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2023年7月27日 (木)

続・生物学茶話217: 記憶2 HMとアメフラシ

ウィキペディアでHM(患者)という項目をみると(HMだけでなくカッコをつけて患者と入力する)、脳に関心がある人にとってはとても興味深い記述があります(1)。HMはイニシャルですが、生前はプライバシーに配慮して名前=ヘンリー・グスタフ・モレゾン(図217-1)は明かされていませんでした。

HMはおそらく子供の頃の頭部損傷が原因でてんかんを発症したとされています。時を経るにつれてだんだん症状がひどくなり、20台後半には日常生活が不可能なくらいひどくなったので、神経外科医であるウィリアム・スコヴィル(図217-1)は当時(1953年)すでに多数の手術例があった前部側頭葉切除術を行いました。この手術によっててんかんが完治する可能性は高く、現在でも行われています(2)。

手術の結果は良好でてんかんは完治しましたが、大変困ったことが起きました。HMは昔の記憶はありましたし、IQもむしろ術後の方が向上していたのですが、病院のトイレの場所も覚えられないほどひどい健忘症になり、介護が必要になってしまいました。その状況を打開するために心理学者のミルナーが派遣されてきました(3)。

スコヴィルとブレンダ・ミルナー、ミルナーの弟子スザンヌ・コーキン(図217-1)は、その後の患者の経過を詳細に観察しました。その結果患者は短期記憶は普通にできますが、それを長期記憶として定着させることができないことがわかりました。ところが手続き記憶(4)に関してだけは短期・長期にかかわらず正常で、運動の学習は可能でした。ただし学習したということはすぐに忘れてしまいます。スコヴィルとミルナーはHMともう一人の患者の術後経過を観察して1957年に論文を発表しました(5)。この論文は手続き記憶以外の長期記憶は海馬および周辺組織が関与するということを示唆しており、記憶に必要な脳の部位がはじめて特定できたということで大きな注目を集めました。短期記憶に海馬および周辺組織が必要ないということも重要な知見です。

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図217-1 HMと彼を見守った人々(画像はウィキペディア、故コーキン博士の写真はHPより)

HMが素晴らしいのは、自分が研究者の観察対象になることを受け入れたことです。スザンヌ・コーキンは生涯、彼の経過観察を行いました。彼は長期記憶を失う代わりに、脳科学に大きな貢献をすることになりました。彼の脳は永久保存されているそうです(3)。

HMの貢献は(1)に詳しく記載してありますが、なかでも興味を引くのは・・・以下(1)から引用:「彼は幼少期のことを思い出せるが、手術の前の数年間のことを思い出すのはたいへん困難であった。彼の古い記憶は障害されず、手術に近い時点での記憶は障害された。このことは、昔の幼少期の記憶は内側側頭葉に依存しないが、最近の長期記憶は依存することの証拠とされる」ということです。

このことは年月が経過すると記憶の場所が移動するということを意味します。内側側頭葉とは手術で切除した海馬および周辺の組織のことです。スミスとコスリンは「内側側頭葉とさまざまな外側皮質領域との相互作用が内側側頭葉の外で記憶を貯蔵すると考えられ、これは皮質での経験の表象のあいだで直接の結合が生じることで実現される」としています(6)。そう言われてもなかなかイメージしずらいメカニズムだと思います。

HMについで記憶研究のエポックとなったのは、エリック・カンデルのアメフラシを使った研究です。カンデルはユダヤ系だったので、ナチスによる迫害を逃れて、両親と共に第二次世界大戦勃発直前に欧州から米国に逃れました。戦後ニューヨークの大学を出てNIHで脳の研究をしていましたが、記憶のメカニズムを研究するにはヒトは複雑すぎるのでもっと単純な無脊椎動物を材料とすべきだと考え、フランスに留学してアメフラシを材料とする研究を始めました(7、図217-2)。

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図217-2 エリック・カンデルとジャンボアメフラシ(画像はウィキペディアより)

アメフラシは軟体動物門・腹足綱なのでいわゆる貝類なのですが、貝殻が退化している生物です。危険を感じると紫汁腺から粘液を出して逃げます(8、図217-2)。アメフラシは水管から海水や老廃物を排出し、大きく露出した鰓筋で鰓呼吸をしていますが、水管をさわるとこれらを引っ込めてしまいます。しかし波打ち際で波に打たれても引っ込めずのんびり休んでいます。これは「慣れ」が生じると学習してひっこめなくなるからです(9、図217-3)。「慣れ」も記憶と言えば記憶です。イソップ物語の狼少年のようなもので、波による同じ刺激に対しては危険がないので水管をひっこめる必要はないわけです。

このような馴化の要因は図217-3の水管から鰓につながる神経系(単純化してある)全体のレスポンスが鈍化することによりますが、その原因は定かではありません。アメフラシの馴化については高校の教科書にも書いてあります。確かにシナプスは化学的なプロセスでもあり、伝達物質などを使い切れば次に合成されるまでお休みになるわけですが、馴化はそのような単純なメカニズムではなくさまざまな要因が絡んでいます(10)。文献9では一応「刺激によって感覚ニューロンは興奮する。それが繰り返されると、このニューロンの中のカリウムチャネルが活性化し、ニューロンの脱分極持続時間の短縮→カルシウムチャネルを通って流入するカルシウム量の減少→神経伝達物質放出量の減少、という現象が起こる。カリウムチャネルはニューロンが興奮して脱分極したとき、膜電位を元に戻すために細胞内のカリウム(K+)を放出するチャネルである。」と説明しています。

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図217-3 アメフラシの水管を触ったときの反応 アメフラシは水管を触られると鰓を体の中に隠してしまいますが、10回続けて触ると神経は反応せず、鰓を出したままになります。2時間触るのをやめるとその記憶は失われ、また鰓を引っ込めるようになります。

エリック・カンデルらはアメフラシを使って、神経は刺激されることによってcAMPの濃度を上昇させ、これが記憶形成につながることを示しました。それまでは電気生理学的な研究が主たるもので、記憶の物質的基盤を示したことは画期的であり、カンデルは2000年のノーベル生理学医学賞を受賞しました(図217-4)。

図217-4の説明を要約すると「弱い刺激すなわち少量の伝達物質が細胞Aの神経末端から細胞Bの受容体に届くと、細胞B内のcAMPの濃度が高まりタンパク質キナーゼが活性化されてイオンチャネルがリン酸化されて活性化し、シナプス後細胞(C)を脱分極させやすくなるという短期記憶を形成しうる。一方より強い刺激がくると細胞BのcAMPの濃度がより高まり、Bの細胞核の転写に影響を与えて新規のタンパク質が合成され、シナプスの構造に変化を与える。それによって長期記憶が形成される。」ということになります。上記の新規のタンパク質である転写因子CREBが重要な役割を果たすこともカンデルが見いだしました(11、12)。

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図217-4 エリック・カンデルが提唱した記憶のメカニズム

テリエ・レモは電気生理学の実験で長期増強を発見しましたが、同時期にカンデルらはそれにかかわる分子を調査し、生化学的なメカニズムの解明に手をつけました。またそれまでHMのようにてんかんの手術を受けた患者や交通事故などで脳を損傷した患者からの情報がメインだった記憶の研究を、アメフラシを使った実験によって進展させるという新しい道を拓きました。

最近の実験によると、散在神経系しか持たないイソギンチャクでも古典的条件づけ学習が可能だそうです(13)。図217-4では3つの細胞だけで記憶が成立するわけですが、カンデルの方向性は間違っていなかったのでしょう。もちろん私たち脳を持つ動物はもっと複雑な記憶の仕組みも持っているのは当然ではありますが。

HMについてより詳しく知りたい方は、私は未読ですがスザンヌ・コーキンの本が出版されています(14)。

参照

1)ウィキペディア:HM(患者)
https://ja.wikipedia.org/wiki/HM_(%E6%82%A3%E8%80%85)

2)てんかん情報センター てんかんの手術
https://shizuokamind.hosp.go.jp/epilepsy-info/news/n4-5/

3)海野聡子 忘れがたい健忘の症例H.M.とその後 高次脳機能研究 第37巻 第3号, pp.260-266 (2017)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hbfr/37/3/37_260/_article/-char/ja/

4)続・生物学茶話216 記憶1 長期増強と長期抑制
https://morph.way-nifty.com/grey/2023/07/post-73111d.html

5)Scoville, W. B.; Milner, B., Loss of Recent Memory After Bilateral Hippocampal Lesions., Journal of Neurology, Neurosurgery & Psychiatry., vol.20 (1): pp.11–21., (1957) doi:10.1136/jnnp.20.1.11
https://jnnp.bmj.com/content/20/1/11

6) Edward E. Smith and Stephen M. Kosslyn, Cognitive Psychology: Mind and Brain, 2006 Prentice Hall
https://www.amazon.co.jp/Cognitive-Psychology-Brain-Edward-Smith/dp/0131825089?asin=B00IZ0L83K&revisionId=&format=4&depth=1

7)Wikipedia: Eric Kandel
https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Kandel

8)ウィキペディア:アメフラシ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B7

9)動物の生きるしくみ事典 学習:とくにアメフラシの場合
https://cns.neuroinf.jp/jscpb/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%EF%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%81%AE%E5%A0%B4%E5%90%88

10)Wikipedia: Habituation
https://en.wikipedia.org/wiki/Habituation

11)MLA style: Press release. NobelPrize.org. Nobel Prize Outreach AB 2023. Wed. 26 Jul 2023
https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2000/press-release/

12)続・生物学茶話142: アメフラシとセロトニン
https://morph.way-nifty.com/grey/2021/05/post-625abf.html

13)Gaelle Botton-Amiot, Pedro Martinez and Simon G. Sprecher, Associative learning in the cnidarian Nematostella vectensis., Proceedings of the National Academy of Sciences, Vol.120,No. 13, (2023) https://doi.org/10.1073/pnas.2220685120
https://www.pnas.org/doi/epdf/10.1073/pnas.2220685120

14)Suzanne Corkin, Permanent Present Tense: The Unforgettable Life of the Amnesic Patient, H. M., Basic Books (2013)
https://www.amazon.co.jp/s?k=Permanent+Present+Tense&i=english-books&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=GI3SUESPOS3S&sprefix=permanent+present+tense%2Cenglish-books%2C160&ref=nb_sb_noss

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