続・生物学茶話 110: 匂いを嗅ぐことの源流・・・大腸菌の場合
おそらく地球に登場した最初期の生物は環境からの刺激を何も感じないで、まったく孤独に生きていたと思います。次の世代の生物はなんらかの環境センサーを獲得したと思われますが、その代表的なものはケミカルセンサーだったでしょう。これはヒトでも味覚と嗅覚という形で受け継がれています。味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5種類のセンサーに基づくとされていますが、私は信じません。もっと多くのセンサーは間違いなくあると思います。たとえば白いご飯を美味しいと思う感覚はどう説明するのでしょう。しかも妊婦の話では白いご飯の匂いをかぐと吐きそうになる人もいるそうです(忌避行動なのか?)。それはさておき、桜チップでスモークした鮭の味とか、ハモン・セラーノの味とか、メロンの味とか、生ネギの味とか、脂肪の味とか、もっと様々なセンサーがあると思います。同じケミカルセンサーでも嗅覚は数百種類のセンサーの存在が認められています。私たちはバラの香りと菊の香りを嗅ぎ分けることができます。ラットは1000種類以上の匂いを嗅ぎ分けられるそうです。
では大腸菌は環境の何かを感じることができるのかと言えば、それはイエスです。彼らは少なくとも数種類の環境センサーをもっており、 Tar:アスパラギン酸とマルトース、Tsr:セリン、Trg:リボースとガラクトース、Tap:ジペプチドなど様々な栄養物質を感知して、それらに接近することができます。また酸化還元電位を感知して酸素に接近することもできます(1、3、11)。これらの研究に先鞭をつけたのがジュリアス・アドラーです。ジュリアス・アドラー(図110-1)は1930年に南ドイツに生まれましたが、8才の時に渡米し後に帰化して米国人となりました。ウィスコンシン大学で学位を得た後、ポストドクをDNAポリメラーゼでノーベル賞を受賞したアーサー・コーンバーグのもとで経験し、その後ウィスコンシン大学に戻ってずっと同大学で研究を行いました。
アドラーは子供の頃、蝶が特定の植物に卵を産んで幼虫の時期を過ごすのは、その植物が発出する化学物質を検知することによると考え、そのまま人生をケミカルセンサーの研究に捧げました。ただし実験動物は蝶ではなく、コーンバーグの研究室でキャリアを積んだせいか、大腸菌を使って研究を進めました。細菌の走化性(ケモタキシス)の測定法はドイツの植物学者ペッファーによって19世紀に確立されていました。それはキャピラリーの先に少量の溶液を吸い込ませて、それを細菌のいるシャーレに浸して細菌が集まってくるのを見るという方法です(2、図110-1)。アドラーらはさまざまな突然変異体を使うことができる大腸菌を用いて、研究を飛躍的に進めることができました。初期の研究全般についてはヘイゼルバウアーによってレビューされています(3)。すべての出発点となる研究は1969年にサイエンスに出版された論文で、ここでガラクトースあるいはそのアナログ分子に大腸菌は走化性を示すこと、その行動はそれらの分子が代謝されたり細胞にとりこまれるという経過を経ないで行われることが示されました(4)。
図110-1 ペッファーとアドラー 下図は誘引物質に集まる細菌
アドラー研では当時学部学生だった Mel DePamphilis がひとつの重要な発見をしました。彼は鞭毛の電子顕微鏡観察を行ない、その基部に4つのリングがあることをみつけました(5)。これは鞭毛を動かすモーターの実体であることが後に明らかとなりました(6、7、図110-2)。これが最初にみつかった生物モーターで、細菌やミトコンドリアの細胞膜に埋め込まれたATP合成酵素は2番目に見つかった生物モーターです。後者はすでに生物学茶話72でとりあげました。興味のある方はご覧下さい(8)。鞭毛モーターの模式図は、ウィキペディアの図(6)を図110-2に示しました。
図110-2 細菌鞭毛の模式図 (a) 全体像 (b) 基部の3次元模型
細菌はこの鞭毛を動かして移動するわけですが、その動かし方には2つの方法があって、ひとつはモーターを細胞の外側から見て反時計回りに動かす場合で、このとき数本の鞭毛はなぜか一方向にまとまるので細菌は直線的に進むことができます。これで数秒から数分間は進行可能です。これをスムーススイミングといいます。いまひとつはモーターを時計回りに動かす場合で、このときは鞭毛はランダムな形をとるので動きの方向は定まりません。この動きはタンブリングと言って、数秒くらいしかできません(9、図110-3)。
細菌はエサ(例えばセリン)を受容体で感知しますが、ある時点での濃度を記憶して、しばらくスイミングしてその時の濃度が濃くなったか薄くなったか判断し、濃くなっていればスイミング、薄くなっていればタンブリングするという方法でエサに接近します。忌避すべき物質がある場合は、その逆になります(9-11、図110-4)。細菌は小さいので体の部域による濃度差は検知できないということになっているようですが、それはどうでしょうか? 急激な濃度差があればわかるかもしれません。いずれにしてもスイミングしかできないミュータントは走化性を持つことができませんが、それは彼らがタンブリングによって方向転換できず直線的にしか進行できないからでしょう。もちろんタンブリングしかできないミュータントも接近行動ができないので走化性は持てません。
このような行動は極めて非効率のように思われますが、たとえば私たちが目隠しされて匂いでカレーライスに近づこうとしたとします。匂いのある方に進むわけですが、それは目的のカレーライスに0度の角度でまっすぐに進んでいるとは限りません。30度の角度で進むといつか近くを通り過ぎて匂いが薄くなってきます。そうすると立ち止まって方向転換するでしょう。どちらに進めば良いか正確には分かりません。ともかくそれらしき方向に進んで匂いが強くなってくればよし、さらに弱くなってくればまた方向転換ということになるでしょう。細菌はそれと同じ事をやっているわけです。
大腸菌の主要なケミカルセンサーは methyl-accepting chemotaxis protein (MCP)と呼ばれており、これらは2回膜貫通型タンパク質で、図110-5に示すような形で細胞膜に埋め込まれています(12)。N末とC末は両者とも細胞質にあります。分子全体の構造としては、細胞外にエサ物質を検知するセンサー領域(LBD)があり、続いて細胞膜に埋め込まれたαヘリックスの領域(TM1とTM2)、それに接続するHAMPドメイン、細胞質に突出するシグナリングドメインで構成されています(12、図110-5)。シグナリングドメインのヘアピンチップは非常に重要な領域で、ここを介してセンサー分子は CheW、CheAという二つの分子と結合していて、この二つの分子が鞭毛の回転に間接的にかかわっていると考えられています。CheAはヒスチジンオートキナーゼ、CheWはCheAとMCPのリンカーあるいは制御因子になっているようです(13)。
図110-5 大腸菌MCPの模式図
ユタ大学のサンディー・パーキンソン研究室のHPには図110-6のようなモデルがアップされていました(14)。誘引物質がMCPに結合するとCheA(図ではA)のキナーゼ活性がOFFとなり、MCPのメチル化が解除されて、この結果鞭毛モーターは反時計回りに回転する。したがってスムーススイミングが誘起される。誘引物質のない通常の状態だとCheキナーゼはONの状態で、MCPはメチル化されており、この状態だと鞭毛モーターは時計回りとなり、タンブリングが誘起されるということです。MCPのメチル化状態が細菌の記憶の実態とされています。モーターの回転とMCP-CheA&CheW(図ではCheWはWと記載されています)の状態とをつないでいるのはCheYという因子のリン酸化らしいですが、詳細はまだわかっていないようです(1、13)。
忌避物質がMCPに結合すると、CheAキナーゼはONになり誘引物質の場合とは全く逆の行動、すなわちタンブリングが誘起されます。その後スイミングで逃げるということになります(図110-4)。ただ忌避行動にはそれなりの特徴があり、詳しいメカニズムはまだよくわかっていないようです。一部の細菌は秒速200μmで逃げるそうで、そうするとヒトに例えると身長の数十倍の距離を1秒で移動するということになり、これは超絶の運動能力です(15)。
図110-6 大腸菌ケミカルセンサーの情報伝達における2状態モデル
このようなメカニズムは基本的にあらゆる細菌に存在するとされていますが、大腸菌の場合知られているケミカルセンサーは5~6種類であり、これは細菌の中でも最も少ない部類です。それはおそらく彼らが半寄生生物であることと関係があると思われます。このメカニズムは古細菌や真核生物にも制限された形ではあれ、引き継がれているようです(16)。すなわちケミカルセンサーとそれによる行動決定のメカニズムは、細菌と古細菌の共通祖先の時代から存在し、細胞外の物質情報を細胞内に伝えて、それなりの反応を起こすという生物が一般に行っている情報伝達の基盤となるメカニズムと言えるのかもしれません。
参照
1)Huang Z., Pan X., Xu, N., Guo, M., Bacterial chemotaxis coupling protein: Structure, function and diversity., Microbiological Res., voi.219 pp.40-48 (2019)
2)Pfeffer W. Locomotorische Richtungsbewegungen durch chemische Reise. Untersuch. Bot. Inst.Tübingen., vol.1, pp.363–482, (1884)
3)Gerald L. Hazelbauer., Bacterial Chemotaxis: The Early Years of Molecular Studies., Annu Rev Microbiol., vol.66, pp.285–303, (2012) doi:10.1146/annurev-micro-092611-150120.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3989901/pdf/nihms-564209.pdf
4)Adler J., Chemotaxis in bacteria. Science vo.166, pp.1588-1597 (1969)
5)DePamphilis ML, Adler J. Fine structure and isolation of the hook-basal body complex of flagellafrom Escherichia coli and Bacillus subtilis. J. Bacteriol., vol.105, pp.384–395, (1971)
6)Wikipedia: Flagellum
https://en.wikipedia.org/wiki/Flagellum
7)Silverman M, and Simon, M. Flagellar rotation and the mechanism of bacterial motility. Nature vol.249, pp.73-74 (1974)
8)生物学茶話72.呼吸
https://morph.way-nifty.com/lecture/2020/01/post-fbb3a4.html
9)Webre, D. J., Wolanin, P. M., Stock, J.B., Bacterial chemotaxis., Curr. Biol., Vol.13, R47-R49 (2003)
10)Noreen R. Francis, Cell signaling cascades that regulate aldosterone production., COE外国人研究者等セミナー レポート(荻野淳)
http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/coe/events/seminars/report_040308.htm
11)ウィキペディア: 走化性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E5%8C%96%E6%80%A7
12)Abu Iftiaf, Salah Ud-Din, Anna Roujeinikova., Methyl-accepting chemotaxis proteins: a core sensing element in prokaryotes and archaea., Cell Mol Life Sci vol.74, pp.3293-3303 (2017) doi: 10.1007/s00018-017-2514-0. Epub 2017 Apr 13.
13)Parkinson J.S., Haselbauer G.L., Falke, J.J., Signaling and sensory adaptation in Escherichia Coli chemoreceptors: 2015 update., Trends Microbiol. Vol.23, pp.257-266 (2015)
14)Parkinson's Labo at Univ of Utah
http://chemotaxis.biology.utah.edu/Parkinson_Lab/projects/ecolichemotaxis/ecolichemotaxis.html
15)奥正太 「意外と知られていない? 細菌が逃げるメカニズム」
生物工学会誌 第94巻 第2号 81ページ(2016)
https://www.sbj.or.jp/wp-content/uploads/file/sbj/9402/9402_biomedia_1.pdf
16)Nicolas Papon, Ann M Stock., What do archaeal and eukaryotic histidine kinases sense? F1000 Research Rev2145 (2019) doi: 10.12688/f1000research.20094.1
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6944256/
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