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2010年12月12日 (日)

ボビーとバベット

ボビーとバベット

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  日本ではあまり聞かないが、欧州にはサバティカルという制度があり、大学教師や研究所の研究員などは7年間勤務すると1年間の長期休暇をもらえることもある。サバティカルという言葉は、ラテン語の sabbaticus(安息日)に由来する。休暇と言っても大抵の人は海外に留学したりして、何か新しいものを吸収して心身ともにリフレッシュするのに使っている。私は大学院修士課程に入学してある研究室に所属したのだが、そこにこのサバティカルを利用して日本に留学しているJさんというフランス人女性がいた。私と同じ研究室1年生の新米ということになる。さえない理系男子のなかにブロンドのかわいい白人女性がいるとやはり目立つ。オルセイから来たそうだが、はるばる日本まで、そして世界的に有名とはいえないこの研究室に留学してきて、わずか1年の期間でいったい何を得て帰るつもりなのだろうか? 研究室の大方が「まあ物見遊山だろう」とみるのはやむを得ないことだったかもしれない。

  しかししばらくすると、私はそのような考えが間違っているのではないかと思うようになった。彼女は平均的な日本人女性と同じくらいの小柄な人で、さすがにフランス人だけあって洋服の柄は派手目の感じだったが化粧気はほとんどなく、金髪を引っ詰めにして黙々と働く地味めの仕事人間という印象だった。朝9時には出勤し、ちょこまかと動いてなかなか精力的に実験をしていた。しだいに癌の研究者である彼女のベンチ(実験台)の前の棚には所狭しと発癌剤が並べられるようになり、私には彼女にやる気がないとか、物見遊山の来日とかとは到底思えなかった。

  彼女のフルネームはスペル (Josiane Joachim) はわかってもどう発音するのかよくわからなかった。教授までJさんと呼んでいた。彼女と私が居た実験室は出入り口が1ヶ所しかなく、彼女のベンチが一番奥でその向かいが教授のベンチ、通路をはさんで私、私の向かいが助手(現在の制度では助教)という4人部屋の配列だった。廊下側には窓がなかったが、中庭側には天窓付きの大きな窓がふたつあった。天窓のひとつがさび付いて閉められなくなっていたので、ときどき鳥が迷い込んできた。そのときは大騒ぎで追い出すのが恒例の行事だった。

  教授は忙しくてほとんど実験室には来なかった。助手はたいてい実験室にいたが、ひっきりなしに学生や院生が実験やそのほかの相談で出入りするので、私としては正直うるさくて嫌だった。部外者の私が聞くべきでないような話題になったり、私のベンチで卒研生が実験するときなど、私は場所を空けるためにしばしば後ろの教授のベンチを借りて実験していた。教授のベンチの前で一息つくときには、棚越しにJさんが実験しているのが見えた。Jさんは英語が苦手だったが、日本語をしゃべろうと普段から努力しているようだった。私はフランス語はからっきしだったがダニエル・ヴィダルのファンだったので、彼女が一息ついているときに、「ダニエル・ヴィダルの Sous les ponts de Paris パリの橋の下 好きなんですよ」と日本語で話しかけてみた。彼女は不思議そうな顔をしてしばらく私をみつめていたが「歌は知ってる」と言ってまた実験をはじめた。多分ダニエル・ヴィダルはフランスでは有名ではないので知らなかったのだろう。しかしそれで少し親しくなれたのか、あるとき私がラットに手術を施していると、横に来て最初から最後までじっと見ていた。終わると「大変ね お疲れ様」と妙なアクセントの日本語で言葉をかけてくれた。私としては緊張してしまうので、こういうのは歓迎できなかったのだが、今になってみると懐かしい思い出になっている。

  彼女にとって不幸だったのは、教授がまじめにとりあってくれなかったことだった。教授としては、たった1年で立派な成果を上げられる癌の研究テーマなんてあるはずもなく、まあ適当に共同研究をやってもらって、最後に共著の論文に3,4番目あたりに名前を入れてあげて、おみやげをつけてお帰りいただきたい・・・という考えだったのだろう。だんだん彼女の顔が暗くなっていくのが悲しかった。彼女としては自分のアイデアで実験をして、きちんとファーストオーサーをとれる仕事をしたかったのだろう。3ヶ月くらいたつと彼女も諦めたのか、お茶の水のアテネフランセ文化センターなど在日フランス人がたまる場所に出入りして、遊び友達をさがすようになっていった。

    6月になって、ある雨の日に彼女が番傘を持って研究室に現れた。彼女もやっと日本をエンジョイできるようになったのかと思って、私は少し安堵した。夏が近づく頃には、彼女はすっかり仕事をあきらめたようだった。そのかわり日本語、特に聞き取りは格段に上達したようだった。そのことに気がついたので、どちらも関西出身だった助手と私は、さしさわりがありそうなうわさ話をするときなどは、わざとコテコテの大阪弁で話しをすることにしていた。Jさんはよく不思議そうな顔をして、じっと私たちの話に聴き耳をたてていたが、予想通りイントネーションが違うと聴き取りができないようだった。

  そんなある日、Jさんが突然5~6才くらいの女の子を連れて研究室に現れた。名前はバベットと言うらしい。これが実にかわいくおしゃまな子で、しかもまだ来日して4ヶ月くらいしかたっていないのに片言の日本語をしゃべることができた。私は本名を名乗るとフランス人の子供にはおぼえにくいだろうと思って、適当に「ジュマベール ボビー。僕をボビーと呼んで。」と言うと、バベットは怪訝な顔をして黙っていた。私は「ボビー、ボビー、ボビー」と自分を指さしながら連呼した。バベットは私をボビーと呼ばざるを得なくなった。

  それからバベットはしばしばお母さんにくっついて研究室に現れるようになった。Jさんは朝10時頃来て、午後4時くらいには帰宅するようになっていたが、バベットはその間ずっと部屋で本を読んでいることもあった。バベットにつかまってしまうと、1時間くらい「不思議の国のアリス」の話をきかされたこともあったが、私は彼女と居ると楽しい気分になっていた。テレビの再放送で見た「シベールの日曜日」という古い映画をよく思い出した。バベットはこの映画に登場する少女時代のパトリシア・ゴッジに少し似ていた。映画のパトリシア・ゴッジはもう少し年長だったと思うが。

  ちょっと怖い質問だったが、お母さんがいないときにバベットに「お父さんはどうしているの」と訊いてみた。いつもは強気なバベットだったが、この時に限ってシクシク泣き出してしまった。しまったと思ったが後の祭りだった。泣き止まないうちにお母さんが帰ってきた。気まずい沈黙の後、Jさんは私をにらみつけバベットの手を引いて出て行った。
  もうバベットには会えないと思っていたら、なんと次の日Jさんはまたバベットを連れてきた。Jさんは私に「バベットはボビーに会いたいと言って泣きます」と言って、私にバベットの手をにぎらせた。バベットは下を向くふりをして、一瞬私の方を見てウィンクした。私とバベットにひとつの秘密の空気が流れた。

☆ ☆ ☆

  私たちの研究室にはもうひとつ実験室があって、そこには助教授(今で言えば准教授)と二人の院生とひとりの居候のような人がいた。その人は野口さんと言って、お酒が好きな世捨て人みたいな人だった。大学院博士課程の学生なのだが、5年も在籍しているのに学位論文を提出せず、何をしているのかよくわからない人だった。しかし何か困ったことがあって相談に行くと、公私にわたってどんな話でも、たいてい面倒がらずに相手をしてくれた。その野口さんがある日私に「今日は酒をおごってやるからついてこい」とはじめて私を誘ってくれた。私はそんなに酒好きではなかったが、普段から世話になっている先輩のお言葉なので断ることはできなかった。

  二人で御徒町のこじんまりしたスナックに行った。野口さんの行きつけの店のようだった。彼は「こんなつまらん研究室にいると、だんだん俺みたいに脳が腐ってくるぞ」とお説教を垂れた。でも一番長くいるのは野口さん・・・とつっこみをいれたくなるところだが、私は黙って聞いていた。教室内の私の知らない人間関係など有益な情報もたくさん教えてくれた。しかし彼が話さなかったことが、最も驚愕の人間関係だった。しばらくするとJさんとバベットが入ってきたのだ。野口さんは少しフランス語を話せるようだった。Jさんとバベットを相手に何か話している。

  野口さんは私に「ちょっとJさんと席をはずすから、少しの間子守りしておいてくれ。マスターには話しておくから」と言って、バベットを置いてJさんと出て行った。マスターが私とバベットをボックス席に案内してくれた。私は非常に居心地が悪かったが、ともかくスパゲッティを頼んでバベットの前に置かせた。バベットは少し食べたが、スプーンを置いて「マミーが悪いことしているんだから、私も」と言ったかと思うと、さっと私のグラスをとってグイッとビールを飲み干した。

  私は心の中では「やれやれ まずいことになった、またJさんに睨みつけられる」と思ったが、後の祭りだったので「そうだね、僕らも楽しまなくちゃ」などと、とんでもないことを口走っていた。バベットは私の方のソファーに場所を変えて隣に座り、やがて私のひざで眠り始めた。私はそっと彼女の母親譲りの美しい金髪をなでていた。しばらくするとバベットはこちらに向き直ってウィンクした。そして突然靴を脱いで「私のにおい」と私の鼻先に差し出した。私はついつい臭いを嗅ぐしぐさをすると、バベットは私の顔に靴を思い切り押しつけてきた。私はやっと振り払うと「バベットおまえは大人になってもいい女にはなれないな」と言ってやった。バベットは突然「野口さん偉くならない。ボビーはどう」とわけのわからないことを叫んだ。私はあわてて「そんなこといっちゃダメだよ」と両腕を交差させてバツ印をつくって強くたしなめた。バベットは舌を出した。

  2時間くらいで野口さんとJさんが帰ってきた。Jさんとバベットが出て行ったあと、野口さんが「Jさんはバベットの父親と離婚して、心機一転のつもりで日本に来たんだけど、なかなか思い通りにはいかないもんだねえ」と教えてくれた。その日はそれまでの自分の人生で一番酒を飲んだ日になってしまった。気がついたら野口さんの下宿のベッドの上だった。野口さんがコーヒー豆をひいて、ドリップで抽出し、今までに経験したことがないような香り高くうまいコーヒーを飲ませてくれた。野口さんはいい人だった。でもきっとJさんを日本に引き留めて、バベットの父親になるようなピリッとしたところはないのだろう。バベットもそのことに気がついていたのかもしれない。

☆ ☆ ☆

  師走になって、私たちの研究室でも忘年会をやることになった。大学院1年生の私が幹事をやることに決まった。スタッフと院生+Jさん+秘書さんで9人だったが、卒業研究の学生や共同研究者も参加するので、全体では20人くらいの大宴会になる。私は上野のしゃぶしゃぶの店に席を用意した。さすがにJさんもここにはバベットを連れてこなかった。酒がはいったところで野口さんが「みんな1曲ずつ歌え」と命令を下した。野口さんは自分の業績はなかったが、面倒見が良くて、実験のやり方などで困ったときにはみんな世話になっているので、誰も彼の命令にさからうことはできなかった。教授も十八番の「ちゃんちきおけさ」を歌って、一同茶碗をたたいたりして大いに盛り上がった。

  そしてJさんに順番が回ってきた。私は彼女にフランス語で歌って欲しかった。生でフランス語の歌を聴いたことがなかったので、一度聴いてみたかったのだ。そうシルビー・バルタンか、マージョリー・ノエルあたりがいいなと思っていたところ、彼女はやおら立ち上がって、なんと「枯葉」を熱唱しはじめたのだ。一気に座がしらけはじめた。台詞が始まる頃には、歌など無視しておしゃべりに熱中するするグループと、ハラハラしながら耳を傾けるグループに分かれた。さすがにJさんも場の雰囲気を察知したのか、突然歌うのをやめて泣き始めた。みんな凍りついてしまった。すごく長い時間に感じたが、多分30秒くらいたったときに野口さんが立ち上がって彼女をかかえて階段を下りていった。そして忘年会はおひらきになった。

  その事件の後、お正月明けまでJさんは大学に出てこなかった。1月7日になってやっと出てきた時にはさっぱりとしたにこやかな顔だったので、私はほっと胸をなでおろした。バベットはまじめにインターナショナルスクールに通っているらしく、研究室には顔を出さなくなった。冬の大学はとても忙しく、あっという間に時は過ぎ去っていく。Jさんも留学のしめくくりに研究発表をすることになり忙しくなった。当然研究は完成していないが、中間報告をすることは求められる。残った仕事はオルセイで続行することに決めたようだった。彼女は野口さんに「教授にきちんと指導とサポートをしてもらえなかったのは残念です」とこぼしていたようだ。

  3月はじめにその発表会が開催された。彼女の研究発表はいつもの私たちの発表会とは少し趣を異にしたものだった。まだ日本語での発表は無理だったので一生懸命英語で発表するのだが、発音が完璧にフランス流だったのですごく違和感があった。例えば実験 experimentation はエクスペリマンタシオンと発音する。まあそれでも馴れればネイティヴの英語よりはむしろわかりやすかったのだが・・・。もうひとつ瞠目したのは、ただの折れ線グラフや棒グラフまでカラーのスライドで発表したことだった。当時このようなスライドはモノクロかせいぜい背景をブルーにするぐらいが普通だったので、彼女のスライドはとてもおしゃれに見えた。もちろん今はパワーポイントで発表するのが当たり前なので、カラーを使わない発表なんてほとんどあり得ないことになってしまったが。

☆ ☆ ☆

  忙しさにかまけているうちに、あっという間に時は過ぎ去ってしまう。Jさんたちとお別れする最後の日がやってきた。会議室でお茶会をやることになった。久しぶりにバベットも現れた。私はバベットに「今日でお別れだね。バベット泣く?」と訊いてみた。バベットは人差し指を立ててふりなかがら「ちっちっち」と言ってウィンクした。そうそうその仕草は母親も使っていたっけ。子供としては生意気な感じだが、でもバベットらしくて安心した。会がお開きになり、いよいよお別れと言うときに、私は研究室で撮影したバベットやJさんの写真をアルバムに整理してプレゼントした。バベットも私に一通の封筒をくれた。そして私に向かって「ボビー 偉くなってね」と生意気にも激励してくれた。私はバベットの手を強く握って「かもね」と言った。そして部屋を出て行くときJさんが振り向いて、はじめて私に微笑みながらウィンクしてくれた。なんだか私ははじめて彼女が大人として私に接してくれたような気がして嬉しかった。アパートに帰って封筒を開けると、1枚の便箋の中央に小さなハートのマークが描いてあり、下にカタカナで エリザベート(バベット)・ジョアシャン と署名があった。

  4月になると、東北地方の大学に研究補助員の仕事があるというので野口さんが出て行った。Jさんもバベットも野口さんもいない研究室は、私にとっては廃墟のようだった。すっかりテンションも落ちて、ただただ下宿と研究室を機械的に往復して研究を続けていた。

☆ ☆ ☆

  3人がいなくなって約1年経過し、私の修士論文の審査が終わって、なんとか博士課程に進学できそうだというめどがついた頃、ひょっこり野口さんが研究室に現れた。助手に昇格することができたそうで、教授に報告するために来たとのことだ。帰り際に彼は私の肩を抱いて、また御徒町のスナックに行こうと言った。私も久しぶりで野口さんと話がしたかった。春日通りを御徒町の方に歩いていく途中で、私が

「バベットが大人になったら、またJさんとバベットと野口さんと僕の4人で飲みたいですね」と言うと、野口さんはうつむいて

「それがなあ・・・。Jさんは先月亡くなったんだ。オルセイの研究所の知り合いから手紙をもらったんだが、膀胱癌が転移していて手遅れだったそうだ。」

私はショックで「えー」と言ったきり言葉が出てこなかった。湯島ハイタウンのバス停近くに座り込んでしばらく動けなかった。

「でバベットはどうしているんですか?」
「ブルターニュの叔母の家に行ったそうだ」
「・・・・・」

Jさんは発癌剤をいろいろ使っていたので、どこかで吸い込んでしまったのかなという思いに私は押しつぶされそうだった。

  結局御徒町のスナックには行かずに、JR御徒町駅で野口さんと別れた。私は山手線に乗って呆然とシートに腰掛けて、Jさんとのいろんなシーンを回想した。ぼーっと窓の外を通り過ぎるネオンをみつめているうちに3周くらい周回してしまった。やっと電車を降りて、暗い夜道を歩きながら私は「学位をとったら、きっとブルターニュに行ってバベットに会おう」と心の中で繰り返していた。

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