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2009年8月 7日 (金)

遭難

遭難

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  意外な投票結果だった。リーダーは岩見、サブが私になった。われわれのサークル「フリーマウンテン」では、3年生の会員のなかからリーダーとサブリーダーを会員の投票で決めるならわしになっていた。リーダーは登山の計画立案・実行の責任を負い、サブは宿泊・食料などの登山以外の実務を担当する。実際の山行ではリーダーは先頭、サブは最後尾を歩く。ルートファインディングが重要な本格的登山ならともかく、私たちのような普通の登山道を歩くだけのパーティーでは、落伍者の世話係となる最後尾の方が数倍面倒なお役目となる。とはいえ登山の経験や実力から言えば、中学生時代から日本アルプスを自分の庭のように歩き回ってきた私がリーダーになって然るべきだった。

  おそらくサークルのメンバーは、温厚沈着そうな雰囲気を漂わせ、学業成績優秀であるばかりでなく、ボディビルディングも欠かさない頑健な体格の岩見の方を選んだのだろうが、私には彼はナルシストで鼻持ちならない人間のようにみえた。これから奴がクラブの中心になり、私は雑用係をやるはめになることを考えると不愉快な気分にならざるを得なかった。しかしサークルにとどまる限り、民主主義には従わねばならない。サブになったのが気に入らなくて退会というのは、いくら自由人を自負する私としても格好悪すぎる。

  危惧した通り、岩見は山は素人のくせに登山計画を私には相談ぜず、取り巻きすなわち3年生の太田・丸山、そして真紀とよばれている2年生の女と仕切るのが慣例となった。私のような山慣れた人間が口をはさむと、奴の出番がなくなるおそれがあるので、意図して遠ざけたのだと思う。それでも私はともかく雑用をきちんとこなすことにした。というのは、私は当時規律正しい行動が求められていて、運営もきちんとしていた山岳部やワンダーフォーゲル部に入る気は毛頭なく、この同好会の自由な、悪く言えばルーズな雰囲気が気に入っていたからだ。それに山岳部やワンダーフォーゲル部というのは基本幕営山行で、荷物が多くなるのもあまり趣味ではなかった。どちらかと言えば無名の山で登山者が少なく、しかし無人小屋を利用可能という山行が好きだった。

  私の仕事には買い物が多かったのだが、領収書や出納帳の管理というのは自分の性格には合わなかった。特に親しいわけではなかったがメガネで経理顔の山野結衣(やまのゆい)という2年生のメンバーに声をかけてみた。すると「鎌田さんは忙しそうだから、お手伝いしてあげてもいいわよ」とすんなりとオフィス担当を引き受けてくれた。勇気をふるって言ってみるものだと思った。これで私は普段はサプライに専念できることになり、スムースにクラブを運営していく目処が立った。

  「フリーマウンテン」はアルプスなどの高山縦走をめざすサークルではなく、主に2000メートルクラスの中級の山を2~3日の計画で踏破するのを目的としていた。レギュラーのメンバーは15人くらいだったが、勝手に友達を連れてきたりする場合もあるので、だれが会員なのかよくわからないところもあった。会としては春・秋の定例山行、夏の合宿、年末の合宿が主な行事だった。そのほかに年数回の不定期な希望者山行を行うが、これは私もすべてを把握しているわけではなく、会としてやっているのかどうかはっきりしない山行もある感じだった。そういう自由な雰囲気が自分の好みではあった。ただそれだけに1年生の会員の中には、結衣もそうだが一度もキャラバンシューズやマウンテンブーツを履いたことがないという者もいるようなサークルだった。

☆ ☆ ☆

  春の山行はサブになって初めての行事だったので大変苦労したが、結衣に手伝ってもらってなんとかこなすことができた。会計などの事務仕事はきちんとやってくれたし、旅館や山小屋との交渉などもてきぱきとこなし、私の苦手な部分をまるでジグソーパズルのピースをうまくはめこむように次々と解決してくれた。そしていよいよ夏合宿だ。これはクラブ最大のイベントで、さすがにきちんと計画を立ててオフィシャルな形で運営する。今年は4泊5日で雪平山(ゆきひらやま)登山を行うことになった。参加者は12名。岩見たちの計画によると、次のような行程になっていた。

1日目:東京→現地駅→バス停終点→東道→肩の小屋(泊)
2日目:肩の小屋→東道→鎖場で訓練→山頂小屋(泊)
3日目:山頂小屋から雪平山登頂後、西尾根を散策し、山頂小屋にもどる(泊)。
(山頂小屋といっても雪平山のピークには1時間くらいかかる。西尾根は展望にすぐれて、アップダウンが少ない標高2000メートルのプロムナード)
4日目:西道でバス停まで下降し、バスで温泉旅館まで移動し打ち上げを行なう(温泉旅館泊)

  まあそう無理なスケジュールではなさそうだ。鎖場が怖くてどうしても通過できない者がいた場合、連絡路から新道のコースで山頂小屋まで上げればいい。例によって私は蚊帳の外の計画だったが、この山には以前にひとりで登ったことがあった。

  登山のスケジュールが決まると、私たちの出番がやってくる。

1.机の上にA3の大きな紙をひろげて、自炊が必要な際の食事のメニューを考え、スーパーのチラシを参考にしておおよその経費を割り出す。
2.経費が予算をオーバーしそうな場合はメニューを差し替える。
3.食材・非常用食料・ミネラルウォーター・燃料などをスーパーで購入し、サークル保有の調理器具などと共にメンバーの体力に応じて分配する。
4.山小屋山行の場合は経営者に連絡し宿泊費用を交渉する。テント山行の場合は必要な器材を調達する。

といったところが私と結衣の役割だった。

  私は夏合宿にひとつ、登山以外の個人的な計画を立てていた。それは結衣に告白するということだった。何ヶ月か一緒に作業をするうちに、次第に彼女の地味だけれど自分がやるべき仕事には努力を惜しまない性格に、私は次第に惹かれていったのだ。

  行程1日目の行動中にはなかなか結衣と二人になるチャンスがなく、チャンスがあっても躊躇しているうちにのがしてしまい、結局告白できなかった。そこで私は肩の小屋での一泊目に、意図して彼女の隣で寝ることにした。山小屋は基本的にザコ寝なので、そのようなことが可能なのだ。そしてまわりが静かになった頃、おそるおそる彼女の手を握ってみた。そうすると意外なことに、結衣は私の手を握り返してきた。そこで彼女を小屋の外に誘えば良かったのだが、情けないことに私は彼女の手を握ったまま、まんじりともせず朝を迎えることになった。

  結衣は登山については全くの初心者で、大学に入学してからハイキングをやりたいのだが一緒に行く友達がいないということで、うちのサークルに参加したそうだ。案の定彼女は鎖場はパスして、連絡路から新道まわりで山頂小屋をめざしたいと言い出した。私はサブの特権を行使し、彼女を引率するということで新道経由で行くことにした。落伍者の世話はサブリーダーの義務でもある。それはある意味彼女との初デートでもあった。ふたりで会の経理や自炊の献立について相談したり、買い物に行ったりしたことはあったが、それはあくまで実務であり、デートではなかった。ただ昨夜は徹夜してしまったので、私も鎖場を登攀するのは危なかったかも知れない。初心者向きとはいえ、東道は多少はロッククライミングの要素も含んでいた。

  先に二人で山頂小屋に着き、はじめて彼女と個人的な話をいろいろとすることになった。告白する手間がはぶけたのは、私にとって幸運だった。一気に彼女との距離が縮まった感じがした。山頂小屋は無人小屋なので、自炊しなければならない。楽な道を行くことになった私は、今日の夕食用の食材を預かって持たされていた。結衣にあれこれ教えてもらいながら、二人でみんなの夕食準備をしたのは特に楽しいひとときだった。

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  やがて岩見たちが上がってきた。岩見は夕食の準備がほとんどできているのを見て「おっ」と声を上げ、次の瞬間うさんくさそうに私と結衣を一瞥した。私はそれを無視して食べ物を取り分けていると、ひとりのメンバーが私に耳打ちした。

  「鎌田さん、聞いてくれますか。今日は大変だったんですよ。鎖場を登り始めようとしてザイルを探したら、何と岩見さんが持ってくるのを忘れたって言うんですよ。太田が持ってくると思っていたという話ですが、太田さんはそんな話は聞いてないと言うし・・・。まあたいした鎖場じゃないので、ザイルなんてなくても平気なんですが、肝心の体を確保するトレーニングができないじゃないですか。これじゃあ何のためにこの場所を選んだのかわかりませんよね。結局怖がる女のケツを押しながら登ったんですよ。まあ何ごともなかったので、ただいい目をみたようなものですが、岩見さんってバカですね」。私は舌打ちをして、「お前らが投票したんだろ。 そのうち死人が出ても知らんぞ」 としかめ面で返事をした。登山訓練の装備については、私は全く関与していなかった。

  山頂小屋での夕食後くつろいでいると、岩見の側近のひとりで気象関係を担当している丸山が私を呼びに来た。岩見たちの方に行くと、岩見・大田・丸山・真紀が眉間にしわを寄せて車座になっていた。丸山の話によると、天気図や天気予報などからみて、明日正午前から雷雨になりそうだというのだ。それに台風が進路を変更して、こちらに向かっているという情報もあった。台風本体については、このあたりを通過するとしても合宿が終わってからと予想されたが、台風が連れてきた雨雲が前方に大きく張り出していて、台風の接近が天候に影響を及ぼすのは避けられない。みんなで相談して、明日は午前6時に小屋を出発し、午前7時雪平登頂、西尾根散策は中止して山頂からそのまま逆行し、午前8時までに小屋に戻ることにした。その後の行動は、小屋にもどってから天候の変化をみて考えようということになった。西尾根散策は今回の山行でみんな最も楽しみにしていたので残念だったが、天候には勝てないので仕方がない。

  翌日落伍者もなく、全員そろってガスで視界のない雪平山に登頂し、無事に山頂小屋に帰着した。さてこれからどうしようかと相談を始める頃、パラパラと雨が降り出した。丸山によると、ここ2~3日は天候が回復する見込みはないということだった。岩見は「どうせ天候の回復が望めないのなら、ともかく新道を使って肩の小屋まで降りちゃうか。無人小屋のここと違って、肩の小屋には管理人がいるし、食料の備蓄もあるだろう。万一天候が荒れて沈殿するにしても何かと安心だし」と言った。私も西道は下の舗装道路まで8時間くらいかかる長い行程なので、途中に肩の小屋がある新道・連絡路経由に帰路を変更するのに異論はなかった。それなら尾根上で落雷に遭遇しないよう、一刻も早く出発すべきだ。

☆ ☆ ☆

  私たちは休憩もそこそこに山頂小屋を出発し、東尾根を歩き始めた。しかし天候の変化は私たちの予想より少し早かった。出発して30分もしないうちにあたりが夕暮れのように暗くなり、土砂降りの上に雷鳴がとどろき閃光が走るというまずい事態になってきた。東道と新道の分岐Aに近づく頃には、ポンチョなどの雨具は何の役にもたたず、まるでプールで泳いでいるように下着までずぶ濡れになり、激しい風雨の音で互いの声も50センチくらいまで近寄らないと聞こえなくなった。

  分岐Aでは新道が激しい水流であふれて、どこが登山道なのかはっきりしないような状況だった。こんな状態での下山は危険だと思い、私は岩見に「山頂小屋に引き返そう」と強い口調でうながした。そのとき100メートルくらいの距離しかない立木が、激しい雷鳴と閃光と共にバキッと折れて倒れた。私も含めてメンバーは動揺した。おそらく岩見等は震えあがったに違いない。みんなひとかたまりになって座り込んだ。何分たったか、雷鳴の小休止の瞬間をとらえて岩見が決断した。

  「頂上小屋にもどるのも東道で下降するのも、隠れ場所のない稜線で落雷にやられる危険が大きい。当初の計画通り新道・連絡路経由で肩の小屋まで降りよう」と岩見は言った。私は「膝まで激しい水流に浸るような状況で新道を下山するのは却って危険だ。肩の小屋への連絡路も新道ができたときに切り拓かれた道で、路肩がおぼつかないし、沢を横断するときには滑落の危険がある。山崩れにぶつかる可能性もある。落雷の危険があっても頂上小屋にもどるべきだ」と強硬に主張したが、受け入れられなかった。真紀は「鎌田さん、リーダーは岩見さんよ。みんなが混乱するようなことを言わないで」と私をなじった。私が「バカヤロー」とどなりそうになったとき、後ろから結衣が「私こんな道怖くて降りられません」と泣きべそまじりの声が聞こえた。私にとってはそれが決定打だった。私は岩見に「俺は自己責任で山野と山頂小屋にもどる」と言って、結衣を抱きかかえるようにして元来た道を帰り始めた。振り返ると、岩見は私たちを例によってうさんくさそうな目で一瞥し、無言で新道の下降をはじめた。ほかのメンバーも全員岩見に従った。

  私は大学に入る前は、たいてい単独行登山だった。集団登山で極限状態になったら、自分は他のメンバーと協調して行動することができないのではないかと危惧していたことが一番の理由だった。新田次郎の名著「孤高の人」に描かれている名アルピニスト加藤文太郎は、ずっと単独行専門の登山家だったにもかかわらず、はじめてパーティーを組んで登った槍ヶ岳で遭難して死亡した。パーティーでの行動は単独行のときのような鋭い動物的感覚を鈍らせるものなのだろう。あるいは単独行を好む人間は、他のメンバーの判断を否定したり、自分の判断を他人に納得させたりするのが苦手だったりするのかもしれない。ともあれ大学に入学すると、私はすっかり登山における攻撃的なマインドを失い、気の置けない仲間とゆっくりと自然を楽しみたいというムードに傾いていった。「フリーマウンテン」にはいったのはそういう理由からだ。

  結衣と二人で雷雨の中を山頂小屋に引き返す時、私は「何としても、結衣は助けなければいけない」ということしか頭になかった。そうすると落雷の恐怖を全く感じないのが不思議だった。自分の知らなかった自分の利他的な一面に出会って、少し嬉しい気分だった。

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  落雷から逃れたいという一心で急いで登ったので、結衣は勿論、私もヘトヘトになってようやく二人は山頂小屋に戻ることができた。途中雨があがる一瞬があった時、向かいの山稜に稲妻がまるで滝のように降り注いでいるのを見た。まあよく無事だったことよ。山の経験や体力も落雷には無力だ。やっぱり岩見の判断が正しかったのか? いや、あの新道・連絡路ルートはあまりにも危険だ。とてもこの天候で歩く気にはなれない。ともかく私たちは無事ここにたどりついたわけだ。ホッとしてザックを開けると、底の方に細引きがあるのに気がついた。細引きとは細いロープのことで、私は転落などの緊急用にいつも十メートルのものを2本持ち歩いていた。これを岩見達にわたしてやればよかったと思ったが、後の祭りだった。そう言えば彼らはザイルを持っていない。まったく岩見のバカときたら、よりによってこんな時に・・・。

  衣類や持ち物は、すべて海に転落した漂流者のようにずぶ濡れだった。ラジオと携帯電話とライターは厳重に密閉した容器に納めてあったので無事だったが、携帯電話は圏外で役に立たなかった。とりあえずライターで小屋に置いてあった非常用の薪に火をつけて暖をとった。私たちはほとんど全裸になり、小屋の桟を使って衣類を干した。その夜私たちは、二人きりの山頂小屋で抱き合って眠った。

  目覚めると昨日の荒天がウソのような静かな朝だった。雨は降っていたが激しい降りではなく、私たちは行程は長いが、他のルートより安全だと思われる西道を下山することにした。崖崩れや倒木で通過しにくいところが何カ所かあったが、慎重に行動し、ようやく最終バスに間に合う時間ぎりぎりにバス停にたどりついた。さすがに登山経験の少ない結衣は疲労困憊で、バス停の標識の脇に座り込んでしまった。

  バスで温泉街まで行き、その日は温泉旅館に宿泊することにした。岩見・太田・丸山に電話してみたが、連絡はつかなかった。それではと肩の小屋の固定電話にかけてみると、なんと小屋番でなく、2年生のメンバーが泣きそうな声で電話に出た。岩見と真紀が遭難したと言うのだ。小屋番と数名のメンバーが捜索に出ているらしい。結衣を旅館において、私は交番に行った。巡査に訊くと昨夜肩の小屋から連絡があって、行方不明者が2名いるというということだった。肩の小屋にはもう捜索隊がはいっているそうだ。私は蒼白になってうろたえたが、巡査が事情聴取したいというので、私が知っている限りの経緯を詳しく話した。

  翌日は結衣を東京に帰し、肩の小屋にかけつけた。太田と丸山の話によると、行方不明者はやはり岩見と真紀だった。新道で沢をわたるときに発生した鉄砲水の泥流に真紀が押し流され、それを助けようと岩見が追いかけて、その後二人とも姿が見えなくなったようだ。サークルのメンバーはみんな憔悴しきっていた。それでも捜索隊と共にみんなで懸命に探したが、岩見も真紀もみつからなかった。次の日は台風が通過して捜索は中止された。結局遭難から5日目になって、二人は遺体で発見された。

  最悪の結果だった。最後に二人と喧嘩別れのようになったということが、私の心に鉛のように重く沈殿していた。日がたつにつれて、サブという立場にありながら、メンバーと別行動をとったのはまずかったという思いに、じわじわと自分自身が追い詰められるようになった。私は結衣の言葉に甘えて、メンバーを見捨てたのかも知れない。やはり私はセルフィッシュだったのか? それにあの細引きの件だ。岩見が細引きを持っていれば、真紀らと体をつないでいたかも知れない。そうすれば二人とも助かったかもしれない。私が結衣を説得して岩見らと共に行動していれば、ザックに入れていた細引きの存在も思い出しただろう。あのルートでメンバーを強行下山させたのは岩見の愚かな選択だったと思うが、彼らの死には私も関与しているのかもしれない。細引きの件は警察にも、メンバーにも、結衣にも話さなかった。

☆ ☆ ☆

  フリーマウンテンは解散したが、事後処理はすべて私の責務になって、死者のことを思う余裕もないくらい忙しい日々を過ごすことになった。メンバーは私と岩見とのやりとりを知っているだけに、私には同情的だった。中には「岩見さんについていったのが失敗でした。サブの意見をみんなが支持していればこんなことにはならなかったと思います」と言う者もいた。その言葉を聞いたとき、私はあやうく泣きそうになった。とはいえ結衣以外には実際に私を手伝ってくれるメンバーがいたわけではなく、むしろ金銭的負担をおしつけられては大変だと思ったのだろうか、多くの者が逃げ腰だった。

  やっと一段落ついた頃、結衣に喫茶店に呼び出された。彼女からデートに誘われたのははじめてだった。喫茶店で対面して座ると、彼女は姿勢をただし、緊張した面持ちで私に「妊娠している」と告げた。目の前が真っ白になるような大ショックだった。思い当たるのはあの遭難の日しかない。あの日は本当に特別だったのだ。そこまで思いは及ばなかった。山から下りた後もやるべきことがいろいろあって、彼女とは何度か会っていたが、二人で何かを楽しもうという雰囲気は全くなかった。

  それにしても私たちが新しい生命を作っている頃、岩見と真紀は死の淵でもがいていたのだろう。喫茶店で私をみつめる結衣の視線から目をそらせて、私は心の中で手を合わせた。当時もちろん私はまだ大学生であり、事故の事後処理で忙しく、アルバイトも就職活動もできないような状況だった。日を改めて結衣に会って、申し訳ないが堕胎してくれないかと言おうと思ったが、どうしても言い出せなかった。その後も何度か話し合ったが、彼女は結婚を前提としてどんどん話を進めようとするばかりだった。

  「交渉」という現実は「愛」という精神状況の最強のアントニムなのだろうか? 話し合いを重ねるにつれて、私の彼女への気持ちは加速度的に冷めていった。それに反比例するように、岩見と真紀そして細引きの件が私の心をさらに強く圧迫する。あるときそのことを結衣に打ち明けたが、彼女は「そんな細々としたことより、生まれてくる子供のことを真剣に考えて」と、私の話の内容には全く興味を示さず、逆に私に詰め寄ってきた。彼女はあの日の自分の発言が私と岩見を決定的に引き離し、遭難の遠因になったことなどすっかり忘れているようだった。私は意を決して彼女に結婚するする気がないことを告げた。そして一気に堕胎してくれないかと懇願した。予想通り彼女は激怒した。

  そのうち彼女の父親が私の家まで来て、私を激しく叱責した。父親も娘に強く堕胎するよう言ったが、結衣は産むといってきかないらしい。それを聞いて私は観念した。結局彼女は出産し、私は学生のまま子供を認知することになった。そのことを知った私の両親も激怒し、それ以来関係が気まずくなって私は一度も実家に帰っていない。

☆ ☆ ☆

  あれからもう3年経った。私は現在ある会社に勤めて、結衣に養育費を支払いながら、この世から逃げ出したいくらい苦しい生活をしている。養育費の支払いが滞ると、山野の親戚と称する男からすぐに苦言の電話がかかってくる。就職した当初は結衣と結婚するようにと親や周辺からしばしば圧力がかかったが、最近はそれもなくなった。こうなったのは全く自分の責任だが、ときどき心の中で岩見と真紀に向かって、本当は謝りたいくせに「バカヤロー」と叫んでみる。

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