86.PCR
PCRとはポリメラーゼ・チェイン・リアクションの略称で、DNAを大量に増やす方法です。痕跡的少量のDNAでも検査に十分な量まで増やせるので、今では警察の捜査でも定番になるほど普及しました。本題に入る前に、少し歴史的経緯をみてみましょう。
一般には大腸菌くらい簡単に培養できるのだろうと思われがちですが、昭和時代にはそういうわけにはいきませんでした。私が学生時代、同じ建物に微生物学教室がありましたが、そこには宇宙船のハッチのようなものがあって中に入ると数人が作業できるような部屋があり、各種実験器具、培地、シャーレ、Lブロス、ピペットなどが大量に積み重ねられていました。これは高温高圧で滅菌作業をするボイラー室でした。空気中には雑菌が浮遊しているので、これらを芽胞を含めて完全に死滅させるには高温高圧(たとえば121℃、20分)で処理しなければいけません。上記の実験器具などは使う前にすべてこのボイラー室に入れて高温高圧処理します。
ボイラー室を管理運営するためには、資格を持った技術員を雇用しなければなりません(1)。実験は普通の実験台ではできず、クリーンベンチという、外から雑菌が流入しないように空気の流れをコントロールした、巨大な無菌ボックスの中に手を突っ込んで行わなければなりません。現在では実験器具はすでに企業で滅菌した使い捨て製品を買って使う場合が多く、このてのプラスチック製品は使った後棄てるだけなので、よほど特殊な実験でなければボイラー室を使うことはなく、廊下の隅にでも置けるようなオートクレーヴ装置(高圧蒸気滅菌)で事足ります(2)。ただしクリーンベンチで仕事をしなければいけないことに変わりはありません。
ですから当時の生命科学研究者にとって、大腸菌にプラスミドを入れて遺伝子を増幅させるという作業は、大がかりな設備が整った微生物学の研究室以外ではじめるには大きな壁がありました。増幅させたいのはDNAという化学物質なので、なんとか細菌を使わず酵素を使ってやりたいと思うのは当然です。そこに登場したのがマリス(図86-1、Kary Banks Mullis)でした。
マリスはカリフォルニア大学バークレイ校で学位を取った後、カンザス大学の小児心臓病研究室のポストドクになり(1972年)、1975年までに2度離婚して仕事も辞めバークレーに舞い戻りました。バークレーでは最初の妻が経営するコーヒーショップで店長をやっていたそうです(3)。そんなある日、バークレー校時代の友人であるトーマス・ホワイト(図86-1)と再会し、ホワイトの紹介でカリフォルニア大学サンフランシスコ校のポストドクになり、脳研究をはじめました。しかしそこも結局すぐにやめてしまい、困ったホワイトは自分が幹部社員であるシ-タス社に、技術員としてもぐりこませることにしました(3、4)。持つべきものは友です。
図86-1 トーマス・ホワイトとキャリー・マリス
マリスは著しく協調性を欠く性格で、会社でまわりと衝突をくりかえすやっかいものでしたが、ホワイトはあえてDNA合成室長に抜擢しました。ここでマリスはDNA合成自動化装置の製品化で貢献して、ようやく会社での自分の立場を確立しました。そうして1983年、有名な出来事が起こります。文献4の記述をあえて英語のまま引用します。
In 1983, while driving along the Pacific Coast Highway 128 of California in his Honda Civic from San Francisco to his home in La Jolla, California, USA, Kary Mullis was thinking about a simple method of determining a specific nucleotide from along a stretch of DNA. He then, like many great scientists, claimed having a sudden flash of inspirational vision. He had conceived a way to start and stop DNA polymerase action and repeating numerously, a way of exponentially amplifying a DNA sequence in a test tube(4).
ドライブ中に突然あるアイデアが浮かんだというわけです。それはPCR(ポリメラーゼ・チェイン・リアクション)法の根幹となるすばらしいアイデアだったのですが、マリスは相変わらず喧嘩をくりかえし、アイデアが採用されるどころか「早くクビにしろ」という多くの研究員からの要請がホワイトのもとに届く有様でした。
ホワイトはそのアイデアを評価しましたが、実験が下手くそな上に室員との折り合いも最悪なマリスにまかせておいてはどうにもならないと考え、マリスを棚上げして、彼のアイデアを実現するプロジェクトを別の研究室で立ち上げました。そうしてからはランディ・サイキとスティーヴン・シャーフという優秀な研究者達が中心となって、順調に仕事は進み完成しました。
論文のファースト・オーサーはマリスで、マリスがまとめる予定だったのですが、さっぱり論文を書かないので、結局1985年にサイキ(5)、1986年にシャーフ(6)が論文を書くことになりました。マリスがやっとこさ論文を書いたのはオリジナルペーパーというより実験技術の本で、1987年になってしましました(7)。そこまで待っていたらシータス社は特許をとれなかったでしょう。それでもマリスは1993年にノーベル化学賞を単独で受賞しました。マリスというのは本当にツキのある人です。
ここでPCR法の基盤となるDNAの性質を簡単に述べます。DNAの二重鎖は高温(図86-2では94℃)で解離し一重鎖となります。ゆっくり低温にもどすとアニーリングがおこって、再び二重鎖が形成されますが、急速に温度を下げると長いDNA鎖はアニーリングをおこしにくく、一重鎖のままとなります。ここに短いプライマーを投入すると相方の相補鎖より優先的にDNA鎖に結合することができます。
図86-2 DNAの熱変成
そこで一重鎖DNAをつくるべく50℃~60℃に急冷した後、プライマーを大過剰に投入してDNAと結合させます(図86-3)。プライマーとは鎖長が短い相補性DNAです(赤線 図86-3)。一重鎖DNAが元の相方を見つけて二重鎖に戻らないうちに、プライマーが先に結合する条件をみつけることがポイントです。
図86-3 プライマーを目的のDNAと結合させる
次に72℃に温度を上げて高分子DNAのアニーリングを阻止しながら、DNAポリメラーゼと基質を投入してDNA合成を行わせます(図86-4)。この温度でDNA合成を行わせるには、後述のTaqポリメラーゼという特殊な耐熱性のDNAポリメラーゼが必要です。
図86-4 高温でのDNA合成
もともと生物が出現しはじめた頃の地球は高温で、当然その頃の細菌・古細菌は好熱性だったわけです(8)。そして現在でも一部の真正細菌や多くの古細菌は温泉などの高温環境で生活しています。しかしはるか昔の地質時代とはことなり、現在は芽胞という熱に強い特殊な仮死状態で生きている生物も多く、そのような生物では酵素がすべて耐熱性とは限りません。トーマス・ブロックとハドソン・フリーズ(図86-5)はそんななかから、Thermus aquaticus という至適増殖温度が70℃~72℃の真正細菌を分離しました(9)。これは当時としては驚異的な高温で生育する生物でした。しかもこの温度はPCR法を実行する上で都合の良い温度でした。
アリス・チエン(図86-5、現アリス・チエン・チャン)は Thermus aquaticus からDNAポリメラーゼを抽出・精製し、これは後に学名の頭文字から Taqポリメラーゼと名付けられました(10)。ブロック、フリーズ、チエンらはこんな面白いめずらしいものがあるよというような感覚で研究していたと思いますが、これが20世紀でも指折りのイノベーションになるとは、全く予想していなかったでしょう。科学の進展はしばしば思わぬところからもやってくるというのは繰り返し述べているところです。
図86-5 Taqポリメラーゼの発見と実用化に貢献した研究者達
通常のDNAポリメラーゼを使ってPCR法をやろうとすると、37℃でDNA合成を行わなければならず、この間にもとの巨大分子であるDNAのアニーリングがおこるために効率が下がり、さらにまずいことに94℃に温度をあげるとDNAポリメラーゼは失活します。そうすると1サイクルごとに酵素を新たに添加することが必要で、かつだんだん効率が悪くなるわけです。こんなところが誰もPCRなどということを考えなかった理由なのでしょう。
しかしTaqポリメラーゼを使うと状況は一変します。72℃で絶好調、94℃でも失活しないので酵素の添加は不要ですし、72℃の反応では長鎖DNAのアニーリングはおこらないので、効率も落ちません。つまり温度をたとえば 96℃→56℃→72℃→96℃→56℃→72℃→ というように繰り返し変化させるだけで、魔法のようにDNAが増幅されていきます(11)。このようなことを考えると、Taqポリメラーゼの発見を差し置いて、マリスが単独でノーベル賞を受賞したことには疑問が感じられます。
図86-6をみていただくと2サイクル目で、目的のDNAが1本鎖だけですが(緑)生成されていることがわかります。図86-7の3サイクル目では8本生成される二重鎖DNAのうち、2本が目的DNAの二重鎖です(緑・緑)。いったん二重鎖目的DNAが生成されると次のサイクルではその二重鎖DNA(緑・緑)が複製されます。こうして4サイクル目には16本生成される二重鎖DNAのうち8本が目的の二重鎖DNAとなり、サイクルが進むにつれて目的DNAの純度は上がって、最終的にはそれ以外のDNAは無視できるくらいの割合になります。
図86-6、図86-7をじっくりとよく眺めてください。最初は様々なDNAが合成されますが、同じことを繰り返しているうちに目的のDNA(緑)=黒の元DNAを複製したもの、が自動的にメインになっていく。そう、まるで魔法のようなギミックに茫然とします。このプロセスを続けていくと、最終的にはほとんどが緑:緑の二重鎖DNAとなり、これが目的のPCR産物です。
図86-6 PCR法によるDNAの複製I サイクル1とサイクル2
図86-7 PCR法によるDNAの複製II サイクル3
先輩からはこのPCRの作業をやるために、何時間トイレを我慢したというような話を聞かされました。3つのウォーターバスを用意して、それぞれ96℃、56℃、72℃に設定し、やることと言えば、時間が来ると試験管をあっちからこっちのバス移動させるだけの作業を延々と繰り返すだけなのです。お疲れ様。
しかし当然2~3年もすれば自動的に移動させる装置が発売され(図86-8A)、さらに同じ試験管の液体を極めて短い時間で温度変化させる新機軸の開発もあって、やがて水槽は不要となり、極めて小型の装置で作業を行えるようになりました(図86-8B)。現在では生成したDNAをモニターできるような光学系を装備したリアルタイムPCR装置が主流となっています(図86-8C)。
PCRが普及することによって、バイオテクノロジーの研究室や工場のみならず、科学捜査や感染微生物の同定など社会の様々な場面で、この技術が利用されるようになりました。本物のジュラシック・パークも開園できるかもしれません。
図86-8 PCR装置
ひとつ気をつけなければならないのは、もとのサンプルに微量の目的とは異なるDNAが混在していた場合、それも増幅されてしまうということです。生成物を電気泳動法などで解析すれば、何種類のDNAが生成されたかわかります。エラーで実験失敗程度なら笑えますが、科学捜査の失敗や、思わぬ病原遺伝子の増幅などということがおこればしゃれになりません。
参照
1)2級ボイラー技士の合格率と資格取得後のキャリアアップ
https://www.sat-co.info/boiler-engineer
2)オートクレーヴ
http://www.zetadental.jp/category-1888-b0-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%96.html?_ad=1&gclid=EAIaIQobChMIx5K-37OK1gIVywcqCh11wg9bEAAYASAAEgKsi_D_BwE
3)野島博著 「分子生物学の軌跡」 化学同人 (2007)
4)Ma Hongbao, Development Application of Polymerase Chain Reaction (PCR), The Journal of American Science vol. 1, no. 3, pp.1-47 (2005)
5)Randall K. Saiki, Stephen Scharf, Fred Faloona, Kary B. Mullis, Glenn T. Horn, Henry A. Erlich, Norman Arnheim. "Enzymatic Amplification of β-globin Genomic Sequences and Restriction Site Analysis for Diagnosis of Sickle Cell Anemia" Science vol. 230 pp. 1350-1354 (1985).
http://www.sciencemag.org/site/feature/data/genomes/230-4732-1350.pdf
6)SJ Scharf, GT Horn, HA Erlich "Direct Cloning and Sequence Analysis of Enzymatically Amplified Genomic Sequences" Science vol. 233, pp.1076-1078 (1986).
7)Mullis KB and Faloona FA "Specific Synthesis of DNA in vitro via a Polymerase-Catalyzed Chain Reaction." Methods in Enzymology vol. 155(F) pp. 335-350 (1987).
8)http://morph.way-nifty.com/lecture/2016/09/post-1be1.html
9)Brock, Thomas D.; Hudson Freeze (August 1969). "Thermus aquaticus gen. n. and sp. n., a nonsporulating extreme thermophile". Journal of Bacteriology. American Society for Microbiology. 98 (1): 289–297. PMC 249935 Freely accessible. PMID 5781580.
10)A Chien, D B Edgar, and J M Trela., Deoxyribonucleic acid polymerase from the extreme thermophile Thermus aquaticus. J Bacteriol. 1976 Sep; 127(3): 1550–1557.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC232952/
11)RK Saiki, DH Gelfand, S Stoffel, SJ Scharf, R Higuchi, GT Horn, KB Mullis, HA Erlich., Primer-directed enzymatic amplification of DNA with a thermostable DNA polymerase., Science 29 Jan 1988: Vol. 239, Issue 4839, pp. 487-491DOI: 10.1126/science.2448875
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