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2023年8月18日 (金)

小旅行(revised, 今は亡き私の飼い猫 サラとミーナに捧げる)

午前中の診断と検査が終了した。4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、他の患者の方に医師と看護師は移動した。狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。まだ1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もなじんで見飽きてしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。薄暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。硬膜下血腫になったときのことを思い出した。あのときも声が出なくなったが、みんなそうなのだろうか? まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

それにしてもここは何処なんだ!?

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからグスタフ・マーラー作曲交響曲第9番第1楽章冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=aAKMD2wowtM

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンのかすかな息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

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しばらくすると薄暗がりのなかで中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうちサラとミーナにも会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。ただすれ違うだけで、話をすることができないばかりか、相手が気づいているかどうかもわからないというのは不満だ。

ずいぶん長い間漂っているうちに、サラやミーナともすれ違ったし、そのほか大勢の人たちとすれ違った。そこで気がついたのは、知らない人とはすれ違わないということだった。そりゃそうだ。これは私の脳内の風景なので、知らない人とすれ違うわけはないのだ。

そして私はカローンと再会した。カローンはこの世界で唯一言葉を発する人物だった。

「どうだ、この世界は楽しいか?」

私は首を横に振った(ほんとに振れていたかどうかはわからない)。

「ひとつ相談だが、私と船頭を代わってくれないか? 船頭になれば話せるようになるし、知らない大勢の人とも会える。この世界では唯一の特権階級だ。ただ代わってくれる者をみつけないと、ずっとこの仕事をやり続けることになるが どうだ」

カローンは私の目を覗き込んでそう申し出たが、私は乗り気にはなれなかった。カローンの申し出を引き受けると、逆に知らない人にしか会えないような気がした。だって川を行ったり来たりするだけなんだろう? 

私は強く首を横に振った(ほんとに振れていたかどうかはわからない)。

突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの看護師が午後の採血の準備をしていた。「お目覚めですか」と看護師は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。看護師がカーテンを閉めないで去ったので、けやきの緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

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(ウィキペディアより)

カローン:カローンは、ギリシア神話に登場する冥界の河ステュクス(憎悪)あるいはその支流アケローン川(悲嘆)の渡し守。櫂を持ちボロを着た光る眼を持つ長い髭の無愛想な老人で、死者の霊を獣皮で縫い合わせた小舟で彼岸へと運んでいる。画像はウィキペディアより

岡田有希子:日本のアイドル歌手。1986年4月8日、自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂。2階上のマンション住民がガス臭に気付き、管理人が110番と東京ガスに通報した。レスキュー隊が駆けつけたとき、岡田は押入れの下段でうずくまり泣いていたという。北青山病院で治療を受け、東京都新宿区四谷のサンミュージック本社に戻った直後、12時15分に本社が入居しているビルの8階屋上から飛び降り自殺した。満18歳没。

坂井泉水:日本の女性歌手、作詞家。音楽ユニット・ZARDのボーカリスト。2007年5月26日、入院先の慶應義塾大学病院内のスロープ状になっている高さ約3メートルの地点から転落し、駐車場で仰向けに倒れているところを通行人に発見される。その後集中治療室で緊急処置を受けたが、後頭部強打による脳挫傷のため、5月27日午後3時10分に死去した。40歳没。

サラとミーナ:死去した私の飼い猫。

 

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