半島のマリア 第1話:風穴 an original novel
湖畔の公園に立ち並ぶ満開の桜の林のむこうに、くっきりと白い航跡を残してクルーザーが疾駆していく。公園の広場では子供達が凧揚げをしているが、風が弱いせいかうまく揚がらないようだ。しかし何度失敗しても、子供達は歓声を上げながら糸を持って走るのをやめない。そんな景色を横目にふらふら歩いていると、段差に気が付かず転んでしまった。子供達がそれに気づいて笑う。健二はそちらの方はなるべく見ないようにして、少し歩くスピードを速め、目的地のカフェ「ぶーふーうー」に着いた。ここは古くからやっている店だそうだが、インテリア代わりにふんだんに観葉植物が配されていて、いつ来ても気分をリフレッシュできる。
今朝は穏やかな晴天なので、テラスに席をとった。前庭には鮮やかな黄色のレンギョウの花が咲き乱れていた。白い椅子にもたれて湖畔を渡るここちよい風にふかれていると、そのまますやすやと眠りこんでしまいそうだ。富士山も今日はかすんだ風情で空に横たわっている。
昨夜は来週に予定されているレコーディングのためのリハーサルが午前2時頃まであったのだが、そのあとビールとバカ話で盛り上がり、夜が明ける頃からやっとスタジオ内の休憩室で2時間ほど仮眠しただけだった。アームにもたれてうとうとしていると、ウェイトレスに「お待たせしました。モーニングセットをお持ちしました」と声をかけられた。どうも本当に眠ってしまっていたようだ。
「ああ どうもありがとう」と健二は目をこすりながら答えた。
「ちょっと寝不足でね。わるいわるい」
「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスは吹き出すのをこらえるように立ち去った。
深煎りのコーヒーをゆっくりと飲み干した頃、赤い長袖シャツにジーンズの早智が、バックパックを揺らしながら、軽やかなあしどりでやってきた。彼女はスタジオミュージシャンで、昨日のリハーサルに参加していたが、バカ騒ぎには加わっていなかった。そのせいだろう、さっぱりとした顔ではつらつとしていた。彼女はケラケラと笑いながら「なに、その髪」と健二のピンと髪の立った頭頂から後頭部を指さしながら言った。
「いや さっきここで眠ってしまってね」
そういえば目が覚めてから、健二は一度も鏡を見ていなかった。くそ、それでさっきウェイトレスが嗤ったのか、と心の中で悪態をつきながら健二はウェイトレスを目で捜したが、彼女はこちらに背を向けてマスターと話しているところだった。健二は早智に鏡を借りてあわてて髪を直した。直し終わって振り向くと、また件のウェイトレスが嗤っていた。さっきは子供にも笑われたし、今日はあまりいい日じゃなさそうだ。
「これってポルシェよね。まさか買った訳じゃないんでしょう」
「ボクのポンコツ車の方がよかったかな。いつも平凡なデートじゃつまらないかもしれないと思ってね。知り合いに頼み込んで借りたんだよ。傷でもつけたらマジで大変なんだけどね。」
「ふーん。健ちゃんってお金持ちの友達がいるんだ」
「まあ一応ヤブ医者なんだけど、現金で買ったんじゃないみたいだよ」
「それじゃなおさら壊しちゃたいへんね。今日はハイキングだって聞いてたからそのつもりできたんだけど。ところでいったいどこに行くの」
「青木ヶ原樹海って言ったらどうする」
健二は早智に断られたらどこに行こうかと考えながら訊いてみた。
「ええー。ドクロ探しでもするの」
「いやそうじゃなくて富士風穴に行ってみない。観光地の富岳風穴なんかと違って、ちょっとしたアドベンチャー気分が味わえるかもしれないよ」
「むむ。 それって面白いかも」
健二はひょとしたら「まだ3回目のデートの場所にこんなところを選ぶのは非常識」と断られるかもしれないと思っていたので、意外な早智の反応にほっとした。そういえば彼女の実家は東京近郊とはいえかなり不便なところにあるという話だった。そうか、カントリーガールなんだ。健二はどこかで彼女を山の手のお嬢様感覚でつきあおうとしていた自分が可笑しくなった。笑いをこらえながら「よーし、じゃあ青木ヶ原へ突入だ」と叫んで車を走らせた。
富士山の周辺では頻繁に火山性微動が観測されていた。先週ははっきり体感できる地震も2度あった。富士山の火山活動を長年監視している大学の研究室では、近々大規模な噴火がある可能性が強いとの結論を出し、各方面に警告を発していた。関係自治体は合同対策本部を設置し、御殿場や河口湖周辺では避難訓練も行われた。しかし今までにも頻繁な地震の後何事もなしということが何度かあったので、あまり大学の情報を信用していない関係者も多かった。
「まったくうちの会社もどうして河口湖なんかにスタジオ作ったのかなあ。この頃地震なんかもあるし、富士山大爆発の噂なんかも飛び交っているんだよね。作ったばかりで溶岩の下敷きなんてシャレにならないよ」
「東京の本社に異動してもらえないの」
「ダメダメ、まだここにきて半年もたってないんだから。それにある意味では、ここは会社の最前線と言ってもいいんだよ。だからあの時々来る不気味な揺れさえなけりゃ、最高の職場なんだけどなあ。まあそんなにマジに心配しなくてもいいかも。だいたい富士山が前に噴火したのは江戸時代だろう。知ったこっちゃないよね」
「まあそういえばそうかもね。それにこんな空気がきれいで、景色もいいところで仕事ができるんだから文句も言えないか」
ちょっと会話がとぎれた頃、西湖が見えてきた。
「お 西湖に着いたぞ。この先に車を止めていよいよアドベンチャーだ」
健二たちは車をとめて、徒歩で青木ヶ原に分け入った。といっても車も通れそうな立派な林道を歩くだけだ。
「今日はサンドイッチを用意してきたのよ」
と早智はバックパックをポンとたたいて先に進んでいった。健二も防寒具、サーモス、地図、懐中電灯などを詰め込んだ学生時代から使っている年代物のリュックを持って歩き始めた。
「樹海ってもっと鬱蒼とした暗い森だと思ってたけど、木の高さは低いし意外に明るいのね。それにちゃんと立派な道がついてるじゃない。これで道に迷って白骨になるっていうのはまぬけよね」
「いやあ、ここで白骨になる人はちゃんと覚悟してくるんだろう」
「でも殺されて捨てられた人もいるかもね」
「それじゃあ成仏できないだろうなあ。でも話題を変えない?」
「そうね」
富士風穴に着くと、それは想像を超えたものだった。まるでUFOが着地したような巨大な縦穴が開いていて、その縁に階段が切ってあった。階段を数段下りただけで、周辺の温度が下がったことに気がつく。底に着くと横穴が開いていて、ここが富士風穴の入り口だった。中を覗くともちろん奥の方は暗闇だったが、もう春だというのに入り口から2ー3メートル先には氷が見えた。
「どう少しは怖じ気づいたかな」
「びびってるのはあなたの方じゃないの、私は平気。でももうお昼よ。中を見物する前にサンドイッチでも食べましょう」と早智がバックパックをおろしてファスナーを開き、バスケットを開けようとした時だった。ドドドドっという地響とともに地面が縦に揺れ始めた。
「やばい」と叫んで健二は早智の手を思い切り引いて階段の方に突進した。階段を駆け上がる30秒くらいの時間がとてつもなく長く感じられた。やっと縦穴から抜け出したとき、ドーンという鈍い音とともに大きな横揺れが来て、二人とも草地に伏せて地面にしがみついた。揺れがどうやらおさまって、二人はようやく地面に座り込んだ。
「これは東海大地震、いや富士山が噴火したかもな」と健二は言ったつもりだったが、声が震えているのが自分でも分かった。
早智は放心したように座り込んでいて、何も返事はしなかった。そのとき二人は信じられないような光景を目にした。縦穴の向こう側の縁がゆっくりと、まるでスローモーションのように崩れ落ちたのだ。
「ひょっとしてこっちもやばいんじゃない」と早智が叫んだ。健二は早智を引きずるように10メートルほど穴の縁から遠ざかった。振り向くとあたりはもうもうたる埃で夕方のようだった。
どのくらい座り込んでいたかわからない。健二は早智の声でわれに返った。
「あれー サンドイッチはどうなっちゃたのかしら」
「それより、俺リュックを下に置いてきちゃったよ。身分証明書に運転免許、カードにカギに現金にスマホ、だめだ。とってくる」
「ダメよ。もう一度崩れたらどうするの」
「大丈夫 さっきので打ち止めだろう。洞窟での防寒用に買ったキルティングジャケットだって、結構バカにならない出費だったんだよ。スマホ持ってるよね」
「持ってるけど」
「じゃあいざってときは頼むよ」
「ほんとに行くの」
「行く」
「じゃ気をつけて。上で見てるからね」
埃はやっとおさまってきた。健二はまた階段を下ったが、下は石ころや倒木などでむちゃくちゃになっていて、逃げ遅れていたらと思うとぞっとした。やっとリュックを見つけだし、やれやれと思ってあたりを見回すと、視線の先に妙なものがあることに気がついた。それは大きな氷の中に何かが埋まっているという感じだった。近づいてみると、埋まっているものはどうも人のようだった。思わず「おー」と声を上げて、健二は後ろにひっくり返った。「どうしたのー」と叫ぶ早智に答える暇もなく、階段をはいずり上った。
「人間だよ人間。死体じゃないか。シ・タ・イ。はやく警察に電話しなくっちゃ」
河口湖にもどってみると、世の中は大変なことになっていた。富士山が小規模の噴火をして登山者に何名かの死者も出たということで、パトカーや救急車が走り回っていた。河口湖あたりでも倒れた家もあったようで、通りに人が大勢出てごった返していた。地震の被害の全貌はまだ明らかになってはいなかったが、このぶんでは多くの死傷者が出ていても不思議じゃない。健二のみつけた死者は、夕刻までには警察に運ばれた。
健二と早智は警察で事情を聞かれた後、ちょっと待機しててもらえませんかと頼まれた。最悪の1日だ。夜になってからやっと刑事がまた声をかけてきた。
「あんた達もこの忙しいときにえらいものをみつけてくれたもんだね。ま、それは冗談だがホトケが外人さんなんだよ。パスポートや身分を明らかにするものもないんで、ちょっと時間かかるかもな。とりあえず今度はちゃんと顔が見えるので、もう一度見てくれませんか」と刑事が頼みにきた。安置室の死体は氷も溶かされてきれいになっており、顔にかかっている白布をめくると人相がはっきりと識別できた。
「ややや これはエディという男です」
「お知り合いですか」
「いや、知り合いってほどじゃないんですが、外国人の社員は彼だけだったので顔を覚えています。うちの会社に米国の音楽出版社から出向で来ていて、新たな業務提携の話などを詰めていたという話を聞いてました。いったいどうしてこんなことに・・・」
「そうですか。いや待つててもらってよかった。おおいに助かりました。お疲れのところ有り難うございます。」と刑事は健二に礼を言ってハンカチで額をぬぐった。
「あ それから、お知り合いとはまあとんでもない偶然とは思いますが、また後ほどお伺いしたいことができるかもしれませんので、連絡先をここに記入しておいてください」
書類を渡して去ろうとする刑事に、健二は思い切って声をかけた。
「刑事さん。ちょっと聞いていただきたいことがあるんですが」
刑事はふりむいて「いいですよ。何でしょう」と言ってくれたので、「実は昨年、うちの会社で売り出そうとしていた新人歌手の居所がわからなくなるという事件がありまして、同時期にエディが帰国したので、何か関係があるんじゃないかと一部でうわさになったことがあります。エディが日本で死体でみつかるなんて、ただごとじゃありませんよ。うちの歌手の件もあわせて捜査してくださるよう、是非ともお願いします」と健二は一気に自分の思いを吐き出した。
話を聞いていたのか、怖いと言って部屋の外にいたはずの早智が、いつの間にか健二の隣にきていた。
「その歌手は浜本玲華という私の友達なんです。エディさんと交際していたと聞いています。玲華がいなくなったのは、きっと事件にまきこまれたに違いありません。是非探してください。お願いします」と早智は刑事にすがるように懇願した。
「ほう」と刑事はメモをとりながら、するどい視線を健二たちにあびせた。
「私は河口署の小室というものですが、お話の件につきましては、担当部署と連絡を取りましてきちんと対処したいと思います。その件についてもまたお伺いしたいことができるかもしれないので、その節は宜しくお願いします。何か気が付いたことがあったら、いつでもここに連絡してください」と刑事は名刺を渡して部屋を出た。健二と早智も屍に一礼して後に続いた。長い一日がようやく終わった。
警察署から外に出ると、もう深夜で空気がひんやりとしていた。さすがに夕刻の喧噪とは別世界の静けさだったが、二人の心臓の鼓動は静まらなかった。とんでもないことに巻き込まれてしまった一方、これをきっかけに、もうあきらめかけていた玲華の行方がわかるかもしれないという一縷の希望が二人の心をひとつにしていた。空を見上げると、噴煙のせいだろうか、星は全く見えなかった。
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