2008年11月 3日 (月)

サリーの帰還

サリーの帰還

  サリーは知人の飼い猫が産んだオスの雑種白ネコだった。その知人の女性は自宅でブリーダーまがいのこともやっているようだった。彼女の話によれば、母猫は血統書付きの純血種だったのに、ちょっと目を離した隙に野良猫と交配して、商品価値のない雑種を数匹産み落としたそうだ。そういうわけで、1匹でもいいから引き受けてくれないかと彼女は私に持ちかけてきた。私は狭いマンション暮らしだったので、それまで犬猫を飼ったことはなかったが、興味がないわけではなかった。御用聞きにきているクリーニング屋の話だと、「このマンションでは自分が出入りしているうちで、半分くらいの部屋で動物を飼っている」ということだったので、表向きの取り決めはともかく、動物飼育禁止にはできない実態があるらしかった。しかし一番の決め手は、その知人の女性というのが職場のお局様で、ご機嫌をそこねたくないという思惑だった。

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    生後数週間の仔猫のときに譲り受けたが、半年くらい経つと眼は透き通るようなブルー、真っ白な短毛系の体毛、長くてまっすぐなしっぽという大型の美しい猫にすくすくと育った。ネズミや鳥の羽のおもちゃをわたすと、何時間もひとりで遊んでいるような無邪気な性格だった。私が「サリー」と呼ぶと、家の中のどこにいても子犬のように走って私の前にやってきた。ただサリーにはちょっと風変わりな習性というか癖があった。最もリラックスしているときには、例えば頭は右、後足は左という風に、体を180度ねじって眠るのだ。人間だったらちょっとしたアクロバットだ。

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    そんなサリーだったがさすがにおもちゃにも飽きてきたのか、ガールフレンドを探しに行くのか、ときどきベランダの手すりづたいに外に遊びに行くようになった。私の部屋は3Fにあったので、並びの3Fの数軒のベランダのどこかに遊びに行っているのだろうと思っていた。ベランダに出るのは部屋飼いのネコにとって貴重な息抜きの時間なのだろう。サリーもベランダに出るとすぐノビをしてリラックスする様子だった。

  人間だって狭いオフィスに閉じ込められて仕事をしていると、たまには屋上にでも出てリラックスしたくなる。ネコはもともと巣を作って引きこもって生活するような動物ではないので、室内飼い自体が一種のストレスなのだろう。とはいってもベランダから外出するネコを放置していた私は、ネコ飼育の常識として、飼い主として失格だった。手すりから転落すると墜落死や大ケガの可能性があるし、なんとか無事だったとしても、道がわからなくなって帰れなくなるかもしれない。交通事故・喧嘩によるケガや感染症の危険もある。飼い主としてこのような外遊びを放置するのは許されることではない。

  しかし当時は隣家のベランダとの境界になっているバリヤの隙間をうめたり、3F全部屋に連続している手すりを完全に封鎖するというのは困難だと思って、ずるずると放置していた。日曜大工で境界封鎖などやっていると、隣人に変な人だと思われるという不安もあった。それにまさかサリーが1Fまで降りるとは想像できなかった。今でもどうやって降りたのかわからない。ベランダにはケヤキが枝を伸ばしているが華奢な細枝で、とてもネコがジャンプして飛び移り、伝って歩けるようなものではなかった。他の部屋のベランダの端の方にはやや太い枝が伸びていたが、そうは言ってもかなりの距離があり、飛びつくには相当なジャンプ力が必要なはずだ。まさかサリーにそんな能力があろうとは予測できなかった。やはり転落したのだろうか? そうだとすると猫らしからぬドジということになるが、それならよく大ケガをしないで生き延びたものだと思う。もうひとつの可能性は、他の部屋の窓が開いていてそこから侵入し、玄関のドアが開いたときに外に出たのかもしれない。知的障害がある子供がいる部屋があって、バタバタ扉を開けたり閉めたりしていたので、その家からこの方法で外出した可能性が一番高いと思った。

  最初の頃は外出してもすぐに帰ってきたが、それはまだ3Fのどこかの部屋のベランダにとどまっていたからだろう。ある時家出したまま、ついに数日経っても帰ってこなかった。いったん下に降りてしまうと地理の感覚が狂ってしまって、猫の知能ではもどるのは困難だろう。並びの3Fの住民の部屋はすべて訪問して確認したが、どこにもいなかった。その後数日かけて2Fと1Fの住人にも訊いてみたが、有益な情報は得られなかった。

  あちこち探していると、ある日近所の公園でベンチに座っている男から弁当を分けてもらっている白ネコをみつけた。間違いなくサリーだと思ったが、首輪が外れていて確認できなかった。思い切って話をしてみようと近づいたとき、男が立ち上がって歩き出した。すると、その白ネコも男の後をついて歩き出した。私は彼らの後をつけた。そしてたどり着いたのは、向かいのマンションの1Fの部屋だった。白ネコは男とドアの中に消えていった。リードもつけずに人の後をついていくとは、男と白ネコの関係はもはや相当深いとみるべきだろう。ただ首輪をしていないのがちょっと不安ではあったが・・・。私は首が太くなっても自力ではずせるよう、伸縮性のある青白ストライプの脱出首輪をサリーに装着していた。

  それから数日の間私はとても複雑な気分で、仕事も手につかず悶々と暮らした。しかし一週間・二週間と経つうちに、「あの男に可愛がられているのなら、それもサリーの運命。まあ仕方がないか・・・。それにあの猫がサリーだと確かめる方法もない」というあきらめの割り切りができて、男と白ネコを発見した公園や、飼い主の男の部屋には近寄らないようにしようと決断した。

☆ ☆ ☆

  サリーが私の部屋にやってきたのは冬だったが、季節が巡り、また冬がやってきた。窓から見えるケヤキの大木もほとんど落葉し、風が吹くたびに数枚の枯れ葉が殺風景なベランダでカサカサと音をたてていた。空を見上げるとオリオン座が南の空に輝いていた。勇者は2匹の犬を引き連れている。おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンは冬空を飾る宝石だ。私は電気を消してこんな冬空を窓からぼんやり眺めているのが好きだった。

  その日もこんな寒い夜だった。玄関の方でニャーニャーとうるさく鳴く声が聞こえるので扉を開けてみると、なんとサリー(いやあの白ネコ?)がぽつんと座っているではないか!「まあ入れサリー」と声をかける間もなくそのネコは玄関に突入し、さっさとリビングに走っていってコタツに潜り込んだ。うちにいた頃もよく潜り込んでいたコタツだ。「これは間違いなくサリーだ」と確信した瞬間だった。サリーは昏々と眠り続けた。久しぶりでエサと水とトイレをいそいそと用意した。次の日、会社を休むわけにはいかなかったので、眠り続けるサリーを残して出勤したが、サリーが病気じゃないかと気になって、そわそわと終業時間を待つだけの1日だった。しかしその心配は杞憂だった。帰ってみるとエサはすっかりなくなっているし、立派なウンチも確認した。サリーは家の中を何度もぐるぐる巡回して点検した。昔も1日2-3回は、家の隅から隅まで巡回していた。点検が終わると、またコタツに潜り込んでぐっすり眠る。そっと覗くと、なんと昔のように体を180度ねじっていた。

  サリーは私の知らない赤い首輪を装着していた。私は昔していたような青と白のストライプの首輪を購入し、赤い首輪をはずしてサリーに装着した。「そうそう、こうじゃないとサリーじゃないよな」と私はつぶやいた。今度はベランダから隣に逃げられないように、ディスカウントショップでパーティションを購入して、隣接するベランダとの境界に注意深くバリヤーを築いた。手すりからも移動できないように万全を期した。隣人がどう思おうが、そんなことは気にしないことにした。

  サリーがいない間は、帰宅するとただ黙って重い扉を開けるだけだったが、久しぶりで「ただいま、サリー」と挨拶しながら扉を開ける幸福にひたることができた。サリーは私がベッドにはいると、ぴょんとベッドの上に飛び乗って、私のふとんの中に潜り込んで眠るようになった。朝になると寝ぼけている私の顔をなめて、目覚まし時計の役を果たしてくれる。自宅に生き物がいるって、なんて素晴らしいことなのだろう。

  そんな日々がしばらく続いた後のこと、ある日酔って深夜に帰宅したとき、いつものように扉を開けると、ただいまの「た」も言わないうちに、何かの塊がすきまから飛び出した。サリーだと気がついたのは数秒後だった。一気に酔いがさめた。サリーはそのまま脱走し、朝まで近所を探し歩いたが見つからなかった。

  次の日は会社を休み、パソコンで写真入りの張り紙をつくって近所に貼って歩いた。それから毎日、帰宅するとネコ探しの日々だった。サリーを飼っていたと思われる男の部屋も訪ねてみたが出張なのか返事はなく、裏に回ってみても部屋に電気はついていなかった。男とサリーのいた公園にも毎日立ち寄ったが、男もサリーも居なかった。しかしある日、ついに男をみつけた。彼は公園のベンチに一人で座って、不機嫌そうに弁当を食べていた。話しづらい雰囲気だったが、私は思いきって男に声をかけた。

「すみません。以前に白いネコを飼っておられましたよね」

男はうさんくさそうにこちらに目を向けた。
私はあわてて「私はあの向かいのマンションの3階に住んでいる新井という者です」と付け足した。男はやっと重い口をひらいた。

「ああ、マサオのことですか・・・。家出して帰ってこないんですよ」と男は暗い表情で答えた。そしてさらに「マサオは昔この公園にいた野良猫で、うちに連れて帰ってしばらく飼っていたのですが・・・。ときどきまたここに来ないかとベンチで待っているんです。もし見かけたら教えてください」と男は私に名刺を差し出した。

  最後の望みが絶たれた気がした。なぜだか急に涙があふれてそうになってきたので「そうですか、わかりました」とだけ言って、私はその場を立ち去った。どんどん歩いてふと振り返ると、男はヒザをかかえ、うつむいてベンチの上にじっと座っていた。

  それから白い野良猫をみつけると、いつもサリーと呼びかけてみた。しかしいつからか、それも心の中で呼びかけるだけになり、年月を経て私の脳裏からサリーは離れていった。そしていま私の手元に残されたのは数枚の写真だけになった。それでもときにはアルバムを開いて私はサリーにそっと言うのだ。

「ただいま サリー」

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カラスの復讐

カラスの復讐

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  教会では人々が夜明け前から忙しく立ち働いていた。巨大なツリーに四方からはしごがかけられ、様々なデコレーションやイルミネーションが次々と飾られていく。2トン積みくらいの小型の幌付きトラックがゆっくりと構内にはいってきた。幌が開けられ、ドイツから到着したばかりの鐘が収納されているらしい木箱が、4人の作業員によって慎重に鐘楼に運ばれていく。空が明るくなってくる頃、鐘楼に鐘がとりつけられた。年配の司祭がよろめきながら鐘楼の階段を上っていく。やっと最上階までたどりついた司祭が、ふうと息を吐いてハンマーを握り、コーンコーンコーンと3回試打した。無垢な乾燥した音が響き渡る。信徒達から拍手と歓声がわき上がった。クリスマス・イヴのための準備が万端整った。

  教会の新しい鐘の音が9時を告げた。さすがにドイツ製の新品の鐘は響きの余韻が美しい。時を告げるのはカトリック教会のサービスだが、それはまた教会が人々の生活を支配していることのデモンストレーションでもある。私はその鐘楼の近くの建物の屋根にいた。冷たいピーンと張りつめたような空気が気持ちの良い朝だった。食事の時、私は母と行動を共にしていた。私たちの食事は多少の危険が伴うので、母が気を遣ってくれるのだ。やがていつも鐘楼の屋根の頂上に陣取っている母が飛んできて私を誘った。母はここいらのカラスの中では力強さで際だっていて、オス達も母には一目置いていた。

「さあ ごはんよ 行きましょう」 母が私に声をかけてくれた。

  人々がゴミを捨てにやってくるのは7時前から8時過ぎくらいがピークで、その後はゴミ捨て場は閑散とした感じになる。市役所がゴミを収集にくるのは10時の鐘が鳴ってからだ。その30分くらい前が私たちの勝負の時だった。母はいつも器用にゴミ袋を破ってくれる。私は母と共に残飯を探してくちばしでくわえる。そして安全な場所に飛び去って食べる。これを繰り返すのが私たちの毎日だった。

  その日もいつものようにエサを漁っていると、何か木陰で動く気配がした。そして見慣れない棒のようなものが見えたと思った次の瞬間、その棒が母の脳天に振り下ろされ、母は倒れた。私は大声で鳴いて飛び立った。上空から振り返って見ると、ステッキを持った人間が母を何度もたたき、最後は足で踏みつけて内臓が飛び出した。母は内臓が出たままつまみ上げられ、ゴミ袋に入れられた。私は動転したが、その人間の顔をしっかりと頭に焼き付け、必ずいつか復讐をしてやると心に決めた。

  しかし復讐の方法などを考える余裕はなかった。私はその日からエサ場を失い飢えた。恐怖で、もう私と母のテリトリーだったゴミ捨て場でエサをあさることができなくなってしまったのだ。あまりの空腹に遠くのゴミ捨て場までいってみた。しかしそこは他のカラスのなわばりで、エサをあさるどころか、逆に攻撃され深傷を負ってしまった。そして私は母の復讐を果たせないまま力尽きた。

☆ ☆ ☆

  私は物心ついたときには施設に居た。入り口の扉の前に、手紙もなく置き去りにされていたそうだ。だから私には人間の父母の記憶はない。そのかわり、教会の鐘楼の屋根から見下ろした美しい景色、ゴミ捨て場、振り下ろされるステッキ、無惨な母の死(そしてなぜかその母がカラスであるという鮮明な記憶)、ステッキを持つ男の顔、などが次々と浮かんでくる夢を毎日のように見た。その夢をみると、全身から血が噴き出してくるような怒りで目が覚める。

  施設を出て会社勤めをするようになって数年後、会社のルールで社員寮を出なければならなくなった。近郊で住居探しをしているときに、見覚えのある教会、見覚えのあるゴミ捨て場のある街に遭遇した。夢で見ていたのと同じ場所・・・。そんなことがあり得るのだろうか? それとも単なるデジャヴーなのか? 私は逡巡したが、どうしても奈落の底に吸い込まれるような強烈な運命の引力に逆らうことはできなかった。私はその街のアパートに住居を定めた。ここに住むことに決めた以上、私はもはや「母の仇を討つ」というさだめから逃れることはできないだろう。

  しばらくして街の自治会総会に出席したときに、私の頭に焼き付いている顔の男が自治会長になっていることがわかった。年月を経て顔に皺が刻まれていたが、私にはすぐわかった。私は復讐する前に、この老人がどのような人物であるのか知りたくなって、しばらく様子を見ることにした。彼の家は私の記憶にあるゴミ捨て場のすぐ近くにあり、いつも窓のカーテンの隙間からゴミ捨て場を監視していた。正規の時間外に捨てる人間がいると、こっそり尾行してダメだしの注意書きをその人の家のポストに投げ込んだ。不燃物と可燃物を間違えると、そのゴミを出した人の家の玄関まで、自分でそのゴミを持って返しに行った。そんなことを繰り返し、ゴミ捨て場の管理をやるのが彼の日常のようだった。

  ある日その自治会長が、袋を破ってエサを漁る野良猫をステッキで撲殺するところを目撃した。彼は猫が完全に動かなくなるまで何度も何度もステッキを振り下ろし、内蔵が飛び出したところで屍体を拾ってゴミ袋に入れた。はっきりと識別はできなかったが、そのステッキは古いもののようで、母を殺した凶器かもしれない。よく犯罪者は同じ手口で犯罪を犯しがちだといわれるが、これもそういうことなのだろう。私はそこまで残酷にはなれないという気がした。

  自治会長は週に何日か近所のコンビニに勤めていた。店員としては高齢でもあり、動作が緩慢な上に仕事の手際が悪くて、よく店長に叱責されていた。しかし自治会集会の時の彼の顔は見違えるように生気に満ち、まるで街の守護神のように輝いていた。彼は私の母を殺したことなど微塵も覚えていないだろう。彼の得意げな顔を見ると、私は不快でいたたまれない気分になった。

☆ ☆ ☆

  決行すべき時は偶然やってきた。台風の日の朝、土砂降りのなかを彼はゴミ捨て場の点検にやってきた。人間楽しいことのためには、こんなにも勤勉になれるものなのだろうか。私はある意味感嘆した。どうやら彼は手数料を支払ったという証拠のラベルが貼っていないまま出されている粗大ゴミをみつけたようで、ステッキを地面に置いて、ラベルが本当に貼られていないかどうか、大きな古い家具のまわりを1周しながら仔細に点検をはじめた。粗大ゴミを捨てるためには、あらかじめ市役所に電話して、サイズに応じた手数料を支払わなければならない。私は自分に「この瞬間を逃してはならない」と言い聞かせた。用意した軍手をはめて男のステッキを拾い上げ、思い切り後頭部に振り下ろした。倒れてからさらに2-3発頭を殴打し、ステッキを捨てて立ち去った。きちんと復讐するには、彼の内臓が飛び出すまで叩かなければいけないが、それは私にはできなかった。

  少し残念だったのは、あのステッキが母を殺したものと同じものかどうか判定できなかったことだ。そこまでの正確な記憶はなかった。できればそのステッキで復讐を果たしたかった。完璧な復讐ではなかったかもしれない。しかし私がカラスのままだったら、このような形での復讐はできなかっただろう。そのことには私は満足し、私を生まれ変わらせてくれた神に感謝した。

  私の復讐は犯罪としても完璧なものではなかった。近所のマンションの上層階から一部始終を見られていたのだ。土砂降りの日だったのでまさかとは思ったが、ゴミ捨て場を監視している人間がもうひとり居たとは不覚だった。私は逃亡はしなかった。復讐を果たしたという高揚感で心が満たされていたのと、もし逃亡すると私の神聖な復讐がスポイルされるような気がしたからだ。ほどなく私は逮捕された。

  警察にも、検事にも、弁護士にも、裁判官にも、私はきちんと自治会長を殺害した理由を述べた。もちろん彼らが私の言葉を信じるはずもない。何度も同じ話を繰り返しているうちに、誰も私の言うことなどまともに聞いてくれなくなった。それでも私は長期間拘束され、そんな寝言はいいかげんにやめて本当のことを話せと強要される。私はしだいに自暴自棄になり、わけのわからないことばかりわめくようになっていたようだ。結局、私は精神病院に強制的に収容されることになった。

  私は今措置入院させられた病院のベッドの上に座り、鉄格子の窓越しにぼんやりと青空を眺めている。これまでの私の人生のなかで、こんなに美しい空をみるのは初めてだ。いや空なんか見たこともなかったような気がする。私に「さだめ」を与え拘束していたのは神なのだろうか、それとも悪魔なのだろうか。今の私は解放され、意味もなく青空を眺めている。意味のない人生はのびのびと自由だ。もう私は生まれ変わることもないだろう。しばらくしたら、あの世で母と静かに暮らすのだ。

☆ ☆ ☆

  刑事は、あの犯人が精神病者であるとは、まだ心の中のどこかで信じられなかった。取り調べの際、特に最初の頃は、被疑者のしゃべることはある意味ハチャメチャだったが、ある意味すべて筋が通っていた。それもこれも、あの動機についての奇妙な供述が鍵になっている。犯人は自分の前世はカラスで、母カラスの復讐のためにこの世に生まれ復讐を果たしたと、何度も何度も繰り返した。そのたびごとに、刑事達はがっくり落ち込み脱力した。供述がまったくブレなかったので、そのうち誰も真面目に話を聞く気力を失い、ただストレスを解消するために被疑者をどなりつけるだけになった。そのうち被疑者もまじめに話す気がなくなったのか、荒唐無稽なウソ話をリピートするのが面倒になったのか、わけのわからないことばかりしゃべるようになった。

  裁判が終わってから、ある日ふと思いついて、刑事は自治会長殺人事件の目撃者の部屋を訪ね「例のゴミ捨て場の殺人の件なんですが、毎日チェックしていらっしゃったわけですよね。ひょっとして何か記録のようなものをつけてますか?」と訊いてみた。「ゴミ捨て場の記録なんてつけてないよ」と目撃者の住人は笑いながら言った。しかしもう一度考え直すように「でも日記なら昔から毎日書いているけどね」と言葉を続けた。

  刑事は犯人が「教会の鐘楼に新しいドイツ製の鐘がとりつけられた日に母が殺された」と供述したことを思い出した。日記をつけているのなら、記述があるかもしれない。

「昔の話ですが、教会の鐘楼にドイツ製の新しい鐘がとりつけられたことって書いてありますかね?」と刑事は目撃者に訊ねた。
「ドイツ製の鐘ねえ。それはなんとなく覚えているよ。ずいぶん昔の話だよ。私は実はカトリック教徒で、鐘が来たときには信徒がみんな集まってお祝いのパーティーをしたように思う。確かクリスマスイヴだったと思うね。もうあれから30年にもなるんだね。ちょっと待って」と答えて、目撃者はかなり長い時間あちこち探し回っていたが、押し入れの段ボールの中から古い日記の束を取り出し、さらに時間をかけて調べた。そしてついにあるページを探り当て「ああ これだ」と刑事に手渡した。

  刑事はそのページをみて目を疑った。その日に被害者がカラスをたたいて殺したことが記してあったのだ。日記の記述と照合すると、加害者の供述はきわめて正確だった。もちろんその日に加害者はまだ生まれていない。しかし供述が正確であればあるほど、そんな事件、すなわちカラスが人間に生まれ変わって復讐するなどということはあり得るはずがない。あり得ても裁判の対象にはなるはずもない。長い間じっと日記の同じページを見つめていた様子がおかしかったのだろう、持ち主が怪訝そうな眼で自分を見つめているのにふと気がついた。刑事は静かに日記を所有者に返し、丁重に礼を言ってから悄然と部屋を出てエレベーターホールの方に歩き出した。エレベーターホールまでの道のりがなんと長かったことだろう。足が地面についているような気がしなかった。それでもようやくエレベーターまでたどりつき、ふらつきながらもなんとか乗り込んだ。

  エレベーターのドアが閉じたとき、刑事は「終わりだ終わりだ。この件はもう終わりだ。クソ野郎」と吐き捨てるように叫んだ。エレベーターは静かに降りていった。

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転落

転落

  3月になってもまだまだ肌寒い日々が続いていた。今日は特に曇天で、雪もちらついている。いつも通り古ぼけた教授室のドアを開けて、朝9時に席についた。
パソコンに灯を入れると、いつものジャンクメールの洪水だ。まず必要なメールを残して、ジャンクメールを消していく。次に迷惑メールフォルダーを開けて、必要なメールがそこに落とされていないかどうかチェックする。やっぱり今日も1通大事なメールが迷惑メールフォルダーに落ちていた。それをホワイトメールに登録し、やっと返事を書く段取りだ。今朝は返事の必要なメールは2通だけのようだ。

  文面を考えていると、ドアをノックする音がした。
ドアを開けると、見慣れない顔の男子学生が一人立っている。
「どうしましたか」と声をかけると、学生はもじもじしながら
「あのう ちょっと・・・」と躊躇しているので、
「まあ 入りなさい。えー誰だっけ」と部屋に迎え入れながら、名前を訊いた。
「城戸です」と学生は小さな声で答えた。

  学生は椅子に黙って座り、うつむいている。何も話を始めないので、
「で 城戸君。 今日は?」と私が水を向けると、
「実は先生の講義の単位を落としてしまったんです」
とようやく口を開いた。
「それで?」
「それで卒業できなくなってしまったんです」
「しょうがないじゃないか」
私はそっけなく言った。
「昨年の夏に大学院の入学試験には受かって、もう研究テーマが決まっているんです」
「そんなことを言われても、私がどうこうできることじゃないだろう」
「試験の日を間違えて、当日の朝気づいてあわてて会場に来たんですが、動揺してしまってうまくできなかったんです」

私は相手のペースにはまっていると思いながら、彼の答案用紙を探した。成績は45点だった。合格には60点以上が必要だった。

「なんだ、城戸君。これは残念というレベルじゃないよ。全然点数が足りないじゃないか」とつきはなすが、彼は
「そこをなんとか・・・」とくいさがる。
「考えてもみろよ。君の点を15点も水増ししたら、1点差で落ちた学生はどう思うだろうね」
「そこをなんとか・・・」

  何を言っても「そこをなんとか・・・」と言って学生は席を立たないので、私はだんだん腹が立ってきた。「いくら粘ってもどうにもならないよ。今回の件はあきらめてくれないか」と私は引導を渡した。すると突然彼は私にしがみつき、泣きはじめた。私は動転した。「何のまねだ 出て行きなさい」と学生を抱えてもみ合いながら廊下に押し出した。数人の学生が怪訝そうな目で廊下を通り過ぎた。

最低の気分だ。
全く仕事は手につかなかった。

☆ ☆ ☆

  呆然と椅子に座っていると、昼過ぎになって本田という初老の教授が尋ねてきた。
彼は普段から私が挨拶しても無視するような、無愛想で尊大な性格という印象があって、少なくとも1対1では話をしたことがない人物だった。

「4月からうちの研究室にくることになっている城戸という学生のことなんだけどねえ。追試かなんかやって、単位をどうにかならんもんかねえ」
と本田教授はさっきの学生のことについて切り出した。
「まずいですよ それは」と私は口を濁した。
「いや 困るんだよ。彼は非常に優秀な学生でねえ。君の科目だけ失敗したんだよ。実はもう企業との共同研究で、いろいろ話は進んでいるんだよ。どうにかならんもんかねえ」と教授は粘り腰だ。
その後、何を言っても「どうにかならんもんかねえ」の一点張りだ。
このバカ教授あってのあのバカ学生かとあきれ果てた。
教授は最後に「君、アカデミックハラスメントというのもあるよ。目撃者もいることだし」と捨て台詞を吐いて立ち去った。

ふざけるんじゃない。

  そういえば昨日トイレに行ったとき、隣に学部長が来て「君、この頃単位が足りなくて留年する学生が増えて困るねえ。大学の体面というのもあるしねえ。まあ君の科目を落とす者は少ないと思うが」と独り言のようにつぶやいていたのを思い出した。ひょっとしてあの学生の件は、学部長まで話が通っていたのかという疑いが芽生えた。もう少し慎重に対処すべきだったかとも思ったが、まああれでよかったのだと自分に言いきかせた。

  夕方になると、追い打ちをかけるようにまずい知らせが届いた。院生のひとりが液体クロマトグラフィーの調子が悪いと言うのだ。この機械が動かないとうちの研究室は仕事にならない。ちょうど大学に来ていたメーカーのエンジニアに頼み込んで見てもらうと、部品の交換が必要ということだった。その部品の価格が60万円というのが大問題だった。はてどこから捻出すればいいのか・・・。

  途方に暮れて、家に帰る気もしないで部屋でボーッとしていると、電話がかかってきた。「ABC製薬の城戸といいまして、本田先生と共同研究をやらせていただいているものです。研究の進み具合によっては、先生のお力もお借りしたいと思っておりますのでお電話いたしました次第でございます」という話だった。話の内容は結構面白いものだったが、城戸という名前に嫌な予感がしたので「それは有難いお話ですので、是非検討させていただきます」とは言ったものの、会ってお話ししたいという申し出は、こちらからいずれ連絡するということでお茶を濁しておいた。電話を切ったらもう午後10時だった。無為の日だった。前に進んだ仕事はひとつもなかった。おまけに昼飯も食いはぐれた。

  部屋を出ると、廊下で隣の研究室の安藤教授に出会った。私の1年先輩だ。
「おお 秋山君。遅くまでがんばってるねえ」
私は今日1日有意義な仕事を何もやっていなかったので気恥ずかしかったが、生返事もしたくなかったので、
「実は液クロ(液体クロマトグラフィー)が今日故障しまして、てんてこまいでした」と半分ウソをついた。
「それは困るねえ。修理の方は大丈夫かい」
「それが60万くらいかかるみたいで・・・。中央機器費の余りで補填してもらうというわけにもいかないでしょうね」
「今はそういうのがまかり通る時代じゃないよ。それよりここだけの話だけど、4月からABC製薬と共同研究しないかと誘われているんだが、これが結構おいしい話なんだよ。なんでも4月に新研究所が発足するということで、うちの大学と関係を深めたがっているらしいんだ。君も一口乗りたいんだったら紹介するよ」
「ABC製薬からは私のところにも電話がかかってきたんですが、いろいろ事情があって保留してるんですよ」
安藤教授は「ほう」と怪訝そうに私の顔を見た。

  私は隣の研究室にまでABC製薬の触手が伸びてきているのを知って暗然たる気持ちになった。安藤教授とは地下鉄の駅までいっしょに歩いたが、ひょっとして私は学部の中で孤立してしまうのではないかという不安で頭がいっぱいで、今思い出そうとしても、道すがら彼と何を話したか覚えていない。翌日調べてみると、ABC製薬には城戸という取締役がいて、4月から新研究所の所長に就任する予定だということが判明した。しかもやはり彼の息子があの学生だった。ABC製薬はうちの大学に寄付講座をつくり、本田教授をトップに据える予定のようだ。

  今朝のニュースでは大分県教委の教員採用試験の点数改ざんが話題となっている。やはり点数改ざんや特定の学生に便宜をはかる度胸は私にはない。学生、本田教授、学部長、ABC製薬のいずれとも一切この件について話をするのはやめよう。「これでいいのだ」と私は自分に言い聞かせた。液体クロマトグラフィーの部品代はディーラーに借金することにした。

  廊下で学部長とすれちがったので、私は会釈したが、学部長はそっぽを向いて通り過ぎた。嫌な雰囲気がただよう。しばらくして私がアカハラ(アカデミックハラスメント)をやっているという怪文書がばらまかれ、インターネットのボードなどにも何者かが同じ内容の投稿を行った。真相が明らかになると敵も困るにきまっているのだから、そんな姑息な行為は無視していればよいはずだが、実際にはそういうわけにはいかなかった。私の研究室に3月には6人いた大学院生のうち4人がやめた。我が子同様に可愛がってきた院生が、たかが風評でやめるというのは大きなショックだった。これも私の不徳か・・・。いやおそらく本田や学部長が裏で引き抜き工作をやった違いない。

  4月になると、やめた院生のうち2人が安藤教授の研究室に転籍したことがわかった。やはり奴も敵の一味だったのか・・・。やめなかった2人は大いに評価したいところだが、彼らは博士課程の3年生だったので、今更研究の内容が変更されるのは困ると思ったのだろう。あるいは彼らには引き抜き工作がなかったのかもしれない。新規に加わる院生もなく、私はいよいよコーナーに追い詰められた。このまま手をこまねいているとノックアウトされるのは目に見えている。

  敵はとことん姑息だ。事務的なものも含めて、いろいろ重要な情報が私に伝えられなくなった。伝えられても期限ぎりぎりで、大慌てで取り組むような場合が多くなった。学部学生対象の研究室オリエンテーションなどは知らないうちに行われていて、後でスケジュールを知ることになった。オリエンテーションがなければ、どんな研究室かわからないので学生としては志望のしようがない。学生が来なければ研究室は事実上消滅する。自分はもうここには居るべき場所がないということを自覚せざるを得なかった。私は自分を教授に推薦してくれた恩師でもある元学部長のもとを訪れることにした。彼はもう引退して自宅にいるはずだ。これからのことを相談したかったし、何より今回のような事態になったことを謝らなければならない。助教時代、准教授時代には彼のために私もそこそこ尽くしているので、なんらかの方策を示してくれるかもしれないという期待もあった。

☆ ☆ ☆

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  元学部長は退職後鎌倉に転居していた。退職はしていたものの、いまだに隠然たる影響力を行使しているという噂はよく聞いていた。閑静な高級住宅街にあるその家は、よく手入れされた日本庭園風の庭に囲まれていた。庭の一角に池があって、色とりどりの鯉が悠然と泳いでいた。作務衣風の衣服で現れた師が、にこやかに茶室のような離れに案内してくれた。部屋から庭をみると、ししおどしがしつらえてあり、コトンコトンと音をたてていた。

  世間話をしていると、夫人が現れて抹茶を点ててくれた。正式な作法のようだったが、私は茶道にはまったく無知だったのでかなり緊張した。しかしそれは本題を切り出すきっかけにはなったようだ。私は現在自分が置かれている状況について、元学部長に縷々説明した。そして最後に「私は自分に落ち度があったとは思っておりませんが、今回のような事態に至って先生にご心配をかけてしまったことは本当に残念です。申し訳ありません」と謝罪した。

  元学部長はぎこちなく笑いながら、私から眼をそらして意外な言葉をつぶやいた。
「う~ん そうか・・・。いや そうことなら心当たりがないでもない」

  私が怪訝な顔でみつめていると、しばらく押し黙って庭を眺めていた元学部長だったが、ようやく話し始めた。「私が学部長になるまでは、次に教授ポストが空けば君の話に出てきた本田が埋める予定だったんだよ。まあ一応公募はするんだが、年功序列ということもあって、そういうコンセンサスはあったんだな。でもそうなると当分君の目がなくなってしまうので困るよね。本田という男は猿知恵を使ってコソコソ裏で動くタイプで油断のならない奴だよ。ああいうのを使ってると、いつ寝首をかかれるかわからないからねえ。彼のところにいた浜中という助教を知ってるだろう。浜中君に頼んで、本田が業者に預金している証拠になる裏帳簿のコピーを持ってきてもらったんだよ。預金が公になったらそれこそ新聞沙汰の大事だからね。それを使って本田に公募を辞退してもらって、君を推薦したというわけだ。大逆転だね。もちろんアフターケアは怠ってないよ。君も知っているとおり、浜中君はP大学の准教授に押し込んで、今は教授になっている。私が退職した後本田が教授になったとは聞いていたが、君がそんな目にあっていたとはねえ」

  私は凍り付いた。では私に対して今行われていることは・・・意趣返し?
「私はどうすれば良いのでしょうか?」
「だから言ったでしょう。アフターケアは怠らないってね。まあ1年がまんして待ちなさい」

☆ ☆ ☆

  ほぼ1年後、残った二人の大学院生に学位を取得させて研究室がからっぽになったところで、元学部長から電話があって、Q大学の公募に書類を出すように指示された。言われるままに応募すると、数十倍の倍率だったにもかかわらずすんなり採用されて、私はQ大学に移籍することができた。私が在籍していた大学でもQ大学でも、以前はガチンコの公募で教官を採用していたが、外国で共同研究をうまくやって大量の論文を一流雑誌に出版している人物を採用したところ、傍若無人なキャラで長年培われてきた大学の円滑な運営システムや決まり事をぐちゃぐちゃにされるという羽目に陥ったことがあって、今ではほぼ裏で話がついた後公募するというスタイルに逆行してしまっている。

  移籍後数週間経って、あるなじみの業者にゴルフに誘われた。接待ゴルフは自粛していたが、どうしてもというので、割り勘ならということで同行することにした。幸い快晴に恵まれ、緑がまぶしいコースを回っていると、この1年の間に次々とふりかかってきた不愉快な出来事が、きれいさっぱり消えていくような気分だった。ラウンドを終えて上機嫌でクラブハウスのソファーで休んでいたとき、業者が近寄ってきて、指を3本立てながら私に耳打ちした。「このたびはQ大学教授にご就任おめでとうございます。多田先生からお礼はこのあたりでと伺っております」 そう言うと彼はそそくさと車を出して帰って行った。

  多田先生というのは私の恩師である元学部長のことだ。はて指3本は30万円なのか300万円なのか、それとも・・・。私は万一ということを考えて、就任のご挨拶という名目で多田元学部長の自宅を訪ね、なけなしの300万を菓子折に包んで届けた。元学部長は「ご苦労様」と言って、にこやかな顔で受け取った。3000万じゃなくて良かったという安堵感につつまれて私は恩師の家を後にした。

  門を出ると、「もう引き返せない。私はこれで魑魅魍魎が跋扈する暗闇世界の住人になってしまったのだ」という転落感が襲ってきた。しかし私は背筋をピンと伸ばして、「これでよかったのだ」と自分に強く言い聞かせた。

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万福ファンタジー

万福ファンタジー

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  万福は百済宮廷お抱えだった仏師の家系に生まれた。子供の頃から卓越した絵画の才能を認められたが、当時最新の乾漆の技術に関心を持ち、祖父・父と同様仏師への道を歩み始めた。腕を磨くために寺に通ううちに、自然の成り行きで仏教徒となった。祖父も父も仏師であり、そして仏教徒でもあった。乾漆とは木と粘土で大まかに像の形をつくった後、麻布と漆と麦粉のペーストを重ねて丁寧に造形し、さらに漆と麦粉・針葉樹の葉などを混ぜ込んだペーストで細部を仕上げるという手の込んだ技術だ。

  子供の頃から万福の美術・造形の才能は抜きんでていて、住職である老師も寺に出入りする他の仏師とは桁違いであることを認めざるを得なかった。そのまま平穏に仕事を続けていれば、朝鮮半島の歴史に残る大芸術家として名を残したかもしれない。しかし運命は彼にその道を歩ませなかった。祖父の時代には隆盛を誇っていた百済も唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、新羅の支配下でもがき苦しんでいた。万福の家もすっかり没落し、お抱え仏師だった頃の面影はなかった。百済の残党は何度も反乱を起こしたが、そのたびに鎮圧されていた。そしてまた百済再興をめざす独立派反乱軍が蜂起し、今回は万福の父もその中に巻き込まれていた。政府軍と独立派反乱軍の激しい戦闘で、あちこちで市街戦やこぜりあいが勃発していた。

  ある日万福がいつも通っている寺院から帰宅すると、家は焼失し父母兄弟の姿は見あたらなかった。政府軍の襲撃を避けて隠れていた近所の知人の話によると、独立派関係者が多く住んでいる万福の家の周辺には次々と火が放たれ、逃げ出す人々を政府軍の兵士が皆殺しにしたそうだ。万福の父母や兄弟も斬られたらしい。見覚えのある近隣の人々の悲惨な死体がいくつか放置されていた。万福は狼狽しながら家族を探そうとしたが、兵士が遠くから万福たちをみつけて、こちらに走ってくるのが見えた。万福は知人と共に必死に逃げざるを得なかった。兵士は矢を放ち、知人は背中から射貫かれて倒れた。万福は必死に走り続けた。振り向くと苦痛にゆがむ知人の顔が遠ざかる。しかし兵士達は迫り来る。知人を助ける余裕はなかった。

  やっとの思いで万福は寺に逃げ延びた。万福が老師に事情を話すと、しばらく思案していた老師は奥の部屋にこもって手紙を書き始めた。書き終えると老師は万福を呼んで、いつになく厳しい表情で言った。「政府軍の見境のない所行から見て、ここも安全とは言えない。寺は反乱軍が逃げ込む場所とみられているやもしれぬ。おまえは特別な才能を与えられた者。ここで命を落とすようなことがあってはならぬ。今しばらくは、私の知り合いの僧がいる倭国に逃れたほうがよいであろう。一筆書いたものを渡すから、これをその僧に見せて導いてもらうがよい」。

  万福は「そんな見知らぬ国に行くことはできません」と答えたが、老師はさらに「倭国は昔百済が新羅・唐の連合軍と戦ったときに援軍を派遣してくれた古い友人だ。それに倭国には百済にもない大きな都があると聞く。国は栄え、仏に帰依する人々も増えているそうじゃ。寺男の敏男がお前を倭国まで連れて行くと言っておる。敏男には武芸の心得もある。何も心配することはない。早く行くのじゃ」と強く諭した。

  万福は馬に乗り、敏男と共に間道を港の方に急いだ。振り返ると寺院の周辺にも火の手が上がっていた。矢に倒れた知人は亡くなったのか。老師は大丈夫だろうか。家族はどうなってしまうのか。しかし今はその思いも封印するしかない。やっと港に出て敏男が準備してくれていた小舟の帆を上げ、遙かな倭国に向かって出発した。敏男は漁師の家に生まれ、後に百済再興をめざす反乱軍に加わったが、敗戦の後寺に身を隠していたようだ。対馬までは行ったことがあるそうだが、その先は彼にも未知の世界だった。対馬に渡ると、初めて見る言葉の通じない倭国の人々がいたが、敏男は倭国の人々と片言で話せるようだった。彼の話では倭国の言葉は新羅の言葉より自分たちの言葉に近いそうだ。「倭国というのは多分われわれの祖先が昔海を渡って建国した国だろう」と敏男は言った。敏男の言った通りならそう恐れることはない・・・と万福は少し安堵した。

  対馬には百済や新羅の漁師が泊まる漁師小屋もいくつかあって、倭国の人々はそれを容認しているようだった。万福と敏男は百済人の漁師小屋に宿泊し、いよいよ九州に向かった。天が味方したのだろう。2日でふたりは倭国に上陸し、さらに1日歩いて太宰府にたどりついた。百済や新羅の商人が大勢いたのにはびっくりした。百済の商人のひとりに倭国の役人にとりついでもらい、万福は自分の作品である小さな仏像をプレゼントした。役人はそれを見て大いに感動し、部下のひとりを平城京までの道案内につけてもらうことになった。敏男も隠れ場所だった寺が焼失したとすると、もう半島には居場所がなく、倭国に永住したいというので都まで同行することになった。ほとんど海路での旅になったが、常に陸地が見える内海だったので、玄界灘を渡ったときのような心細さはほとんど感じなかった。むしろ旅人をもてなす港の宿屋などもあり、宿の主人と旅人達が車座になって酒を飲むこともあった。万福は異国の地で、人生ではじめて酩酊した。

☆ ☆ ☆

  平城京はうわさに違わぬ立派な都だった。さっそく老師の知人だという僧侶道源を訪ねると、大いに歓待され、寺に住まわせてもらうことになった。道源師の祖父の故郷は百済で、白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が敗れた後、倭国に亡命してきたそうだ。倭国についていろいろ知るにつれて、百済と似ているものが多いことに気がついた。道源師は「万福よ、お前も百済の難民なら我らに協力してこの国の発展に力を尽くさねばならぬ。この国を、我々を追い出した半島の人間を見返してやるような、御仏に導かれた高い文化を持つ国に育てようではないか」と万福に言葉をかけてくれた。後になってわかったことだが、この国の都には難民やその2世・3世など、百済にかかわりのある人々が驚くほど多かった。

  道源は権力者の藤原不比等の娘である藤三娘という女性を万福に紹介した。師は敏男にも藤原家の警護員の仕事を紹介したようだった。藤三娘は熱心な仏教徒で、道源のために寺を建てたのも彼女だった。藤三娘は万福を屋敷に迎え入れ「そなたは有能な仏師と聞く。なら私の姿を描いてみよ」とモデルになった。仏像を制作するためには、角度を変えて多数のデッサンを描くことからはじめるのが万福のやり方だったので、もちろん絵画も得意とするところだった。藤三娘は万福の絵を大いに気に入って、褒美の反物まで与えてくれた。それから万福は藤三娘の屋敷にしばしば出入りするようになり、仏像や書画の制作のみならず、大工ような仕事や雑用も与えられたが、持ち前の器用さでなんとかこなすことができた。ときには重要な書類や手紙を役人にとどけるような役目までまかせられるようになった。藤原家に使いに出たときには敏男に出会うこともあった。彼によると老師は私たちが逃げ延びたあと、寺に火を放たれ焼死したらしいということだった。

  すっかり万福を信頼するようになった姫(藤三娘)は、雑事を黙々とこなしている万福に愚痴をこぼすようになった。姫は普通の女とは異なり、この国の実質支配者の娘らしく政事(まつりごと)にも深い関心を持っていたらしい。だからだろう「この国のやんごとなき男どもは皆陰謀や権力闘争に明け暮れ、国のまつりごとを真剣に考える余裕などないのだ。誠になさけないこと」などとよく嘆いていた。万福のような外国人から見ても倭国の政治はあまりうまくいっているようには見えなかった。闇の世界で陰湿な権力闘争が行われているらしく、今度は誰々が謀殺されそうだというたぐいの噂が毎日都を飛び交っていた。

  それからまもなく姫を不幸が襲った。母親が死去したのだ。姫はそれを悲しみ、供養のために興福寺にお堂を建てて、そこに仏像を安置しようと計画した。そしてその仏像制作責任者のひとりに万福を指名した。20才になったばかりの若い仏師にとっては大変な栄誉だった。むろん万福をはじめ、指名された者達は皆張り切って制作に取りかかった。

  しかし万福にはひとつ大きな問題があった。あの新羅の手先による放火と皆殺しの惨劇を経験して以来、自分で納得のいく仏像を一体もつくることができないのだ。他人が賞賛してくれても、自分はよく分かっている。あれ以来慈愛に満ちた仏の姿がまやかしのように感じられるようになってしまった。このことは誰にも打ち明けられなかった。しかし仏像の制作期限は一周忌までと定められている。このような重要な仕事をまやかしですませるわけにはいかない。かといって世話になった姫の依頼を断るなど到底考えられない。悩みに悩んだ末、万福はひとつの決断をした。それは姫をモデルとして像を制作するということだった。今の自分にはそれしかできない。それで叱責をうけることになっても仕方がないという結論に万福はたどり着いた。

  決断した後は早かった。手許にはすでに以前に肖像画を依頼されたときの数枚のデッサンがあり、それを立体化するのは万福にとっては通常のプロセスだった。得意の乾漆の技術を用いて、悩み悲しみながらも強く手を合わせ仏の道を歩もうとする姫の阿修羅像を、万福は万感の思いを込めて制作した。彼はもちろん姫を愛していたが、身分の差はその思いを遂げるには大きすぎる。姫への秘められた思いは阿修羅像をさらに輝かしいものにした。それだけに、完成した像を姫に披露するときは、どんな反応があるか心臓が止まりそうだった。しかし一方で万福は姫のさばけた性格を知っていた。密かに期待していた通り、姫は自らに生き写しの像を許してくれた。そればかりか、万福が製作した像の前で万福と共に一晩祈りをささげた。夜が明けると落涙しながら万福を抱きしめ、姫は「これはわが姿形ばかりか、わが心根をそのまま表したものぞ」と万福に礼を言った。

  共に仏像を制作していた同僚の仏師達も、あまりに当時の常識とは異なる破天荒な万福の作品に驚愕した。その姿が高貴な依頼者とそっくりだったからばかりでなく、その像の放つ激しい精神の力に圧倒された。像の目は遠い未来を予見しているような魔力を感じさせた。こんな像は万福以外誰も製作することはできない。皆それが分かっていたので、口に出して万福を批判する者はいなかった。その像に最も批判的だったのは万福自身だったかもしれない。万福はこの作品を狂おしいほど愛していた。しかしまたこの像には、自分の人間世界や仏道に対する疑念が込められている。そのことは自分が一番よく分かっているが、いずれ他人にも必ず見破られる。万福は「今回は奇策によって破滅はまぬがれたが、もう仏師としての自分の人生は終わっている」と明確に認識した。これからどうやって生きていったらよいのか・・・万福には全く見当もつかなかった。ともかくこのまま姫のお抱え仏師として生きていくことはできない。

☆ ☆ ☆

  万福は阿修羅像が安置された興福寺西金堂の完成と共に姫の元を去り、太宰府に行って故郷に帰るチャンスをうかがうことにした。風の便りによると、敏男は藤原家の命で長屋王の暗殺にかかわったそうだ。そして敏男も、暗殺を命じた藤原四兄弟すべても、長屋王の呪いで疫病にかかって死んだという恐ろしい話も聞いた。姫の悲しみはいかばかりだっただろうか。万福はあの像が少しでも彼女の苦痛をやわらげることができたら・・・と祈ることしかできなかった。

  

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スズメたちのアイドル

スズメたちのアイドル

  夏の街は緑が濃く、遠くに峻険な山々がかすみがかかって屹立するのが見える。
野の花や花壇の花も咲き誇ってまぶしいくらい美しい。野外劇場ではオーケストラが華やかに、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲やグスタフ・マーラーの第一交響曲を演奏する。街の中心にある広場には、黄金色に輝く王子の像がこの春に建立された。まばゆい太陽の光を反射して光り輝くその像は街の誇りだった。

  街の人々は広場を通るたびに立ち止まって像を見上げ、王子の美しい容姿にうっとりしていた。旅人たちもその像の前に立ち止まり、似顔絵描きに自分と王子像を並べて描いてもらう。夏のお祭りは広場で盛大に行われた。街の名士達が市長の演説を聴こうと集まっている。市長は像と並んで大勢の市民に誇らしげに挨拶し、この地方の名産物であるワインを巨大なグラスに注いで乾杯の音頭をとった。

  名士達はみずからの寄付金で造られた王子像を褒め称える。
「この光り輝く王子は、繁栄する街のシンボルとしてぴったりですな」
「おっしゃる通り、これは自慢できる出来映えだね」
役人も言う。
「この塵一つない美しい広場にふさわしい輝きといえましょう。花壇の花たちも王子を引き立てていますよ」
広場の掃除と花壇の世話は、その役人の役目だ。
市長は名士達を褒め称える。
「皆さんのご寄付のおかげで、私たちはこんな素晴らしい像を手に入れることができたのです。本当に感謝します」

  しかし少し離れた場所で職人達はひそひそ話をしていた。
「寄付金の額の割には、えらく代金を値切られて困ったね」
「どうみても勘定が合わないな」
「市長がネコババしたんじゃないか」
「赤字になるから金箔は薄めにしたけどね。こちとらも慈善事業じゃないんだから」

  賑やかなのは人間だけではなく、この高原の街にはいろいろな夏鳥たちが繁殖のためにやってくる。盛大なさえずりで1日中さわがしい。スズメたちにとって、騒然とした夏は緊張を強いられる油断のならない季節だった。夏鳥達はみんな縄張りを主張して激しく争い、肉食の猛禽類も空を舞う。

  パン屋の屋根裏に住むスズメたちは夏鳥達を「自分たちの場所を不作法に荒らしていく無法者」とみなしていたが、唯一の例外はツバメだった。ツバメは彼らのあこがれの的だった。スズメたちは植え込みの陰に潜みながら、小声で口々にツバメを賞賛した。

「パンくずやゴミ箱をあさって生きている俺たちに比べて、あの目にもとまらぬ早さで蛾を加えていく技はなんなのだろう」
「私もあんな風に、くるくるっと回転しながら餌を捕まえてみたいわ」
「蛾やトンボって、パンくずよりうんと美味しいのかなあ」

☆ ☆ ☆

  騒々しい夏がようやく終わって、紅葉に包まれた静かな街がもどってきた。ときおり山からから冷たい風が吹いてくる。ツバメたちは次々南の国に飛び立っていったが、最後に残った一羽だけは、なかなかこの町を去っていかなかった。

「どうしたのかしら あのツバメ」
「カラスの話では、どうやら王子様の命令であちこちの貧乏な人間達に王子様の持ち物を届けてるらしいわよ」
「大丈夫なのかしら ひとりだけここに残されて淋しくないのかしら」
「王子様って言ったって、今や動けない彫像でしょう。命令なんてほうっておけばいいのに」
「でも かっこいいわ ジョナサンって名付けましょう」
「よーし、ジョナサンの後についていって、飛んでる虫を捕まえる練習をしよう」
「あの通りに飛べばいいのよね」
「よーし みんなで競争だ」

A 

  スズメたちは懸命にジョナサンの後についていこうとしたが、何秒もしないうちにみんな脱落した。数日頑張ってみたが、いくらやっても無駄だった。ジョナサンは相変わらず王子の体の金箔を剥がして、王子の指示通りに人間に届けていた。

  そのうち寒い朝に初雪が降った。スズメたちは目覚めると、いつものようにパンくずをひろいに飛び立った。しかし何秒か後に、みんなパタパタと翼を翻して元の屋根裏に引き返した。あのジョナサンがふらふらと、自分たちの餌場のパンくずをつついていたからだった。雀たちは凍り付いたように、じっとジョナサンの様子をみつめていた。

  ジョナサンは次の日、王子の彫像の台座で死んでいた。スズメたちはみんな泣いた。

「ジョナサン かわいそう」
「王子様が悪いのよ こき使って殺したのよ」
「寒がりのツバメを こんなに寒い日まで引き留めるなんて悪魔よ」
「人間って私たちよりずっと頭がいいんでしょう。それなのにどうして施し物が必要なの?」「俺たちはその人間からの施しもので生きているんだが」
「そうじゃないわ。彼らが不必要で捨てた物で生きているんでしょう。言い方に気をつけて!」
「ともかく これはただではひきさがれないな」
「制裁だ 制裁だ 王子に制裁だ」

みんな王子様の像にとまって口々にののしったが、王子様は何も言わなかった。どうやらツバメとしか話が通じないようだった。

  非難しても何の反応もないので、スズメたちはみんなで王子の頭に糞をした。何日かたつと王子の頭はまるで帽子をかぶったように糞でいっぱいになった。以前は街の誇りだった王子様の像だったが、しだいに市民が目をそむけて通り過ぎるようになった。そのうちこの冬最初の吹雪がやってきた。ジョナサンの屍は風にあおられて台座の上から地面に転落した。

  吹雪の翌日は快晴になった。市民のクレームを受けて市会議員達が王子像の様子を視察に来た。王子像は糞の帽子をかぶり、体を覆っていた金箔は剥がれていた。市会議員達は王子像を見上げながら「こんな汚い彫像は街の恥だな」「早く取り壊さないと」などと思い思いに像の悪口を言った。同行してきた大学教授は「このままだと衛生上困ったことになりますな」と意見を述べた。

  彼らが帰った後、すぐに市役所の作業員がやってきて、ツバメの屍はゴミ箱に捨てられ、王子の彫像は台座から引きずり下ろされて解体された。しかし台座だけは、あまりに重かったからだろう、そのまま放置された。残された台座の前を通り過ぎる人は、誰一人として足を止めなかった。

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  毎日木枯らしが吹く長い冬がやってきた。スズメたちパン屋の屋根の上に集まって公園をみたが、もうどこにもツバメも王子もいなくて、ただ冷たい風が吹き抜けていた。スズメたちは、みんな無口になった。

参考:オスカー・ワイルド「幸福の王子」

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2009年2月11日 (水)

300年保証

300年保証

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  目覚めると、目の前にはスクリーンがあった。しかしいつものようなニュースではなく、映画が放映されていた。しばらくすると、アナウンスが流れてきた。

  「皆様 申し訳ありません。ニュースを放映する予定が映画に変更になっておりますが、これは地球からの送信が途絶えているからで、まだ回復の見込みはたっておりません。もうひとつお詫びしなくてはいけません。今回、前回のお目覚めから8年経過してしまいました。週に一回の契約になっておりますところ、誠に申し訳ありません。これは太陽電池システムの故障によるもので、本社に修理を依頼しておりますが連絡がございません。恐縮でございますが、しばらくお待ちくださいませ。またお目覚めのインターバルの件につきましては、本社に連絡いたしまして契約金の返却について検討する予定でございますが、実は本社と連絡がつかない状況になっております。改善に努めてまいりますので、いましばらくお待ちくださいませ」

  8年・・・??? それは無茶苦茶だ。だいたいスペースライフ社との契約だと「最低300年間のシステム維持と各種特約を保証します」ってことになっていたはずだ。体はなくなってしまうが、記憶はすべて生体脳から電子脳にコピーし、毎週一日は目覚めて、ニュース、ドラマ、サッカーなど、あらかじめ希望したジャンルの番組を満喫できるはずだった。これが最低300年続かないと契約違反だ。私と同様こんな300年+αの人生を選んだ人間が、ここには100人いるはずだ(すでにもう人間とは言えないわけだが)。このような人生を選ぶには、人それぞれの事情があったのだろう。それだけでもここに来た人たちとは友人になれそうな気がする。少なくとも話をしてみたい。しかし私には手足がないし、口をきくこともできない。スペースライフ社の契約違反のせいでこんなとんでもない事態になっても、誰かに抗議することすらできない。私はただの哀れな箱なのだ。

  もっとも相手から突然連絡を絶たれてモノは届かない、お金は返らないというような経験は生体で動いていたときから何度か経験したことではある。警察に届けてもまったく解決しなかったが、ここには警察も弁護士も裁判所もないし、あっても私は口がきけない。がっかりしていると、突然管理人の女がやってきて自分の腹からコードを引き出し、私にプラグを差し込んだ。彼女はアンドロイドのようだ。これで話ができるのか。

「池田俊夫さんですね。あなたは昔パイロットをやっていたんですね」
「はい ブルーパシフィックエアラインに勤務しておりました」と私は答えた。
といっても音声で答えたわけではないが、なぜか意味は伝わったようだ。

  管理人は「では今からあなたに運動装置を装着します」と言って私=箱を棚からおろし、ロボットのような装置を取り付けた。これで私もインテリジェントボックス(スペースライフ社はそう呼んでいた)からロボットに昇格だ。10年前にはこのようなロボットは高嶺の花だった。動けるというのはなかなかいいことだ。動くのは10年ぶりだ。しかしそれを楽しむまもなく、すぐに管理人の部屋に案内された。ロボットタイプに昇格すると無線通信装置が内蔵されていて、コードをつながなくても自動的に周波数が調整され、対面する相手と話ができるようだ。

  管理人は私からプラグを抜いて、さっきより少し親密な感じで話しかけてきた。「ロボット型でごめんなさい。人型のはここにはないの。それより、実は事態はとても深刻なのよ。太陽電池システムの故障で、あなた方にもなかなか目覚めてもらえる余裕がないし、いくら会社に依頼しても修理の技術者がこないのよ。8年も! それどころか補給の船もここ5年くらい来ていないの。トラブルがあるという話なんだけど、だいたい本社との連絡すらも最近はとれなくなって、私自身の充電もままならなくなってきたの。最近はタイマーをセットして、ほとんどの時間眠っているという状態なのよ。本当は地球に帰って話をつけなきゃいけないんだけど、私は宇宙船の操縦ができないし、もうどうしようもない。ここで朽ち果てるしかない。と一度は覚悟したわけよ。でもその前にひょっとしてと思って、お客さんの経歴を調べてみると、ビンゴ! 昔操縦士だった人がいたわけ。慌てて倉庫を調べると、幸運なことに一体だけロボットモジュールがあったのよ。私は今は人型のモジュールをつけてるけど、以前はロボット型をつけていたわけ。それが残っていたのね。というわけで池田さん、私といっしょに地球の様子を見に行ってくれませんか」

  こうなった以上、地球に様子をみにいくしかないだろう。
「もちろんお手伝いしますよ。会社の契約違反には我慢できません。ところで、地球に行ける船はあるんですか?」と私は即答した。
「一台緊急用の宇宙船があります。操縦可能かどうか見ていくれますか」
管理人は私を宇宙船の格納庫に案内した。

  宇宙船の英文マニュアルを渡されて読むと、内容はほぼ理解できた。とりあえず機器をチェックしてみると、月から地球各地へはいくつかのパラメータを入力すればプリセットプログラムによる自動操縦でも行けるようだった。

「大丈夫みたいです。私でも操縦できるでしょう」
「そう よかったわ じゃあ早速乗り込みましょう」

私は少し驚いた。

「点検整備やってませんが・・・」
「あなたできるの?」
「いや 無理です」
「じゃあフライトをやめる」
「という選択肢はありませんよね。行きましょう」

  私は覚悟をきめて、起動スイッチをいれて運行予定パネルを開き、成田空港にプリセットした。スタートボタンを押すと、かすかな振動と共にエンジンが起動し宇宙船は飛び立った。数分間手動で軌道に乗せた後、自動飛行をに切り替えた。これであとはプリセットプログラムにお任せだ。というかお任せでないと、地球突入の角度計算などは私には不可能だ。ということは、船の自動運行プラグロムがちゃんと動かなければ私たちはお陀仏ということを意味する。船が地球への軌道に乗ると、彼女は私に話しかけてきた。

「どうして人間生体をやめて、こんな話にのっかったの?」
「パイロットという仕事は家をあけることが多くて・・・。早い話、女房がよその男と出て行ったことがきっかけってことかなあ」

嘘をつく気にはならなかった。

「あらら・・・。 ところでまだ名前も言ってなかったわね。私はキャロライン。スペースライフ社のアンドロイド社員よ。こんな退屈な仕事をOKする人間がいなかったので、私が志願して月で働くことになったわけよ。5年くらい働いたら地球に戻って昇進する予定だったのに、まったくうちの会社ときたら・・・」

  彼女はさらにスペースライフ社や上司の悪口をしゃべりまくった。しかし私は彼女の話はあまり聴かず、別のことを考えていた。地球に帰ると、そのうちいつか私を捨てて家から出て行った女房と、驚いたことにそんな女房について行ってしまった娘に会うことになるだろう。何とも言えない嫌な気分。そしてそれでも会いたいという気分とがないまぜになって混乱していた。そうだ・・・成田空港にプリセットして良かったのだろうか?

「とりあえず日本の成田空港に行っていいですか、それとも・・・えーと・・・スペースライフ社の本社はシカゴでしたっけ?」
「私は月にくるまでは日本支社で勤務していたの。だから成田空港の方がいいです。日本支社の人はほとんど知っているし、空港にも知り合いがいます。シカゴ本社の知り合いは少ないわね」

  成田空港上空には不思議なことに全く航空機がいなかった。レーダーにも全く機影がみえない。私は自分のボディに収納されていたキャロラインとの会話に以前使ったケーブルを引き出し、管制塔と書いてあるパネルのプラグにつなぐと、ビンゴ・・・管制官と話ができた。プラグをつなぎ替えて、キャロラインに管制塔と話をさせると、意外にもすんなりと着陸できた。 話の内容はわからないが、おそらく管制官が彼女のことを知っていたのだろう。

  空港に着陸して機体から外に出てみると異様な雰囲気だった。 周りはアンドロイドらしき兵士ばかりだった。 私たちはいまや兵舎となっている北ウィングの小部屋に連れ込まれ、いろいろと事情を訊かれた。 キャロラインと私がきちんと状況を説明すると、彼らは少しの間コンピュータで調査し納得したようだった。

「ここにいるのはみんなアンドロイドの兵士だ。 人間の過激派がプラスチックを食うバクテリアを撒いたために、アンドロイドは空港の外には出られない。 過激派とわれわれはもう8年間も戦闘状態だ。 おまえ達はここで用が済んだら、さっさと月に帰ることだ」と司令官らしき男が指示した。 司令官は馬鹿にしたような笑いを浮かべて「そんな格好じゃ困るだろう」と言って、私に人型アンドロイド用のアタッチメント一式を貸してくれた。ようやく私に顔が装着され、発声や空間音認識ができるようになり、視覚も顔が上下左右自由に動かせるようになって格段に便利になった。ロボット型だと水平にしか動かせないのだ。匂いを感じられれる様になったのには驚いた。これでは人型ロボットじゃなくて、ほぼ人間だ。

  一度はすべてを捨てて月で朽ち果てようとした私だが、10年ぶりに地球に帰ってきてみると、どうしても娘に会いたい、会えないまでも見ておきたいという気持ちを抑えられない。キャロラインになんとか外に出る方法はないのかと訊ねると、キャロラインが「手がないわけじゃないと思うんだけど・・・。 ともかく会社と連絡したいんだけど、メールも電話もつながらないのよ。日本支社もシカゴ本社もダメ。いったい会社がどうなっているのか確認しないとお話にならないし。 でも、少し待っていて」と言って姿を消した。 しばらくすると彼女は戻ってきて、笑顔で「会社のヘリがあったわ。ラッキー」と言って、私に手招きして車で空港の片隅の倉庫に捨てられたように置かれてあるヘリのところに案内した。

  しかしいくらなんでも、戦時下(?)に勝手に発着するのは危険すぎるということで、二人で司令官に話しに行った。 司令官は最初は渋っていたが、結局東京の状況を偵察してくる任務の兵士に同行し、仕事を手伝うという条件で、軍事用のヘリとパイロットの兵士一人を用意してくれた。 さらに消毒用のスプレーと自動小銃まで持たせてくれた。 兵士に自動小銃の打ち方を教えてもらい、さらにいざという場合に備えて軍事用ヘリの操縦法を教えてもらった。発砲するのは怖いが、操縦はほぼいけそうだ。2時間ほどトレーニングとレクチャーを受けて、私たちは東京に飛び立った。 兵士によると、過激派は異常にアンドロイドを嫌っているということだった。 過激派の司令部は地下にあることは分かっているが、正確な位置はまだわからないそうだ。  私たちはVTR機器を使って地上の様子を録画した。驚いたことに、東京の中心部は廃墟のようになっていた。 かなり激しい戦闘があったようだ。 スペースライフ社のビルも半壊して人影はなかった。 キャロラインは呆然として、じっとそれをみつめていた。

  次にヘリは私の娘が住んでいるはずの世田谷に向かった。 私が地球を離れたとき彼女は10才だったので、今年成人になったはずだ。 会いたい。 世田谷は比較的家屋がそのままの形で残っていた。 目的地の近くの広場で集会が行われていた。 兵士に双眼鏡を借りてのぞいてみると、どうも演壇でわめいているのは元女房らしく、その隣に娘らしい人物が寄り添っていた。どうしても確かめたくなって、兵士の反対を押し切り、少し離れた場所に着陸した。

  私一人で地面に降り立ち、拡声器の音をたよりに集会場に近づいた。聴衆のはるか後ろから双眼鏡で壇上を見ると、拡声器を持ってわめいているのはやはり元女房だった。軍服のような服装だ。隣の若い女は女房とよく似ている。年格好からして、私の娘だろう。

「本来の生命体を否定するアンドロイドを絶滅しよう」などと元女房がアジっている。アジテーションが途切れると、娘らしい女がシュプレヒコールの音頭をとる。彼女たちは私がアンドロイドになっていることは知るよしもない。少し近づいてみたが、あまり接近すると聴衆に気づかれて殺されるかも知れない。長居はぜず、ヘリにとって返して早々に離陸した。

  成田空港に帰る途中で、倒壊したビルの蔭での撃ち合いを目撃した。空港に到着すると念入りに消毒して北ウィングに戻りゲストルームに案内された。私はあまりの衝撃で頭が混乱して立ち直ることができなかったが、キャロラインはもう冷静になっていた。

「こんなにひどいことになっているとは・・・。これじゃあ何も連絡が来ないのも当然ね」

彼女は携帯電話と社員名簿を出して、次々と電話をかけ始めた。なかなかつながらなかったが、何十回目かに知り合いの社員につながったらしい」

「ダニエル どうなってるの。私は月に置き去りよ」
・・・・・
「うちはアンドロイドへの転換を仕事にしている会社でしょう。そんな連中なんて、すぐにクビにしてたたき出せばよかったのに」
・・・・・
「うちのコンピュータシステムをぐちゃぐちゃにされたって? 信じられなーい」
・・・・・
「ええ~ 会社そのものがもうないの? シカゴ本社でも撃ち合い?」
・・・・・
「あなた今どこにいるの」
・・・・・
「シカゴ本社のシェルター。わかったわ。大変そうだけど元気で頑張ってね。私もなんとか生きていくから。じゃあね」

「池田さん、大変よ。世界規模で抗争が起こっているみたい。これは国と国との戦争じゃなくて、アンドロイド派とアンチ・アンドロイド派の抗争で、人間生体にも過激派・穏健派・アンドロイド支持派があり、アンドロイドにも人間絶滅派と共存派があるそうよ。人間の過激派が8年前に細菌兵器でアンドロイドの絶滅を計ったのがきっかけで、一部のアンドロイドが武器をとって立ち上がったのが抗争のはじまりだとダニエルが言っていたわ。兵士にはアンドロイドが多いのよ。電話に出たダニエルって言うのは、昔の同僚で以前日本で働いていたアメリカ人の社員よ。というか、もう会社はないみたいだけど」

「なんだって! 会社がない! てことは、ボクが支払った3000万円もボツってこと? マンションを売り払い、退職金もつぎ込んだのに? 300年保証はどうなるのって言っても意味ないわけ?」
「まあ そういうことね・・・」

お互いに言葉が出なくなり、しばらく沈黙が続いた。

・・・・・
・・・・・
・・・・・

私が切り出した。

「で これからどうする?」
「お金なし、会社なし、家なしよ」
「帰るしかないってこと」
「まだあそこには99人、いや99箱いるしね」
「ボクも地球にはもう居場所がないし、帰るしかないでしょう」

  私たちは空港の会社の倉庫に残されたものから、修理用のパーツや非常用電源などをかき集めて船に積み込んだ。キャロラインはスペースライフ社の空港倉庫の鍵を司令官にプレゼントして、「もう会社はないから、ヘリコプターでもなんでも自由に使ってください。お世話になって有難う。また何年か後にはよろしくね」とお礼を言うとともに、抜け目なくここを私たちの補給基地にしようとしていた。私たちは重い気分で船に乗り込んだ。乗り込んだとたんに近くで爆発音がした。空港の兵士達があわてて持ち場に走っているのが見えた。ここでも戦闘がはじまったようだ。私はあわてて起動スイッチを入れ、地球から飛び立った。「やれやれ、何年か後にここに来るって言ったって、空港があるかどうかもわからないな」と思わざるを得なかった。

☆ ☆ ☆

  月に帰還して、以前に私がいた棚を見上げると、私のボックスがあった空隙以外の場所に、整然と99個のボックスが並んでいた。それぞれいろいろな理由があって、こんな人生を送ることになったのだろう。彼らにもボディーや運動装置などを持ってきてあげたかったが、空港のスペースライフ社の倉庫には2個しかなかったので、戦っている兵士達のために残してきた。地球では常時営業している放送局をみつけられなかったので、地球から持ってきた装置や資料を使って、キャロラインと私でローカル番組をつくるしかない。それしかやることがなかった。

  ここ月世界の小さな建物は静寂と絶望の地だが、それでも地球よりは好ましい場所だ。私たち101名はここで朽ち果てるまで、静かに、意味もなく、ほんの少しだけ楽しみをみつけて平和に暮らす。地球の連中は勝手に何でもやってろってことさ。

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台湾の女

台湾の女

気分の悪い朝だった。
昨日ヤケ酒を飲み過ぎたようだ。
体がだるいうえに、頭が痛い。
窓を開けると空もどんよりと曇っている。
余程会社を休もうと思ったが、習慣というのは恐ろしい。
ベッドから離れると自動的に体が動き始める。
顔を洗って、歯を磨く。
トーストを焼いて、コーヒーを淹れる。
ここまでくると、もう出勤するしかない。

昨日はもう少しでまとまりそうな大きな商談がぶち壊れて、課長にひどく怒鳴られた。
先方の事情が変わって、進められなくなったのだ。
別に私がミスをしたわけじゃないが、あくまでも責任者は私ということになる。
怒鳴りたい気持ちはわからないでもないが、もう少し言い方というものがあるだろう。
「明日から来なくてもいいから」とまで言うかい?

不快な気分が頭の中をぐるぐるまわっているうちに、勝手に足が動いて駅に着いた。
いつもの通勤電車に乗るとバカに空いている。
「あれれ 時間を間違えたか」と思って時計をみるといつもの時間だ。
ひょっとして今日は祝日・・・?
しまったと思ったときにはもうドアは閉じて、窓からゆっくりと動いていく駅名表示板が見えた。
そうか・・・。「明日から来なくてもいい」なんて言われると、意地でも出勤してやると思ったのが運の尽きか。

特急なので次の停車駅まで15分くらいかかる。
やれやれ・・・ と思ってうつらうつらしていると、隣に座った女が頭を肩に乗せてきた。
30才位の、髪が肩まである女だった。
派手目の花柄のワンピースで、赤のピンヒールを履いていた。
深紅のペディキュアが見えた。
手をみると、やや大きめのルビーの指輪を左手の人差し指にはめていた。
マニキュアも深紅だった。
香水の匂いはほとんどしなかった。

寄りかかってきたが、居眠りしている感じではない。
そのうち腕もつかんできた。
スリかなとも思ったが、その時は振り払う気力もなかった。
スられたらその時に取り押さえるか・・・などとボーっと考えていると、女が話しかけてきた。

「どこまで行くか?」

外国人? 私は事情を説明するのが面倒だったので、「終点まで」と答えた。

「私、台湾ね」
「日本は長いの?」
「1年くらいね」
「日本語うまいね」
「そうでもない」
「どうして日本に?」
「旦那さんが仕事失敗した。離婚した」

黙ってしまった私に、彼女はさらに話しかけた。

「今日は休みね。どこかに遊びに行きたい」
「どこに?」
「動物園とか、水族館とか」

私はその答えが面白くて、本当に今日はこの女とデートしてもいいと思った。

「え ほんとに。今日はあなたいくところない? 終点まで行かなくていい?」

私は説明しても彼女に理解する語学力があるかどうか不安だっし、第一恥ずかしいことだったので、シンプルに「じゃあ水族館に行こう」と言った。

会社が品川にあったので、勝手知ったエプソン・アクアスタジアムに連れて行った。
エプソン・アクアスタジアムは多くの珍しい魚類を集めて展示するというよりも、アトラクション中心の施設で、昼間は家族連れの行楽、夜はデートにふさわしい場所だ。

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休日とはいえ、まだ午前中なので閑散としているだろうと思いきや、子供たちの団体や家族連れで結構賑わっていて、子供の歓声が小うるさいくらいだった。今日会ったばかりだというのに、彼女はまるで恋人同志のように腕を絡ませ、ぴったりと私に体をくっつけて歩いた。いるかのショーでは、水しぶきが上がるたびに女は抱きついてきた。いったい私をどうするつもりなのだろう? 生まれて初めてのスリルだ。

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こんな調子だから、ホテルに誘えばきっとついてきただろう。
顔は十人並みだが、ボディーは申し分なくグラマラスでセクシーだった。
でも私にはその勇気がなかった。
それは彼女がスリを目的に近づいてきたとか、スキミングを狙った一味だとか疑ったからではなく、寝た後ひょっとして彼女と共に過ごすことになるかもしれない日々とか人生とかが想像つかなくて不安だったからだと思う。私は女性と一夜を過ごし、翌日には後腐れなく別れる・・・というような器用なつきあいをしたことがなかった。

ホテルに誘えなかったことに少し罪悪感と後悔を感じたので、銀座のレストランで私にしては高価な食事を彼女にご馳走した。レストランでは「台湾と日本で漢字がどう違うか」という話をかなり長い時間していたと思う。少し会話が途切れたときに、ついに私は仕事を失敗したことや、休日だということを忘れていたことを告白した。彼女は大笑いして、私も笑った。

デザートとコーヒーも終わったとき、私は「こんなデートでいいですか」と訊いてみた。ここで彼女が「ちょっと物足りない」とでも言えば、後どうなったか私にもわからない。しかし彼女は意外にも「いいです、楽しい」と言った。朝からの彼女の異常に積極的な行動とは矛盾しているように思ったが、一方で私は少しほっとした。

携帯の電話番号は交換したが、なぜかきっともう二度と会うことはないような気がした。

別れ際に、彼女は何度も振り返って手を振った。
そのことに記憶があるということは、私も何度か振り返ったのだろう。
その後やはり彼女から電話はかかってこなかった。
私の方からもかけなかった。

それから1年くらいたったとき、テレビのニュースで台湾のスリの一味が検挙されたという映像が流れた。その中に一瞬彼女の顔が見えたような気がした。確信はないが似ていたような気がする。彼女とデートした日に何も盗まれた訳じゃないし、あれから1年、私のクレジットカードやキャッシュカードには何の異常もない。きっとあの映像は彼女じゃなかったのだ。

しかし万一彼女だったとしたら・・・。
電話してみる勇気はなかった。

もしあの時をきっかけに私と交際していたら、どうなっていたのだろう・・・。あの時にはもう犯罪者集団のメンバーだったのか? ホテルに誘わせて、シャワーでも浴びている間にスキミングする手はずだったのか? ではなぜ「動物園とか水族館」などと言ったのか? なぜ食事の後、私が隙を見せているのに「いいです、楽しい」などと言って、あっさりと後腐れのないさよならをしたのだろう? 

私は今でも、あの「明日から来なくても良かった」はずの会社に通っている。私はずっと明るい大通りをとりあえずという感じで歩いてきて、一度もどこかで脇道にはいるという選択をしていないような気がする。そんな人生には、いつか「後悔」という罰が下されるのだろうか?

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2009年7月26日 (日)

エターナルハイム

エターナルハイム

  私のように身寄りが全くない者が定年退職すると、いままで仕事に紛れていたよるべない感覚が吹き上がってきて激しい孤独感に襲われる。毎日自分の周囲には静寂な空間だけがあって、外の物音は全く自分とは関係のない別世界のようだ。こんなときに家族や係累が居るときっと気が紛れるのにと思う。しかし別の見方をすれば、身寄りがないということは、身内の誰かを介護するわずらわしさや誰かに介護される情けなさとは無縁というメリットはある。ただ静かにくたばり、死後かなり時間がたってから腐乱死体となって発見されるのだろう。発見した人や警察官には迷惑をかけることになるが、もう屍となっている私にはどうしようもない。謝ることもできない。

    落ち込むと日常的に死について考えがちになる。夢の中にも自分の死のシーンが頻繁に出てくる。たとえば体がだんだん麻痺してきて、電話をかけようとベッドから転げ落ちるのだが、どうしても携帯電話まで手が届かない。匍匐前進して進むが、あと10センチのところで全く体が動かなくなってしまう。私は薄れる意識の中で必死に手を伸ばすが、ついに力尽きる。汗びっしょりになって目が覚める。ああ生きていたのかとライトを点けると午前4時だったりする。

  世の中ではインフルエンザが猛威をふるっていた。退職前の多忙にかまけて予防注射はしていなかった。もっともそれもこの年に限っては、あまり有効ではなかったようだが・・・。ともかくそのたちの悪いインフルエンザに私も感染したらしく、しばらく熱が出て寝込んでしまい、そのあとときどき咳き込むようになった。かなり重い症状になってから近所の竹見医院に行って診察してもらいやっと少し楽になったのだが、独り身だと寝込んだときのダメージがひどい。一週間くらいベッドに出たり入ったりの生活をしていると、太ももの筋肉が目に見えてしぼんでくる。こういうときは近所のコンビニだけが頼りだ。だいぶよくなってから、久しぶりで車でスーパーまで出かけてあれこれ買い物をしていると、普段では信じられないくらいへとへとになって息が切れた。

  その頃、つまり職を失ってから1ヶ月くらいたった頃、市役所から電話がかかってきた。「高齢者の健康診断を無料で行うというシステムの試行で、あなたがモニターに当選したのですが、参加していただけますか」という内容だった。会社にいた頃は、毎年当然のように会社のお膳立てで健康診断を受けていたが、健康診断まで自前でやらなくてはいけないんだということを思い知らされた。しかし今回は無料だというのでさらに詳しい話を訊くと、近所の竹見医院でやるので予約して下さいとのことだった。ちょうど体調も万全ではなかったので予約することにした。

  竹見医院は大きな病院ではないが、内科・外科・脳外科があって、近隣ではたいていの人がお世話になっていた。竹見先生からいろいろと問診を受け、血液検査とレントゲン検査をやってもらった。一週間ほど経過して、結果の説明を受けるためもう一度医院に行くと、先生がカルテを見ながら深刻な顔で私に言った。

「最近体の具合はどうですか?」 私があまり良くないと答えると、

「ちょっと腫瘍マーカ-の値に問題がありましてね。これは精密検査を受けないといけませんね。紹介状を書くので、市民病院に行って下さい。知人の医師がいるので融通ききますよ。明日はどうですか? よかったらこちらから電話で頼んでおきますが」 と竹見先生は市民病院での検査を勧めた。

  竹見先生が親切に段取りを整えてくれるようだ。市民病院は普通予約してから2週間くらいしないと診てもらえないのでこれはラッキーだと思ったが、一方で私はそんなに緊急に診てもらわなければいけないほど悪いのかという不安におののいた。特に用もなかったので、もちろん「明日ですか。大丈夫です。宜しくお願いします」と返事をした。

  自分は癌になってしまったのかという不安でその夜は一睡もできなかった。朝一番で病院にかけつけ、受付をすませて待合室に座っていると、ひとりの女性の看護師が、「遠井さーん・遠井さーんいらっしゃいますか」と私の名前を呼びながら近づいてきた。私が手を挙げると、私の前にやってきて「あなたが遠井さんですね。CT・PETなどの検査をやります。ちょっと今検査が混雑していて時間がかかるので、申し訳ないのですが、うちで委託している竹見医院にこれから行ってすぐ検査して下さい。竹見医院でもCTと細胞診は可能です。他の検査の日程は後ほどお知らせします。竹見先生には連絡してありますので、このファイルを持参して下さい。終了したらこちらにもどって、このあたりの席でお待ち下さい」と告げた。

  私は「なんだ二度手間じゃないか」と思いながら、ともかく早く検査をすませて早く結果が知りたいという一心で、また竹見先生のところに戻って検査を受けた。終了後指示通り市民病院にとって返すと、前の看護師がまた出てきて一人の医師を紹介してくれた。「片倉先生です。少しそちらでお話しましょう」と彼女は私をロビーの端にある談話室のようなコーナーに連れて行った。片倉という医師がファイルを見ながらにこやかに話しかけてきた。「腫瘍マーカーの値が少し高めなのですが、結構誤差のある検査なので、精密検査で何でもなかったという場合が多いのですよ。遠井さんもあまり心配しないで検査結果をお待ち下さい。竹見医院での検査結果をみて、さらに検査が必要なら連絡します」ということだった。

☆ ☆ ☆

  いよいよ精密検査の結果が出る日がやってきた。竹見医院にいくと、気のせいかもしれないが、凍り付いたような雰囲気で先生がモニターを見ながら座っていた。「まあそこに座って下さい」と先生が口を開いた。「遠井さん。残念だけど肺癌だね。タイプとしては小細胞癌というあんまりタチの良くないやつで、手術でとればいいというものではないんですよ。でも悲観しちゃいけませんよ。入院して長期間の化学療法が必要になると思いますが、きちんと治療できますから」というご託宣だった。

  私は目の前が真っ暗になった。その後体調とか喫煙歴とかいろいろと質問されたような記憶があるが、どう答えたのかさっぱり覚えていない。喫煙歴はかなりある方だった。後悔してももう遅い。やりとりが終わってがっくりとしていると、市民病院の片倉先生が現れた。竹見先生は私の肩をたたいて「遠井さんの病状を片倉先生に連絡したら、こちらに来てくださるとというので、先生のご意見をうかがってみましょう。片倉先生は癌の専門医ですから、遠井さんに最適の治療のストラテジーを考えてもらえますよ」と私を片倉先生の前に連れて行った。私は片倉先生にすがるように小声で「お願いします」と言った。片倉先生はデータを見ながら「うーん。これは・・・。かなり大変だね。時間はかかりそうだけど、化学療法で頑張ってみましょう」とにこやかに励ますように言った。「時間がかかるというのは、具体的にはどのくらいかかるのでしょうか」と訊くと、片倉先生は「そうね。休みを入れながら間欠的に半年くらいやって、少し様子を見てまた半年という感じになりますかね」と曖昧な感じで、口を濁しながら答えた。

  「遠井さん、少し待って下さい」と言って、片倉先生は竹見先生に目配せして奥の別室に出て行った。しばらくすると片倉先生は一冊のパンフレットを持って、私が待つ診察室に現れた。先生が言うには、私の病気の場合長期の入院が必要なので市民病院ではちょっと無理で、先生の知り合いの医師が経営するというこのパンレットで紹介されている専門病院で治療するのが良いのではないかということだった。何でも少し前まで健康省の外郭団体が経営する保養施設だったのを、片倉先生の知り合いの先生が経営する法人がタダ同然で買い取り、長期入院加療が必要な患者のための専門病院にしたというのだ。保養施設の時代は、長年にわたって赤字を垂れ流していたようだ。交通が少し不便とはいえ、熱海の高台にあると言うし、ともかくどんな施設か見てこようと思った。

☆ ☆ ☆

  新幹線の熱海駅を降りてタクシーに乗ると、くねくねと曲がる細い道を山の方へ上っていった。15分くらい走っただろうか、パッと開けた大地があって、そこに施設の白い建物が見えた。思っていたより内部はきれいで、ロビーの大きな窓からは相模灘を見渡すことができて、遠くには三浦半島が霞んで見えた。ずっと鬱滅とした気分で過ごしていたので、熱海の高台の素晴らしい景観には癒された。天気予報では来週から梅雨になるらしい。晴れ渡った空と海を見ていると、ここ何週間かの出来事が、すべて架空のものだったようにすら思われた。ただ名前がエターナルハイムというのが少し気になる。ひょっとしてここはホスピスなのか? 背筋にかすかに冷たいものが走った。

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  受付で名前を告げるとロビーのソファーに案内され、係員の中年女性が資料を広げて詳しく説明してくれた。正式な病院としてのスタートは2週間後で、現在は準備期間だが、昨日から特別に選ばれた少数の患者さんの入院の手続きを始めていて、来週から試験的な入院が可能だということだ。診察・検査・治療などは2週間後に予定されている開院式終了後、ただちに開始されるそうだ。医者や看護士などの病院スタッフは開院式前日から顔をみせるということだった。

  普通の病院と違って、まず保証金300万円也を支払わなければならない。ただしこれは退院するときに返却される。退院できればの話だが・・・。まあとりあえずそのことは考えないことにしよう。さらにここからが費用になるわけだが、1年分の施設使用料30万円、サービス料60万円、まかないの代金240万円を支払わなければならない。合計630万円になるが、自宅の賃貸料と1年の生活費を考えると、決して高額ではない様に思われた。個室が用意され、しかも温泉とプール付きだ。もちろん3度の食事は用意されるし、掃除をする必要もない。洗濯は地下にあるランドリーが利用できる。係員は他言しないようにと私に釘をさしたあと、保証金の300万円について、「通常は500万円だけれど、遠井さんの場合は理事長のお知り合いの先生からのご紹介なので300万円になりました」と耳打ちをした。

  長い闘病生活を考えると、私にはここしか選択肢がないように思われた。最悪の場合、2度と外には出られないのかも知れない。しかしそれでも自宅でひっそりと死んで腐乱死体で発見されるより、ここで看護師や世話係の女性にみとられて死ぬ方がよほど幸福だろう。発見者や大家にも迷惑をかけないですむ。幸いにして、まだ退職金には手をつけていなかった。私は係員に「よくわかりました。近々振り込みます。来週入院しますのでよろしくお願いします」と告げた。

☆ ☆ ☆

  いざ入院してみると、温泉ホテルにいるのも同然で、実に優雅な毎日だった。それに入院してから気がついたのだが、すこぶる体調が良い。咳も出なくなったし、だるさもない。この私が本当に肺癌なのか・・・? 病院には次々入院患者がやってきた。みんな暗い不安そうな顔だ。私と似たり寄ったりの病状の人が多いのだろう。そのうち不思議なことに気がついた。私は近所つきあいは少ない方だったが、近所で見かけたことがあるような人が何人か患者の中にいるような気がした。彼らも市民病院の片倉先生に紹介されてここに来たのだろうか?

  異変が起こったのは開院式の2日前のお昼頃だった。朝一番で銀行に振り込まれるべき職員のサラリーが、まだ振り込まれていないとロビーで騒ぎになっていた。職員のひとりに訊くと、以前の保養施設時代から勤務しているそうだ。主な仕事は清掃とベッドメイキングだそうだが、保養施設時代には施設は赤字でも給料の遅配なんて一度もなかったと文句を言っていた。

  私はどうなっているのか確かめようと市民病院に電話をかけた。理事長の友人の片倉先生に聞けば何かわかるかもしれない。ところが片倉先生を呼び出してもらおうとすると、病院の担当者は「その名前の先生は当院には在籍しておりません」と答えた。何度確かめても同じだった。私は蒼白になって竹見先生に電話をかけたが、全くつながらなかった。私は腰が抜けてフロアに座り込んだ。

  ようやくソファーに腰掛けて頭をかかえていると、ロビーで騒いでいる人のひとりが「これは詐欺だろう」と叫んだ。私はその声で我に返った。

「詐欺って? じゃあ私は癌じゃないのかも???」
私の背中を閃光が駆け抜けた。

  翌日刑事がやってきて、私も事情を訊かれた。しかし、考えてみると片倉先生と看護師はマスクをしていたので顔がわからない。インフルエンザが流行していたせいで、彼らがマスクをしていても全く不審な感じはしなかった。竹見先生の行方はわからないそうだ。私はなけなしの退職金から630万円を失った。しかし、詐欺師のカモになったという怒りが湧き上がってくる前に、癌から生還したという喜びが押さえきれなかった。

  しばらくしてから、また刑事がやってきて「何か思い出したことはないか」などと訊いてきたが、有益な情報は思い出せなかった。主犯は理事長と片倉と看護婦で、竹見先生は理事長のやっていた闇金から借金して首がまわらなくなり、言いなりになったのだろう・・・というのがその刑事の見解だった。病院の従業員は犯罪には全く関与していなかったようだ。被害総額は1億円を超えたそうだ。そうそう、事件の最初に市役所からかかってきた電話というのは、その理事長役の男がかけたのだろう。後で考えてみると、おかしな点はいろいろあったのだが、癌になったというショックで、当時の私としてはいぶかる余裕は全くなかった。他の騙された人々もみんなそうだったのだろう。

☆ ☆ ☆

  あれから1年たって、私は退職金の損失を取り返すため再就職して、また忙しい日々を送ることになった。なかなか静かな人生を送れそうもないが、私にはそんな日々の方が合っているのかもしれない。事件を思い出さない日が増えてきた頃、夕刊の記事に私の目は釘付けになった。奥多摩の山中から竹見先生の死体が発見されたのだ。犯人たちはまだ捕まっていない。

  またあの悪夢のような日々がざわざわと記憶に蘇ってきた。私はそこから逃れるように、とっておきのハワイコナを開封し、ゆっくりと手回しで挽いた。棚からお気に入りのウェッジウッドのカップを取り出し、挽きたての香り高いコーヒーを淹れて、じっと褐色の水面を見つめながらカップに顔を近づけた。水面に映る顔に、私はつぶやいた。

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「よくまあ生きていたものだな」

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2009年8月 7日 (金)

遭難

遭難

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  意外な投票結果だった。リーダーは岩見、サブが私になった。われわれのサークル「フリーマウンテン」では、3年生の会員のなかからリーダーとサブリーダーを会員の投票で決めるならわしになっていた。リーダーは登山の計画立案・実行の責任を負い、サブは宿泊・食料などの登山以外の実務を担当する。実際の山行ではリーダーは先頭、サブは最後尾を歩く。ルートファインディングが重要な本格的登山ならともかく、私たちのような普通の登山道を歩くだけのパーティーでは、落伍者の世話係となる最後尾の方が数倍面倒なお役目となる。とはいえ登山の経験や実力から言えば、中学生時代から日本アルプスを自分の庭のように歩き回ってきた私がリーダーになって然るべきだった。

  おそらくサークルのメンバーは、温厚沈着そうな雰囲気を漂わせ、学業成績優秀であるばかりでなく、ボディビルディングも欠かさない頑健な体格の岩見の方を選んだのだろうが、私には彼はナルシストで鼻持ちならない人間のようにみえた。これから奴がクラブの中心になり、私は雑用係をやるはめになることを考えると不愉快な気分にならざるを得なかった。しかしサークルにとどまる限り、民主主義には従わねばならない。サブになったのが気に入らなくて退会というのは、いくら自由人を自負する私としても格好悪すぎる。

  危惧した通り、岩見は山は素人のくせに登山計画を私には相談ぜず、取り巻きすなわち3年生の太田・丸山、そして真紀とよばれている2年生の女と仕切るのが慣例となった。私のような山慣れた人間が口をはさむと、奴の出番がなくなるおそれがあるので、意図して遠ざけたのだと思う。それでも私はともかく雑用をきちんとこなすことにした。というのは、私は当時規律正しい行動が求められていて、運営もきちんとしていた山岳部やワンダーフォーゲル部に入る気は毛頭なく、この同好会の自由な、悪く言えばルーズな雰囲気が気に入っていたからだ。それに山岳部やワンダーフォーゲル部というのは基本幕営山行で、荷物が多くなるのもあまり趣味ではなかった。どちらかと言えば無名の山で登山者が少なく、しかし無人小屋を利用可能という山行が好きだった。

  私の仕事には買い物が多かったのだが、領収書や出納帳の管理というのは自分の性格には合わなかった。特に親しいわけではなかったがメガネで経理顔の山野結衣(やまのゆい)という2年生のメンバーに声をかけてみた。すると「鎌田さんは忙しそうだから、お手伝いしてあげてもいいわよ」とすんなりとオフィス担当を引き受けてくれた。勇気をふるって言ってみるものだと思った。これで私は普段はサプライに専念できることになり、スムースにクラブを運営していく目処が立った。

  「フリーマウンテン」はアルプスなどの高山縦走をめざすサークルではなく、主に2000メートルクラスの中級の山を2~3日の計画で踏破するのを目的としていた。レギュラーのメンバーは15人くらいだったが、勝手に友達を連れてきたりする場合もあるので、だれが会員なのかよくわからないところもあった。会としては春・秋の定例山行、夏の合宿、年末の合宿が主な行事だった。そのほかに年数回の不定期な希望者山行を行うが、これは私もすべてを把握しているわけではなく、会としてやっているのかどうかはっきりしない山行もある感じだった。そういう自由な雰囲気が自分の好みではあった。ただそれだけに1年生の会員の中には、結衣もそうだが一度もキャラバンシューズやマウンテンブーツを履いたことがないという者もいるようなサークルだった。

☆ ☆ ☆

  春の山行はサブになって初めての行事だったので大変苦労したが、結衣に手伝ってもらってなんとかこなすことができた。会計などの事務仕事はきちんとやってくれたし、旅館や山小屋との交渉などもてきぱきとこなし、私の苦手な部分をまるでジグソーパズルのピースをうまくはめこむように次々と解決してくれた。そしていよいよ夏合宿だ。これはクラブ最大のイベントで、さすがにきちんと計画を立ててオフィシャルな形で運営する。今年は4泊5日で雪平山(ゆきひらやま)登山を行うことになった。参加者は12名。岩見たちの計画によると、次のような行程になっていた。

1日目:東京→現地駅→バス停終点→東道→肩の小屋(泊)
2日目:肩の小屋→東道→鎖場で訓練→山頂小屋(泊)
3日目:山頂小屋から雪平山登頂後、西尾根を散策し、山頂小屋にもどる(泊)。
(山頂小屋といっても雪平山のピークには1時間くらいかかる。西尾根は展望にすぐれて、アップダウンが少ない標高2000メートルのプロムナード)
4日目:西道でバス停まで下降し、バスで温泉旅館まで移動し打ち上げを行なう(温泉旅館泊)

  まあそう無理なスケジュールではなさそうだ。鎖場が怖くてどうしても通過できない者がいた場合、連絡路から新道のコースで山頂小屋まで上げればいい。例によって私は蚊帳の外の計画だったが、この山には以前にひとりで登ったことがあった。

  登山のスケジュールが決まると、私たちの出番がやってくる。

1.机の上にA3の大きな紙をひろげて、自炊が必要な際の食事のメニューを考え、スーパーのチラシを参考にしておおよその経費を割り出す。
2.経費が予算をオーバーしそうな場合はメニューを差し替える。
3.食材・非常用食料・ミネラルウォーター・燃料などをスーパーで購入し、サークル保有の調理器具などと共にメンバーの体力に応じて分配する。
4.山小屋山行の場合は経営者に連絡し宿泊費用を交渉する。テント山行の場合は必要な器材を調達する。

といったところが私と結衣の役割だった。

  私は夏合宿にひとつ、登山以外の個人的な計画を立てていた。それは結衣に告白するということだった。何ヶ月か一緒に作業をするうちに、次第に彼女の地味だけれど自分がやるべき仕事には努力を惜しまない性格に、私は次第に惹かれていったのだ。

  行程1日目の行動中にはなかなか結衣と二人になるチャンスがなく、チャンスがあっても躊躇しているうちにのがしてしまい、結局告白できなかった。そこで私は肩の小屋での一泊目に、意図して彼女の隣で寝ることにした。山小屋は基本的にザコ寝なので、そのようなことが可能なのだ。そしてまわりが静かになった頃、おそるおそる彼女の手を握ってみた。そうすると意外なことに、結衣は私の手を握り返してきた。そこで彼女を小屋の外に誘えば良かったのだが、情けないことに私は彼女の手を握ったまま、まんじりともせず朝を迎えることになった。

  結衣は登山については全くの初心者で、大学に入学してからハイキングをやりたいのだが一緒に行く友達がいないということで、うちのサークルに参加したそうだ。案の定彼女は鎖場はパスして、連絡路から新道まわりで山頂小屋をめざしたいと言い出した。私はサブの特権を行使し、彼女を引率するということで新道経由で行くことにした。落伍者の世話はサブリーダーの義務でもある。それはある意味彼女との初デートでもあった。ふたりで会の経理や自炊の献立について相談したり、買い物に行ったりしたことはあったが、それはあくまで実務であり、デートではなかった。ただ昨夜は徹夜してしまったので、私も鎖場を登攀するのは危なかったかも知れない。初心者向きとはいえ、東道は多少はロッククライミングの要素も含んでいた。

  先に二人で山頂小屋に着き、はじめて彼女と個人的な話をいろいろとすることになった。告白する手間がはぶけたのは、私にとって幸運だった。一気に彼女との距離が縮まった感じがした。山頂小屋は無人小屋なので、自炊しなければならない。楽な道を行くことになった私は、今日の夕食用の食材を預かって持たされていた。結衣にあれこれ教えてもらいながら、二人でみんなの夕食準備をしたのは特に楽しいひとときだった。

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  やがて岩見たちが上がってきた。岩見は夕食の準備がほとんどできているのを見て「おっ」と声を上げ、次の瞬間うさんくさそうに私と結衣を一瞥した。私はそれを無視して食べ物を取り分けていると、ひとりのメンバーが私に耳打ちした。

  「鎌田さん、聞いてくれますか。今日は大変だったんですよ。鎖場を登り始めようとしてザイルを探したら、何と岩見さんが持ってくるのを忘れたって言うんですよ。太田が持ってくると思っていたという話ですが、太田さんはそんな話は聞いてないと言うし・・・。まあたいした鎖場じゃないので、ザイルなんてなくても平気なんですが、肝心の体を確保するトレーニングができないじゃないですか。これじゃあ何のためにこの場所を選んだのかわかりませんよね。結局怖がる女のケツを押しながら登ったんですよ。まあ何ごともなかったので、ただいい目をみたようなものですが、岩見さんってバカですね」。私は舌打ちをして、「お前らが投票したんだろ。 そのうち死人が出ても知らんぞ」 としかめ面で返事をした。登山訓練の装備については、私は全く関与していなかった。

  山頂小屋での夕食後くつろいでいると、岩見の側近のひとりで気象関係を担当している丸山が私を呼びに来た。岩見たちの方に行くと、岩見・大田・丸山・真紀が眉間にしわを寄せて車座になっていた。丸山の話によると、天気図や天気予報などからみて、明日正午前から雷雨になりそうだというのだ。それに台風が進路を変更して、こちらに向かっているという情報もあった。台風本体については、このあたりを通過するとしても合宿が終わってからと予想されたが、台風が連れてきた雨雲が前方に大きく張り出していて、台風の接近が天候に影響を及ぼすのは避けられない。みんなで相談して、明日は午前6時に小屋を出発し、午前7時雪平登頂、西尾根散策は中止して山頂からそのまま逆行し、午前8時までに小屋に戻ることにした。その後の行動は、小屋にもどってから天候の変化をみて考えようということになった。西尾根散策は今回の山行でみんな最も楽しみにしていたので残念だったが、天候には勝てないので仕方がない。

  翌日落伍者もなく、全員そろってガスで視界のない雪平山に登頂し、無事に山頂小屋に帰着した。さてこれからどうしようかと相談を始める頃、パラパラと雨が降り出した。丸山によると、ここ2~3日は天候が回復する見込みはないということだった。岩見は「どうせ天候の回復が望めないのなら、ともかく新道を使って肩の小屋まで降りちゃうか。無人小屋のここと違って、肩の小屋には管理人がいるし、食料の備蓄もあるだろう。万一天候が荒れて沈殿するにしても何かと安心だし」と言った。私も西道は下の舗装道路まで8時間くらいかかる長い行程なので、途中に肩の小屋がある新道・連絡路経由に帰路を変更するのに異論はなかった。それなら尾根上で落雷に遭遇しないよう、一刻も早く出発すべきだ。

☆ ☆ ☆

  私たちは休憩もそこそこに山頂小屋を出発し、東尾根を歩き始めた。しかし天候の変化は私たちの予想より少し早かった。出発して30分もしないうちにあたりが夕暮れのように暗くなり、土砂降りの上に雷鳴がとどろき閃光が走るというまずい事態になってきた。東道と新道の分岐Aに近づく頃には、ポンチョなどの雨具は何の役にもたたず、まるでプールで泳いでいるように下着までずぶ濡れになり、激しい風雨の音で互いの声も50センチくらいまで近寄らないと聞こえなくなった。

  分岐Aでは新道が激しい水流であふれて、どこが登山道なのかはっきりしないような状況だった。こんな状態での下山は危険だと思い、私は岩見に「山頂小屋に引き返そう」と強い口調でうながした。そのとき100メートルくらいの距離しかない立木が、激しい雷鳴と閃光と共にバキッと折れて倒れた。私も含めてメンバーは動揺した。おそらく岩見等は震えあがったに違いない。みんなひとかたまりになって座り込んだ。何分たったか、雷鳴の小休止の瞬間をとらえて岩見が決断した。

  「頂上小屋にもどるのも東道で下降するのも、隠れ場所のない稜線で落雷にやられる危険が大きい。当初の計画通り新道・連絡路経由で肩の小屋まで降りよう」と岩見は言った。私は「膝まで激しい水流に浸るような状況で新道を下山するのは却って危険だ。肩の小屋への連絡路も新道ができたときに切り拓かれた道で、路肩がおぼつかないし、沢を横断するときには滑落の危険がある。山崩れにぶつかる可能性もある。落雷の危険があっても頂上小屋にもどるべきだ」と強硬に主張したが、受け入れられなかった。真紀は「鎌田さん、リーダーは岩見さんよ。みんなが混乱するようなことを言わないで」と私をなじった。私が「バカヤロー」とどなりそうになったとき、後ろから結衣が「私こんな道怖くて降りられません」と泣きべそまじりの声が聞こえた。私にとってはそれが決定打だった。私は岩見に「俺は自己責任で山野と山頂小屋にもどる」と言って、結衣を抱きかかえるようにして元来た道を帰り始めた。振り返ると、岩見は私たちを例によってうさんくさそうな目で一瞥し、無言で新道の下降をはじめた。ほかのメンバーも全員岩見に従った。

  私は大学に入る前は、たいてい単独行登山だった。集団登山で極限状態になったら、自分は他のメンバーと協調して行動することができないのではないかと危惧していたことが一番の理由だった。新田次郎の名著「孤高の人」に描かれている名アルピニスト加藤文太郎は、ずっと単独行専門の登山家だったにもかかわらず、はじめてパーティーを組んで登った槍ヶ岳で遭難して死亡した。パーティーでの行動は単独行のときのような鋭い動物的感覚を鈍らせるものなのだろう。あるいは単独行を好む人間は、他のメンバーの判断を否定したり、自分の判断を他人に納得させたりするのが苦手だったりするのかもしれない。ともあれ大学に入学すると、私はすっかり登山における攻撃的なマインドを失い、気の置けない仲間とゆっくりと自然を楽しみたいというムードに傾いていった。「フリーマウンテン」にはいったのはそういう理由からだ。

  結衣と二人で雷雨の中を山頂小屋に引き返す時、私は「何としても、結衣は助けなければいけない」ということしか頭になかった。そうすると落雷の恐怖を全く感じないのが不思議だった。自分の知らなかった自分の利他的な一面に出会って、少し嬉しい気分だった。

A

  落雷から逃れたいという一心で急いで登ったので、結衣は勿論、私もヘトヘトになってようやく二人は山頂小屋に戻ることができた。途中雨があがる一瞬があった時、向かいの山稜に稲妻がまるで滝のように降り注いでいるのを見た。まあよく無事だったことよ。山の経験や体力も落雷には無力だ。やっぱり岩見の判断が正しかったのか? いや、あの新道・連絡路ルートはあまりにも危険だ。とてもこの天候で歩く気にはなれない。ともかく私たちは無事ここにたどりついたわけだ。ホッとしてザックを開けると、底の方に細引きがあるのに気がついた。細引きとは細いロープのことで、私は転落などの緊急用にいつも十メートルのものを2本持ち歩いていた。これを岩見達にわたしてやればよかったと思ったが、後の祭りだった。そう言えば彼らはザイルを持っていない。まったく岩見のバカときたら、よりによってこんな時に・・・。

  衣類や持ち物は、すべて海に転落した漂流者のようにずぶ濡れだった。ラジオと携帯電話とライターは厳重に密閉した容器に納めてあったので無事だったが、携帯電話は圏外で役に立たなかった。とりあえずライターで小屋に置いてあった非常用の薪に火をつけて暖をとった。私たちはほとんど全裸になり、小屋の桟を使って衣類を干した。その夜私たちは、二人きりの山頂小屋で抱き合って眠った。

  目覚めると昨日の荒天がウソのような静かな朝だった。雨は降っていたが激しい降りではなく、私たちは行程は長いが、他のルートより安全だと思われる西道を下山することにした。崖崩れや倒木で通過しにくいところが何カ所かあったが、慎重に行動し、ようやく最終バスに間に合う時間ぎりぎりにバス停にたどりついた。さすがに登山経験の少ない結衣は疲労困憊で、バス停の標識の脇に座り込んでしまった。

  バスで温泉街まで行き、その日は温泉旅館に宿泊することにした。岩見・太田・丸山に電話してみたが、連絡はつかなかった。それではと肩の小屋の固定電話にかけてみると、なんと小屋番でなく、2年生のメンバーが泣きそうな声で電話に出た。岩見と真紀が遭難したと言うのだ。小屋番と数名のメンバーが捜索に出ているらしい。結衣を旅館において、私は交番に行った。巡査に訊くと昨夜肩の小屋から連絡があって、行方不明者が2名いるというということだった。肩の小屋にはもう捜索隊がはいっているそうだ。私は蒼白になってうろたえたが、巡査が事情聴取したいというので、私が知っている限りの経緯を詳しく話した。

  翌日は結衣を東京に帰し、肩の小屋にかけつけた。太田と丸山の話によると、行方不明者はやはり岩見と真紀だった。新道で沢をわたるときに発生した鉄砲水の泥流に真紀が押し流され、それを助けようと岩見が追いかけて、その後二人とも姿が見えなくなったようだ。サークルのメンバーはみんな憔悴しきっていた。それでも捜索隊と共にみんなで懸命に探したが、岩見も真紀もみつからなかった。次の日は台風が通過して捜索は中止された。結局遭難から5日目になって、二人は遺体で発見された。

  最悪の結果だった。最後に二人と喧嘩別れのようになったということが、私の心に鉛のように重く沈殿していた。日がたつにつれて、サブという立場にありながら、メンバーと別行動をとったのはまずかったという思いに、じわじわと自分自身が追い詰められるようになった。私は結衣の言葉に甘えて、メンバーを見捨てたのかも知れない。やはり私はセルフィッシュだったのか? それにあの細引きの件だ。岩見が細引きを持っていれば、真紀らと体をつないでいたかも知れない。そうすれば二人とも助かったかもしれない。私が結衣を説得して岩見らと共に行動していれば、ザックに入れていた細引きの存在も思い出しただろう。あのルートでメンバーを強行下山させたのは岩見の愚かな選択だったと思うが、彼らの死には私も関与しているのかもしれない。細引きの件は警察にも、メンバーにも、結衣にも話さなかった。

☆ ☆ ☆

  フリーマウンテンは解散したが、事後処理はすべて私の責務になって、死者のことを思う余裕もないくらい忙しい日々を過ごすことになった。メンバーは私と岩見とのやりとりを知っているだけに、私には同情的だった。中には「岩見さんについていったのが失敗でした。サブの意見をみんなが支持していればこんなことにはならなかったと思います」と言う者もいた。その言葉を聞いたとき、私はあやうく泣きそうになった。とはいえ結衣以外には実際に私を手伝ってくれるメンバーがいたわけではなく、むしろ金銭的負担をおしつけられては大変だと思ったのだろうか、多くの者が逃げ腰だった。

  やっと一段落ついた頃、結衣に喫茶店に呼び出された。彼女からデートに誘われたのははじめてだった。喫茶店で対面して座ると、彼女は姿勢をただし、緊張した面持ちで私に「妊娠している」と告げた。目の前が真っ白になるような大ショックだった。思い当たるのはあの遭難の日しかない。あの日は本当に特別だったのだ。そこまで思いは及ばなかった。山から下りた後もやるべきことがいろいろあって、彼女とは何度か会っていたが、二人で何かを楽しもうという雰囲気は全くなかった。

  それにしても私たちが新しい生命を作っている頃、岩見と真紀は死の淵でもがいていたのだろう。喫茶店で私をみつめる結衣の視線から目をそらせて、私は心の中で手を合わせた。当時もちろん私はまだ大学生であり、事故の事後処理で忙しく、アルバイトも就職活動もできないような状況だった。日を改めて結衣に会って、申し訳ないが堕胎してくれないかと言おうと思ったが、どうしても言い出せなかった。その後も何度か話し合ったが、彼女は結婚を前提としてどんどん話を進めようとするばかりだった。

  「交渉」という現実は「愛」という精神状況の最強のアントニムなのだろうか? 話し合いを重ねるにつれて、私の彼女への気持ちは加速度的に冷めていった。それに反比例するように、岩見と真紀そして細引きの件が私の心をさらに強く圧迫する。あるときそのことを結衣に打ち明けたが、彼女は「そんな細々としたことより、生まれてくる子供のことを真剣に考えて」と、私の話の内容には全く興味を示さず、逆に私に詰め寄ってきた。彼女はあの日の自分の発言が私と岩見を決定的に引き離し、遭難の遠因になったことなどすっかり忘れているようだった。私は意を決して彼女に結婚するする気がないことを告げた。そして一気に堕胎してくれないかと懇願した。予想通り彼女は激怒した。

  そのうち彼女の父親が私の家まで来て、私を激しく叱責した。父親も娘に強く堕胎するよう言ったが、結衣は産むといってきかないらしい。それを聞いて私は観念した。結局彼女は出産し、私は学生のまま子供を認知することになった。そのことを知った私の両親も激怒し、それ以来関係が気まずくなって私は一度も実家に帰っていない。

☆ ☆ ☆

  あれからもう3年経った。私は現在ある会社に勤めて、結衣に養育費を支払いながら、この世から逃げ出したいくらい苦しい生活をしている。養育費の支払いが滞ると、山野の親戚と称する男からすぐに苦言の電話がかかってくる。就職した当初は結衣と結婚するようにと親や周辺からしばしば圧力がかかったが、最近はそれもなくなった。こうなったのは全く自分の責任だが、ときどき心の中で岩見と真紀に向かって、本当は謝りたいくせに「バカヤロー」と叫んでみる。

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2010年1月31日 (日)

由紀子と猫

由紀子と猫

  春の大学受験に失敗してブラブラしていたら、夏になって突然親がコンビニをやろうと言い出した。 降ってわいた話に私は少なからず動揺した。親は私が大学に入学することを期待していなかったのか・・・。中学・高校の頃はあんなに「勉強しろ勉強しろ、勉強して俺たちのようなつまらん商売人にはならないでまともな会社に就職しろ」としつこく言っていたではないか。ある意味親に自分の能力と素質を見限られたような気分になって、私は落ち込んだ。

  しかし少し時間が経つと、自分を省みる余裕ができてきた。大学に何をしに行くのか? 私が入学できるようなレベルの大学を卒業して、果たしてまともな会社に就職できるのか? とはいえ親の言うとおりコンビニで働くとして、18歳から年寄りになるまでその店でずっとあくせく働くのか? 大学に入って2年間くらいはサークル活動とか合コンとか人並みに遊んでみたい・・・などといろいろ考えてはみたが、ともかく受験勉強には身が入らなかった。とりあえず親の手伝いをするのも仕方ないかと思っていたが、結局ずるずると親のペースに巻き込まれてしまった。母は店には出ない人なので、親父と私の二人だけではとてもコンビニはやっていけない。アルバイトを雇ったが急に休むこともあって、そうなると私か親父がかぶるしかない。1日16時間勤務になることもしばしばあり、かなりきつい仕事だった。

  とりあえずという曖昧な気持ちでこんな仕事をひきうけたのは甘かった。正直きつい。とはいっても私がやめたら親父は倒れてしまうだろう。大学受験などどこかに消し飛んでしまった。ともかくなんとかやっていくしかない。がむしゃらに働いた。1年経って計算してみると、なんと年商が5000万円を越えていることがわかった。親父に訊くと、コンビニを始める前の雑貨商のときは年商2000万円がやっとで、それも毎年減っていたという話だった。努力が報われるというのは悪くない。

  こうしてあっという間に7年の年月が経ってしまった。コンビニの売り上げは毎年少しずつ増えて7000万円近くになっていた。近所に何棟かマンションができたことが影響しているのだろう。ところが思ってもいなかったところに落とし穴があった。私が25歳になった誕生日に、親父が「俺ももうすぐ65歳で体がきつい」と言いだした。あらためてしげしげと親父をみると、頭はすっかり白髪になり、顔も小じわやシミが目立つじいさんになっていた。65歳といえばサラリーマンなら定年退職の年齢ではある。あまり気乗りはしなかったのだが、結局親父に代わって店長をやることになった。親父も家に引っ込んで隠居するとは言わなかった。それでも事務関係の仕事などが増えてあまりに忙しかったので、毎日のようにぶつぶつ文句を言っていると、親父が知人の娘だという若い女性を連れてきた。なんでも経理関係の専門学校を出たばかりで、うちで働いてもいいという有難い話だった。渡りに船とばかりに即採用したが、経理の仕事はもちろん、レジの仕事もてきぱきと笑顔でできる実に有能な人材だった。

  そのうち自然にその女性、由紀子と結婚しようということになった。高校を卒業してからずっと仕事が忙しかったので、やっと自分にも春がめぐってきたという楽しい気分の毎日だった。新居となるマンションも決めた。新婚旅行の計画も進めていた。しかし好事魔多しというのはこういうものなのか。希望に満ちた幸福な日々は長くは続かなかった。健康診断で由紀子の血液に異常が発見されたのだ。精密検査で急性リンパ性白血病だということがわかり、由紀子は即入院することになった。

  私は奈落の底に落ちていった。仕事にも身が入らず、病院に見舞いに行った帰りには呆然と近所を彷徨するようになった。次第にコンビニは老父とアルバイト任せになってしまった。そんなとき、泣きっ面に蜂のようなうわさが耳にはいってきた。私たちが新婚生活を送る予定で購入した中古マンションの耐震性に問題があるということで、詳しい検査をしているらしいという話だった。由紀子の病気のこともあって、管理組合の集会には出席していなかったし、現に住んでいない人間には回覧板もまわってこない。

  私は早速マンションに行ってみた。マンションは14階建てだったが1階から7階まではシートで被われ、すっかり工事現場のようになっていた。私たちが購入したのは14階の一室で、せっかく来たのだからともかくそこまで行こうと思い、私はエレベータ-に乗った。しかしエレベーターが7階で停止して同乗していた作業員が降りたとき、つられて私も降りてしまった。気がついたときにはもうエレベーターの扉は閉じ上昇していった。とんでもないところに置き去りにされたものだ。回りをみると壁の一部は壊され、鉄筋が露出していた。誰もいない長い通路には、冷たい風が吹いていた。私は通路から身を乗り出して作業員やクレーンが動く地上をぼんやりと眺めた。これから私の人生はどうなってしまうのだろうか? 私「ふぅ」とため息をついた。

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  しばらく下を見つめていたとき、私の体に異変が起こった。私の体の一部がフワッと抜け出し、地上に静かに落ちていくような感じがしたのだ。それは灰色でやわらかく不定形だったが、頭と手足のような出っ張りがなんとなくあるような気がした。私はハッと気がついて体を触ってみた。どうやら私自身が転落したのではないようだった。私はまだ通路にいた。しかしそれから私は体の芯が抜けてしまったかのように力がはいらなくなり、アパートまではなんとかたどり着いたが、そのままどっとベッドに倒れ込んで起き上がれなくなってしまった。

  私は毎日病院に行っていたので、見舞いに来ないし電話にも出ない私を心配して、由紀子の母親が私のアパートを訪ねてくれた。鍵もかけずにベッドに倒れ込んでいたらしい。彼女が来てくれなかったら、私はどうなっていたか分からない。体調が悪いと言うと、彼女はおかゆを作って食べさせてくれた。救急車を呼びましょうかと言われたが、私はどこも痛いところはないし、熱がある感じでもなかったので「ただ疲れているだけみたいなので、安静にしていれば大丈夫です」と断った。彼女は「明日も来るから、具合が良くなっていたら病院に行きましょう」と言ってくれた。

  翌朝になっても私の体調は回復せず、あまりにだるいのでベッドに横たわりぐったりとしていたが、そのうち眠ってしまった。夕方に目が覚めると由紀子の母親のメモが見つかった。「ぐっすりお休みだったので、おみやげだけ置いていきますね。お大事に」という内容だった。私が熟睡していて来訪に気がつかなかったのだろう。万一を考えて、私はドアチェーンをはずしていた。せっかく来てくれたのに申し訳ないことをしてしまった。私は今度はドアにチェーンをかけて、また寝込んでしまった。深夜になってから目覚め、私は全身の力を振り絞ってよろよろと立ち上がり、郵便物をとりにいくために玄関の扉を開けた。ひゅーと風が舞って、メモのようなものが飛んでいった。しかしあとにバスケットがひとつ残されていた。

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  バスケットの蓋を開けると、一匹の子猫が眠っていた。そして目覚めるとキョトンと私を見つめた。数秒見つめ合っていると、不思議なことが起こった。失われていた私の体の芯が、子猫からすっと私に戻ってきたような気がしたのだ。実際それから私は普通に歩けるようになり、食欲も出てきた。私は突然一昨日の昼から由紀子のところに行っていないことに気がついた。子猫に牛乳を飲ませてタオルを敷いた段ボール箱に移し、深夜だったがタクシーを呼んで病院に急いだ。

  病院は大変なことになっていた。由紀子が意識不明に陥り危篤状態だというのだ。なんということなのだろう。訳の分からない体調不良というアクシデントのために、由紀子と最後の会話ができなかったのが悔しい。私は泣いた。親族が見つめる中、翌朝由紀子はあっけなく天国に召された。

☆ ☆ ☆

  由紀子が死んでから2年が経過した。あの時の子猫はすくすくと成長し、体重が5キロもある立派な成猫になった。それにしても不思議なのは、誰かが猫を捨てたとすると、どうして猫が飼えないアパートの住民なんかに預けようとしたのか? あの風で飛んでいったメモには何が書いてあったのだろうか?
 
  私はこの猫が私を救ってくれたと思っている。私は由紀子の思い出のためにユッキーと名付け、アパートを引き払いユッキーをつれて実家に戻っていた。これからずっとアパートでこっそり猫を飼うというのは無理だろう。実家にもどって飼育する決断をしたのは、いまでも仕方なかったと思う。ユッキーがいなければ、私はどんなに空しい2年の日々を過ごしていたかと思うとぞっとする。由紀子と住む予定だったマンションはきちんと耐震補強されたが、あの気持ち悪い幽体離脱のような出来事の再現が怖くて売却した。

  大事に飼育していたユッキーだったが、飼いはじめてから2年目の夏にどこかに出かけたまま戻ってこなかった。自分だけの家ならともかく、父母が同居している家では、完全に猫を家の中に閉じ込めておくのは至難の業だった。私は仕事が忙しくてなかなか探す余裕がなく、アルバイト達も忙しい時間を割いて手分けして探してくれたが、ついに1ヶ月経過してもユッキーはみつからなかった。

  ほとんどあきらめて、ようやく以前のようなペースで仕事をはじめた頃だった。アルバイトのひとりで、もう4年もやってくれているフミちゃんが「ちょっと話がある」と裏口の方を指さして私を誘った。ついて行くと、裏口のドアを出たところで、彼女が1枚の紙片を「これ以前に拾ったものですっかり忘れていたんですが、昨日部屋の掃除をしていたらみつかったんです。すみません。多分店長にあてたものだと思うんですけど」と私に渡すと、すぐに走って店に戻っていった。

  紙片には、「高志さん。病院に捨てられた猫です。私がミルクを与えていたのですがもう無理です。私だと思ってかわいがってね 由紀子」と書いてあった。私は体中の力が抜けて、その場に座り込んで動けなくなってしまった。これがあのときの風で飛んでいったメモなのか!由紀子はあの体でタクシーに乗り、命がけでバスケットの子猫を私に届けてくれたのだろうか?

  しばらくすると、いつまでも店に戻らない私を心配して、もうひとりのアルバイトであるチカちゃんが探しに来た。私はチカちゃんに訊いてみた「この紙切れをフミちゃんがくれたんだけど、どうして彼女が持っていたのか知ってる?」。チカちゃんはそれを読んでしばらく考えていたが「どうしてフミが持っていたかは知らないけど、フミは昔から店長が好きだったのよ。店長知らないでしょう」と、私の顔の前で指をぐるぐる回しながら答えた。さらに私の耳元に近寄って小声で「ここだけの話だけど、店長のストーカーみたいなことやってるんじゃないかってうわさになったことも・・・」とささやくと、「早く戻らないとお客さん並んでますよ」と言って彼女は店内に消えていった。

  私はゆっくりと店に戻った。フミちゃんとチカちゃんにはそれ以上何も訊かなかった。二人も帰り、夜が更けてお客さんが途切れたときに、外に出て空を見上げると満月だった。私は駐車場のストッパーに腰掛けて、じっと月をみつめた。由紀子とユッキーが並んで私に微笑んでいるような気がした。

  フミちゃんは翌日から仕事に来なくなり、音信不通になった。

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2010年10月 1日 (金)

ランチタイム

ランチタイム

  小学校に通学しはじめてから2回目の引っ越しで、東京の羽田空港にほど近い小学校に転入することになった。私には父の記憶がない。父の写真も1枚もなかった。そのことを訊いても、母は何も答えてくれなかった。母は九州の建築現場でまかないの仕事をしていた。ダムの仕事があったので人里離れた山奥に3年間居たのだが、県知事が交代したときに、無駄な公共事業は廃止するという公約の関係でダムが建設中止となり、母も解雇されて私を連れて3月に東京に帰ってきたというわけだ。

  4年3組の教室は3Fにあった。知っている子が一人もいないというのは緊張する。九州で通っていた小学校では全校生徒が50人くらいで、ほぼ全員どんなキャラか知っているくらい親密だった。それにほとんどの生徒が建設作業員の子供だった。東京では一転して、たいていの親がホワイトカラーということもあって、あまりみんなとなじめなかった。しかし一番問題だったのは、長引く不況で母によい仕事がなく、うちの家計が火の車だったということだ。そのためにランチボックスの中には白飯しか入っていなかった。そのことは仕方ないことなので我慢できたが、我慢できないのはそのことをクラスメートに知られ、貧乏人の子と馬鹿にされたり、逆に同情されておかずをもらったりすることだった。

  私たちの小学校では予算不足で炊事婦がリストラされ、全員弁当持参になっていた。ランチタイムは嫌でも毎日やってくる。昼食が嫌だといっても、朝食は当然「抜き」なのでおなかはペコペコだ。私はランチボックスをかかえてゆっくりと廊下に出る。そしてゆっくりと階段を下る。毎日こんな行動をとっていると、そのうち誰かに気付かれて後をつけられるのではないかという恐怖が心をよぎる。教室が1Fにあればいいのにと思う。外に出ると裏門まで何気ない様子で歩き、門を出るとはじけるようにすぐ近くにある小さな公園に駆け込む。

A

  困ったことに数人の女子のグループがいつもその公園にきて、ベンチに座り込んで昼食をとることに気がついた。だから私は皆の視線が届かないトイレで昼食をとるしかなくなった。今でもそのトイレの「のっぺらぼう」の不思議なマークを思い出すことがある。時にはそのグループの子が隣のボックスにはいることがある。そのときは食事を中断し、音を立てないように息をひそめて彼女が出て行くのを待つしかない。食べ終わって出て行くときは、ドアの隙間から外をうかがって誰もいないことを確認し、生徒たちが座っているベンチから見えないように遠回りして裏門にもどる。ここまでの緊張感がきついので、午後はぬけがらのようになる。もともと学校のレベルが九州で通っていた学校よりもかなり高い感じなのでなかなか授業についていけない上にこれだから、次第に学校がつまらなくなった。

  学校がひけてアパートに帰っても誰もいないし、私も母も几帳面じゃなかったので散らかっていて、部屋にいるだけで気が滅入ってしまう。私はアパートの前の運河の堤防に座って、じっと母の帰りを待つことにしていた。海からはかなり離れていたが、ときどきカモメの群れが運河沿いにやってくることがあった。顔から1メートルくらいのところをビュンビュン飛んでいくカモメに目を見張った。私や母とは全く違った次元で生きている生物がいるというのが驚きだった。彼らは隠れてご飯を食べたりしないし、朝食抜きってこともないのだろう。それにしてもあんなに急いで、どこにすっ飛んでいくのだろうか?

  ほぼ決まった時間に何匹かの犬が散歩で通り過ぎる。たいていの犬は私を無視するが、1匹のラブラドゥール・レトリバーは遠くの方から私を見ながら近づいてきて、私のところまでくると足を止め、いつも腕をひとなめしてから去っていった。連れている飼い主は外国人のようにみえた。背はそれほど高くはないが、がっしりした体で、いつも大股でゆっくりと歩いていた。彼はよく変なアクセントの日本語で、「大丈夫、この犬はかみつきません」とか、「川に落ちないで 気をつけて」とか、冬には「寒くないですか」とか一言声をかけてくれた。あるとき1枚のパンフレットを私に手渡し、「何か困ったことがあったらここにいらっしゃい」と言った。見るとそれは礼拝と日曜子供英会話教室の案内で、教会のパンフレットのようだった。

  薄暮のなかで遠くに母が見えると、私は運河沿いの道を走っていって母の手をつかみ、アパートまで引っ張るようにして帰った。私はいつもランチタイムと同様おなかがペコペコで、早く母に夕食の支度をしてほしかった。でもどうして人はすぐ腹ぺこになるのだろう? 夕食は一日一回のまともな食事だった。といっても何か一品おかずがあるという意味にすぎないが。やっと1日の終わりにたどりついた楽しい時間なのに、私には何も母に話すことがなかった。母もとても疲れた顔をしていて、話すのがおっくうな感じだった。私はずっとニコニコ笑っていたそうだ。それをみて母はよく「何を考えてるかわからない子だねえ」と言っていた。私としては、当時このひとときだけが楽しみで生きていたというだけのことなのだが・・・。

☆ ☆ ☆

  そんな日々が転機を迎えたのは、私が5年生になってまもなくのことだった。母が家を空けることが多くなったのだ。家を空けるときは書き置きと、何個かのインスタント食品が置いてあった。何個あるかによって、いつ母が帰ってくるかがだいたい予想できた。たくさん置いてあるときは、寂しい気持ちですっかり滅入ってしまった。ある日私は学校をさぼって母の後をつけた。母は電車でひと駅の隣町のアパートの部屋に吸い込まれていった。ずっと見張っていると、夕方になって母が知らない男の人といっしょに出てきた。二人の後をつけると、彼らは繁華街のとあるバーにはいっていった。ずっと見張っていると、夜中の12時頃になって二人は出てきてアパートに戻っていった。母は酔っているように見えた。私はひとりで終電に乗ってアパートに帰り、インスタントラーメンを食べた。

  次の日も学校をさぼり、母がいるアパートを訪ね、今度はドアをノックしてみた。昨日見た男の人が出てきて「誰?」と言った。奥の方に母が見えた。母は私の方を見て、すごく嫌な顔をして「智子 学校はどうしたの」と強い口調で叱責した。男の人は作り笑いをしながら「君が智子ちゃんか? まあおはいり」と言った。私はその顔が気持ち悪くて、走って逃げ出した。

  それから私はアパートに引きこもり、学校に行くのはやめた。母が帰宅する頻度はますます減り、たまに帰宅しても食料の用意や洗濯をすませたらすぐに出て行った。学校の先生がときどき訪ねてきた。学校に行く気力がなかったので、先生の訪問は私にとって苦痛以外の何者でもなかった。何を言われても私はただ黙っていた。そのうち買い置きの食料もお金も途切れがちになって、空腹の日々が続くようになった。

  そんなあるとき私は思い切って通学かばんを捨ててしまおうと思いついた。どうせ学校に行かないのなら教科書も捨ててしまおうかと考えて整理していたとき、1枚のパンフレットが出てきた。あの外国人らしい犬連れの人がくれたものだ。彼が言った「何か困ったことがあったらここにいらっしゃい」という言葉を思い出した。

☆ ☆ ☆

  パンフレットの地図をたどっていくと、そこはやはり教会だった。もう夜遅い時間だった。重くて立派な作りの門扉を開けると、中にはあのラブラドゥール・レトリバーと、見覚えのある飼主の外国人がいた。私は男に「食べ物がないの」と訴えた。男は少しの間呆然と私をみつめ、はっとしたように口を開いてくれた。「ああ あのいつも運河のそばに座り込んでいた・・・」 私が頷くと、男は犬を裏の犬小屋に連れて行ってつなぎ、私を建物の中に招き入れてくれた。彼はこの教会の牧師だった。私のためにジャガイモを煮て、ドイツ製のソーセイジを焼いて食べさせてくれた。早速ソーセイジをフォークで刺して端からかぶりつこうとすると、牧師は「ダメダメ、ソーセイジはこうやってナイフで切って、一切れずつフォークで食べるんだよ」と私をたしなめた。おなかはぺこぺこだったが、牧師の指示に従って、私はぎこちなくナイフとフォークを使って、ゆっくりと少しずつ味わいながらじゃがいもとソーセイジを食べた。こんなに美味な食事をしたことを思い出せなかった。

  その日は牧師の部屋で寝ることになった。部屋に入ると、そこにもうひとりの女の子が居た。牧師は「聡子、お客さんの・・・ああまだ名前を聞いてなかったね」と私に視線をむけた。私はあわてて「中谷沙耶です」と答えた。牧師は「沙耶、これは中学1年生の聡子(サトコ)だ」と簡単に紹介した。私は思いきって牧師に「おじさんをパパと呼んでいいですか」とお願いしてみた。牧師は「智子のパパはどうしたの」と訊いてきたので、私はきちんと説明した。牧師は納得して結局パパと呼んでもいいことになった。聡子も「じゃあ私もパパと呼ぶ」と言った。牧師は自分は「ジョセッペ・ガルディオラ」だと名乗った。聡子は彼をジョセ先生と呼んでいたようだが、「ね ややこしい名前でしょう。パパの方がいいわ」と笑った。私もパパも笑った。こんな幸福な気持ちになったことはなかったように思った。パパの部屋には広いダブルベッドがあり、3人でひとつのベッドで眠った。私に突然パパと姉ができた夜だった。

  翌日は金曜日だった。金曜日は朝の礼拝がなかった。朝になると、私はパパにいろいろ訊かれた。母が不在がちなことや、あまり学校に通っていないことなどを正直に答えた。尋問が終わると、パパは先生と母に会ってくると言って昼前に出て行った。留守の間に聡子といろいろ話した。彼女の両親はこの教会の信徒だったが、交通事故で亡くなり、パパに引き取られたそうだ。彼女は「日曜日はパパが忙しいので、私が夕食を作っているの」と誇らしげに言った。

  ひとしきり話した後、彼女は私を別の部屋に連れて行った。そこは物置のような暗い部屋で、テーブルや椅子が積み重なって誰もいなかった。物置部屋の先にはもうひとつ狭い部屋があり、そこには大きな本棚があって、古い分厚い本がぎっしり並んでいた。さらに2段ベッドと小さな勉強机がふたつが置いてあって、男の子が二人座っていた。聡子はまず年長の少年の方を指さし「兄ちゃんの小学5年生の義行(ヨシユキ)よ、ちゃんとしゃべれないの」と紹介した。ヨシユキは「こここここんにちは」と必死に挨拶した。聡子は「おかしいでしょう。緊張するといつもこうなるの。でもヨシはここでひとりだけちゃんと学校に通っているし、頭はいいの」とヨシユキの頭を撫でた。次に聡子はもう一人のほうに向いて「彼はヨシの弟で小学2年生の元治(ゲンジ)。ゲンと呼んでいるの。聾唖だけどいい子よ。学校にはあまり行ってないわ」と言いながら、ゲンジの肩をポンとたたいた。

  部屋から出ると聡子は礼拝堂を案内してくれた。礼拝堂の裏には会議室のような部屋が二つあり、日曜学校や英会話教室をやっているそうだ。案内されているうちに気がついたのだが、聡子も妹分ができて嬉しそうだった。「そうそう まだ紹介してないものがあったわ」と聡子は私を裏庭に方に連れて行った。そこには犬小屋があり、あのラブラドゥール・レトリバーがつながれていた。「ジョンよ やさしいの」。私が近寄ると、覚えていたのだろうか、私の腕をペロリとなめた。私はここにずっと居ようと決めた。母があの男の人と別れて自分のところにもどってくれるまで・・・。

☆ ☆ ☆

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  パパの礼拝に出席してみた。日曜礼拝は信徒が多くてほぼ満席だったが、最後尾のベンチに空きをみつけてじっとパパの話に耳を傾けた。いろいろな聖書の話をしたあと、最後にパパは「両親・親戚・友人、世の中のすべての人々があなたを見捨てても、主はあなたをお見捨てにはなりません。アーメン」と力強く結んだ。

  パパはあちこち奔走して、いろんな問題をクリアしてくれたようだった。「智子はしばらくこの教会に居ることで話がついたよ」と微笑みながら私に伝えてくれた。早速パパと聡子と私の3人で相談して、私はジョンの散歩・花壇の世話・皿洗いをやることになった。一人で切り盛りしている教会なので、パパはとても忙しかった。聡子がいなければとてもやっていけないだろうことはすぐわかった。聡子は毎朝朝食をつくっていたし、日曜日には夕食も作っていた。毎日洗濯もやっていた。礼拝堂や庭やトイレの掃除はヨシとゲンがやっていた。

☆ ☆ ☆

  しばらくの間だけ居るはずが、3年たっても母は私を迎えに来なかった。それは私にとってかえって幸福だったかもしれない。今思うとここにくる前の母との生活は悪夢のようで、2度ともどりたくはなかった。ここではみんなが力を合わせて、教会と生活をポジティヴに運営している。パパ・聡子・ヨシ・ゲンそしてジョン、みんな素晴らしい指導者であり、友達であり、家族でもある。

  そんなある日、寝苦しい夏の日だった。眠れなくてトイレに行く途中、物置部屋で物音がするのでドアを開け電気をつけると、パパと聡子が汗まみれでセックスをしていた。私はすぐにドアを閉め廊下に出た。部屋にもどったがショックで眠れなかった。私はヨシとゲンの部屋に行き、衣服を全部脱いで、ヨシにズボンを脱げと命じた。私の剣幕におそれをなしたのか、ヨシはおとなしくパンツ1枚になった。私はパンツから彼のペニスを露出させ、両手でゆっくりとしごいた。弱々しいペニスが次第に伸びて硬くなった。さらにしごきつづけると、ヨシはうーっと声を上げて射精した。私は失禁してしまった。ゲンはそんな私たちをまばたきもせずに見つめていた。どうしてこんなことをしてしまったのか、いまでもわからない。ヨシとゲンには本当に申し訳ないと思う。

  翌朝ゲンが居なくなった。聡子が私に「ゲンも見たの?」と耳打ちした。私は聡子もゲン失踪の共犯者にしたくて小さく頷いた。パパもヨシも真っ青になって慌てていた。聡子は意外に冷静で「パパとヨシは近所を探して! 私と沙耶は構内を探してみるから」とみんなに指示した。しかしゲンを発見するのにそんなに時間はかからなかった。いつもはおとなしいジョンが激しく鳴くので裏庭の方に行ってみると、ゲンが犬小屋の中に閉じこもっていた。みんなその場に倒れ込みそうな気持ちをおさえて、ゲンを小屋の外に引っ張り出し、競うように抱きついた。みんな涙があふれそうな目でゲンを見つめていた。ゲンはずっと地面を見つめていた。

  翌日パパはどこからか中古のベッドを調達してきて、物置部屋を片付け、私用のベッドを設置してくれた。私は物置を私の個室として使い、パパの部屋は聡子とパパの部屋ということになった。表向きはそれまでと同じ生活だったが、少しお互いによそよそしい、すきま風が吹き抜けるような日々になった。人間の赤裸々な営みを見たのだから、より距離が縮まってもよさそうなものだが、現実は微妙にずれていた。しかし1年も経つと、そんな違和感もうすれてきた。ただみんなが少しづつ大人になっただけという感じだ。

  私は母に手紙を書き、学費を送ってもらってミッション系の中学校に行くことにした。母も私のことを少しは気にかけていてくれたらしい。卒業したらシスターになるための研修所にいくつもりだ。そうなれば寄宿舎生活になり、この教会ともお別れになる。パパはきっと聡子と結婚するのだろう。この教会の会派では牧師の結婚は奨励されている。ヨシは勉強して大学に行きたいと言っている。父親はいなくて、母親も病気で長期療養中ということで大変だろうが、この教会の会派には奨学金制度があり、米国の系列大学に留学する場合援助してもらえるようだ。昔犬小屋で縮こまっていたゲンは、見違えるようにたくましくなった。よく働くいい子だ。きっとこの教会になくてはならない存在になるだろう。

  私は研修所で英語をマスターし、この教会に戻ってきてシスターのかたわら英会話教室を手伝って、信徒や子供たちの役に立ちたいと思う。そして教会の経営にも少しは役に立ちたい。シスターであっても、ゲンがずっと教会にいて私でいいというなら彼の女になってもいいと思っている。きっとパパは許してくれる。大人になった私、ゲン、聡子、そしてパパで新しい人間関係を築きあげ、第二の幸福を獲得するのだ。そして忘れてはいけないのがジョン! 私がここに戻ってくるまでしばらくお別れだけど、研修所から帰ってくるまできっと生きていて! 私をここに導いてくれたのはあなたなのだから。

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2010年12月12日 (日)

ボビーとバベット

ボビーとバベット

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  日本ではあまり聞かないが、欧州にはサバティカルという制度があり、大学教師や研究所の研究員などは7年間勤務すると1年間の長期休暇をもらえることもある。サバティカルという言葉は、ラテン語の sabbaticus(安息日)に由来する。休暇と言っても大抵の人は海外に留学したりして、何か新しいものを吸収して心身ともにリフレッシュするのに使っている。私は大学院修士課程に入学してある研究室に所属したのだが、そこにこのサバティカルを利用して日本に留学しているJさんというフランス人女性がいた。私と同じ研究室1年生の新米ということになる。さえない理系男子のなかにブロンドのかわいい白人女性がいるとやはり目立つ。オルセイから来たそうだが、はるばる日本まで、そして世界的に有名とはいえないこの研究室に留学してきて、わずか1年の期間でいったい何を得て帰るつもりなのだろうか? 研究室の大方が「まあ物見遊山だろう」とみるのはやむを得ないことだったかもしれない。

  しかししばらくすると、私はそのような考えが間違っているのではないかと思うようになった。彼女は平均的な日本人女性と同じくらいの小柄な人で、さすがにフランス人だけあって洋服の柄は派手目の感じだったが化粧気はほとんどなく、金髪を引っ詰めにして黙々と働く地味めの仕事人間という印象だった。朝9時には出勤し、ちょこまかと動いてなかなか精力的に実験をしていた。しだいに癌の研究者である彼女のベンチ(実験台)の前の棚には所狭しと発癌剤が並べられるようになり、私には彼女にやる気がないとか、物見遊山の来日とかとは到底思えなかった。

  彼女のフルネームはスペル (Josiane Joachim) はわかってもどう発音するのかよくわからなかった。教授までJさんと呼んでいた。彼女と私が居た実験室は出入り口が1ヶ所しかなく、彼女のベンチが一番奥でその向かいが教授のベンチ、通路をはさんで私、私の向かいが助手(現在の制度では助教)という4人部屋の配列だった。廊下側には窓がなかったが、中庭側には天窓付きの大きな窓がふたつあった。天窓のひとつがさび付いて閉められなくなっていたので、ときどき鳥が迷い込んできた。そのときは大騒ぎで追い出すのが恒例の行事だった。

  教授は忙しくてほとんど実験室には来なかった。助手はたいてい実験室にいたが、ひっきりなしに学生や院生が実験やそのほかの相談で出入りするので、私としては正直うるさくて嫌だった。部外者の私が聞くべきでないような話題になったり、私のベンチで卒研生が実験するときなど、私は場所を空けるためにしばしば後ろの教授のベンチを借りて実験していた。教授のベンチの前で一息つくときには、棚越しにJさんが実験しているのが見えた。Jさんは英語が苦手だったが、日本語をしゃべろうと普段から努力しているようだった。私はフランス語はからっきしだったがダニエル・ヴィダルのファンだったので、彼女が一息ついているときに、「ダニエル・ヴィダルの Sous les ponts de Paris パリの橋の下 好きなんですよ」と日本語で話しかけてみた。彼女は不思議そうな顔をしてしばらく私をみつめていたが「歌は知ってる」と言ってまた実験をはじめた。多分ダニエル・ヴィダルはフランスでは有名ではないので知らなかったのだろう。しかしそれで少し親しくなれたのか、あるとき私がラットに手術を施していると、横に来て最初から最後までじっと見ていた。終わると「大変ね お疲れ様」と妙なアクセントの日本語で言葉をかけてくれた。私としては緊張してしまうので、こういうのは歓迎できなかったのだが、今になってみると懐かしい思い出になっている。

  彼女にとって不幸だったのは、教授がまじめにとりあってくれなかったことだった。教授としては、たった1年で立派な成果を上げられる癌の研究テーマなんてあるはずもなく、まあ適当に共同研究をやってもらって、最後に共著の論文に3,4番目あたりに名前を入れてあげて、おみやげをつけてお帰りいただきたい・・・という考えだったのだろう。だんだん彼女の顔が暗くなっていくのが悲しかった。彼女としては自分のアイデアで実験をして、きちんとファーストオーサーをとれる仕事をしたかったのだろう。3ヶ月くらいたつと彼女も諦めたのか、お茶の水のアテネフランセ文化センターなど在日フランス人がたまる場所に出入りして、遊び友達をさがすようになっていった。

    6月になって、ある雨の日に彼女が番傘を持って研究室に現れた。彼女もやっと日本をエンジョイできるようになったのかと思って、私は少し安堵した。夏が近づく頃には、彼女はすっかり仕事をあきらめたようだった。そのかわり日本語、特に聞き取りは格段に上達したようだった。そのことに気がついたので、どちらも関西出身だった助手と私は、さしさわりがありそうなうわさ話をするときなどは、わざとコテコテの大阪弁で話しをすることにしていた。Jさんはよく不思議そうな顔をして、じっと私たちの話に聴き耳をたてていたが、予想通りイントネーションが違うと聴き取りができないようだった。

  そんなある日、Jさんが突然5~6才くらいの女の子を連れて研究室に現れた。名前はバベットと言うらしい。これが実にかわいくおしゃまな子で、しかもまだ来日して4ヶ月くらいしかたっていないのに片言の日本語をしゃべることができた。私は本名を名乗るとフランス人の子供にはおぼえにくいだろうと思って、適当に「ジュマベール ボビー。僕をボビーと呼んで。」と言うと、バベットは怪訝な顔をして黙っていた。私は「ボビー、ボビー、ボビー」と自分を指さしながら連呼した。バベットは私をボビーと呼ばざるを得なくなった。

  それからバベットはしばしばお母さんにくっついて研究室に現れるようになった。Jさんは朝10時頃来て、午後4時くらいには帰宅するようになっていたが、バベットはその間ずっと部屋で本を読んでいることもあった。バベットにつかまってしまうと、1時間くらい「不思議の国のアリス」の話をきかされたこともあったが、私は彼女と居ると楽しい気分になっていた。テレビの再放送で見た「シベールの日曜日」という古い映画をよく思い出した。バベットはこの映画に登場する少女時代のパトリシア・ゴッジに少し似ていた。映画のパトリシア・ゴッジはもう少し年長だったと思うが。

  ちょっと怖い質問だったが、お母さんがいないときにバベットに「お父さんはどうしているの」と訊いてみた。いつもは強気なバベットだったが、この時に限ってシクシク泣き出してしまった。しまったと思ったが後の祭りだった。泣き止まないうちにお母さんが帰ってきた。気まずい沈黙の後、Jさんは私をにらみつけバベットの手を引いて出て行った。
  もうバベットには会えないと思っていたら、なんと次の日Jさんはまたバベットを連れてきた。Jさんは私に「バベットはボビーに会いたいと言って泣きます」と言って、私にバベットの手をにぎらせた。バベットは下を向くふりをして、一瞬私の方を見てウィンクした。私とバベットにひとつの秘密の空気が流れた。

☆ ☆ ☆

  私たちの研究室にはもうひとつ実験室があって、そこには助教授(今で言えば准教授)と二人の院生とひとりの居候のような人がいた。その人は野口さんと言って、お酒が好きな世捨て人みたいな人だった。大学院博士課程の学生なのだが、5年も在籍しているのに学位論文を提出せず、何をしているのかよくわからない人だった。しかし何か困ったことがあって相談に行くと、公私にわたってどんな話でも、たいてい面倒がらずに相手をしてくれた。その野口さんがある日私に「今日は酒をおごってやるからついてこい」とはじめて私を誘ってくれた。私はそんなに酒好きではなかったが、普段から世話になっている先輩のお言葉なので断ることはできなかった。

  二人で御徒町のこじんまりしたスナックに行った。野口さんの行きつけの店のようだった。彼は「こんなつまらん研究室にいると、だんだん俺みたいに脳が腐ってくるぞ」とお説教を垂れた。でも一番長くいるのは野口さん・・・とつっこみをいれたくなるところだが、私は黙って聞いていた。教室内の私の知らない人間関係など有益な情報もたくさん教えてくれた。しかし彼が話さなかったことが、最も驚愕の人間関係だった。しばらくするとJさんとバベットが入ってきたのだ。野口さんは少しフランス語を話せるようだった。Jさんとバベットを相手に何か話している。

  野口さんは私に「ちょっとJさんと席をはずすから、少しの間子守りしておいてくれ。マスターには話しておくから」と言って、バベットを置いてJさんと出て行った。マスターが私とバベットをボックス席に案内してくれた。私は非常に居心地が悪かったが、ともかくスパゲッティを頼んでバベットの前に置かせた。バベットは少し食べたが、スプーンを置いて「マミーが悪いことしているんだから、私も」と言ったかと思うと、さっと私のグラスをとってグイッとビールを飲み干した。

  私は心の中では「やれやれ まずいことになった、またJさんに睨みつけられる」と思ったが、後の祭りだったので「そうだね、僕らも楽しまなくちゃ」などと、とんでもないことを口走っていた。バベットは私の方のソファーに場所を変えて隣に座り、やがて私のひざで眠り始めた。私はそっと彼女の母親譲りの美しい金髪をなでていた。しばらくするとバベットはこちらに向き直ってウィンクした。そして突然靴を脱いで「私のにおい」と私の鼻先に差し出した。私はついつい臭いを嗅ぐしぐさをすると、バベットは私の顔に靴を思い切り押しつけてきた。私はやっと振り払うと「バベットおまえは大人になってもいい女にはなれないな」と言ってやった。バベットは突然「野口さん偉くならない。ボビーはどう」とわけのわからないことを叫んだ。私はあわてて「そんなこといっちゃダメだよ」と両腕を交差させてバツ印をつくって強くたしなめた。バベットは舌を出した。

  2時間くらいで野口さんとJさんが帰ってきた。Jさんとバベットが出て行ったあと、野口さんが「Jさんはバベットの父親と離婚して、心機一転のつもりで日本に来たんだけど、なかなか思い通りにはいかないもんだねえ」と教えてくれた。その日はそれまでの自分の人生で一番酒を飲んだ日になってしまった。気がついたら野口さんの下宿のベッドの上だった。野口さんがコーヒー豆をひいて、ドリップで抽出し、今までに経験したことがないような香り高くうまいコーヒーを飲ませてくれた。野口さんはいい人だった。でもきっとJさんを日本に引き留めて、バベットの父親になるようなピリッとしたところはないのだろう。バベットもそのことに気がついていたのかもしれない。

☆ ☆ ☆

  師走になって、私たちの研究室でも忘年会をやることになった。大学院1年生の私が幹事をやることに決まった。スタッフと院生+Jさん+秘書さんで9人だったが、卒業研究の学生や共同研究者も参加するので、全体では20人くらいの大宴会になる。私は上野のしゃぶしゃぶの店に席を用意した。さすがにJさんもここにはバベットを連れてこなかった。酒がはいったところで野口さんが「みんな1曲ずつ歌え」と命令を下した。野口さんは自分の業績はなかったが、面倒見が良くて、実験のやり方などで困ったときにはみんな世話になっているので、誰も彼の命令にさからうことはできなかった。教授も十八番の「ちゃんちきおけさ」を歌って、一同茶碗をたたいたりして大いに盛り上がった。

  そしてJさんに順番が回ってきた。私は彼女にフランス語で歌って欲しかった。生でフランス語の歌を聴いたことがなかったので、一度聴いてみたかったのだ。そうシルビー・バルタンか、マージョリー・ノエルあたりがいいなと思っていたところ、彼女はやおら立ち上がって、なんと「枯葉」を熱唱しはじめたのだ。一気に座がしらけはじめた。台詞が始まる頃には、歌など無視しておしゃべりに熱中するするグループと、ハラハラしながら耳を傾けるグループに分かれた。さすがにJさんも場の雰囲気を察知したのか、突然歌うのをやめて泣き始めた。みんな凍りついてしまった。すごく長い時間に感じたが、多分30秒くらいたったときに野口さんが立ち上がって彼女をかかえて階段を下りていった。そして忘年会はおひらきになった。

  その事件の後、お正月明けまでJさんは大学に出てこなかった。1月7日になってやっと出てきた時にはさっぱりとしたにこやかな顔だったので、私はほっと胸をなでおろした。バベットはまじめにインターナショナルスクールに通っているらしく、研究室には顔を出さなくなった。冬の大学はとても忙しく、あっという間に時は過ぎ去っていく。Jさんも留学のしめくくりに研究発表をすることになり忙しくなった。当然研究は完成していないが、中間報告をすることは求められる。残った仕事はオルセイで続行することに決めたようだった。彼女は野口さんに「教授にきちんと指導とサポートをしてもらえなかったのは残念です」とこぼしていたようだ。

  3月はじめにその発表会が開催された。彼女の研究発表はいつもの私たちの発表会とは少し趣を異にしたものだった。まだ日本語での発表は無理だったので一生懸命英語で発表するのだが、発音が完璧にフランス流だったのですごく違和感があった。例えば実験 experimentation はエクスペリマンタシオンと発音する。まあそれでも馴れればネイティヴの英語よりはむしろわかりやすかったのだが・・・。もうひとつ瞠目したのは、ただの折れ線グラフや棒グラフまでカラーのスライドで発表したことだった。当時このようなスライドはモノクロかせいぜい背景をブルーにするぐらいが普通だったので、彼女のスライドはとてもおしゃれに見えた。もちろん今はパワーポイントで発表するのが当たり前なので、カラーを使わない発表なんてほとんどあり得ないことになってしまったが。

☆ ☆ ☆

  忙しさにかまけているうちに、あっという間に時は過ぎ去ってしまう。Jさんたちとお別れする最後の日がやってきた。会議室でお茶会をやることになった。久しぶりにバベットも現れた。私はバベットに「今日でお別れだね。バベット泣く?」と訊いてみた。バベットは人差し指を立ててふりなかがら「ちっちっち」と言ってウィンクした。そうそうその仕草は母親も使っていたっけ。子供としては生意気な感じだが、でもバベットらしくて安心した。会がお開きになり、いよいよお別れと言うときに、私は研究室で撮影したバベットやJさんの写真をアルバムに整理してプレゼントした。バベットも私に一通の封筒をくれた。そして私に向かって「ボビー 偉くなってね」と生意気にも激励してくれた。私はバベットの手を強く握って「かもね」と言った。そして部屋を出て行くときJさんが振り向いて、はじめて私に微笑みながらウィンクしてくれた。なんだか私ははじめて彼女が大人として私に接してくれたような気がして嬉しかった。アパートに帰って封筒を開けると、1枚の便箋の中央に小さなハートのマークが描いてあり、下にカタカナで エリザベート(バベット)・ジョアシャン と署名があった。

  4月になると、東北地方の大学に研究補助員の仕事があるというので野口さんが出て行った。Jさんもバベットも野口さんもいない研究室は、私にとっては廃墟のようだった。すっかりテンションも落ちて、ただただ下宿と研究室を機械的に往復して研究を続けていた。

☆ ☆ ☆

  3人がいなくなって約1年経過し、私の修士論文の審査が終わって、なんとか博士課程に進学できそうだというめどがついた頃、ひょっこり野口さんが研究室に現れた。助手に昇格することができたそうで、教授に報告するために来たとのことだ。帰り際に彼は私の肩を抱いて、また御徒町のスナックに行こうと言った。私も久しぶりで野口さんと話がしたかった。春日通りを御徒町の方に歩いていく途中で、私が

「バベットが大人になったら、またJさんとバベットと野口さんと僕の4人で飲みたいですね」と言うと、野口さんはうつむいて

「それがなあ・・・。Jさんは先月亡くなったんだ。オルセイの研究所の知り合いから手紙をもらったんだが、膀胱癌が転移していて手遅れだったそうだ。」

私はショックで「えー」と言ったきり言葉が出てこなかった。湯島ハイタウンのバス停近くに座り込んでしばらく動けなかった。

「でバベットはどうしているんですか?」
「ブルターニュの叔母の家に行ったそうだ」
「・・・・・」

Jさんは発癌剤をいろいろ使っていたので、どこかで吸い込んでしまったのかなという思いに私は押しつぶされそうだった。

  結局御徒町のスナックには行かずに、JR御徒町駅で野口さんと別れた。私は山手線に乗って呆然とシートに腰掛けて、Jさんとのいろんなシーンを回想した。ぼーっと窓の外を通り過ぎるネオンをみつめているうちに3周くらい周回してしまった。やっと電車を降りて、暗い夜道を歩きながら私は「学位をとったら、きっとブルターニュに行ってバベットに会おう」と心の中で繰り返していた。

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2012年3月12日 (月)

あとがき

この作品集に含まれる物語はすべてフィクションです。実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。

この作品集に使用した写真は自分で撮影したもの以外に、「フリーフォトサイト足成」に投稿されていたものを一部利用させていただきました。フリーフォトサイト足成および投稿者の皆様に感謝します。

( monchan )

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2016年7月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために1: 川沿いの道を歩いて

A1820_000010Aが転校してきたのは小学校5年生の2学期だった。小柄で可愛い感じのおかっぱ少女だった。ただほとんど勉強はしないらしく、授業中の先生の質問には何も答えられなかった。指名しても立ったまま押し黙っているだけだったので、そのうちあてられなくなった。

しかしお習字の時間が来ると、人が変わったように生き生きと美しい字を書いていた。とても子供の字とは考えられないくらい立派な字だった。

2学期が終わる頃になって、授業の最後に担任の先生がある発表をした。それは給食の代金を支払っていない人がいるという話で、その名前を読み上げた。その中にAの名前があった。どうしてそんなことをやっていたのかわからないが、子供心にも「残酷なことをするんだなあ」と、不快な気持ちになったことを覚えている。発表は次の週にもあり、そのときはAだけが支払っていなくて、Aは昼休みに先生に呼びつけられ、親に連絡するようにきつく申し渡された。職員室ではなく、教室の隅でそんな話をするので、近くにいた者には聞こえてしまうのだ。

その後支払いがどうなったかはわからない。そして3学期になった。Aは目に見えて元気を無くしたように見えた。そのうちお習字の発表会があって、やはりAの作品はとびぬけて素晴らしかった。私はAのところに行って、「本当にきれいな字だね」と絶賛した。Aは微笑んだようにみえたが、次の瞬間顔を後ろに向けてうつむき、そのまま黙ってしまった。

翌日の放課後、Aの方から私のところにやってきて 「うちに来ない?」 と誘ってきた。私は 「いいよ」 と言って、彼女について行った。学校から川沿いの道を上流にしばらく歩いて行くと、民家も途切れて、舗装道路が山道のような細い道になった。さらに川沿いをさかのぼると、壊れかけたバラックのような建物が見えてきた。Aは小走りに家に入っていって、2~3分すると母親と2人で出てきた。母親は明らかに迷惑そうで、扉の外で頭を下げる私に挨拶しないばかりでなく、目も合わせなかった。

母親が家に引っ込むと、Aは「ここが私の家」と言って屈託なく(いや、ことさら屈託なさそうに)笑った。そして 「外に行こう」 と私の袖をつかんで、河原の方に降りていった。ふたりで並んで河原に座り込んだ。何か話したのか、何も話さなかったのか記憶にないが、しばらくするとAは立ち上がり、川面に石を投げはじめた。私も河原の石をひろってサイドスローで投げた。石はポンポンとバウンドして対岸まで届いた。Aは私の方を見て、(こんどは本当に)屈託なく笑いかけた。

2人はAの家までゆっくり歩いてもどり、戸口のところまで来ると、Aが 「じゃ、さよなら」 と言うので、私も 「さよなら」 と言って別れた。数十歩くらいだろうか、歩いた後振り返ると、Aは戸口に立ったまま、まだ私の方を見ていた。私は手を振って、また山道を下っていった。もうすぐ日没だった。

その後Aと2人で話す機会は一度もなく、私は6年生となり、Aはまた転校していった。

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寄る辺なき記憶の断片のために2: 青い眼の人

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今でも朝礼はやっていると思うが、私が小学校4年生の頃通っていた学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。

あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらかの基準(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。

その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして中に私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅した時に誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。

達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

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寄る辺なき記憶の断片のために3: トライアングル

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多分小学校4年生の2学期頃だったと思う。通常お昼は給食だったが、たまに給食が休みで弁当持参になる日があった。

当時の私たち一般生徒は、弁当箱にご飯とおかずを詰め込んだものを食べることになるわけだが、Bは違っていた。Bが持ってくるのは弁当箱ではなく、バスケットだった。まずバスケットからテーブルクロスを取り出して机の上に広げ、手作りの分厚い、しかもレタスやチーズがはみ出しているサンドイッチを取り出す。さらにオレンジ丸ごと1個と果物ナイフをとりだして、起用にオレンジの皮をはがして4分割する。そんな作業をしてから彼の昼食がはじまる。当時はまだマクドナルドのようなファーストフード店が日本に進出していない時代だったので、Bの昼食は結構ものめずらしかったのだ。

そんなBだから、クラスのみんなからは少し浮いていた。Bの母親は水商売をしているといううわさもあった。ただ私はそんなBに興味をひかれたのかそこそこ仲良くしていた。ある日Bが「二人でトイレのボックスに入って面白いことをしてみないか」と私に提案してきた。何をするのか好奇心はあったが、多少不安もあったので、私はCも誘って3人ではいることにした。誰もいないタイミングを見計らって、3人でボックスに入った。

Bはそこでみんなにズボンのチャックを下ろしてペニスを出そうと提案し、さっそく自分のものを引き出した。私はすぐに同調したが、Cがためらうので2人で強引にチャックを開けさせた。恥ずかしがっていたものの、Cも多少興味を感じたのか、ボックスから逃げ出しはしなかった。Bはすぐ私のペニスを握り、「お前もCのを握れよ」 と言った。言われたとおりに私はCのペニスを握り、CはBのを握った。トライアングルの完成だ。Bは私のペニスをしごき始めたので、私とCも同じ行動をはじめた。やわらかい包皮の感触がいまでも残っている。

2~3分やっているうちにベルが鳴って休憩時間が終了した。3人はあわててボックスを出た。幸いにトイレには誰もいなかった。授業が終わって、Bと帰途についた。Bはいつになく上機嫌だった。帰り道の途中にある急な坂道を息をきらしながら登り終えたとき、突然Bが 「セックスってどうやるのかなあ」 と訊いてきたので、私は 「知らない」 と答えた。その話題はそこでおしまいになり、先生やクラスメートの話をしながら帰った。その後3人になったときも、トイレでの出来事が話題になることはなかった。

今から考えてみると、Bは両親か近縁者のセックス行為を垣間見たのではないだろうか。今のように、雑誌やウェブサイトで子供がお手軽にポルノ画像をみられるような時代ではなかったので、多分そうだったのだろう。そして自分のペニスが勃起しないので心配になり、他人の手を使ってみようと試したに違いない。私もCも勃起しなかったので、自分だけに問題があるのではないという結果を見て、「子供には無理なのかもしれない」 という結論に達し、安心したのではないだろうか。私とCは彼の実験動物として使われたわけだ。

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寄る辺なき記憶の断片のために4: 白いワンピースに黒のベルト

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小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。

しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、男子に人気があって彼女の周りに集まってくるような人物ではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分が弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられ、クラスから浮き上がっているというのが実に嫌な気分だった。

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、今考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とお祝いを言ってくれた。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった(こちら)。それは南野陽子も通ったという私立女子中学の制服だった。私は彼女がその中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝くDをみて、本当に良かったなと思った。

(写真はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために5: シロアリ

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小学校の時はよく「いきものがかり」をやっていた。校庭の隅に動物小屋があり、数匹のウサギを飼育していて、「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。そういうわけで、中学校に入学してもそういう部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかけられたわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でも天下の理研でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためには腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギー源を得ることが必要なのだ。その原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在でも実現していないので、どだい困難きわまりないテーマだったということは、当時知るよしもなかった。

http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150512_2/

まず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていた位なので、見つかるわけも無く、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。アリがハチと近縁なのに対して、シロアリはゴキブリの仲間だ。全身が白い働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し、全部死んでしまうと言う事件もあって、グループリーダーは部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。私たちのグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで、城田先輩は私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちにふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋に誘導して、母親が病気だと告げた。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんも1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があったため、私たちもそれぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、就職したのはおそらく彼1人だったと思う。金銭的な事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で、私の最初の研究指導者だったと思う。貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。

(図はウィキペディアより)

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寄る辺なき記憶の断片のために6: 生物教師

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私が通っていた学校(中高一貫)には、生物の先生がふたりいた。ひとりは京都大学出身のエリート然とした先生で(F先生とする)、生徒と親しく話しをすることはほとんどない人だった。

ただFは私たち生物クラブの生徒をよく山に連れて行ってくれた。Fは植物に詳しくて、種の識別方法など丁寧に説明してくれたが、今ではすっかり忘れてしまった(すみません)。特別な報酬もなく、夏休みや休日をつぶして私たちにつきあってくれたことにはとても感謝している。中高の先生が余裕を持って生徒に接してくれるということは、とても大切なことだと思う。現在の学校には欠けていることだ。

一番思い出に残っているのは、南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳に登り、鋸岳の稜線(写真)を縦走して中ノ沢乗越から熊ノ穴沢をおりてきた山行だ。北沢峠は現在では新宿からバスで行けるような場所だが、当時は東京や神戸から2~3泊しないとたどりつかないような秘境だった。

鋸岳周辺は、今ではおそらく随所に鎖や鉄梯子などが整備されていると思うが、当時は古いほつれかけたザイルだったり、木製のはしごもステップが腐って脱落し、2本の棒がところどころ残った桟でつながっているというような状況で、実態が露見すると懲戒ものの危険な山行だったと思う。しかし当時はみんなスリルを満喫できることの冒険心が勝っていて、文句を言う部員は誰もいなかった。帰宅したあとも、当然誰も親に「滑落の危険があった」などとはチクらなかったようだ。現在の地図をみても(下のリンク参照)、熊ノ穴沢の降り口には ”危”の文字が見える。

http://yama.ayu-ayu.net/?eid=1081380

山小屋に泊まるとき、Fはいつもランプの灯火で本を読んでいた。あるときこっそり覗いてみると、それはRシュトラウスの「アルプス交響曲」の楽譜だった。私ははじめて楽譜で音楽を楽しむ人を見て、ちょっと感動してしまった。もちろん当時 iPod などはなかった。

もうひとりの生物の先生(G先生とする)は生徒にフレンドリーな先生で、何でも気軽に質問や相談ができる人だったが、クラブ活動にはほとんどノータッチだった。今考えてみると、京大出のF先生に遠慮していたのかもしれない。そのG先生が、私たちが中学2年生の頃、まだ40才台なのに突然退職すると宣言したのには驚いた。

私たちの学校は受験校だったとはいえ、受験科目に生物を選択する生徒はわずかで、どうみても生物教師はプレッシャーのかからない気楽な稼業としか思えなかった。私は高校3年生の時、生物と化学を受験科目として選択するクラスに振り分けられたのだが、通常50人くらいのクラスが、そのクラスは4人だった。生物はいわゆる暗記物とされていて、勉強に時間をとられるのが嫌われるのだ。G先生がどうしてやめるのか、その理由は全く伝わってこなかった。

青天の霹靂で、学校もかなり慌てた様子だった。結局どこかから、赤ら顔でずんぐりむっくりの40才くらいの教師(H先生とする)を臨時採用することになった。Hは生物クラブにも興味があるようで、ときどき部室に現れた。しかし話すことが少しおかしいのだ。例えば「私は野口英世の弟子で、彼から直々に顕微解剖を教わった」と自慢するのだが、年齢的にGが野口英世の弟子というのはあり得ない話だし、だいたい野口英世は細菌学者なので、顕微解剖などやっていたのかどうかも疑わしい。ロックフェラーに留学していたような人が、どうして失業して臨時教師としてひろわれるのかというのも不可解だった。中学生でもそのくらいの疑念は持った。ただどこからかミミズを採集してきて、顕微鏡下でメスで切ったりして内臓などをみせてくれていたのは事実だ。

あるとき私がひとり部室で作業しているとき、Hが入ってきて、突然私の肩を抱いて耳に息を吹きかけきた。気持ちの悪いオッサンだと思ったが、そのときは単なる悪ふざけだと思っていた。しかし次の日には同じ姿勢から、私の耳元で「スキッ」とささやいたのだ。確かに「スキッ」と言った。私は硬直してなにもできなかった。

その事件があってから、私は悶々と過ごすことになった。「私は生まれつきホモに目を付けられる体質なのだろうか」という疑念に苛まれた。部室にも近寄れなかった。部活命だった私としてはとても辛い毎日だったが、2週間くらい経過して、ようやく意を決して部室に行ってみた。毎日出入りしていた私がしばらく部活を休んだので、心配したのかクラブ仲間が話しかけてきた。

「ひょっとしてHに何か言われた?」
私がもじもじしていると、彼は「ボクは告白されたんだ」と続けた。
私は仰天して「え、みんなに言ってるのか?」と訊いた。
彼は「やっぱりな。いや他にも言われた奴が何人かいるらしい」

私は彼と話し合って、F先生に相談してみることにした。しかしF先生は「そんなことはないだろう。ちゃんとまじめに指導してもらいなさい」と、まるで私たちがふざけているかのように、Hの言動についてまじめにとりあってくれなかった。私たちは本当にがっかりして落ち込んだ。

しかしHの言動は次第にエスカレートしていき、ついには授業でセックスの話とかをしはじめて、このままだとスキャンダルに発展しかねないような事態になっていった。さすがにF先生もHについては口をとざすようになった。それでも学校はHを解雇できず、結局2年間私たちはHにつきあわされることになった。悪夢のような2年間だったが、クラブではHがはいってきても全員シカトするというコンセンサスができて、そのうちHは部室には来なくなり、部活は正常にできるようになった。

さすがに2年経過して、私が高校生になる春にHは解雇された。びっくりしたのはHの後釜がG先生だったことだ。何事もなかったかのように、Gはまたニコニコと私たちに接する元通りの教師となった。

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2016年8月18日 (木)

小旅行

4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、その狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。たった1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もすっかりなじんでしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。
暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。
私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。
まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

「それにしてもここは何処なんだ」

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからマーラーの交響曲第9番の冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=eaaAbrkOH_Y

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンの荒い息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

800pxcharon_by_dore_2

しばらくすると薄暗がりのなかで、中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!
https://www.youtube.com/watch?v=7o13VEU5vus

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。
ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうち今生きている家族や友人たちや、サラとミーナにもまた会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。

そんなことを考えているうちに、私は意識を失ってしまった。

どのくらい経過したのだろう。突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの看護婦が、採血の準備をしていた。
「お目覚めですか」と看護婦は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。

看護婦がカーテンを閉めないで去ったので、けやきの緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

「もう少し生きろってことかな.....」 と私はつぶやいた。

(カローンの画像は wikipedia より)

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2017年10月 2日 (月)

誰かがおやすみとささやくバルコニーにて 1.夕暮れカミニート

夕暮れカミニート

そうね 出会いは渚のカフェで
誰もいない 遅い朝
どうして あなたは同じテーブルに
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の腕の中
私は赤く あなたは透明

そうね 別れは夕暮れカミニート
遙かな風の コレドール
どうして あなたは振り向かないの
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の胸の中
私の街に あなたはいない

カリブの海で、砂浜で、
気ままに泳いで 抱き合って
私はキール あなたはモヒート

私の街に あなたはいない
私の街に あなたはいない

(monchan)

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誰かがおやすみとささやくバルコニーにて 2.ピアノを弾くシルフィード

ピアノを弾くシルフィードへ

私の体の中の1番淋しい場所で
あなたを沐浴させてあげましょう
そこは生暖かい風が吹く何もない場所
だけど涸れることのない小さな泉があって
ずっと昔から誰かが来てくれるのを
待っています

私の体の中で1番激しい場所で
あなたはピアノを弾いてくれるでしょう
風にひらひらとシルフィードが踊る場所
やがて夕闇におおわれて風もやみ
ピアニッシモと秘密の香りが
傷を癒やすのです

( monchan )

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誰かがおやすみとささやくバルコニーにて 3.ときには

ときには

ときには
あなたを海にさそって
ビキニで波にたわむれ
こっちに泳いでおいでよ
と手招きしてみたけれど、
あなたはビーチで微笑むだけ

ときには
あなたをカフェにさそって
「モディリアニの絵で
細いのは顔だけよ」
と話してみたりしたけれど
あなたは静かに微笑むだけ

あなたは私をみつめて
愛していると言うけれど
本当・・・

ときには
ふたりで部屋に閉じこもり
裸で見つめ合いたいの
心と体のすべてを
とささやいてみたりしても
あなたは静かに微笑むだけ

あなたは私をみつめて
愛していると言うけれど
不安・・・

いまはもう冬
陽ははやばやと
地平線に沈み
ゆっくりと
暗闇がひろがっていく
私はどこに行くの
私はどこに行くの

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