36.メンデルの再発見
「メンデルの再発見」というのは科学史上の大事件ですが、「再発見」というのに少しひっかかります。昔の論文の追試をしたら、その通りの結果が出たとも言い換えられるわけで、そんな実験結果が次々と発表されたのが1900年という年だったのです。中沢信午氏の著書「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」(1)を読むと、メンデルの論文が発表された1866年から、再発見される1900年まで、誰もがメンデルの研究を忘れていたわけではないそうです。実際メンデルの論文はスウェーデン・ロシア・ドイツ・USAの科学者達によって引用され、ブリタニカ百科事典第9版(1881~1895)にも紹介されています(1)。
つまり気にしていた科学者はそこそこいたのですが、きっちり検証しようとした人は少なかったということでしょう。ド・フリースはケシの花色について、メンデルを意識した実験を行いました。そうすると花色の遺伝の様式がメンデルの法則にきっちり合っていることがわかり、さらに他の多くの例を追加して、メンデルの正しさを証明しました。普通ならド・フリースがメンデル再発見の栄誉をひとりじめできたのかもしれませんが、彼はちょっとした失敗をしてしまいます。1900年に彼は研究結果をほぼ同時にフランス語とドイツ語の論文にして発表したのですが、そのフランス語の論文にメンデルの論文が引用されていなかったのです。後の検証によって、これは編集上のミスだったとされています。家族に不幸があったために、きちんと校正をやってなかったらしいです。論文を執筆する人間にとって、編集者からの改善依頼とともに、校正の作業は大変骨の折れる作業であり、なかなか無事に済ませることができない難関です。
ド・フリースのフランス語の論文を読んだチェルマクとコレンスはびっくりしました(彼らのところに送られてきたのはフランス語の論文でした)。彼らもメンデルの実験の追試をやっており、メンデルの正しさを確認していましたが、彼らは追試なので発表するほどの価値はないと思って、データをしまっていたのです。まるでド・フリースが自分でメンデルの法則を発見したかのような論文の書き方に、彼らが激怒したのは理解できます。しかもチェルマクは1898年にド・フリースを訪問しており、そのときにド・フリースがメンデルの研究を知っていることを確認していました。コレンスはあわてて論文をまとめて発表しました。チェルマクもも同じ年に論文を発表しました。このような事情によって、この3人がメンデルの再発見者ということになっています(図36-1)。
図36-1 メンデル再発見にかかわった人々
メンデルの法則が動物にも適用できることをはじめて証明したのはカイコ研究の泰斗である外山亀太郎です。農学関係者は誰でも知っていることですが、このことは意外に他分野の研究者にはあまり知られていません。外山亀太郎の業績については、現在でもカイコの研究を引き継いでいる東京大学の昆虫遺伝学教室のホームページに解説があります(2)。彼は若い頃は設備がなく自宅で研究していて、カイコのエサは窃盗で調達していたそうです。もうすこし設備があれば1900年までに研究が発表できて、あの3人に並んで再発見者になれたのにと悔やんでいたとのこと(3)。メンデルに関しては公益財団法人日本メンデル協会という組織があって、雑誌 Cytologia 刊行・講演会・展示会など活発に活動しています(4)。
メンデルの論文「雑種植物の研究」は、はやくも1928年に小泉丹によって翻訳されて岩波文庫で出版されています。私が持っているのは第14版ですが(図36-2左)、これはさすがに旧仮名遣いで読みにくいので、 岩槻邦男 ・須原凖平 によって再翻訳され、1999年に岩波文庫で再出版されました(図36-2右)。読むのならこちらを推奨します。
メンデルの理論はその後染色体説などによって補強され、遺伝の原理として認められましたが、1934年にルイセンコ(図36-3)が獲得形質の遺伝を主軸とした反メンデル理論を発表し(5)、これがスターリンや、第二次世界大戦後もフルシチョフ、毛沢東、金日成などによって支持され、特にソ連(現ロシア)ではメンデル支持者の投獄や処刑が行われるという、まさしく焚書坑儒のような悲惨な事態を招くことになりました。
図36-3 トロフィム・ルイセンコの肖像
ここまでひどくはありませんでしたが、欧米や日本でもメンデルに固執する学者は守旧派で、遺伝を説明する新しい理論を求めるのが新時代の科学者という風潮はひろがっていました。これを見事に粉砕したのがワトソンとクリックによるDNAの構造解明で、これによってメンデルの正当性に分子生物学による基盤が付与されることになりました。私も若い頃にルイセンコ論争に興味を持って、中村禎里の本「日本のルイセンコ論争」を読んだりしましたがなくしていまいました。現在は新版が出版されているそうなので、興味のある方はご覧になるといいと思います(6)。
ルイセンコ論争は政治家という素人集団が科学に深く関わることの危険性の例証であるとも言えます。政治家は科学を注意深く見つめる必要がありますが、自ら指揮しようとしてはいけません。また教条主義・愛国主義は科学の敵であり、科学は常に自由でインターナショナルであるべきです。
参照
1)中沢信午著「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」 新日本新書(1998)
2)東京大学 大学院 農学生命科学研究科 昆虫遺伝学研究室 外山亀太郎先生について
http://papilio.ab.a.u-tokyo.ac.jp/igb/ja/profile2.html
3)外山亀太郎が興したカイコの遺伝学の今日的意義 嶋田透 第33回東京大学農学部公開セミナー
http://www.a.u-tokyo.ac.jp/seminar/33-yousisyu.pdf
4) 日本メンデル協会HP: http://square.umin.ac.jp/mendel/
5)ウィキペディア: ルイセンコ論争
6)中村 禎里 (著)、 米本 昌平(解説) 新版 日本のルィセンコ論争 みすず書房 (2017)
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コメント
松永俊男氏は2016年に「メンデルは遺伝学の祖か」という論文を発表されていますが、どのような感想をお持ちですか。
投稿: 多田茂男 | 2024年8月21日 (水) 10時02分