日本はいつ建国されたのか?
菅義偉にパージされなければ加藤陽子氏の名前も知らなかったわけですが、パージのおかげでこの本「戦争まで」(朝日出版社 2016年刊)も読んでみました。おかげでいろんなことを知ることができました。
誰もこの日に日本が建国されたとは信じちゃいない「建国記念の日」がもうすぐやってきます。別に神話に基づく記念日が悪いとは思いませんが、神話ではないちゃんとした歴史書にはじめて日本(倭)という国家が記述されたのは3世紀に書かれた魏志倭人伝でしょう。この歴史書には日本の最初の王として、神武天皇ではなく卑弥呼であることが書かれています。
加藤氏の記述によると、最近の学会では「なぜ卑弥呼を王とした統一国家が生まれたか」ということに関して、魏の脅威という理由が有力になっているそうです。63ページに掲載されている3世紀東アジアの地図を見て驚いたのですが、現在の平壌周辺は魏の版図になっています。北九州の諸国にとって南朝鮮は小国分立(辰韓、弁韓、馬韓など)だったので脅威ではありませんでしたが、巨大な軍事国家である「魏」の朝鮮半島への進出は脅威であり、統一国家を形成せざるを得なくなったのでしょう。ですから卑弥呼を統一国家「倭」の王と定めた日がわかったとすれば、それが正しい建国記念の日です。
当時の北九州の指導者達は、とりあえず諸国の争いをやめて統一国家を造り、王を立てて「魏」に自分たちの統一国家「倭」を臣下の国として認めてもらおう・・・という安全保障上の知恵を働かせたのでしょう。実際魏は金印紫綬を与えて、卑弥呼を親魏倭王に任命しています。
しかしその後中国は混乱し北九州の安全保障も崩壊して(中国に使節を派遣したら、その国はもうなかったというようなこともあったようです)、中国の侵攻にビビリまくっていた豪族達はそれぞれ城を造営せざるを得なくなり、北九州諸国は衰弱してしまいました。その結果近畿地方の王によって倭国は統治されることになりました。実は中国に強力な国家が出現しない限り、日本は(内部抗争は別として)平和です。北九州豪族達の心配は杞憂でした。その後300年くらい倭国は国際的な脅威とは無縁の時代が続きました。
7世紀になって、しばらく弱体化していた中国に強力な「唐」という統一国家が出現し、またもや朝鮮半島に勢力を伸ばしてきました。645年には唐と高句麗との戦争が勃発しました。この頃「倭」国は蘇我・物部の権力闘争でガタガタになっていて、とても唐に対抗できる状況ではなく、それを憂慮した中大兄皇子らは暗殺などによって蘇我家を滅ぼし、天皇主導の中央集権国家を樹立しました。この頃朝鮮半島では高句麗は頑強に唐に抵抗していましたが、百済は660年に滅ぼされてしまいました。これに脅威を感じた中大兄皇子は九州まで出向いて陣頭指揮の下に朝鮮に出兵し、白村江で唐と戦争を行いました。
朝鮮半島まで海軍を送って世界一の大国となった唐と戦うとは、当時の大和朝廷の勢いはすごかったと思いますが、戦争は倭国の完敗に終わりました。668年になって高句麗もついに滅亡し、朝鮮半島は唐の属国である新羅によって統一されました。これをみて、大和朝廷はもう唐と戦っても無駄だと思ったに違いありません。で大和朝廷はどうしたかというと、加藤氏の著書によれば702年に粟田真人を唐に派遣し、「倭」国を廃止し「日本」という新しい国家を樹立して唐に朝貢することで和平を実現したわけです。ですから日本という国家ができたのは702年です。この意味では建国記念の日は、粟田真人が則天武后に会って「日本」という国家名を国際的に宣言した日が正しいのかもしれません。
国 熊木杏里
https://www.youtube.com/watch?v=52PyD80-ESc
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