状体に、左半分は左脳の外側膝状体に投射しているのです。これによって、左側網膜に投影された右の方の視界は左側の1次視覚野で立体視的に処理され、右側網膜に投影された左の方の視界は右側の1次視覚野で立体視的に処理され、それらの情報はさらに高次の視覚野で統合されて最終的な視覚情報になるわけです。
このようなシステムに最初に誰が気づいたのでしょう。桜井聡の総説に興味深い記載がありました(2)。橋本雅人が2003年の Ronald M. Burde 神経眼科勉強会で報告したところによると、胎児仮死で帝王切開をうけた妊婦が、播種性血管内凝固症候群のため子宮摘出手術を受けた後、眼に障害が発生した例について調べたところ、外側膝状体の損傷部位によって見えない部分が決まるということがわかり、ここから研究が進められたようです。文献2には文献1と若干異なる記述があるのでウィキペディアの方が正しいとして話を進めます。ただしウィキペディアで引用されている文献(3)については書籍なので私はみておりません。橋本先生は現在札幌の中村記念病院でご活躍のようです(4)。
図223-1 眼の情報は視交叉を経て脳に伝えられる
脳科学辞典の外側膝状核(外側膝状体と同意)の記述によると「多くの霊長類では(外側膝状体は)6層構造を示し第1、4、6層は反対側の網膜から、第2、3、5層は同側の網膜から入力を受ける」とあります(5)。これを図示すると図223-2のようになります。したがって右側の外側膝状体の中央部(2~5の部分)が損傷すると、左目で見ていた左側の画像情報は両端部の1、6層に投射しているので生き残りやすくなり、右目でみていた左側情報は中央部に近いので失われやすいということになります。
左目で得た左側情報と右目で得た左側情報を突合して処理するためにはおそらく視交叉が必要ですが、これはおそらく両生類から引き継いだものです。カエルの場合オタマジャクシでは視交叉はありますが左目の情報は全部右側の脳で、右目の情報は全部左側の脳で処理します。しかしカエルになると哺乳類と同様、神経の半分は交叉しないタイプのシステムに転換します(6、7)。驚異の可塑性です。魚類はオタマジャクシ型なので、脊椎動物のデフォルトはオタマジャクシ型(全交叉型)で、そこから進化したのがカエル型ひいては哺乳類型(半交叉型)ということになります。
ただし魚類でもチョウザメ(サメではなく硬骨魚類)やピラニアは半交叉型だそうです(7)。そうなるための発生プログラムがすでに魚類の間にできていたということでしょう。面白いのは哺乳類でも顔の構造で両眼視しにくい動物(齧歯類など)はより全交叉型に近い構造になるようです(7)。馬などは全交叉型かもしれません。鳥類も哺乳類と同じく、動く獲物を捕らえる必要がある種(猛禽類、海鳥、ツバメなど)は多分半交叉、鳩やカモなど植物が主食の種は全交叉なのでしょう。いずれにしても全交叉か半交叉かは生活の仕方によってフレキシブルなようです。ただし頭足類や昆虫では交叉は無いようなので(8)、後口動物が分岐したときに腹背逆転が起こったことと関係があるのかもしれません。ただナメクジウオは物体の輪郭線をみるような眼を持っていなかったので、そもそも交叉を議論できるような生物ではありません。ゼロから進化して肉食する魚類のなかに半交叉型に進化するグループが生まれてきたと考えた方が良いのかもしれません。それはもちろんターゲットまでの距離を測定するためでしょう。
図223-2 両眼の右側網膜(主として左側から眼に入る情報)から右側の外側膝状体への投射
脳における外側膝状体の位置を図223-4にピンクの点線で示します(9)。これは左側のものですが、この裏側に右側の外側膝状体があります。上丘は両生類や魚類では最大の視覚情報処理組織ですが、哺乳類ではこの機能は大脳皮質に移行しました。
図223-3 外側膝状体の位置(ピンクの点線)
外側膝状体は単なる視覚情報の中継点なのでしょうか? 視神経の末端は外側膝状体の細胞に包まれるような形態をとり、両者の間には多数のシナプスが形成されます。強固な結合を形成すると共に、ひとつのシナプスが興奮を伝えると他のシナプスを抑制する作用があるなど、無駄な重複を防ぐような作用を持つようです(10)。画素数が増えるとどれだけPCに重い負荷がかかるかは画像処理をやったことがある人なら誰でもわかると思いますが、そのことと関係があるかもしれません。
外側膝状体は網膜から受け取った情報をある程度整理して1次視覚野に転送します。ヒトの場合1次視覚野は脳の一番背側にあり、この視覚情報はさらに大脳皮質の前の方すなわち後頭頂皮質および下側頭皮質方向に投射されていきます(11、図223-4)。
図223-4 一次視覚野からさらに高次な視覚野への投射径路
外側膝状体でもある程度の情報の整理は行っているようですが、1次視覚野はまさに視覚中枢の一角を占める大脳皮質の組織です。中枢神経の機能を調べる上で貴重なツールが1962年に竹本と横部によって報告されました。昔からイボテングタケ、ベニテングタケなどに含まれる物質がハエを麻痺させることは知られていましたが、その物質を抽出し構造決定が行われました(12、図223-5)。
図223-5 イボテン酸の化学構造とイボテングタケ
その後の研究により、イボテン酸を脳に注入すると限定した領域が壊死し、数時間後には回復するという実験を行うことができることがわかりました。1次視覚野の1部をこの方法で壊死させると、視野の一部が欠損することがわかりました。そして猿の場合だとその欠損は10日くらいで回復するということもわかりました(13、14)。
この実験によって、どの視野がどの一次視覚野に対応するかがわかります。視野という網膜・視神経によって獲得されたマップは一次視覚野の物理領域に対応しています(14)。しばらくすると回復するのは、新しい軸索の分岐が損傷しなかった周辺部分に伸びて、その周辺領域が損傷部位を代替するようになることによって可能になります(13-15、図223-6)。つまり脳には細胞増殖を行なうことなく、機能的に損傷を回復する能力があります。
図223-6 イボテン酸注入による壊死と回復
一次視覚野から投射されるより高次の視覚野ではマップの1:1対応は希薄になり、画像の変化(動体視)とか3次元構造などの認識を行うための機能を持つと考えられています(16、17)。
(図表はいずれもウィキペディアの図を加工したものです。加工した部分は筆者の責任です)
参照
1)Wikipedia visual system
https://en.wikipedia.org/wiki/Visual_system
2)桜井聡 視覚の臨床神経眼科学 日眼会誌 vol.112, no.2, pp.107-120 (2008)
https://www.nichigan.or.jp/Portals/0/JJOS_PDF/112_107.pdf
3)Martin J. Tovee, An introduction to the visual system., Cambridge University Press, Cambridge, UK, 2008
4)社会医療法人 医仁会 中村記念病院
http://www.nmh.or.jp/doctors/hashimoto/
5)脳科学辞典 markの部屋 外側膝状核
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A4%96%E5%81%B4%E8%86%9D%E7%8A%B6%E6%A0%B8
6)今井眼科医院 視交叉
http://www5b.biglobe.ne.jp/~i-ganka/2006-5.htm
7)松縄正彦 動物の立体視
http://markpine.blog95.fc2.com/blog-entry-120.html
8)Academic accelerator 視交叉
https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/optic-chiasm
9)Wikipedia: Lateral geniculate nucleus
https://en.wikipedia.org/wiki/Lateral_geniculate_nucleus
10)生理学研究所 プレスリリース 目から入ってくる溢れるような視覚情報を "くっきり"させて脳に伝える仕組みの一端を解明
http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/02/post-202.html
11)ウィキペディア 視覚野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E8%A6%9A%E9%87%8E
12)竹本常松、横部哲朗 (1962-05-31). “イボテングタケの殺蠅成分(第14回大会講演要旨)”. 衛生動物 13(2): 174-175. (1962) NAID 110003820760
13)W. T. Newsome, R. H. Wurtz, M. R. Dursteler & A. Mikami, Punctate chemical lesions of striate cortex in the macaque monkey: effect on visually guided saccades., Exp.Brain Res., vol.58, pp.392–399 (1985) https://doi.org/10.1007/BF00235320
https://link.springer.com/article/10.1007/BF00235320
14)脳の世界 第一次視覚野が壊れると見えなくなる
http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/index.html
15)C Darian-Smith, C D Gilbert, Topographic reorganization in the striate cortex of the adult cat and monkey is cortically mediated., J Neurosci., vol.15 (3 Pt 1): pp.1631-1647. (1995) doi: 10.1523/JNEUROSCI.15-03-01631.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6578152/pdf/jneuro_15_3_1631.pdf
16)脳科学辞典:視覚前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A6%96%E8%A6%9A%E5%89%8D%E9%87%8E
17)脳科学辞典:視野地図
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A6%96%E9%87%8E%E5%9C%B0%E5%9B%B3
| 固定リンク | 1
「生物学・科学(biology/science)」カテゴリの記事
- 続・生物学茶話302:低分子量Gタンパク質 Ras その2(2026.05.29)
- 続・生物学茶話301:低分子量Gタンパク質 Ras その1(2026.05.15)
- 続・生物学茶話300:神経細胞のアクチンとその周辺 8:SynGAP(2026.04.30)
- 続・生物学茶話299:神経細胞のアクチンとその周辺 7:PSD95(2026.04.16)
- 続・生物学茶話298:神経細胞のアクチンとその周辺 6:コータクチン(2026.04.06)








コメント