黄禹錫(ファン・ウソク) 転落の経緯1
「国家を騙した科学者」李成柱(イ・ソンジュ)著 ペ・ヨンホン訳(2006)牧野出版刊
著者李成柱はこの著書の中で述べています「科学における真実は、検察の捜査とは違って世論の影響など受けない」。逆に言えば、世論は科学における真実の敵であり、世論におもねる多くのマスコミ、政府、検察、それに御用科学者達はすべて科学的真実の敵となったというのが、韓国における黄禹錫(ファン・ウソク)事件の本質でしょう。これは韓国の特異性もあるとは思いますが、世界中どこでもおこりうることです。世界で最も科学が進んでいるはずの米国のカンサス州などでは、世論の力で進化論が否定されようとしている(すべての生物は知的計画=神によって作られた)という現実もあります。
著者は長年東亜日報で医学関係の記事にたずさわっており、この方面には知識が豊富な記者でしたが、事件の前にたまたま会社に留学させてもらって1年間米国に行っており、帰ってきてからは別の部署に配属になりました。しかしこの問題を黙視できず記事を書くと月刊誌ですら没になり、これでは自分で出版しないと活字にならないと考えて東亜日報を退職し(その日から奥さんは仕事を探しに走ったそうです)、真相追求をはじめました。確かに真相を予測できる者にとって、狂気のような告発者バッシングを行うなど常識を失ったマスコミの中ではいたたまれないないというせっぱつまった気持ちはよく理解できます。
黄禹錫教授は牛だけが財産の貧農の家に生まれ、苦学してソウル大学獣医学部に入学、卒業してもまともな仕事がなくて非常勤講師などで食いつないでいたようですが、1984年ー85年に北海道大学に留学したことから彼の未来が開けます。北大で金川弘司博士から人工授精やクローン技術についての知識を授かり、帰国してソウル大学教授の職にありつきます。そして1993年に韓国ではじめて牛の人工授精に成功したそうです。これには正直驚きました。人工授精の技術はソ連で第一次世界大戦の前に確立され、1930年代末にはソ連で150万頭の牛、1500万頭の羊が人工授精で生まれています。日本でも太平洋戦争後20年くらいのうちに全国に普及しました。そのくらい獣医学について韓国は後進国だったわけです。日本は農耕、韓国は牧畜がルーツの国という先入観があったので、これは意外でした。日本に1年留学しただけで、帰国してすぐに教授になれるわけです。
しかしその後彼の仕事はめざましく進展し、牛のクローン、BSE耐性牛のクローンを次々に作製し、2004年にはヒトクローン胚由来のES細胞をとりだして培養することに成功したと「サイエンス」誌に論文を発表しました(1)。
1.Evidence of a Pluripotent Human Embryonic Stem Cell Line Derived from a Cloned Blastocyst. Woo Suk Hwang etal: Science 12 March (2004) vol.303, pp.1669-1674
この内容は要するに、女性から採取した卵細胞(=卵子、ここでは受精を完了した卵すなわち受精卵の意味とします)から核を取り除き、同じ女性の卵丘細胞(卵細胞を保護管理する細胞で、卵のような生殖細胞ではなく体細胞)の核を移植した後、電気ショックを与えて卵細胞に細胞分裂を促し、ES細胞(胚性幹細胞)を作ったと言うものです。ES細胞は受精卵のように父親と母親のDNAが入っているのではなく、母親のDNAしか入っていないので、もしこのES細胞をもとの女性に移植したとすると、拒絶反応はおこらないと考えられるところがメリットなわけです。
ヒトES細胞の作製自体は皆それほどあり得ないことだとは思いませんでした。牛や羊では既報の成果ですし、ヒトでもES細胞の培養は非常に難しいとはいえ、多くの卵子(卵細胞)の提供があれば、たまたま培養の条件設定に成功しても不思議ではないというレベルの仕事です。実は後で述べる2005年のねつ造論文に加えて、この2004年の論文もねつ造であったとソウル大学の調査委員会は結論しました。しかしそれは2006年になってからのことで、2004年当時における問題は、どうやってその242個という多数の卵子を手に入れたかということでした。
これは異例なことだと思いますが、「サイエンス」誌に論文が出てすぐ、ライバルの「ネイチャー」誌が卵子の入手経路に問題があるという記事を、編集者の責任で発表しました(下記2)。特に共同研究者のひとりの女性が、はじめは自分の卵子を提供したと言っていたのに、あとで言葉を翻したことに注目しています。この記事を出すに当たっては、おそらくネイチャー誌が信頼できる内部告発者がいたものと思われます。
2.Ethics of therapeutic cloning: A moment of triumph for South Korean science appears to have been marred by doubts about lab practice. Nature vol.429 p.1 (2004)
このような問題があったにもかかわらず、韓国政府は黄禹錫に国家最高の勲章を与え、SPの警護をつけて、総面積千坪という黄禹錫バイオ臓器研究センターの設立計画を発表しました。ここまで祭り上げられると黄禹錫も後にひけなくなり、データねつ造の泥沼に転落していくことになったのでしょう・・・・・つづく。
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