カテゴリー「小説(story)」の記事

2022年9月19日 (月)

真山仁「標的」

Imghyouteki

真山仁「標的」 文藝春秋社 2017年刊

真山仁の「標的」はなかなか興味深い小説です。東京地検特捜部の検事たちの活躍が生き生きと描かれています。政治家への贈賄事件を扱っています。ありふれたストーリーかもしれませんが、作家の実力でしょうか、一気に読めます。

晋三は検察の人事を思い通りにやろうとして失敗しましたが、私はこのことと暗殺事件は関係があると思っています。山上は日本のオズワルドだったのではないでしょうか。山上が今後インタビューなど自由な発言の機会を与えられるかどうかに注目しています。オズワルドの尋問調書はすぐに廃棄されましたが、山上の場合はどうなるのでしょうか。改ざんや隠蔽が行われるかどうかを注視しなければいけません。

政権に都合のよい検察人事は困りますが、検察による政権の選別が行われるのも問題があります。まして政権と検察がつながっていると何でもできるでしょう(晋三はまさにそれを狙っていたわけですが)。この小説のタイトル「標的」というのはそのような危険性を暗示しています。選挙の後なら誰をターゲットにしてもよいというのは検察のポリシーのようです。真山仁がとりたてて興味をそそられそうもない贈賄というありふれた犯罪をとりあげたのも、政治家と検察の関係に注意を喚起したかったからだと思います。

海外のプライベートバンクに口座をもっている企業経営者の場合、賄賂を送るのは簡単なのでしょう。政治家にも口座をもたせてお金を移転させればいいのですから。タックスヘイブンを利用すれば秘密は守られます。あるいは関係者にプライベートバンクが融資するという形にすれば現金化も可能です。ただ現金そのものを秘密裏に海外から持ち込むのは、この小説にもでてきますがかなり困難なのでしょう。とはいっても、今の時代なら船からドローンを飛ばせば運べそうに思いますが、どうなのでしょう。最近スペインで麻薬を運んでいた水中ドローンが摘発されたという記事をみかけました(1)。犯罪組織のための密輸機器の製造販売を行っているグループがもうすでに存在していたようです。このグループは家族的な小さな規模だったようですが、もっと巨大な組織がすでにありそうな気がします。

1)https://www.bbc.com/japanese/62046939

| | | コメント (0)

2022年5月23日 (月)

内田康夫「中央構造体」

Imguchida

これは2002年に講談社から出版された、皆さんお馴染みの浅見光彦が大活躍する内田康夫の小説ですが、スケールが大きくまさしく日本の政治経済の背骨の病巣をえぐった物語です。

モデルとなった日本長期信用銀行(長銀)はバブル崩壊によって膨大な不良債権をかかえ、結局税金を4~5兆円投入したにもかかわらず(ウィキペディア)倒産し、米国資本に二束三文で買い取られて新生銀行となりました。ひとつの企業が税金4~5兆円をドブに捨ててしまったのです。小説の中で光彦も激しく言及していますが、これで革命どころか政権交代もおこらなかったというのは日本の恥です。

先日私の預金通帳のプリントがいっぱいになったので新しい通帳にしようと思ったら、みずほ銀行の最も近い(といっても往復は半日仕事)支店である鎌ケ谷支店が廃止され、業務が船橋支店に移管されていました。たかが通帳更新のために船橋までいかなければならないとは末期的です。駅やスーパーから時計が消えたのも末期的、水道事業を外国企業にやらせるのも末期的、バスや鉄道の路線がなくなるのも末期的、交番の縮小も末期的です。最近デジタル化とうるさく言われますが、これもお役所の弱体化を糊塗するためと、外国資本へ産業を売り渡すためのプロパガンダです(堤未果著 「デジタル・ファシズム」 NHK出版)。

この小説のストーリーとはあまり関係がない会話の中で、内田康夫は何度も「日航ジャンボ機墜落事故の原因は自衛隊の誤射」と言わせています。このことははマスコミが報じていないだけで、関係者の間では常識なのかもしれません。

ウィキペディアの記事をみると、平将門は決して小説で持ち上げているような革命家ではなく(見ていませんがNHKの大河ドラマでも持ち上げていたそうです)、関東豪族間の私闘を制して自ら天皇を名乗ったお調子者のような印象を受けました。とはいえ現在でも神田明神をはじめとして多くの神社が将門を祀っていることを思うと、平安時代の当時としては将門の反乱はとてつもない大事件だったのでしょう。

| | | コメント (0)

2019年5月27日 (月)

WOWOWの連ドラ「悪党」

51xamop0fl__sx352_bo1204203200_

WOWOWの連続ドラマ「悪党~加害者追跡調査」。
毎回心をかきむしられ、泣かされます。

薬丸岳の小説は読んだことがありませんが、このテレビドラマは謎解き探偵小説の範疇をはるかに超えて、犯罪者と犯罪被害者の心情を生々しくえぐり出します。

東出昌大がいい雰囲気を出していて、ドラマの世界に巻き込んでくれます。新川優愛にも好感が持てます。テレビドラマ不毛の時代にあって、WOWOWの健闘を絶賛したいと思います。

https://www.wowow.co.jp/detail/114480

 

| | | コメント (0)

2016年8月18日 (木)

小旅行

4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、その狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。たった1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もすっかりなじんでしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。
暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。
私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。
まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

「それにしてもここは何処なんだ」

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからマーラーの交響曲第9番の冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=eaaAbrkOH_Y

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンの荒い息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

800pxcharon_by_dore

しばらくすると薄暗がりのなかで、中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。

私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。ただ暗闇になる気配はない。ここは日夜や四季がない場所なのだろうか。

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!
https://www.youtube.com/watch?v=7o13VEU5vus

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。私に気づいてくれただろうか?

ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうち今生きている家族や友人たちや、サラとミーナにもまた会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。

そんなことを考えているうちに、私は意識を失ってしまった。

どのくらい経過したのだろう。突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの担当看護婦が、採血の準備をしていた。「お目覚めですか」と看護婦は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。

看護婦がカーテンを閉めないで去ったので、欅(けやき)の緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

「もう少し生きろってことかな.....」 と私はつぶやいた。

(画像は wikipedia より)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年4月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために6: 生物教師

Nokogiridake500私が通っていた学校(中高一貫)には、生物の先生がふたりいた。ひとりは京都大学出身のエリート然とした先生で(F先生とする)、生徒と親しく話しをすることはほとんどない人だった。

ただFは私たち生物クラブの生徒をよく山に連れて行ってくれた。Fは植物に詳しくて、種の識別方法など丁寧に説明してくれたが、今ではすっかり忘れてしまった(すみません)。特別な報酬もなく、夏休みや休日をつぶして私たちにつきあってくれたことにはとても感謝している。中高の先生が余裕を持って生徒に接してくれるということは、とても大切なことだと思う。現在の学校には欠けていることだ。

一番思い出に残っているのは、南アルプスの北沢峠から甲斐駒ヶ岳に登り、鋸岳の稜線(写真)を縦走して中ノ沢乗越から熊ノ穴沢をおりてきた山行だ。北沢峠は現在では新宿からバスで行けるような場所だが、当時は東京や神戸から2~3泊しないとたどりつかないような秘境だった。

鋸岳周辺は、今ではおそらく随所に鎖や鉄梯子などが整備されていると思うが、当時は古いほつれかけたザイルだったり、木製のはしごもステップが腐って脱落し、2本の棒がところどころ残った桟でつながっているというような状況で、実態が露見すると懲戒ものの危険な山行だったと思う。しかし当時はみんなスリルを満喫できることの冒険心が勝っていて、文句を言う部員は誰もいなかった。帰宅したあとも、当然誰も親に「滑落の危険があった」などとはチクらなかったようだ。現在の地図をみても(下のリンク参照)、熊ノ穴沢の降り口には ”危”の文字が見える。

http://yama.ayu-ayu.net/?eid=1081380

山小屋に泊まるとき、Fはいつもランプの灯火で本を読んでいた。あるときこっそり覗いてみると、それはRシュトラウスの「アルプス交響曲」の楽譜だった。私ははじめて楽譜で音楽を楽しむ人を見て、ちょっと感動してしまった。もちろん当時 iPod などはなかった。

もうひとりの生物の先生(G先生とする)は生徒にフレンドリーな先生で、何でも気軽に質問や相談ができる人だったが、クラブ活動にはほとんどノータッチだった。今考えてみると、京大出のF先生に遠慮していたのかもしれない。そのG先生が、私たちが中学2年生の頃、まだ40才台なのに突然退職すると宣言したのには驚いた。

私たちの学校は受験校だったとはいえ、受験科目に生物を選択する生徒はわずかで、どうみても生物教師はプレッシャーのかからない気楽な稼業としか思えなかった。私は高校3年生の時、生物と化学を受験科目として選択するクラスに振り分けられたのだが、通常50人くらいのクラスが、そのクラスは4人だった。生物はいわゆる暗記物とされていて、勉強に時間をとられるのが嫌われるのだ。G先生がどうしてやめるのか、その理由は全く伝わってこなかった。

青天の霹靂で、学校もかなり慌てた様子だった。結局どこかから、赤ら顔でずんぐりむっくりの40才くらいの教師(H先生とする)を臨時採用することになった。Hは生物クラブにも興味があるようで、ときどき部室に現れた。しかし話すことが少しおかしいのだ。例えば「私は野口英世の弟子で、彼から直々に顕微解剖を教わった」と自慢するのだが、年齢的にGが野口英世の弟子というのはあり得ない話だし、だいたい野口英世は細菌学者なので、顕微解剖などやっていたのかどうかも疑わしい。ロックフェラーに留学していたような人が、どうして失業して臨時教師としてひろわれるのかというのも不可解だった。中学生でもそのくらいの疑念は持った。ただどこからかミミズを採集してきて、顕微鏡下でメスで切ったりして内臓などをみせてくれていたのは事実だ。

あるとき私がひとり部室で作業しているとき、Hが入ってきて、突然私の肩を抱いて耳に息を吹きかけきた。気持ちの悪いオッサンだと思ったが、そのときは単なる悪ふざけだと思っていた。しかし次の日には同じ姿勢から、私の耳元で「スキッ」とささやいたのだ。確かに「スキッ」と言った。私は硬直してなにもできなかった。

その事件があってから、私は悶々と過ごすことになった。「私は生まれつきホモに目を付けられる体質なのだろうか」という疑念に苛まれた。部室にも近寄れなかった。部活命だった私としてはとても辛い毎日だったが、2週間くらい経過して、ようやく意を決して部室に行ってみた。毎日出入りしていた私がしばらく部活を休んだので、心配したのかクラブ仲間が話しかけてきた。

「ひょっとしてHに何か言われた?」
私がもじもじしていると、彼は「ボクは告白されたんだ」と続けた。
私は仰天して「え、みんなに言ってるのか?」と訊いた。
彼は「やっぱりな。いや他にも言われた奴が何人かいるらしい」

私は彼と話し合って、F先生に相談してみることにした。しかしF先生は「そんなことはないだろう。ちゃんとまじめに指導してもらいなさい」と、まるで私たちがふざけているかのように、Hの言動についてまじめにとりあってくれなかった。私たちは本当にがっかりして落ち込んだ。

しかしHの言動は次第にエスカレートしていき、ついには授業でセックスの話とかをしはじめて、このままだとスキャンダルに発展しかねないような事態になっていった。さすがにF先生もHについては口をとざすようになった。それでも学校はHを解雇できず、結局2年間私たちはHにつきあわされることになった。悪夢のような2年間だったが、クラブではHがはいってきても全員シカトするというコンセンサスができて、そのうちHは部室には来なくなり、部活は正常にできるようになった。

さすがに2年経過して、私が高校生になる春にHは解雇された。びっくりしたのはHの後釜がG先生だったことだ。何事もなかったかのように、Gはまたニコニコと私たちに接する元通りの教師となった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月23日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために5: シロアリ

Mustela_itatsi20160202小学校の時はよく「いきものがかり」をやっていた。校庭の隅に動物小屋があり、数匹のウサギを飼育していて、「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。そういうわけで、中学校に入学してもそういう部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかけられたわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でも天下の理研でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためには腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギー源を得ることが必要なのだ。その原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在でも実現していないので、どだい困難きわまりないテーマだったということは、当時知るよしもなかった。

http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150512_2/

220pxreticulitermes_flavipes_workerまず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていた位なので、見つかるわけも無く、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。アリがハチと近縁なのに対して、シロアリはゴキブリの仲間だ。全身が白い働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し、全部死んでしまうと言う事件もあって、グループリーダーは部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。私たちのグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで、城田先輩は私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちにふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋に誘導して、母親が病気だと告げた。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんも1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があったため、私たちもそれぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、就職したのはおそらく彼1人だったと思う。金銭的な事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で、私の最初の研究指導者だったと思う。貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。

(図はウィキペディアより)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 9日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために4: 白いワンピースに黒のベルト

Kazahinomisai04小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。

しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、男子に人気があって彼女の周りに集まってくるような人物ではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分が弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられ、クラスから浮き上がっているというのが実に嫌な気分だった。

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、今考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とお祝いを言ってくれた。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった(こちら)。それは南野陽子も通ったという私立女子中学の制服だった。私は彼女がその中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝くDをみて、本当に良かったなと思った。

(写真はウィキペディアより)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月15日 (金)

寄る辺なき記憶の断片のために3: トライアングル

A0800_000537多分小学校4年生の2学期頃だったと思う。通常お昼は給食だったが、たまに給食が休みで弁当持参になる日があった。

当時の私たち一般生徒は、弁当箱にご飯とおかずを詰め込んだものを食べることになるわけだが、Bは違っていた。Bが持ってくるのは弁当箱ではなく、バスケットだった。まずバスケットからテーブルクロスを取り出して机の上に広げ、手作りの分厚い、しかもレタスやチーズがはみ出しているサンドイッチを取り出す。さらにオレンジ丸ごと1個と果物ナイフをとりだして、起用にオレンジの皮をはがして4分割する。そんな作業をしてから彼の昼食がはじまる。当時はまだマクドナルドのようなファーストフード店が日本に進出していない時代だったので、Bの昼食は結構ものめずらしかったのだ。

そんなBだから、クラスのみんなからは少し浮いていた。Bの母親は水商売をしているといううわさもあった。ただ私はそんなBに興味をひかれたのかそこそこ仲良くしていた。ある日Bが「二人でトイレのボックスに入って面白いことをしてみないか」と私に提案してきた。何をするのか好奇心はあったが、多少不安もあったので、私はCも誘って3人ではいることにした。誰もいないタイミングを見計らって、3人でボックスに入った。

Bはそこでみんなにズボンのチャックを下ろしてペニスを出そうと提案し、さっそく自分のものを引き出した。私はすぐに同調したが、Cがためらうので2人で強引にチャックを開けさせた。恥ずかしがっていたものの、Cも多少興味を感じたのか、ボックスから逃げ出しはしなかった。Bはすぐ私のペニスを握り、「お前もCのを握れよ」 と言った。言われたとおりに私はCのペニスを握り、CはBのを握った。トライアングルの完成だ。Bは私のペニスをしごき始めたので、私とCも同じ行動をはじめた。やわらかい包皮の感触がいまでも残っている。

2~3分やっているうちにベルが鳴って休憩時間が終了した。3人はあわててボックスを出た。幸いにトイレには誰もいなかった。授業が終わって、Bと帰途についた。Bはいつになく上機嫌だった。帰り道の途中にある急な坂道を息をきらしながら登り終えたとき、突然Bが 「セックスってどうやるのかなあ」 と訊いてきたので、私は 「知らない」 と答えた。その話題はそこでおしまいになり、先生やクラスメートの話をしながら帰った。その後3人になったときも、トイレでの出来事が話題になることはなかった。

今から考えてみると、Bは両親か近縁者のセックス行為を垣間見たのではないだろうか。今のように、雑誌やウェブサイトで子供がお手軽にポルノ画像をみられるような時代ではなかったので、多分そうだったのだろう。そして自分のペニスが勃起しないので心配になり、他人の手を使ってみようと試したに違いない。私もCも勃起しなかったので、自分だけに問題があるのではないという結果を見て、「子供には無理なのかもしれない」 という結論に達し、安心したのではないだろうか。私とCは彼の実験動物として使われたわけだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月 5日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために2: 青い眼の人

A0782_001065今でも朝礼はやっていると思うが、私が小学校4年生の頃通っていた学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。

あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらかの基準(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。

その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして中に私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅した時に誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。

達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月29日 (火)

寄る辺なき記憶の断片のために1: 川沿いの道を歩いて

A1820_000010Aが転校してきたのは小学校5年生の2学期だった。小柄で可愛い感じのおかっぱ少女だった。ただほとんど勉強はしないらしく、授業中の先生の質問には何も答えられなかった。指名しても立ったまま押し黙っているだけだったので、そのうちあてられなくなった。

しかしお習字の時間が来ると、人が変わったように生き生きと美しい字を書いていた。とても子供の字とは考えられないくらい立派な字だった。

2学期が終わる頃になって、授業の最後に担任の先生がある発表をした。それは給食の代金を支払っていない人がいるという話で、その名前を読み上げた。その中にAの名前があった。どうしてそんなことをやっていたのかわからないが、子供心にも「残酷なことをするんだなあ」と、不快な気持ちになったことを覚えている。発表は次の週にもあり、そのときはAだけが支払っていなくて、Aは昼休みに先生に呼びつけられ、親に連絡するようにきつく申し渡された。職員室ではなく、教室の隅でそんな話をするので、近くにいた者には聞こえてしまうのだ。

その後支払いがどうなったかはわからない。そして3学期になった。Aは目に見えて元気を無くしたように見えた。そのうちお習字の発表会があって、やはりAの作品はとびぬけて素晴らしかった。私はAのところに行って、「本当にきれいな字だね」と絶賛した。Aは微笑んだようにみえたが、次の瞬間顔を後ろに向けてうつむき、そのまま黙ってしまった。

翌日の放課後、Aの方から私のところにやってきて 「うちに来ない?」 と誘ってきた。私は 「いいよ」 と言って、彼女について行った。学校から川沿いの道を上流にしばらく歩いて行くと、民家も途切れて、舗装道路が山道のような細い道になった。さらに川沿いをさかのぼると、壊れかけたバラックのような建物が見えてきた。Aは小走りに家に入っていって、2~3分すると母親と2人で出てきた。母親は明らかに迷惑そうで、扉の外で頭を下げる私に挨拶しないばかりでなく、目も合わせなかった。

母親が家に引っ込むと、Aは「ここが私の家」と言って屈託なく(いや、ことさら屈託なさそうに)笑った。そして 「外に行こう」 と私の袖をつかんで、河原の方に降りていった。ふたりで並んで河原に座り込んだ。何か話したのか、何も話さなかったのか記憶にないが、しばらくするとAは立ち上がり、川面に石を投げはじめた。私も河原の石をひろってサイドスローで投げた。石はポンポンとバウンドして対岸まで届いた。Aは私の方を見て、(こんどは本当に)屈託なく笑いかけた。

2人はAの家までゆっくり歩いてもどり、戸口のところまで来ると、Aが 「じゃ、さよなら」 と言うので、私も 「さよなら」 と言って別れた。数十歩くらいだろうか、歩いた後振り返ると、Aは戸口に立ったまま、まだ私の方を見ていた。私は手を振って、また山道を下っていった。もうすぐ日没だった。

その後Aと2人で話す機会は一度もなく、私は6年生となり、Aはまた転校していった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)