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2016年7月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために1: 川沿いの道を歩いて

A1820_000010Aが転校してきたのは小学校5年生の2学期だった。小柄で可愛い感じのおかっぱ少女だった。ただほとんど勉強はしないらしく、授業中の先生の質問には何も答えられなかった。指名しても立ったまま押し黙っているだけだったので、そのうちあてられなくなった。

しかしお習字の時間が来ると、人が変わったように生き生きと美しい字を書いていた。とても子供の字とは考えられないくらい立派な字だった。

2学期が終わる頃になって、授業の最後に担任の先生がある発表をした。それは給食の代金を支払っていない人がいるという話で、その名前を読み上げた。その中にAの名前があった。どうしてそんなことをやっていたのかわからないが、子供心にも「残酷なことをするんだなあ」と、不快な気持ちになったことを覚えている。発表は次の週にもあり、そのときはAだけが支払っていなくて、Aは昼休みに先生に呼びつけられ、親に連絡するようにきつく申し渡された。職員室ではなく、教室の隅でそんな話をするので、近くにいた者には聞こえてしまうのだ。

その後支払いがどうなったかはわからない。そして3学期になった。Aは目に見えて元気を無くしたように見えた。そのうちお習字の発表会があって、やはりAの作品はとびぬけて素晴らしかった。私はAのところに行って、「本当にきれいな字だね」と絶賛した。Aは微笑んだようにみえたが、次の瞬間顔を後ろに向けてうつむき、そのまま黙ってしまった。

翌日の放課後、Aの方から私のところにやってきて 「うちに来ない?」 と誘ってきた。私は 「いいよ」 と言って、彼女について行った。学校から川沿いの道を上流にしばらく歩いて行くと、民家も途切れて、舗装道路が山道のような細い道になった。さらに川沿いをさかのぼると、壊れかけたバラックのような建物が見えてきた。Aは小走りに家に入っていって、2~3分すると母親と2人で出てきた。母親は明らかに迷惑そうで、扉の外で頭を下げる私に挨拶しないばかりでなく、目も合わせなかった。

母親が家に引っ込むと、Aは「ここが私の家」と言って屈託なく(いや、ことさら屈託なさそうに)笑った。そして 「外に行こう」 と私の袖をつかんで、河原の方に降りていった。ふたりで並んで河原に座り込んだ。何か話したのか、何も話さなかったのか記憶にないが、しばらくするとAは立ち上がり、川面に石を投げはじめた。私も河原の石をひろってサイドスローで投げた。石はポンポンとバウンドして対岸まで届いた。Aは私の方を見て、(こんどは本当に)屈託なく笑いかけた。

2人はAの家までゆっくり歩いてもどり、戸口のところまで来ると、Aが 「じゃ、さよなら」 と言うので、私も 「さよなら」 と言って別れた。数十歩くらいだろうか、歩いた後振り返ると、Aは戸口に立ったまま、まだ私の方を見ていた。私は手を振って、また山道を下っていった。もうすぐ日没だった。

その後Aと2人で話す機会は一度もなく、私は6年生となり、Aはまた転校していった。

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寄る辺なき記憶の断片のために2: 青い眼の人

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今でも朝礼はやっていると思うが、私が小学校4年生の頃通っていた学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。

あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらかの基準(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。

その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして中に私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅した時に誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。

達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

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寄る辺なき記憶の断片のために3: トライアングル

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多分小学校4年生の2学期頃だったと思う。通常お昼は給食だったが、たまに給食が休みで弁当持参になる日があった。

当時の私たち一般生徒は、弁当箱にご飯とおかずを詰め込んだものを食べることになるわけだが、Bは違っていた。Bが持ってくるのは弁当箱ではなく、バスケットだった。まずバスケットからテーブルクロスを取り出して机の上に広げ、手作りの分厚い、しかもレタスやチーズがはみ出しているサンドイッチを取り出す。さらにオレンジ丸ごと1個と果物ナイフをとりだして、起用にオレンジの皮をはがして4分割する。そんな作業をしてから彼の昼食がはじまる。当時はまだマクドナルドのようなファーストフード店が日本に進出していない時代だったので、Bの昼食は結構ものめずらしかったのだ。

そんなBだから、クラスのみんなからは少し浮いていた。Bの母親は水商売をしているといううわさもあった。ただ私はそんなBに興味をひかれたのかそこそこ仲良くしていた。ある日Bが「二人でトイレのボックスに入って面白いことをしてみないか」と私に提案してきた。何をするのか好奇心はあったが、多少不安もあったので、私はCも誘って3人ではいることにした。誰もいないタイミングを見計らって、3人でボックスに入った。

Bはそこでみんなにズボンのチャックを下ろしてペニスを出そうと提案し、さっそく自分のものを引き出した。私はすぐに同調したが、Cがためらうので2人で強引にチャックを開けさせた。恥ずかしがっていたものの、Cも多少興味を感じたのか、ボックスから逃げ出しはしなかった。Bはすぐ私のペニスを握り、「お前もCのを握れよ」 と言った。言われたとおりに私はCのペニスを握り、CはBのを握った。トライアングルの完成だ。Bは私のペニスをしごき始めたので、私とCも同じ行動をはじめた。やわらかい包皮の感触がいまでも残っている。

2~3分やっているうちにベルが鳴って休憩時間が終了した。3人はあわててボックスを出た。幸いにトイレには誰もいなかった。授業が終わって、Bと帰途についた。Bはいつになく上機嫌だった。帰り道の途中にある急な坂道を息をきらしながら登り終えたとき、突然Bが 「セックスってどうやるのかなあ」 と訊いてきたので、私は 「知らない」 と答えた。その話題はそこでおしまいになり、先生やクラスメートの話をしながら帰った。その後3人になったときも、トイレでの出来事が話題になることはなかった。

今から考えてみると、Bは両親か近縁者のセックス行為を垣間見たのではないだろうか。今のように、雑誌やウェブサイトで子供がお手軽にポルノ画像をみられるような時代ではなかったので、多分そうだったのだろう。そして自分のペニスが勃起しないので心配になり、他人の手を使ってみようと試したに違いない。私もCも勃起しなかったので、自分だけに問題があるのではないという結果を見て、「子供には無理なのかもしれない」 という結論に達し、安心したのではないだろうか。私とCは彼の実験動物として使われたわけだ。

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寄る辺なき記憶の断片のために4: 白いワンピースに黒のベルト

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小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。

しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、男子に人気があって彼女の周りに集まってくるような人物ではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分が弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられ、クラスから浮き上がっているというのが実に嫌な気分だった。

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、今考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とお祝いを言ってくれた。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった(こちら)。それは南野陽子も通ったという私立女子中学の制服だった。私は彼女がその中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝くDをみて、本当に良かったなと思った。

(写真はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために5: シロアリ

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小学校の時はよく「いきものがかり」をやっていた。校庭の隅に動物小屋があり、数匹のウサギを飼育していて、「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。そういうわけで、中学校に入学してもそういう部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかけられたわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でも天下の理研でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためには腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギー源を得ることが必要なのだ。その原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在でも実現していないので、どだい困難きわまりないテーマだったということは、当時知るよしもなかった。

http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150512_2/

まず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていた位なので、見つかるわけも無く、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。アリがハチと近縁なのに対して、シロアリはゴキブリの仲間だ。全身が白い働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し、全部死んでしまうと言う事件もあって、グループリーダーは部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。私たちのグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで、城田先輩は私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちにふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋に誘導して、母親が病気だと告げた。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんも1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があったため、私たちもそれぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、就職したのはおそらく彼1人だったと思う。金銭的な事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で、私の最初の研究指導者だったと思う。貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。

(図はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために6: 生物教師

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私が通っていた学校(中高一貫)には、生物の先生がふたりいた。ひとりは京都大学出身のエリート然とした先生で(F先生とする)、生徒と親しく話しをすることはほとんどない人だった。

 

ただFは私たち生物クラブの生徒をよく山に連れて行ってくれた。Fは植物に詳しくて、種の識別方法など丁寧に説明してくれたが、今ではすっかり忘れてしまった(すみません)。特別な報酬もなく、夏休みや休日をつぶして私たちにつきあってくれたことにはとても感謝している。中高の先生が余裕を持って生徒に接してくれるということは、とても大切なことだと思う。現在の学校には欠けていることだ。

 

一番思い出に残っているのは、南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳に登り、鋸岳(のこぎりだけ)の稜線(写真)を縦走して中ノ沢乗越から熊ノ穴沢をおりてきた山行だ。北沢峠は現在では新宿からバスで行けるような場所だが、当時は東京や神戸から2~3泊しないとたどりつかないような秘境だった。

 

鋸岳周辺は、今ではおそらく随所に鎖や鉄梯子などが整備されていると思うが、当時は古いほつれかけたザイルだったり、木製のはしごもステップが腐って脱落し、2本の棒がところどころ残った桟でつながっているというような状況で、実態が露見すると懲戒ものの危険な山行だったと思う。しかし当時はみんなスリルを満喫できることの冒険心が勝っていて、文句を言う部員は誰もいなかった。帰宅したあとも、当然誰も親に「滑落の危険があった」などとはチクらなかったようだ。現在の地図をみても(下のリンク参照)、熊ノ穴沢の降り口には ”危”の文字が見える。

 

http://yama.ayu-ayu.net/?eid=1081380

 

山小屋に泊まるとき、Fはいつもランプの灯火で本を読んでいた。あるときこっそり覗いてみると、それはRシュトラウスの「アルプス交響曲」の楽譜だった。私ははじめて楽譜で音楽を楽しむ人を見て、ちょっと感動してしまった。もちろん当時 iPod などはなかった。

 

もうひとりの生物の先生(G先生とする)は生徒にフレンドリーな先生で、何でも気軽に質問や相談ができる人だったが、クラブ活動にはほとんどノータッチだった。今考えてみると、京大出のF先生に遠慮していたのかもしれない。そのG先生が、私たちが中学2年生の頃、まだ40才台なのに突然退職すると宣言したのには驚いた。

 

私たちの学校は受験校だったとはいえ、受験科目に生物を選択する生徒はわずかで、どうみても生物教師はプレッシャーのかからない気楽な稼業としか思えなかった。私は高校3年生の時、生物と化学を受験科目として選択するクラスに振り分けられたのだが、通常50人くらいのクラスが、そのクラスは4人だった。生物はいわゆる暗記物とされていて、勉強に時間をとられるのが嫌われるのだ。G先生がどうしてやめるのか、その理由は全く伝わってこなかった。

 

青天の霹靂で、学校もかなり慌てた様子だった。結局どこかから、赤ら顔でずんぐりむっくりの40才くらいの教師(H先生とする)を臨時採用することになった。Hは生物クラブにも興味があるようで、ときどき部室に現れた。しかし話すことが少しおかしいのだ。例えば「私は野口英世の弟子で、彼から直々に顕微解剖を教わった」と自慢するのだが、年齢的にGが野口英世の弟子というのはあり得ない話だし、だいたい野口英世は細菌学者なので、顕微解剖などやっていたのかどうかも疑わしい。ロックフェラーに留学していたような人が、どうして失業して臨時教師としてひろわれるのかというのも不可解だった。中学生でもそのくらいの疑念は持った。ただどこからかミミズを採集してきて、顕微鏡下でメスで切ったりして内臓などをみせてくれていたのは事実だ。

 

あるとき私がひとり部室で作業しているとき、Hが入ってきて、突然私の肩を抱いて耳に息を吹きかけきた。気持ちの悪いオッサンだと思ったが、そのときは単なる悪ふざけだと思っていた。しかし次の日には同じ姿勢から、私の耳元で「スキッ」とささやいたのだ。確かに「スキッ」と言った。私は硬直してなにもできなかった。

 

その事件があってから、私は悶々と過ごすことになった。「私は生まれつきホモに目を付けられる体質なのだろうか」という疑念に苛まれた。部室にも近寄れなかった。部活命だった私としてはとても辛い毎日だったが、2週間くらい経過して、ようやく意を決して部室に行ってみた。毎日出入りしていた私がしばらく部活を休んだので、心配したのかクラブ仲間が話しかけてきた。

 

「ひょっとしてHに何か言われた?」
私がもじもじしていると、彼は「ボクは告白されたんだ」と続けた。
私は仰天して「え、みんなに言ってるのか?」と訊いた。
彼は「やっぱりな。いや他にも言われた奴が何人かいるらしい」

 

私は彼と話し合って、F先生に相談してみることにした。しかしF先生は「そんなことはないだろう。ちゃんとまじめに指導してもらいなさい」と、まるで私たちがふざけているかのように、Hの言動についてまじめにとりあってくれなかった。私たちは本当にがっかりして落ち込んだ。

 

しかしHの言動は次第にエスカレートしていき、ついには授業でセックスの話とかをしはじめて、このままだとスキャンダルに発展しかねないような事態になっていった。さすがにF先生もHについては口をとざすようになった。それでも学校はHを解雇できず、結局2年間私たちはHにつきあわされることになった。悪夢のような2年間だったが、クラブではHがはいってきても全員シカトするというコンセンサスができて、そのうちHは部室には来なくなり、部活は正常にできるようになった。

 

さすがに2年経過して、私が高校生になる春にHは解雇された。びっくりしたのはHの後釜がG先生だったことだ。何事もなかったかのように、Gはまたニコニコと私たちに接する元通りの教師となった。

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