« サラとミーナ137: ミツバとサラ | トップページ | 都響の「ダフニスとクロエ」@サントリーホール2012/05/14 »

2012年5月12日 (土)

奪われた国歌「君が代」 by 古田武彦

Photo 「漢字」は中国人が発明したものであり、私たち日本人は昔から適当な当て字として利用して、そんな中から「かな」が生まれたのでしょう。簡略化された文字が用いられている現代においても、多くの中国人インテリは煩雑な漢字を多数知っていると聞きます。まして昔の中国人は外国語の当て字を使うときも、例えば周辺の国家や首班の名前には極力卑しく醜悪な意味を持つ漢字を当てるというこだわりを持っています。例えば匈奴・鮮卑・東夷などです。卑弥呼や倭というのもそれにあてはまるのでしょう。

魏志倭人伝は西晋の陳寿の著書「三国志」の東夷伝の倭人に関する記述をさします。「三国志」というのは魏の直後の王朝である西晋の国家プロジェクトで製作された正史で、陳寿は当時最高のインテリだったと思われます。時代的にも卑弥呼の娘である壱与が西晋に使者を送っているという、きわめて卑弥呼の時代に近い時代に書かれたものです。

私は東夷伝を読んだことはありませんが、その冒頭には魏が東方に送った使節団の業績を、西域情報をもたらした中国の英雄である張騫の業績と比較して讃えているそうで、当時最も東方の朝貢国家であった倭を重視していたことが伺えます。他の周辺国家についての記述と比べて、倭に関する記述が特に詳しいのは興味深く感じられます。当時植民地にしていた朝鮮半島に倭が干渉してくると困ったことになるという政治的な思惑もあったのでしょう。

この本の著者である古田氏は魏志倭人伝の記述が細部にわたって正しいものと考えています。その手始めとして、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と記載されているのに、いつのまにか「邪馬臺国=邪馬台国」ということになってしまったという問題があります。その「壹」と「臺」ですが、前者は専一という意味、後者は天子という意味で、著者は魏志倭人伝のなかにでてくる「壹」86個、「臺」58個の文字を解析し、混同して用いられている箇所が一カ所もないということを確認し、「邪馬壹国」は正しい記述であり、邪馬臺国の間違いではないとしています。そもそも臺という字が国家の最高権力者のことを指すことから、そんな文字を東夷の1国の字にあてるはずがないというのは大いに納得できる意見です。つまり邪馬台国というのは、後世の御用学者が邪馬台=ヤマトという牽強付会のためにおこなった意図的な誘導なのでしょう。

古田氏は様々な中国の文献を解析して、魏志倭人伝に記載されている里という距離の単位が里=約80メートルと考えています。これは周の時代から用いられていた単位で、秦の始皇帝によって変えられたものです。魏や西晋では古い単位を復活したのでしょう。このあたりの科学的な解析はこの本の、そして古田氏の研究の白眉でしょう。その結果古田氏は現在の博多駅近辺に「邪馬壹国」があったと結論しています。さらに「邪馬壹国」を中心とした九州王朝は紀元前から7世紀まで続いていて、7世紀末から8世紀に近畿王朝に最高権力が移行したのだろうと考えています。

さてここからが本題なのですが、その九州王朝の王をまつった神社が細石(さざれいし)神社であり、その裏側に古田氏が王家の谷と呼ぶ、当時の王の墳墓が集中しているそうです。細石が岩穂になりてという君が代の一節は、弥生時代から続く巨石信仰のなごりなのでしょう。千代に八千代にの千代は博多の海に「千代の松原」というのが存在します。そして驚きは、海の中道を通っていく志賀の島の志賀海神社に古くから伝わる神事のなかで「君が代は千代に八千代にさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで」という祝詞がのべられ、その後「あれはやあれこそはめしのみふねかや」という言葉がつづくそうです。つまりわが国歌「君が代」は、志賀海神社の祭事に招かれて、博多から船に乗ってやってくる九州王朝の君主を迎える歌として、遙か昔から歌われていたということになります。

従来「君が代」の歌詞は古今和歌集で詠み人知らず・題知らずの歌として収録されているものとされているわけですが、ここでは上記の祝詞と少し違っていて「君が代は→わがきみは」と改変されています。この歌は古今和歌集の中でも「賀歌」の先頭に置かれている重要な歌で、常識的には○○天皇の長寿を祝って歌われたもののはずですが、その天皇名も不明、作者も不明です。賀歌22首のうち冒頭の4首以外は、誰に対して歌われたものかがはっきりしているそうです。古田氏によれば編纂した紀貫之がこの歌(あるいは冒頭の4首)が九州王朝の出自だということを知っていて、あえて作者を隠蔽したのだそうですが、まあ常識的に考えれば、当時すでに近畿の一部の神社で祭事にこの歌が祝詞として用いられていて、作者は不明だけれど知る人ぞ知る歌だったのではないでしょうか。そうであるなら、紀貫之が賀歌の冒頭にこの歌をおいたというのも理解できます。

そう考えるとこの本のタイトル「奪われた国歌 君が代」というのは、ちょっとニュアンスが違うのではないかと思いますが、もともとは近畿王朝の王ではなく、卑弥呼の系譜である九州王朝の王にささげられたものという説については納得できます。

ここまでの話は古代の話なので、いろいろな説が出てくるのは当然でもありますが、さてメロディについては明治時代の話なので、話がはっきりしていると思いきや、そこにも問題があるようです。作者は奥好義なのですが、発表の時は林廣守にすりかわっていたというのです。これは奥氏の了承の上だったとのことで「奪われた」とは言えないと思いますが、釈然としない話です。奥氏の家系は奈良時代から朝廷において雅楽を奏する家系で、その祖先は高麗王だそうです。日本国歌がもともと大和朝廷と覇権を争った九州王朝の祝詞に朝鮮系の作曲家がメロディをつけたものだというのは皮肉な因縁ですね。

メロディについては下記のサイトに詳しい記載があります。

http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-247.html
http://gagaku.blog.ocn.ne.jp/gagaku/2006/02/post_9905.html

1999年に国旗・国歌法が制定されてから「君が代」は正式な国歌になりましたが、制定当時衆議院の民主党では枝野幸男・菅直人・前原誠司・海江田万里・横路孝弘氏らは反対で、党議拘束がないなかで反対票が1票多かったそうです。このように議論の多い国歌であるにもかかわらず、橋下大阪市長(前大阪府知事)が学校で口のあけかたまでチェックという、ゲシュタポのようなことまでやって歌わせるというやり方を支持しているのは言語道断で、こんな人をトップに選ぶのは不幸なことだと思います。

私は「さくら」を国歌にしてはどうかと思いますね。国旗・国歌法も必要ありません。法律なんかなくても歌は歌えます。どうしても歌いたくない人は歌う必要はありません。

古田武彦著「奪われた国歌「君が代」」 情報センター出版局 2008年刊

| |

« サラとミーナ137: ミツバとサラ | トップページ | 都響の「ダフニスとクロエ」@サントリーホール2012/05/14 »

私的コラム(private)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 奪われた国歌「君が代」 by 古田武彦:

« サラとミーナ137: ミツバとサラ | トップページ | 都響の「ダフニスとクロエ」@サントリーホール2012/05/14 »