半島のマリア 第6話:エディ
「ハイ レイカ ゲンキー」といつも陽気なエディが会議室にはいってきた。
「どうしたんですか。今日は変にハイですよ」と玲華は少し驚いて答えた。エディは玲華がはじめて面と向かって話したアメリカ人だが、英語で話したことはなかった。エディはゆっくりではあったが、ほとんど正しいと言っていい日本語をしゃべるので、会話に不自由はなかった。相手が日本人だった場合、たいして話したこともない人に「レイカ」と呼び捨てにされるというのは不快に感じるかもしれないが、相手がアメリカ人なら許せてしまうのが不思議だった。
「何しろ広い部屋を使わせてもらってるのは有難いんだけど、ずっとひとりで仕事してると息が詰まりそう」
「コーヒーでも淹れましょうか」
「おお玲華、やさしい。あなたのビデオを長谷川さんにみせてもらいました。心をうたれました」
「エディさんは日本語のプロね。心をうたれるなんて言葉をよく知ってますね」
玲華は面と向かってほめられたてれかくしにエディをほめた。
「ドキドキってことでしょう」
「ちょっと違うかもね」
エディが出ていくと、シンとした会議室に玲華一人とりのこされた。窓から外を見ると、近くの建物の庭に桜の木が1本だけぽつんと満開になっていた。道路を見下ろすと、半袖のTシャツで歩いている人もいるくらいで、すっかり世の中は春だった。レッスンやボイストレーニング、イベントのお手伝いなどあれこれと忙しくて、長らく東京の社員寮住まいになってしまい、玲華は最近学校に行ってなかった。まだデビューもしていないのに雑誌の取材や写真撮影まであって、自分はどうも実力以上に期待されているんじゃないかいうことを不安に思わないわけにはいかなかった。
ドアがガチッと開く音がして高野が会議室にはいってきた。
「みんなもうすぐ来るから少し待って」と高野は長机をはさんで、玲華の向かい側に機嫌の良さそうな顔で座った。
「玲華ちゃん。朗報だよ。東友大学のヘヴンズビーチが一緒にやってくれるそうだよ。これでプロジェクトがスタートできる。今日が玲華プロジェクトが本格的に始動する日だ」
間もなく数人のメンバーが次々と集まってきた。最後に学生らしい人物が二人席に着くと、高野は少しあらたまった様子で椅子から立ち上がった。
「今日は皆さんもうご承知のように、玲華プロジェクトの実質的なスタートの日です。まず浜本玲華さん、ヘヴンズビーチの牧君と古賀君の初顔合わせなのでご紹介します。今日はお二人だけですが、ヘヴンズビーチは5人の構成で、これから一緒にお仕事を進めることになるのでよろしくお願いします。今日はいつもの企画部と宣伝部のメンバー以外に、特に制作部の秦さんにも加わっていただきました」
「秦です。よろしくお願いします」
「最初の日からごちゃごちゃと細かいことをやるのもなんなので、初対面の方もいらっしゃることですし、今日はケーキでもいただきながらフリートークでいきましょう」
ちょうどタイミングよく事務員がコーヒーとケーキを運んできた。机に並べているときにひょっこり田所が入ってきた。
「いやいや遅刻だ。申し訳ありません」
背中を曲げてこそこそと入ってくる田所を見ると、玲華はかすかな幻滅を感じないわけにはいかなかった。これは若くて有能な高野という男を知ってしまったからだろうか。それともエディのせい? いや田所の年齢を考えると、年相応のくたびれ方ではあろう。彼への思いが色あせてきたことで玲華は自分が少し大人になったことを感じたが、それはもちろんほろ苦いものでもあった。それでも玲華にとって田所が師であり、自分の運命を決めてくれた人という気持ちには変わりなかった。高野が立ち上がって話し始めた。
「ちょうど田所さんが来られたので、皆さんにお知らせしておくことがあります。実は田所さんが玲華ちゃんのマネージメントをやっていく自信がないとおっしゃるので、こちらでさがすことになりました。こころあたりはありますが、まだ決まっておりません。決まり次第お知らせ致します」
高野に続いて田所が立ち上がって言葉を引き継いだ。
「みなさまの御陰様で、玲華が世に出る準備が整ったということで感謝しております。私はこれまで芸能界には無縁の衆生だった上に、玲華のお母さんにおこられちゃったことなんかもありまして、こういうことになりましたが、これが却ってよい結果に結びつくと確信しております。幸いウェブデザイン関係での仕事をいただきまして、微力ながら玲華のプロモーションの方面でお手伝いさせていただくことになりました。今後ともよろしくお願いします」
フリートークだなどといいつつ、高野は誰に曲作りを依頼すればよいかとか、玲華とヘヴンズビーチの共同ユニットの名前をどうするかなど重要なテーマをつぎつぎ手際よく煮詰めていった。田所が推測するところでは、秦と高野の間ではほぼ事前に話ができあがっていて、あとの連中はただそのなかで泳がされているだけという進行のようだった。結局名前は「マリア・ロザリー&HB」ということで学生達を納得させ、数曲を結構売れている作家達に依頼することになった。ロザリーというのは数珠のことでみんなで繋ぐという意味があると高野は自慢げに付け加えた。プロジェクトはもう引き返せないところに来た。
長い会議が終わると、もうあたりは暗くなっていた。玲華がビルを出て地下鉄の階段を下りようとしているとき、うしろからエディが声をかけてきた。
「レイカ 疲れてますね。こんどはコーヒーおごります」
実際に疲れていたし、断る理由もみつからなかったので、近くのビルの二階にあるカフェに入ることにした。
「エディさんはどんな仕事してるの」
「エディさんじゃなくて、エディと呼んでもらえるとうれしいです。正式な名前はエドウィン・ロスバーグです。アメリカ合衆国のロゼットというレコード会社の契約社員として仕事をしています。ロゼットはマノスレコードに日本でCDなどを売ってもらってるんだけど、主にその契約や業務提携の仕事をしているんです。時間のあるときはプロモーションみたいなことも少しやります。仕事上の直接の関係はないんですが、一応長谷川さんの部下ということになっていて、いろいろ相談相手になってもらっています」
「どうしてそんなに日本語が上手なの」
「軍の仕事で沖縄に3年いたことがあるんです。その時に日本語のコースをとって勉強したんです。軍隊をやめたあと、日本人相手に仕事をすればもうかると思ってね」
「ご両親はアメリカにいらっしゃるのね」
その質問をしたときに、エディの顔に一瞬暗い陰が走ったような気がした。やはり「両親とも亡くなりました」という短い答えがかえってきた。玲華は不意をつかれて「ごめんなさい」と言ったまま、気まずい沈黙になってしまった。
助け船のようにコーヒーが運ばれてくると、エディは笑顔を作って
「今度はボクのクエスチョンタイム。レイカはどうして歌手になったの」と訊いてきた。
「偶然もあるけど、小さい頃から歌は好きだったの」
「どんな曲が好きですか?」
「アメリカ人だったら、ちょっと古いけどナタリー・コールなんて好きよ」
「なるほど、mona lisa, mona lisa, men have named you」
「ひょっとして歌ってる?」
「ナタリーのお父さんの歌です」
「うーん なんか聴いたことがあるかも」
田所や高野とは親しいといっても、やはり年齢や立場という壁があって友人ではない。玲華は高校ではつるんでいたクラスメートは女子ばかりだったので、男子の友達はいなかった。エディは多分高野くらいの年齢だとは思うが、唯一の異性の友人候補かもしれない。それにしても、知り合ったばかりなのにどうしてこんなにフランクに話せるのか不思議だった。
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