カテゴリー「小説(story)」の記事

2016年8月18日 (木)

小旅行

4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、その狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。たった1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もすっかりなじんでしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。
暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。
私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。
まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

「それにしてもここは何処なんだ」

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからマーラーの交響曲第9番の冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=eaaAbrkOH_Y

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンの荒い息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

800pxcharon_by_dore

しばらくすると薄暗がりのなかで、中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。

私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。ただ暗闇になる気配はない。ここは日夜や四季がない場所なのだろうか。

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!
https://www.youtube.com/watch?v=7o13VEU5vus

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。私に気づいてくれただろうか?

ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうち今生きている家族や友人たちや、サラとミーナにもまた会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。

そんなことを考えているうちに、私は意識を失ってしまった。

どのくらい経過したのだろう。突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの担当看護婦が、採血の準備をしていた。「お目覚めですか」と看護婦は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。

看護婦がカーテンを閉めないで去ったので、欅(けやき)の緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

「もう少し生きろってことかな.....」 と私はつぶやいた。

(画像は wikipedia より)

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2016年4月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために6: 生物教師

Nokogiridake500私が通っていた学校(中高一貫)には、生物の先生がふたりいた。ひとりは京都大学出身のエリート然とした先生で(F先生とする)、生徒と親しく話しをすることはほとんどない人だった。

ただFは私たち生物クラブの生徒をよく山に連れて行ってくれた。Fは植物に詳しくて、種の識別方法など丁寧に説明してくれたが、今ではすっかり忘れてしまった(すみません)。特別な報酬もなく、夏休みや休日をつぶして私たちにつきあってくれたことにはとても感謝している。中高の先生が余裕を持って生徒に接してくれるということは、とても大切なことだと思う。現在の学校には欠けていることだ。

一番思い出に残っているのは、南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳に登り、鋸岳の稜線(写真)を縦走して中ノ沢乗越から熊ノ穴沢をおりてきた山行だ。北沢峠は現在では新宿からバスで行けるような場所だが、当時は東京や神戸から2~3泊しないとたどりつかないような秘境だった。

鋸岳周辺は、今ではおそらく随所に鎖や鉄梯子などが整備されていると思うが、当時は古いほつれかけたザイルだったり、木製のはしごもステップが腐って脱落し、2本の棒がところどころ残った桟でつながっているというような状況で、実態が露見すると懲戒ものの危険な山行だったと思う。しかし当時はみんなスリルを満喫できることの冒険心が勝っていて、文句を言う部員は誰もいなかった。帰宅したあとも、当然誰も親に「滑落の危険があった」などとはチクらなかったようだ。現在の地図をみても(下のリンク参照)、熊ノ穴沢の降り口には ”危”の文字が見える。

http://yama.ayu-ayu.net/?eid=1081380

山小屋に泊まるとき、Fはいつもランプの灯火で本を読んでいた。あるときこっそり覗いてみると、それはRシュトラウスの「アルプス交響曲」の楽譜だった。私ははじめて楽譜で音楽を楽しむ人を見て、ちょっと感動してしまった。もちろん当時 iPod などはなかった。

もうひとりの生物の先生(G先生とする)は生徒にフレンドリーな先生で、何でも気軽に質問や相談ができる人だったが、クラブ活動にはほとんどノータッチだった。今考えてみると、京大出のF先生に遠慮していたのかもしれない。そのG先生が、私たちが中学2年生の頃、まだ40才台なのに突然退職すると宣言したのには驚いた。

私たちの学校は受験校だったとはいえ、受験科目に生物を選択する生徒はわずかで、どうみても生物教師はプレッシャーのかからない気楽な稼業としか思えなかった。私は高校3年生の時、生物と化学を受験科目として選択するクラスに振り分けられたのだが、通常50人くらいのクラスが、そのクラスは4人だった。生物はいわゆる暗記物とされていて、勉強に時間をとられるのが嫌われるのだ。G先生がどうしてやめるのか、その理由は全く伝わってこなかった。

青天の霹靂で、学校もかなり慌てた様子だった。結局どこかから、赤ら顔でずんぐりむっくりの40才くらいの教師(H先生とする)を臨時採用することになった。Hは生物クラブにも興味があるようで、ときどき部室に現れた。しかし話すことが少しおかしいのだ。例えば「私は野口英世の弟子で、彼から直々に顕微解剖を教わった」と自慢するのだが、年齢的にGが野口英世の弟子というのはあり得ない話だし、だいたい野口英世は細菌学者なので、顕微解剖などやっていたのかどうかも疑わしい。ロックフェラーに留学していたような人が、どうして失業して臨時教師としてひろわれるのかというのも不可解だった。中学生でもそのくらいの疑念は持った。ただどこからかミミズを採集してきて、顕微鏡下でメスで切ったりして内臓などをみせてくれていたのは事実だ。

あるとき私がひとり部室で作業しているとき、Hが入ってきて、突然私の肩を抱いて耳に息を吹きかけきた。気持ちの悪いオッサンだと思ったが、そのときは単なる悪ふざけだと思っていた。しかし次の日には同じ姿勢から、私の耳元で「スキッ」とささやいたのだ。確かに「スキッ」と言った。私は硬直してなにもできなかった。

その事件があってから、私は悶々と過ごすことになった。「私は生まれつきホモに目を付けられる体質なのだろうか」という疑念に苛まれた。部室にも近寄れなかった。部活命だった私としてはとても辛い毎日だったが、2週間くらい経過して、ようやく意を決して部室に行ってみた。毎日出入りしていた私がしばらく部活を休んだので、心配したのかクラブ仲間が話しかけてきた。

「ひょっとしてHに何か言われた?」
私がもじもじしていると、彼は「ボクは告白されたんだ」と続けた。
私は仰天して「え、みんなに言ってるのか?」と訊いた。
彼は「やっぱりな。いや他にも言われた奴が何人かいるらしい」

私は彼と話し合って、F先生に相談してみることにした。しかしF先生は「そんなことはないだろう。ちゃんとまじめに指導してもらいなさい」と、まるで私たちがふざけているかのように、Hの言動についてまじめにとりあってくれなかった。私たちは本当にがっかりして落ち込んだ。

しかしHの言動は次第にエスカレートしていき、ついには授業でセックスの話とかをしはじめて、このままだとスキャンダルに発展しかねないような事態になっていった。さすがにF先生もHについては口をとざすようになった。それでも学校はHを解雇できず、結局2年間私たちはHにつきあわされることになった。悪夢のような2年間だったが、クラブではHがはいってきても全員シカトするというコンセンサスができて、そのうちHは部室には来なくなり、部活は正常にできるようになった。

さすがに2年経過して、私が高校生になる春にHは解雇された。びっくりしたのはHの後釜がG先生だったことだ。何事もなかったかのように、Gはまたニコニコと私たちに接する元通りの教師となった。

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2016年2月23日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために5: シロアリ

Mustela_itatsi20160202小学校の時はよく「いきものがかり」をやっていた。校庭の隅に動物小屋があり、数匹のウサギを飼育していて、「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。そういうわけで、中学校に入学してもそういう部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかけられたわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でも天下の理研でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためには腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギー源を得ることが必要なのだ。その原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在でも実現していないので、どだい困難きわまりないテーマだったということは、当時知るよしもなかった。

http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150512_2/

220pxreticulitermes_flavipes_workerまず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていた位なので、見つかるわけも無く、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。アリがハチと近縁なのに対して、シロアリはゴキブリの仲間だ。全身が白い働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し、全部死んでしまうと言う事件もあって、グループリーダーは部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。私たちのグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで、城田先輩は私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちにふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋に誘導して、母親が病気だと告げた。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんも1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があったため、私たちもそれぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、就職したのはおそらく彼1人だったと思う。金銭的な事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で、私の最初の研究指導者だったと思う。貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。

(図はウィキペディアより)

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2016年2月 9日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために4: 白いワンピースに黒のベルト

Kazahinomisai04小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。

しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、男子に人気があって彼女の周りに集まってくるような人物ではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分が弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられ、クラスから浮き上がっているというのが実に嫌な気分だった。

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、今考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とお祝いを言ってくれた。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった(こちら)。それは南野陽子も通ったという私立女子中学の制服だった。私は彼女がその中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝くDをみて、本当に良かったなと思った。

(写真はウィキペディアより)

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2016年1月15日 (金)

寄る辺なき記憶の断片のために3: トライアングル

A0800_000537多分小学校4年生の2学期頃だったと思う。通常お昼は給食だったが、たまに給食が休みで弁当持参になる日があった。

当時の私たち一般生徒は、弁当箱にご飯とおかずを詰め込んだものを食べることになるわけだが、Bは違っていた。Bが持ってくるのは弁当箱ではなく、バスケットだった。まずバスケットからテーブルクロスを取り出して机の上に広げ、手作りの分厚い、しかもレタスやチーズがはみ出しているサンドイッチを取り出す。さらにオレンジ丸ごと1個と果物ナイフをとりだして、起用にオレンジの皮をはがして4分割する。そんな作業をしてから彼の昼食がはじまる。当時はまだマクドナルドのようなファーストフード店が日本に進出していない時代だったので、Bの昼食は結構ものめずらしかったのだ。

そんなBだから、クラスのみんなからは少し浮いていた。Bの母親は水商売をしているといううわさもあった。ただ私はそんなBに興味をひかれたのかそこそこ仲良くしていた。ある日Bが「二人でトイレのボックスに入って面白いことをしてみないか」と私に提案してきた。何をするのか好奇心はあったが、多少不安もあったので、私はCも誘って3人ではいることにした。誰もいないタイミングを見計らって、3人でボックスに入った。

Bはそこでみんなにズボンのチャックを下ろしてペニスを出そうと提案し、さっそく自分のものを引き出した。私はすぐに同調したが、Cがためらうので2人で強引にチャックを開けさせた。恥ずかしがっていたものの、Cも多少興味を感じたのか、ボックスから逃げ出しはしなかった。Bはすぐ私のペニスを握り、「お前もCのを握れよ」 と言った。言われたとおりに私はCのペニスを握り、CはBのを握った。トライアングルの完成だ。Bは私のペニスをしごき始めたので、私とCも同じ行動をはじめた。やわらかい包皮の感触がいまでも残っている。

2~3分やっているうちにベルが鳴って休憩時間が終了した。3人はあわててボックスを出た。幸いにトイレには誰もいなかった。授業が終わって、Bと帰途についた。Bはいつになく上機嫌だった。帰り道の途中にある急な坂道を息をきらしながら登り終えたとき、突然Bが 「セックスってどうやるのかなあ」 と訊いてきたので、私は 「知らない」 と答えた。その話題はそこでおしまいになり、先生やクラスメートの話をしながら帰った。その後3人になったときも、トイレでの出来事が話題になることはなかった。

今から考えてみると、Bは両親か近縁者のセックス行為を垣間見たのではないだろうか。今のように、雑誌やウェブサイトで子供がお手軽にポルノ画像をみられるような時代ではなかったので、多分そうだったのだろう。そして自分のペニスが勃起しないので心配になり、他人の手を使ってみようと試したに違いない。私もCも勃起しなかったので、自分だけに問題があるのではないという結果を見て、「子供には無理なのかもしれない」 という結論に達し、安心したのではないだろうか。私とCは彼の実験動物として使われたわけだ。

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2016年1月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために2: 青い眼の人

A0782_001065今でも朝礼はやっていると思うが、私が小学校4年生の頃通っていた学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。

あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらか(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして中に私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅した時に誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

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2015年12月29日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために1: 川沿いの道を歩いて

A1820_000010Aが転校してきたのは小学校5年生の2学期だった。小柄で可愛い感じのおかっぱ少女だった。ただほとんど勉強はしないらしく、授業中の先生の質問には何も答えられなかった。指名しても立ったまま押し黙っているだけだったので、そのうちあてられなくなった。

しかしお習字の時間が来ると、人が変わったように生き生きと美しい字を書いていた。とても子供の字とは考えられないくらい立派な字だった。

2学期が終わる頃になって、授業の最後に担任の先生がある発表をした。それは給食の代金を支払っていない人がいるという話で、その名前を読み上げた。その中にAの名前があった。どうしてそんなことをやっていたのかわからないが、子供心にも「残酷なことをするんだなあ」と、不快な気持ちになったことを覚えている。発表は次の週にもあり、そのときはAだけが支払っていなくて、Aは昼休みに先生に呼びつけられ、親に連絡するようにきつく申し渡された。職員室ではなく、教室の隅でそんな話をするので、近くにいた者には聞こえてしまうのだ。

その後支払いがどうなったかはわからない。そして3学期になった。Aは目に見えて元気を無くしたように見えた。そのうちお習字の発表会があって、やはりAの作品はとびぬけて素晴らしかった。私はAのところに行って、「本当にきれいな字だね」と絶賛した。Aは微笑んだようにみえたが、次の瞬間顔を後ろに向けてうつむき、そのまま黙ってしまった。

翌日の放課後、Aの方から私のところにやってきて 「うちに来ない?」 と誘ってきた。私は 「いいよ」 と言って、彼女について行った。学校から川沿いの道を上流にしばらく歩いて行くと、民家も途切れて、舗装道路が山道のような細い道になった。さらに川沿いをさかのぼると、壊れかけたバラックのような建物が見えてきた。Aは小走りに家に入っていって、2~3分すると母親と2人で出てきた。母親は明らかに迷惑そうで、扉の外で頭を下げる私に挨拶しないばかりでなく、目も合わせなかった。

母親が家に引っ込むと、Aは「ここが私の家」と言って屈託なく(いや、ことさら屈託なさそうに)笑った。そして 「外に行こう」 と私の袖をつかんで、河原の方に降りていった。ふたりで並んで河原に座り込んだ。何か話したのか、何も話さなかったのか記憶にないが、しばらくするとAは立ち上がり、川面に石を投げはじめた。私も河原の石をひろってサイドスローで投げた。石はポンポンとバウンドして対岸まで届いた。Aは私の方を見て、(こんどは本当に)屈託なく笑いかけた。

2人はAの家までゆっくり歩いてもどり、戸口のところまで来ると、Aが 「じゃ、さよなら」 と言うので、私も 「さよなら」 と言って別れた。数十歩くらいだろうか、歩いた後振り返ると、Aは戸口に立ったまま、まだ私の方を見ていた。私は手を振って、また山道を下っていった。もうすぐ日没だった。

その後Aと2人で話す機会は一度もなく、私は6年生となり、Aはまた転校していった。

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2014年11月 1日 (土)

閑話休題1

A0070_000198

夕暮れカミニート

そうね 出会いは渚のカフェで
誰もいない 遅い朝
どうして あなたは同じテーブルに
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の腕の中
私は赤く あなたは透明

そうね 別れは夕暮れカミニート
遙かな風の コレドール
どうして あなたは振り向かないの
私はキール あなたはモヒート

若くて孤独な 
ヘミングウェイ
気取ってる 謎の人
本当の あなたは私の胸の中
私の街に あなたはいない

カリブの海で、砂浜で、
気ままに泳いで 抱き合って
私はキール あなたはモヒート

私の街に あなたはいない
私の街に あなたはいない

(monchan)

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2010年12月12日 (日)

ボビーとバベット

最近では日本にもないわけじゃないが、欧州には昔からサバティカルという制度があり、大学教員などは7年間勤務すると1年間の長期休暇をもらえる。休暇と言っても、大抵の人は海外に留学したりして、何か新しいものを吸収して心身ともにリフレッシュするのに使っている。私は大学院に入学してある研究室に所属したのだが、そこにこのサバティカルを利用して日本に留学しているJさんというフランス人女性がいた。私と同じ研究室1年生というわけだ。さえない理系男子のなかに、金髪のかわいい白人女性がいるとやはり目立つ。オルセイから来たそうだが、研究室の多くのメンバーは「はるばる日本まで、世界的に有名とはいえないこの研究室に留学してきて、わずか1年の期限でいったい何を得て帰るつもりなのだろうか」という疑問を持っていた。

研究室の大方が物見遊山だろうとみるのはやむを得ないことだったかもしれない。しかし癌の研究者である彼女のベンチ(実験台)の前の棚には、しだいに所狭しと発癌剤が並べられるようになり、平均的な日本人女性と同じくらいの小柄で痩せた体をちょこまか動かして、なかなか精力的に実験しているようにみえた。朝もきっちり9時には出勤して仕事をはじめていた。私は彼女にやる気がないとは思えなかった。

彼女のフルネームはスペル Jacinthe Joachim はわかってもどう発音するのかよくわからなかった。研究室のメンバーはみんな、一度はちゃんと発音を聴いているはずの教授も含めてJさんと呼んでいた。彼女と私の居た実験室は、彼女のベンチが一番奥で、その向かいが教授のベンチ。やや広い通路をはさんで私、私の向かいが助手(今で言う助教)という4人部屋の配列だった。

教授は忙しくてほとんど実験室には来なかった。助手はたいてい実験室にいたが、ひっきりなしに学生や院生が実験や相談で出入りするので、私としては正直うるさくて嫌だった。部外者の私が聞くべきでないような話題になったり、私のベンチで卒業研究の学生が実験するときなど、私はよく後ろの教授のベンチを借りて実験していた。

一息つくときには棚越しにJさんが実験しているのが見えた。Jさんは英語が苦手だったが、日本語をしゃべろうとは普段から努力しているようだった。私はフランス語はからっきしだったので、一度ブレーカーが落ちて自家発電になり部屋が薄暗くなったときに、「暗いですね」と声をかけてみた。彼女は私の方を見て微笑みながら「暗い」とひとこと返事をした。でもなかなかそのあとが続かなかった。

彼女にとって不幸だったのは、教授が彼女の提出した研究計画についてまじめにとりあってくれなかったことだった。教授としては、たった1年で立派な成果を上げられる癌の研究テーマなんてあるはずもなく、まあ適当に遊んでもらって、最後に共著の論文に3,4番目あたりに名前を入れてあげて、おみやげをつけてお帰りいただきたい・・・という考えだったのだろう。だんだん彼女の顔が暗くなっていくのが悲しかった。

3ヶ月くらいたつと彼女も諦めたのか、お茶の水のアテネフランセ文化センターなど在日フランス人がたまる場所に出入りして遊び友達をさがすようになっていった。

6月になって、ある雨の日に彼女が番傘を持って研究室に現れた。彼女もやっと日本をエンジョイできるようななったのかと思って、私は少し安堵した。夏が近づく頃には、彼女はすっかり仕事はあきらめたようだった。そのかわり日本語は格段に上達した。しかし私の方は、フランスについて彼女と話せそうなことがみつからなかった。エッフェル塔とナポレオンとエディット・ピアフについて、彼女とどんな話ができるだろう? 相変わらず、なかなか彼女と親しくなれるきっかけがみつからなかった。

そんなある日、Jさんが突然6~7才くらいの女の子を連れて研究室に現れた。名前はバベットと言うらしい。これが実にかわいくおしゃまな子で、しかもまだ来日して4ヶ月くらいしかたっていないのに、片言の日本語をしゃべることができた。私は適当に「僕をボビーと呼んで。ジュマベル ボビー」と言うと、バベットは怪訝な顔をして「うそうそ」と言った。私は「ノン、私はボビー」と強弁した。バベットは私をボビーと呼ばざるを得なくなった。それにしてもJさんが実はママだったとは驚きだった。

それからバベットはしばしばママにくっついて研究室に現れるようになった。Jさんは朝10時頃来て、午後5時くらいには帰宅するようになっていたが、その間ずっと部屋で静かに絵本を読んでいることもあった。そうかと思えば、1時間くらいバベットに「不思議の国のアリス」の話を、片言の日本語をまじえたフランス語できかされたこともあった。意味はよくわからなかったが、私は彼女といると楽しい気分になっていた。テレビで見た「シベールの日曜日」という古い映画をよく思い出した。バベットはこの映画に登場する少女時代のパトリシア・ゴッジに少し似ていた。

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ちょっと怖い質問だったが、お母さんがいないときにバベットに「お父さんはどうしているの」と訊いてみた。いつもは強気なバベットだったが、この時に限ってシクシク泣き出してしまった。しまったと思ったが後の祭りだった。泣き止まないうちにお母さんが帰ってきた。気まずい沈黙の後、Jさんは私をにらみつけバベットの手を引いて出て行った。

もうバベットには会えないと思っていたら、なんと次の日Jさんはまたバベットを連れてきた。Jさんは私に「バベットはボビーに会いたいと言って泣きます」と言って、私にバベットの手をにぎらせた。バベットは下を向くふりをして、一瞬私の方を見てウィンクした。私とバベットにひとつの秘密の空気が流れた。

☆ ☆ ☆

私たちの研究室にはもうひとつ実験室があって、そこには助教授(今で言う准教授)と二人の院生とひとりのオーバードクターがいた。卒研生の何人かもここで研究をしていた。オーバードクターは野口さんと言って、お酒が好きな世捨て人みたいな人だった。しかし何か困ったことがあって相談に行くと、たいてい面倒がらずに相手をしてくれた。

その野口さんがある日「今日は酒をおごってやるからついてこい」とはじめて私を誘ってくれた。野口さんは別の部屋にいたにもかかわらずあちこちうろうろする人で、私たちの部屋にもふらっとやってきてはいろいろ教えてくれたり、冗談を言ったりしてリラックスさせてくれた。私はそんなに酒好きではなかったが、普段から世話になっている先輩のお言葉なので断ることはできない。

二人で御徒町のこじんまりしたスナックに行った。野口さんの行きつけの店のようだった。彼はめずらしく「こんなつまらん研究室にいると、だんだん俺みたいに脳が腐ってくるぞ」などとお説教を垂れたり、大学では絶対にしない研究室の批判をしたりした。私はあいづちを打つわけにもいかないので、黙って彼の話を聞いていた。そうすると教室内の私の知らない人間関係など、有益な情報もたくさん教えてくれた。

しかし彼が話さなかったことが、最も驚愕の人間関係だった。しばらくするとJさんとバベットが入ってきたのだ。野口さんは少しフランス語を話せるようだった。Jさんとバベットを相手に何か話している。

野口さんは私に「ちょっとJさんと席をはずすから、子守りしておいてくれ。マスターには話しておくから」と言って、バベットを置いてJさんと出て行った。マスターが私とバベットをボックス席に案内してくれた。お酒を飲まない私たちがボックスを占拠するかたちになって、私は非常に居心地が悪かったが、ともかくスパゲッティを頼んでバベットの前に置かせた。バベットは少し食べたが、スプーンを置いて「ママン悪いことしてる、私も」と言ったかと思うと、さっと私のグラスをとってグイッとビールを飲み干した。

私は心の中では「あー、まずいことになった、またJさんに睨みつけられる」と思ったが、後の祭りだったので「そうだね、僕らも楽しまなくちゃ」などと、とんでもないことを口走っていた。バベットは私の方のソファーに場所を変えて隣に座り、やがて私のひざで眠り始めた。私はそっと彼女の母親譲りの美しい金髪をなでていた。しばらくするとバベットはこちらに向き直ってウィンクした。そして突然靴を脱いで「私のにおい」と私の鼻先に差し出した。私はついつい臭いを嗅ぐしぐさをすると、バベットは私の顔に靴を思い切り押しつけてきた。私はやっと振り払うと「バベット おまえは大人になってもいい女にはなれないな」と言ってやった。バベットは突然「野口さん偉くならない。ボビーはどう」とわけのわからないことを叫んだ。私はあわてて「そんなこと言っちゃダメだよ」と腕を×にしてたしなめた。バベットはフンと鼻をならした。

2時間くらい経過して、野口さんとJさんが帰ってきた。Jさんとバベットが出て行ったあと、野口さんが「Jさんはバベットの父親と離婚して、心機一転のつもりで日本に来たんだけど、なかなか思い通りにはいかないもんだねえ」と教えてくれた。その日は自分の人生でも一番酒を飲んだ日になってしまった。朝になって気がついたら、野口さんの下宿のベッドの上だった。野口さんがコーヒー豆をひいて、ドリップで抽出し、今までに経験したことがないような香り高くうまいコーヒーを飲ませてくれた。それにしても野口さんはどこで寝たのだろう。多分床の上に毛布でも敷いて仮眠していたのだろう。野口さんはいい人だった。でもきっとJさんを日本に引き留めて、バベットの父親になるようなピリッとしたところはないのだろう。バベットもそのことに気がついていたのかもしれない。

☆ ☆ ☆

暮れになって、私たちの研究室でも忘年会をやることになった。研究室1年生の私が幹事をやることに決まった。スタッフと院生+Jさん+秘書さんで9人だったが、卒業研究の学生や共同研究者も参加するので、全体では20人くらいの大宴会になる。私は上野のしゃぶしゃぶの店に席を用意した。

さすがにJさんもここにはバベットを連れてこなかった。酒がはいったところで野口さんが「みんな1曲づつ歌え」と命令を下した。野口さんは自分の業績はなかったが、面倒見が良くて、実験のやり方などで困ったときにはみんな世話になっているので、誰も彼の命令にさからうことはできなかった。教授も十八番の「ちゃんちきおけさ」を歌って、一同茶碗をたたいたりして大いに盛り上がった。

そしてJさんに順番が回ってきた。私は彼女にフランス語で歌って欲しかった。生でフランス語の歌を聴いたことがなかったので、一度聴いてみたかったのだ。そうシルビー・バルタンか、マージョリー・ノエルあたりがいいなと思っていたところ、彼女はやおら立ち上がって、なんと「枯葉」を熱唱しはじめたのだ。一気に座がしらけはじめた。台詞が始まる頃には、歌など無視しておしゃべりに熱中するするグループと、ハラハラしながら耳を傾けるグループに分かれた。さすがにJさんも場の雰囲気を察知したのか、突然歌うのをやめて泣き始めた。みんな凍りついてしまった。すごく長い時間を感じたが、多分30秒くらいたったときに、野口さんが立ち上がって彼女をかかえて階段を下りていった。そして忘年会はおひらきになった。

お正月明けまでJさんは大学に出てこなかった。1月7日になってやっと出てきた時にはさっぱりとしたにこやかな顔だったので、私はほっと胸をなでおろした。バベットはまじめにインターナショナルスクールに通っているらしく、研究室には顔を出さなくなった。冬の大学はとても忙しく、あっという間に時は過ぎ去っていく。Jさんもしめくくりに研究発表をすることになり忙しくなった。3月はじめに内輪での発表会が開催された。彼女の研究発表はいつもの私たちの発表会とは少し趣を異にしたものだった。

まだ日本語での発表は無理だったので一生懸命英語で発表するのだが、発音が完璧にフランス流だったのですごく違和感があった。例えば実験 experimentation はエクスペリマンタシオンと発音する。しかし馴れれば意外にもネイティヴの英語よりはむしろわかりやすかった。もうひとつはただの折れ線グラフや棒グラフまでカラーのスライドで発表したことだった。当時このようなスライドはモノクロかせいぜい背景をブルーにするぐらいが普通だったので、彼女のスライドはとてもおしゃれに見えた。色を出すために、着色セロファンをはさみで切り抜いて貼り付けていたようだった。もちろん今の時代はパワーポイントで発表するのが当たり前なので、カラーを使わない発表なんてほとんどあり得ないことになってしまったが。

Jさんたちとお別れする最後の日がやってきて、会議室でお茶会をやることになった。久しぶりにバベットもやってきた。私はバベットに「今日でお別れだね。バベット泣く?」と訊いてみた。バベットは人差し指を立ててふりなかがら「ちっちっち」と言ってウィンクした。しばらく見ないうちに日本式のジェスチャーまで身につけるとは・・・。でもバベットらしくて安心した。

会がお開きになり、いよいよお別れと言うときに、バベットは私に一通の封筒をくれた。そして私に向かって「ボビー 偉くなってね」と生意気にも激励してくれた。私はバベットの手を強く握って「かもね」と言った。そして部屋を出て行くときJさんが振り向いて、はじめて私に微笑みながらウィンクしてくれた。なんだか私ははじめて彼女が大人として私に接してくれたような気がして嬉しかった。アパートに帰って封筒を開けると、1枚の便せんの中央に小さなハートのマークが描いてあり、下にカタカナで エリザベート(バベット)・ジョアシャン と署名があった。

☆  ☆  ☆

4月になると、東北地方の大学に研究補助員の仕事があるというので野口さんが出て行った。Jさんもバベットも野口さんもいない研究室は、私にとっては廃墟のようだった。すっかりテンションも落ちて、ただただ下宿と研究室を機械的に往復して研究を続けていた。

1年くらいたって、ひょっこり野口さんが現れた。助手になることができたそうで、教授に報告するために来たとのことだ。帰り際に彼は私の肩を抱いて、また御徒町のスナックに行こうと言った。春日通りを御徒町の方に歩いていく途中で、私が「バベットが大人になったら、またJさんとバベットと野口さんと僕の4人で飲みたいですね」と言うと、野口さんはうつむいて「それがなあ・・・。Jさんは先月亡くなったんだ。オルセイの研究所の知り合いから手紙をもらったんだが、膀胱癌が転移していて手遅れだったそうだ。」

私はショックで「えー」と言ったきり言葉が出てこなかった。湯島ハイタウンのバス停近くに座り込んでしばらく動けなかった。「でバベットはどうしているんですか?」「ブルターニュの叔母の家に行ったそうだ」「・・・・・」。

結局御徒町のスナックには行かずに、JR御徒町駅で野口さんと別れた。私は山手線に乗って3周くらい周回した。やっと電車を降りて、暗い夜道を歩きながら、私は「学位をとったら、きっとブルターニュに行ってバベットに会おう」と心の中で繰り返していた。

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2010年10月 1日 (金)

新作

待望?の新作短編小説「ランチタイム」newをアップしました。よかったらサイドバー「門智安の小説集」(ヴィレッジ)からどうぞお立ち寄りください。

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