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2008年11月 3日 (月)

転落

転落

  3月になってもまだまだ肌寒い日々が続いていた。今日は特に曇天で、雪もちらついている。いつも通り古ぼけた教授室のドアを開けて、朝9時に席についた。
パソコンに灯を入れると、いつものジャンクメールの洪水だ。まず必要なメールを残して、ジャンクメールを消していく。次に迷惑メールフォルダーを開けて、必要なメールがそこに落とされていないかどうかチェックする。やっぱり今日も1通大事なメールが迷惑メールフォルダーに落ちていた。それをホワイトメールに登録し、やっと返事を書く段取りだ。今朝は返事の必要なメールは2通だけのようだ。

  文面を考えていると、ドアをノックする音がした。
ドアを開けると、見慣れない顔の男子学生が一人立っている。
「どうしましたか」と声をかけると、学生はもじもじしながら
「あのう ちょっと・・・」と躊躇しているので、
「まあ 入りなさい。えー誰だっけ」と部屋に迎え入れながら、名前を訊いた。
「城戸です」と学生は小さな声で答えた。

  学生は椅子に黙って座り、うつむいている。何も話を始めないので、
「で 城戸君。 今日は?」と私が水を向けると、
「実は先生の講義の単位を落としてしまったんです」
とようやく口を開いた。
「それで?」
「それで卒業できなくなってしまったんです」
「しょうがないじゃないか」
私はそっけなく言った。
「昨年の夏に大学院の入学試験には受かって、もう研究テーマが決まっているんです」
「そんなことを言われても、私がどうこうできることじゃないだろう」
「試験の日を間違えて、当日の朝気づいてあわてて会場に来たんですが、動揺してしまってうまくできなかったんです」

私は相手のペースにはまっていると思いながら、彼の答案用紙を探した。成績は45点だった。合格には60点以上が必要だった。

「なんだ、城戸君。これは残念というレベルじゃないよ。全然点数が足りないじゃないか」とつきはなすが、彼は
「そこをなんとか・・・」とくいさがる。
「考えてもみろよ。君の点を15点も水増ししたら、1点差で落ちた学生はどう思うだろうね」
「そこをなんとか・・・」

  何を言っても「そこをなんとか・・・」と言って学生は席を立たないので、私はだんだん腹が立ってきた。「いくら粘ってもどうにもならないよ。今回の件はあきらめてくれないか」と私は引導を渡した。すると突然彼は私にしがみつき、泣きはじめた。私は動転した。「何のまねだ 出て行きなさい」と学生を抱えてもみ合いながら廊下に押し出した。数人の学生が怪訝そうな目で廊下を通り過ぎた。

最低の気分だ。
全く仕事は手につかなかった。

☆ ☆ ☆

  呆然と椅子に座っていると、昼過ぎになって本田という初老の教授が尋ねてきた。
彼は普段から私が挨拶しても無視するような、無愛想で尊大な性格という印象があって、少なくとも1対1では話をしたことがない人物だった。

「4月からうちの研究室にくることになっている城戸という学生のことなんだけどねえ。追試かなんかやって、単位をどうにかならんもんかねえ」
と本田教授はさっきの学生のことについて切り出した。
「まずいですよ それは」と私は口を濁した。
「いや 困るんだよ。彼は非常に優秀な学生でねえ。君の科目だけ失敗したんだよ。実はもう企業との共同研究で、いろいろ話は進んでいるんだよ。どうにかならんもんかねえ」と教授は粘り腰だ。
その後、何を言っても「どうにかならんもんかねえ」の一点張りだ。
このバカ教授あってのあのバカ学生かとあきれ果てた。
教授は最後に「君、アカデミックハラスメントというのもあるよ。目撃者もいることだし」と捨て台詞を吐いて立ち去った。

ふざけるんじゃない。

  そういえば昨日トイレに行ったとき、隣に学部長が来て「君、この頃単位が足りなくて留年する学生が増えて困るねえ。大学の体面というのもあるしねえ。まあ君の科目を落とす者は少ないと思うが」と独り言のようにつぶやいていたのを思い出した。ひょっとしてあの学生の件は、学部長まで話が通っていたのかという疑いが芽生えた。もう少し慎重に対処すべきだったかとも思ったが、まああれでよかったのだと自分に言いきかせた。

  夕方になると、追い打ちをかけるようにまずい知らせが届いた。院生のひとりが液体クロマトグラフィーの調子が悪いと言うのだ。この機械が動かないとうちの研究室は仕事にならない。ちょうど大学に来ていたメーカーのエンジニアに頼み込んで見てもらうと、部品の交換が必要ということだった。その部品の価格が60万円というのが大問題だった。はてどこから捻出すればいいのか・・・。

  途方に暮れて、家に帰る気もしないで部屋でボーッとしていると、電話がかかってきた。「ABC製薬の城戸といいまして、本田先生と共同研究をやらせていただいているものです。研究の進み具合によっては、先生のお力もお借りしたいと思っておりますのでお電話いたしました次第でございます」という話だった。話の内容は結構面白いものだったが、城戸という名前に嫌な予感がしたので「それは有難いお話ですので、是非検討させていただきます」とは言ったものの、会ってお話ししたいという申し出は、こちらからいずれ連絡するということでお茶を濁しておいた。電話を切ったらもう午後10時だった。無為の日だった。前に進んだ仕事はひとつもなかった。おまけに昼飯も食いはぐれた。

  部屋を出ると、廊下で隣の研究室の安藤教授に出会った。私の1年先輩だ。
「おお 秋山君。遅くまでがんばってるねえ」
私は今日1日有意義な仕事を何もやっていなかったので気恥ずかしかったが、生返事もしたくなかったので、
「実は液クロ(液体クロマトグラフィー)が今日故障しまして、てんてこまいでした」と半分ウソをついた。
「それは困るねえ。修理の方は大丈夫かい」
「それが60万くらいかかるみたいで・・・。中央機器費の余りで補填してもらうというわけにもいかないでしょうね」
「今はそういうのがまかり通る時代じゃないよ。それよりここだけの話だけど、4月からABC製薬と共同研究しないかと誘われているんだが、これが結構おいしい話なんだよ。なんでも4月に新研究所が発足するということで、うちの大学と関係を深めたがっているらしいんだ。君も一口乗りたいんだったら紹介するよ」
「ABC製薬からは私のところにも電話がかかってきたんですが、いろいろ事情があって保留してるんですよ」
安藤教授は「ほう」と怪訝そうに私の顔を見た。

  私は隣の研究室にまでABC製薬の触手が伸びてきているのを知って暗然たる気持ちになった。安藤教授とは地下鉄の駅までいっしょに歩いたが、ひょっとして私は学部の中で孤立してしまうのではないかという不安で頭がいっぱいで、今思い出そうとしても、道すがら彼と何を話したか覚えていない。翌日調べてみると、ABC製薬には城戸という取締役がいて、4月から新研究所の所長に就任する予定だということが判明した。しかもやはり彼の息子があの学生だった。ABC製薬はうちの大学に寄付講座をつくり、本田教授をトップに据える予定のようだ。

  今朝のニュースでは大分県教委の教員採用試験の点数改ざんが話題となっている。やはり点数改ざんや特定の学生に便宜をはかる度胸は私にはない。学生、本田教授、学部長、ABC製薬のいずれとも一切この件について話をするのはやめよう。「これでいいのだ」と私は自分に言い聞かせた。液体クロマトグラフィーの部品代はディーラーに借金することにした。

  廊下で学部長とすれちがったので、私は会釈したが、学部長はそっぽを向いて通り過ぎた。嫌な雰囲気がただよう。しばらくして私がアカハラ(アカデミックハラスメント)をやっているという怪文書がばらまかれ、インターネットのボードなどにも何者かが同じ内容の投稿を行った。真相が明らかになると敵も困るにきまっているのだから、そんな姑息な行為は無視していればよいはずだが、実際にはそういうわけにはいかなかった。私の研究室に3月には6人いた大学院生のうち4人がやめた。我が子同様に可愛がってきた院生が、たかが風評でやめるというのは大きなショックだった。これも私の不徳か・・・。いやおそらく本田や学部長が裏で引き抜き工作をやった違いない。

  4月になると、やめた院生のうち2人が安藤教授の研究室に転籍したことがわかった。やはり奴も敵の一味だったのか・・・。やめなかった2人は大いに評価したいところだが、彼らは博士課程の3年生だったので、今更研究の内容が変更されるのは困ると思ったのだろう。あるいは彼らには引き抜き工作がなかったのかもしれない。新規に加わる院生もなく、私はいよいよコーナーに追い詰められた。このまま手をこまねいているとノックアウトされるのは目に見えている。

  敵はとことん姑息だ。事務的なものも含めて、いろいろ重要な情報が私に伝えられなくなった。伝えられても期限ぎりぎりで、大慌てで取り組むような場合が多くなった。学部学生対象の研究室オリエンテーションなどは知らないうちに行われていて、後でスケジュールを知ることになった。オリエンテーションがなければ、どんな研究室かわからないので学生としては志望のしようがない。学生が来なければ研究室は事実上消滅する。自分はもうここには居るべき場所がないということを自覚せざるを得なかった。私は自分を教授に推薦してくれた恩師でもある元学部長のもとを訪れることにした。彼はもう引退して自宅にいるはずだ。これからのことを相談したかったし、何より今回のような事態になったことを謝らなければならない。助教時代、准教授時代には彼のために私もそこそこ尽くしているので、なんらかの方策を示してくれるかもしれないという期待もあった。

☆ ☆ ☆

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  元学部長は退職後鎌倉に転居していた。退職はしていたものの、いまだに隠然たる影響力を行使しているという噂はよく聞いていた。閑静な高級住宅街にあるその家は、よく手入れされた日本庭園風の庭に囲まれていた。庭の一角に池があって、色とりどりの鯉が悠然と泳いでいた。作務衣風の衣服で現れた師が、にこやかに茶室のような離れに案内してくれた。部屋から庭をみると、ししおどしがしつらえてあり、コトンコトンと音をたてていた。

  世間話をしていると、夫人が現れて抹茶を点ててくれた。正式な作法のようだったが、私は茶道にはまったく無知だったのでかなり緊張した。しかしそれは本題を切り出すきっかけにはなったようだ。私は現在自分が置かれている状況について、元学部長に縷々説明した。そして最後に「私は自分に落ち度があったとは思っておりませんが、今回のような事態に至って先生にご心配をかけてしまったことは本当に残念です。申し訳ありません」と謝罪した。

  元学部長はぎこちなく笑いながら、私から眼をそらして意外な言葉をつぶやいた。
「う~ん そうか・・・。いや そうことなら心当たりがないでもない」

  私が怪訝な顔でみつめていると、しばらく押し黙って庭を眺めていた元学部長だったが、ようやく話し始めた。「私が学部長になるまでは、次に教授ポストが空けば君の話に出てきた本田が埋める予定だったんだよ。まあ一応公募はするんだが、年功序列ということもあって、そういうコンセンサスはあったんだな。でもそうなると当分君の目がなくなってしまうので困るよね。本田という男は猿知恵を使ってコソコソ裏で動くタイプで油断のならない奴だよ。ああいうのを使ってると、いつ寝首をかかれるかわからないからねえ。彼のところにいた浜中という助教を知ってるだろう。浜中君に頼んで、本田が業者に預金している証拠になる裏帳簿のコピーを持ってきてもらったんだよ。預金が公になったらそれこそ新聞沙汰の大事だからね。それを使って本田に公募を辞退してもらって、君を推薦したというわけだ。大逆転だね。もちろんアフターケアは怠ってないよ。君も知っているとおり、浜中君はP大学の准教授に押し込んで、今は教授になっている。私が退職した後本田が教授になったとは聞いていたが、君がそんな目にあっていたとはねえ」

  私は凍り付いた。では私に対して今行われていることは・・・意趣返し?
「私はどうすれば良いのでしょうか?」
「だから言ったでしょう。アフターケアは怠らないってね。まあ1年がまんして待ちなさい」

☆ ☆ ☆

  ほぼ1年後、残った二人の大学院生に学位を取得させて研究室がからっぽになったところで、元学部長から電話があって、Q大学の公募に書類を出すように指示された。言われるままに応募すると、数十倍の倍率だったにもかかわらずすんなり採用されて、私はQ大学に移籍することができた。私が在籍していた大学でもQ大学でも、以前はガチンコの公募で教官を採用していたが、外国で共同研究をうまくやって大量の論文を一流雑誌に出版している人物を採用したところ、傍若無人なキャラで長年培われてきた大学の円滑な運営システムや決まり事をぐちゃぐちゃにされるという羽目に陥ったことがあって、今ではほぼ裏で話がついた後公募するというスタイルに逆行してしまっている。

  移籍後数週間経って、あるなじみの業者にゴルフに誘われた。接待ゴルフは自粛していたが、どうしてもというので、割り勘ならということで同行することにした。幸い快晴に恵まれ、緑がまぶしいコースを回っていると、この1年の間に次々とふりかかってきた不愉快な出来事が、きれいさっぱり消えていくような気分だった。ラウンドを終えて上機嫌でクラブハウスのソファーで休んでいたとき、業者が近寄ってきて、指を3本立てながら私に耳打ちした。「このたびはQ大学教授にご就任おめでとうございます。多田先生からお礼はこのあたりでと伺っております」 そう言うと彼はそそくさと車を出して帰って行った。

  多田先生というのは私の恩師である元学部長のことだ。はて指3本は30万円なのか300万円なのか、それとも・・・。私は万一ということを考えて、就任のご挨拶という名目で多田元学部長の自宅を訪ね、なけなしの300万を菓子折に包んで届けた。元学部長は「ご苦労様」と言って、にこやかな顔で受け取った。3000万じゃなくて良かったという安堵感につつまれて私は恩師の家を後にした。

  門を出ると、「もう引き返せない。私はこれで魑魅魍魎が跋扈する暗闇世界の住人になってしまったのだ」という転落感が襲ってきた。しかし私は背筋をピンと伸ばして、「これでよかったのだ」と自分に強く言い聞かせた。

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