「細胞夜話」: 藤元宏和著
この本には専門的な話はあまり出てきませんが、かといって一般読者対象の啓蒙本でもありません。しかしなんらかの形で癌研究・バイオ・生物学等に関わったことがある人にとっては、興味津々の裏話が満載です。
全31話ですが、そのうちひとつだけ紹介します。生体の研究を行おうとするとき、人の組織を切り取って実験を行うと、シャーレの中で無菌で培養しても、すぐに壊死してしまうなどの限界があります。増殖する細胞をストックしておいて、必要なときに使用できれば便利です。
このような細胞株を作成したのはジョージ・ゲイで、自分の子宮癌からそのもとになる細胞を提供したのが Henrietta Lacks という黒人女性の患者でした。ゲイと彼の奥さんは20年間もこのような細胞株を作ろうと日夜研究を行っていましたが失敗続きで、やっとこの患者の細胞から目的の細胞株を樹立することに成功し、彼女の名にちなんで HeLa(ヒーラ)細胞と名付けました。1951年のことです。
容易に培養できると言うことは、それだけある意味超悪性の癌細胞でもあり、癌細胞の性質を知ったり、抗がん剤のテストを行う上で大きな成果が期待されました。またゲイらはこの細胞でポリオウィルスを増殖させ、株の選別やワクチンの効果のテストに役立てるなど、癌研究以外にも大変広範囲な研究が多くの研究室で行われ、現在でも利用されています。このように便利な細胞なので、ゲイらは世界中の多くの研究室にこの細胞を配布しました。これがとんでもない事件を引き起こす伏線になります。
ゲイが成功するまでどうしても樹立できなかったヒトの細胞株が、ゲイの成功後不思議なことに、世界各地でどんどん成功し、いろいろな細胞株が樹立されていきました。これらの細胞に不信感を持って実験したのがガートラーで、彼は多くの細胞株の酵素アイソザイム(同じ化学反応を触媒する酵素ですが、構造にちょっとした違いがあるもののことです)を分析し、ヨーロッパ人から採取したはずの細胞なのに、調べてみると米国黒人型の酵素が検出されたことから、多くの細胞株が実は HeLa 細胞に置き換わってしまっているのではないかと疑いました。彼は1967年に論文を発表しましたが、なぜか無視されてしまいました。だれも自分が使っている細胞がまがいものだとは思いたくないという心理も影響したのでしょう。
しかしなかにはガートラーの論文に注目した研究者もいて、ネルソン-リースはガートラーの実験を追試し、さらに追加実験を行って、多くの細胞株染色体の染色パターンが HeLa 細胞によく似ていることを1976年に報告しました。これはさすがに注目を集めました。おそらくピペットの取り扱いなどに問題があって、HeLa 細胞がまざり、増殖力が強いので、やがて本来の細胞に置き換わってしまったのでしょう。
ネルソン-リースはさらに研究を進めました、彼の研究によって ”いままでの研究が無駄だった” と指摘された研究者はパニックです。それだけに風当たりも強く、そのうちネルソン-リースは研究費を打ち切られ、引退せざるを得なくなったそうです(私もそのような事情は知りませんでした)。今日では分子生物学的手法によって、ネルソン-リースの研究が正しかったことが証明されているそうです。無駄な研究をやっていたはずの連中も、時間稼ぎによって他の研究に乗り換え、何事もなかったかのように生き延びたのはめでたしめでたし(?)。
「細胞夜話-さいぼうよばなし」藤元宏和著 パレード刊 ¥952
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