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2023年9月29日 (金)

半島のマリア 第2話:ペギーズハウス

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夏の間は海水浴客や別荘族で賑わう街も、秋風が吹き始めると嘘のように閑散としてくる。目抜き通りも人影はほとんど無く、時折思い出したように車が数台走り抜ける。それとシンクロするように薬局の店先の漢方薬のノボリがぱたぱたと音をたてる。砂塵がさっと舞い、そしてまた午後の静かな日差しがもどってきた。県道沿いの山側には古ぼけたコンドミニアム、海側には雑木林の間にヨットハウスが軒をのぞかせている。ウェブでみつけた不動産屋はこの先にあるはずだった。

 棕櫚の木が揺れるコンドミニアムの前を通り過ぎ、200メートルほど進むと信号のある交差点が見える。その角にベンチを店の前に出している和菓子屋があった。近づいていくと、その和菓子屋の筋向かいに目指す不動産屋があることに気づいた。だが急ぐ旅ではない。店先のベンチで一休みしていこう。達矢は和菓子屋に入り、律儀そうだが陰気な感じのおやじから、うぐいすもちと黄身しぐれをひとつづつ買った。外に自販機があったので、そこで冷茶を買ってどっかりとベンチに座りこんだ。

 9月になってもまだまだ暑い日が続いている。俺が死ぬのと地球が温暖化して破滅するのとどちらが先か、などとぼんやり考えているうちに和菓子を食べ終えていた。つい最近までサラリーマンだった自分は、ほとんど何も自分で決めなくても自動的に事が運んでいく毎日だったということを、やめた今になってつくづく思う。会社員時代は自分に与えられた仕事をなんとかこなして、ただ挫折しないよう頑張るだけだった。しかし退職した今は、すべて自分で決めていかなければ事がひとつも進まない。若い頃には当然のように独身寮に住み、家庭を持ってからは社宅に住んだ。今は住む場所も自分で決めなければならない。そして年をとってしまったということは大きな問題だ。ここでベンチから腰を上げることすら、気合いとちょっとしたエネルギーが必要だ。こんなことで、これからちゃんと生きていけるのだろうか。

 角の不動産屋の前までいくと、その先にもう一軒別の不動産屋の看板がみえた。角の店は総ガラス張りの小綺麗なつくりで、中で数人の中年男が談笑している様子が窺えた。先にあるもう一軒の方は、ところどころ剥がれた白ペンキ塗りで、古ぼけてはいるがアーリーアメリカン風の風情のある店だった。なんとなくそちらの方に足が向いた。店の前に立つとドアは開放したままで、ドア脇の白地の看板に「不動産ペギーズハウス」と青ペンキで書いてあり、その下に黒ペンキでREAL ESTATE <PEGGY’S HOUSE>と小さく英語の表記があった。歴史のある保養地には、かえってこちらの方がふさわしい佇まいのように思われた。

 ソフトウェア開発の現場から子会社にとばされたのは、確かに大きな衝撃だった。会社の創生期から30年近く開発一本でやってきて、嘗ては飛ぶように売れたソフト開発にもかかわってきたという自負はある。50歳を過ぎてから、もうお前のようなクズはいらないといわんばかりに切り捨てるとはなんとしたことか。いままでにもそんな例はなかったとは言わないが、「まああの人なら仕方がない」と多くが納得する人事だったと思う。それが今度は俺だというのは、達矢には到底納得がいかなかった。しかし、しばらく時が過ぎて冷静に考えてみれば、今のご時世仕事があるだけでもましな方かもしれないし、別に陰湿なイジメにあったわけでもない。一般常識として、退職するほどの理由はなかった。

 いろいろ軋轢はあっても子会社でなんとか頑張ればよかったのだろう。結局これが潮時と判断して自分がやめのだ。3年前に妻に先立たれてから、そのことは時々頭をかすめていた。子供は二人とも結婚あるいは独立し、帰宅しても空虚な空間が存在するだけだった。ときどき嵐のような虚脱感に襲われることもあった。ずっと会社人間でやってきたが、会社は報いてはくれなかった。達矢たちの世代の居場所は確実にになくなりつつあった。子会社の社長も事情があって、このお払い箱の中高年社員を受け入れてくれたのだろう。ならば歓迎ムードじゃないのも当然だろう。

 ともかくこの状況から抜けださないと、心のバランスが崩壊してしまうような気がした。とりあえず考えついたのは、鬱滅とした自宅会社往復の無限反復空間から逃げ出すことだった。何も変わらないかもしれないが、ひょっとすると何かが変わるかもしれない。それでも定年まで数年を残して退職届を出すことは非常に勇気が必要だったが、達矢はその道を選択した。もう元には戻れない。30年勤務した会社から出向になったときには、永年勤務した社屋を振り返ってしばらく手を合わせて一礼した。あれはいったい何に手を合わせたのだろうか。一礼した後に涙が止まらなくなり、慌てて下を向いてまるで競歩のように地下鉄の駅に急いだことを覚えている。しかし出向先を退職した今回は何の感慨も無くさばさばしたものだった。

 白ペンキの不動産屋にはいると中は薄暗く、若い男が事務机に向かって書類をめくっていた。古いエアコンが喘ぐような音を立てていたが、むしろ天井の大きな扇風機がきいているのか、思ったより涼しい。もう一人奥の方のソファーで女が所在なげにタバコをふかしていた。先に達矢に気がついた女の方が「物件をお探しですか」とこちらにやってきてソファーに案内した。達矢はボロ家でいいから土地付きの一軒家、つまり不動産屋サイドからいえば古家つきの土地を紹介してほしいと告げた。交通は不便なところでもいいし、海が見える場所とかの贅沢は言わないということで、一千万円台なら有難い旨さらに付言した。若い男が女を姉さんとよぶので二人は姉弟らしい。見たところ弟は20台後半、姉は30才前後というところか。店構えの古さから考えると、多分親の代からやっているのだろう。

「君たちは二代目なの」と訊いてみた。

「いえいえ、祖父の代からここでやってるんですよ。ボクはもちろんまだ生まれてない時代の話ですが、祖父は戦後しばらくはよく外国人の案内なんかもしていたみたいですよ」と弟らしき方が答えた。

「そういえば昔このあたりの別荘を米軍が接収して、将校などを住ませていたという話は聞いたことがあるね。それで××不動産なんて無粋な名前じゃくて、こんなこじゃれた名前の店になったというわけか」

弟が店の名前の故事来歴を語ろうとしたとき、「セカンドハウスをお探しなんですか」と姉が遮るようにビジネスに引き戻した。多分このあたりにはマーガレットをよく見かけるので、その愛称を店の名前にしたのだろう。

「別荘が欲しいというわけじゃないんだ。そんな悠々自適じゃないんだよ。ただもう東京に住むのに飽きてねえ」と姉の方に向かって言うと、姉は数秒指を額に当てて考えた後「則夫、あの若松さんのところはどう」と弟に目を向けた。「ああ、あれね。ちょっと待ってください」 則夫とよばれた弟はファイルをパラパラとめくった。

「これです。小規模な農業をやっていたところなんですが、ちょっとご覧になりますか」
達矢がうなづくと、前に開いたファイルが置かれた。「ここから車で15分くらい奥に入ったところで、まあ便利なところとはいえないかもしれませんが、車があればどうってことないですよ」。達矢はまあ狙ってた線かなとファイルをしげしげとながめた。気がつくと姉がすぐ後ろに立っていて「ご案内致しますよ」と声をかけてきた。達矢が頷くと間髪を入れず「則夫、ご案内して」と話を進めてきた。

 則夫という男は結構なおしゃべりだった。車で物件に向かう途中、あれは某芸能人の別荘だ、あれは某政治家の別荘だなどとあれこれ解説してくれた。しかし車が海を離れ、舗装されているとはいってもかなり細いつづら折りの道を登っていくと、すっかりリゾートの雰囲気はなくなり、雑木林と小さな畑が交互に現れる山村風景になった。おしゃべりもとぎれ、則夫はカーラジオのスイッチをいれた。ラジオからはボサノバが流れてきた。のどかな日だ。こんな日が続くなら、ずっとこの車を運転してどこかに(天国でもいい)連れて行ってくれないかと則夫に頼みたいところだ。そろそろ尾根の頂上に近いかなという頃、則夫は路肩に車を止めた。

「この上をちょっと見てください。灯台が見えるでしょう。今はもう灯台としては使ってないみたいですが、いい目印にはなります」達矢も見上げてみると、道路から数十メートル程離れた高台に設置された灯台の上半分くらいが見えた。則夫は「灯台と周りの土地は、最近国からアメリカに移管したという噂です。軍の関係者だと思いますが、うちで扱ったわけじゃないしよくわからないんですよ。軍服を着た人間が出入りしているという話も聞きませんし」とコメントをつけた。

 則夫は「ここからちょっと下るんですよ」と言って、車を降りてドアを開けた。則夫は路肩から派生している細い山道に入って行く。達矢も彼に続いた。雑草が生い茂って、まるで道というより踏み跡と言った方がいいような道を少し下ると小さな荒れた段々畑に出て、そのあぜ道をさらに2ー3分下っていくと、少し開けた場所に出た。3DKくらいと思われる平屋がぽつんと佇んでいた。古い家だったが綺麗に使ってあったようで、則夫の話によれば、風呂場などの水回りを少し補修すれば問題なく使用できるとのことであった。ガスはプロパンだが、電気も水道もきているようだ。

「以前に畑をやっていた若松さんという人が亡くなりまして、その後畑は放置してあるんですが、田所さんは農業には興味ありますか」とまじめに訊いてくるので、「いやあ、都会育ちには無理だろうなあ」と達矢は苦笑しながら答えた。しかし心中では困ったらやってみようかと考えていた。

「そうですかあ。残念だなあ。やる気があれば結構使えるいい畑かもしれませんよ」
「だからって、ここが気に入らないってわけじゃないんだよ」と達矢は答えた。
「まあ今は関心なくても、いずれということもありますし。駐車場は上の道を2-3分先に歩いたところにあります。うちで契約できますよ」と則夫は付け加えた。

 結局他にも2-3カ所あたってみたが、すべて家が古すぎて、とても住む気がおこらない代物だった。かといって壊して新築するには懐が不安だった。まさか農業をやってローンを支払うわけにもいくまい。とりあえずその日は最初の物件の手付けを置いて引き上げたが、結局半月後にはその一軒家を購入することになり、2ヶ月後には引っ越しを完了した。新居の入り口から舗装道路を5分ほど先の方に歩くと、2軒のホテルと何軒かの民宿などが並ぶちょっとした集落があり、コンビニなどもあって、これからの生活には大いに役立ちそうだった。ホテルがあるあたりは海の眺望があって気持ちの良い場所だった。

 海沿いの道に出るには、ホテルと反対側に歩いて近道を通っても1時間くらいかかりそうだという話だったし、バスも二時間に一本くらいの間隔でしか通ってなくて、あまりあてになりそうもなかった。確かに不便な場所だ。車は必須だ。温泉と家の間に不動産屋が言っていた小さな駐車場があり、契約することにした。

 鴨長明の方丈記を読むと、隠者はどうやってメシを食えばいいかについては詳しい説明がないが、住居についてはかなり具体的な解説がある。この家は長明が住んでいた小屋よりはかなり広そうなので、これから長命よりはかなりリッチな生活をすることになる。引っ越して二週間くらいして、息子が一晩泊まりにきた。「こんな山の中で、古ぼけた家にほんとに一人で暮らすつもり? 親父が東京に住んでれば出張旅費が浮くのになあ」とあきれ顔で帰っていった。

 水回りや屋根の補修、草刈り、ペンキ塗りなどで瞬く間に1ヶ月が過ぎ去った。業者に頼むのは最小限にしてこつこつと励んだおかげで、たいした金もかけずにそこそこ小綺麗な感じの住処ができた。窓を開け放して畳の上に転がっていると、東京での鬱滅とした日々との落差に、ちょっとした感慨を感じないわけにはいられない。かすかに潮の香りがする爽やかな空気に満たされたこの地は、どんなに深く傷つけられた心も浄化する不思議な力を持っているようだ。だがこれはただ今だけ刹那のことで、遠からぬ未来にまたあのいやな感じ、あえて説明するとすれば憂鬱や虚脱感の塊で頭が締め付けられるような、あるいは悪霊のエネルギーの嵐のような感覚が襲ってくるのだろうか。ショパンの「雨だれ」を聴くと、ひょっとすると彼もこの悪霊に悩まされていたのかと思う。まあそれでもいい、それまで束の間の解放感に浸ろうじゃないか。

 達矢はそのいやな感じがやってくる前に、もう一度方丈記を読んでみた。そして気がついたのは、鴨長明は琵琶を演奏することでずいぶん救われているに違いないということだった。達矢も学生時代にはバンドのメンバーでギターを弾いていたこともあった。メンバーが社会人になってからも、数年の間はたまに集まってセッションを楽しんだりしていたのだが、そのうちみんな忙しくなって立ち消えになってしまった。そういえばあのギターはどこに行ってしまったのだろう。引っ越しに紛れてなくしてしまったのか。しかし気になりだすと止まらない。孤独を慰めるのはギターだというのが、ひとつのドグマのように頭にこびりついて離れなくなった。結局はるばるお茶の水まで出かけて、中古のちょっと値の張るアコースティックギターと新品のストラトタイプのエレクトリックギター、それにピックやカポタストなどの小物と数点の楽譜を買い求めてきた。ただ問題は長命は琵琶演奏の達人だったが、達矢はもはやほとんど演奏を忘れてしまっているということだ。

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2023年9月22日 (金)

半島のマリア 第1話:風穴 an original novel

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 湖畔の公園に立ち並ぶ満開の桜の林のむこうに、くっきりと白い航跡を残してクルーザーが疾駆していく。公園の広場では子供達が凧揚げをしているが、風が弱いせいかうまく揚がらないようだ。しかし何度失敗しても、子供達は歓声を上げながら糸を持って走るのをやめない。そんな景色を横目にふらふら歩いていると、段差に気が付かず転んでしまった。子供達がそれに気づいて笑う。健二はそちらの方はなるべく見ないようにして、少し歩くスピードを速め、目的地のカフェ「ぶーふーうー」に着いた。ここは古くからやっている店だそうだが、インテリア代わりにふんだんに観葉植物が配されていて、いつ来ても気分をリフレッシュできる。

 今朝は穏やかな晴天なので、テラスに席をとった。前庭には鮮やかな黄色のレンギョウの花が咲き乱れていた。白い椅子にもたれて湖畔を渡るここちよい風にふかれていると、そのまますやすやと眠りこんでしまいそうだ。富士山も今日はかすんだ風情で空に横たわっている。
 昨夜は来週に予定されているレコーディングのためのリハーサルが午前2時頃まであったのだが、そのあとビールとバカ話で盛り上がり、夜が明ける頃からやっとスタジオ内の休憩室で2時間ほど仮眠しただけだった。アームにもたれてうとうとしていると、ウェイトレスに「お待たせしました。モーニングセットをお持ちしました」と声をかけられた。どうも本当に眠ってしまっていたようだ。

「ああ どうもありがとう」と健二は目をこすりながら答えた。
「ちょっと寝不足でね。わるいわるい」
「ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスは吹き出すのをこらえるように立ち去った。

 深煎りのコーヒーをゆっくりと飲み干した頃、赤い長袖シャツにジーンズの早智が、バックパックを揺らしながら、軽やかなあしどりでやってきた。彼女はスタジオミュージシャンで、昨日のリハーサルに参加していたが、バカ騒ぎには加わっていなかった。そのせいだろう、さっぱりとした顔ではつらつとしていた。彼女はケラケラと笑いながら「なに、その髪」と健二のピンと髪の立った頭頂から後頭部を指さしながら言った。
「いや さっきここで眠ってしまってね」

 そういえば目が覚めてから、健二は一度も鏡を見ていなかった。くそ、それでさっきウェイトレスが嗤ったのか、と心の中で悪態をつきながら健二はウェイトレスを目で捜したが、彼女はこちらに背を向けてマスターと話しているところだった。健二は早智に鏡を借りてあわてて髪を直した。直し終わって振り向くと、また件のウェイトレスが嗤っていた。さっきは子供にも笑われたし、今日はあまりいい日じゃなさそうだ。


「これってポルシェよね。まさか買った訳じゃないんでしょう」
「ボクのポンコツ車の方がよかったかな。いつも平凡なデートじゃつまらないかもしれないと思ってね。知り合いに頼み込んで借りたんだよ。傷でもつけたらマジで大変なんだけどね。」
「ふーん。健ちゃんってお金持ちの友達がいるんだ」
「まあ一応ヤブ医者なんだけど、現金で買ったんじゃないみたいだよ」
「それじゃなおさら壊しちゃたいへんね。今日はハイキングだって聞いてたからそのつもりできたんだけど。ところでいったいどこに行くの」
「青木ヶ原樹海って言ったらどうする」
健二は早智に断られたらどこに行こうかと考えながら訊いてみた。
「ええー。ドクロ探しでもするの」
「いやそうじゃなくて富士風穴に行ってみない。観光地の富岳風穴なんかと違って、ちょっとしたアドベンチャー気分が味わえるかもしれないよ」
「むむ。 それって面白いかも」

 健二はひょとしたら「まだ3回目のデートの場所にこんなところを選ぶのは非常識」と断られるかもしれないと思っていたので、意外な早智の反応にほっとした。そういえば彼女の実家は東京近郊とはいえかなり不便なところにあるという話だった。そうか、カントリーガールなんだ。健二はどこかで彼女を山の手のお嬢様感覚でつきあおうとしていた自分が可笑しくなった。笑いをこらえながら「よーし、じゃあ青木ヶ原へ突入だ」と叫んで車を走らせた。


 富士山の周辺では頻繁に火山性微動が観測されていた。先週ははっきり体感できる地震も2度あった。富士山の火山活動を長年監視している大学の研究室では、近々大規模な噴火がある可能性が強いとの結論を出し、各方面に警告を発していた。関係自治体は合同対策本部を設置し、御殿場や河口湖周辺では避難訓練も行われた。しかし今までにも頻繁な地震の後何事もなしということが何度かあったので、あまり大学の情報を信用していない関係者も多かった。

「まったくうちの会社もどうして河口湖なんかにスタジオ作ったのかなあ。この頃地震なんかもあるし、富士山大爆発の噂なんかも飛び交っているんだよね。作ったばかりで溶岩の下敷きなんてシャレにならないよ」
「東京の本社に異動してもらえないの」
「ダメダメ、まだここにきて半年もたってないんだから。それにある意味では、ここは会社の最前線と言ってもいいんだよ。だからあの時々来る不気味な揺れさえなけりゃ、最高の職場なんだけどなあ。まあそんなにマジに心配しなくてもいいかも。だいたい富士山が前に噴火したのは江戸時代だろう。知ったこっちゃないよね」
「まあそういえばそうかもね。それにこんな空気がきれいで、景色もいいところで仕事ができるんだから文句も言えないか」

ちょっと会話がとぎれた頃、西湖が見えてきた。
「お 西湖に着いたぞ。この先に車を止めていよいよアドベンチャーだ」

健二たちは車をとめて、徒歩で青木ヶ原に分け入った。といっても車も通れそうな立派な林道を歩くだけだ。

「今日はサンドイッチを用意してきたのよ」
と早智はバックパックをポンとたたいて先に進んでいった。健二も防寒具、サーモス、地図、懐中電灯などを詰め込んだ学生時代から使っている年代物のリュックを持って歩き始めた。
「樹海ってもっと鬱蒼とした暗い森だと思ってたけど、木の高さは低いし意外に明るいのね。それにちゃんと立派な道がついてるじゃない。これで道に迷って白骨になるっていうのはまぬけよね」
「いやあ、ここで白骨になる人はちゃんと覚悟してくるんだろう」
「でも殺されて捨てられた人もいるかもね」
「それじゃあ成仏できないだろうなあ。でも話題を変えない?」
「そうね」

富士風穴に着くと、それは想像を超えたものだった。まるでUFOが着地したような巨大な縦穴が開いていて、その縁に階段が切ってあった。階段を数段下りただけで、周辺の温度が下がったことに気がつく。底に着くと横穴が開いていて、ここが富士風穴の入り口だった。中を覗くともちろん奥の方は暗闇だったが、もう春だというのに入り口から2ー3メートル先には氷が見えた。

「どう少しは怖じ気づいたかな」
「びびってるのはあなたの方じゃないの、私は平気。でももうお昼よ。中を見物する前にサンドイッチでも食べましょう」と早智がバックパックをおろしてファスナーを開き、バスケットを開けようとした時だった。ドドドドっという地響とともに地面が縦に揺れ始めた。
「やばい」と叫んで健二は早智の手を思い切り引いて階段の方に突進した。階段を駆け上がる30秒くらいの時間がとてつもなく長く感じられた。やっと縦穴から抜け出したとき、ドーンという鈍い音とともに大きな横揺れが来て、二人とも草地に伏せて地面にしがみついた。揺れがどうやらおさまって、二人はようやく地面に座り込んだ。
「これは東海大地震、いや富士山が噴火したかもな」と健二は言ったつもりだったが、声が震えているのが自分でも分かった。
早智は放心したように座り込んでいて、何も返事はしなかった。そのとき二人は信じられないような光景を目にした。縦穴の向こう側の縁がゆっくりと、まるでスローモーションのように崩れ落ちたのだ。
「ひょっとしてこっちもやばいんじゃない」と早智が叫んだ。健二は早智を引きずるように10メートルほど穴の縁から遠ざかった。振り向くとあたりはもうもうたる埃で夕方のようだった。
どのくらい座り込んでいたかわからない。健二は早智の声でわれに返った。

「あれー サンドイッチはどうなっちゃたのかしら」
「それより、俺リュックを下に置いてきちゃったよ。身分証明書に運転免許、カードにカギに現金にスマホ、だめだ。とってくる」
「ダメよ。もう一度崩れたらどうするの」
「大丈夫 さっきので打ち止めだろう。洞窟での防寒用に買ったキルティングジャケットだって、結構バカにならない出費だったんだよ。スマホ持ってるよね」
「持ってるけど」
「じゃあいざってときは頼むよ」
「ほんとに行くの」
「行く」
「じゃ気をつけて。上で見てるからね」

埃はやっとおさまってきた。健二はまた階段を下ったが、下は石ころや倒木などでむちゃくちゃになっていて、逃げ遅れていたらと思うとぞっとした。やっとリュックを見つけだし、やれやれと思ってあたりを見回すと、視線の先に妙なものがあることに気がついた。それは大きな氷の中に何かが埋まっているという感じだった。近づいてみると、埋まっているものはどうも人のようだった。思わず「おー」と声を上げて、健二は後ろにひっくり返った。「どうしたのー」と叫ぶ早智に答える暇もなく、階段をはいずり上った。
「人間だよ人間。死体じゃないか。シ・タ・イ。はやく警察に電話しなくっちゃ」


河口湖にもどってみると、世の中は大変なことになっていた。富士山が小規模の噴火をして登山者に何名かの死者も出たということで、パトカーや救急車が走り回っていた。河口湖あたりでも倒れた家もあったようで、通りに人が大勢出てごった返していた。地震の被害の全貌はまだ明らかになってはいなかったが、このぶんでは多くの死傷者が出ていても不思議じゃない。健二のみつけた死者は、夕刻までには警察に運ばれた。

健二と早智は警察で事情を聞かれた後、ちょっと待機しててもらえませんかと頼まれた。最悪の1日だ。夜になってからやっと刑事がまた声をかけてきた。
「あんた達もこの忙しいときにえらいものをみつけてくれたもんだね。ま、それは冗談だがホトケが外人さんなんだよ。パスポートや身分を明らかにするものもないんで、ちょっと時間かかるかもな。とりあえず今度はちゃんと顔が見えるので、もう一度見てくれませんか」と刑事が頼みにきた。安置室の死体は氷も溶かされてきれいになっており、顔にかかっている白布をめくると人相がはっきりと識別できた。
「ややや これはエディという男です」
「お知り合いですか」
「いや、知り合いってほどじゃないんですが、外国人の社員は彼だけだったので顔を覚えています。うちの会社に米国の音楽出版社から出向で来ていて、新たな業務提携の話などを詰めていたという話を聞いてました。いったいどうしてこんなことに・・・」
「そうですか。いや待つててもらってよかった。おおいに助かりました。お疲れのところ有り難うございます。」と刑事は健二に礼を言ってハンカチで額をぬぐった。
「あ それから、お知り合いとはまあとんでもない偶然とは思いますが、また後ほどお伺いしたいことができるかもしれませんので、連絡先をここに記入しておいてください」

書類を渡して去ろうとする刑事に、健二は思い切って声をかけた。
「刑事さん。ちょっと聞いていただきたいことがあるんですが」
刑事はふりむいて「いいですよ。何でしょう」と言ってくれたので、「実は昨年、うちの会社で売り出そうとしていた新人歌手の居所がわからなくなるという事件がありまして、同時期にエディが帰国したので、何か関係があるんじゃないかと一部でうわさになったことがあります。エディが日本で死体でみつかるなんて、ただごとじゃありませんよ。うちの歌手の件もあわせて捜査してくださるよう、是非ともお願いします」と健二は一気に自分の思いを吐き出した。

話を聞いていたのか、怖いと言って部屋の外にいたはずの早智が、いつの間にか健二の隣にきていた。
「その歌手は浜本玲華という私の友達なんです。エディさんと交際していたと聞いています。玲華がいなくなったのは、きっと事件にまきこまれたに違いありません。是非探してください。お願いします」と早智は刑事にすがるように懇願した。
「ほう」と刑事はメモをとりながら、するどい視線を健二たちにあびせた。
「私は河口署の大貫というものですが、お話の件につきましては、担当部署と連絡を取りましてきちんと対処したいと思います。その件についてもまたお伺いしたいことができるかもしれないので、その節は宜しくお願いします。何か気が付いたことがあったら、いつでもここに連絡してください」と刑事は名刺を渡して部屋を出た。健二と早智も屍に一礼して後に続いた。長い一日がようやく終わった。

警察署から外に出ると、もう深夜で空気がひんやりとしていた。さすがに夕刻の喧噪とは別世界の静けさだったが、二人の心臓の鼓動は静まらなかった。とんでもないことに巻き込まれてしまった一方、これをきっかけに、もうあきらめかけていた玲華の行方がわかるかもしれないという一縷の希望が二人の心をひとつにしていた。空を見上げると、噴煙のせいだろうか、星は全く見えなかった。

 

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2023年8月18日 (金)

小旅行(revised, 今は亡き私の飼い猫 サラとミーナに捧げる)

午前中の診断と検査が終了した。4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、他の患者の方に医師と看護師は移動した。狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。まだ1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もなじんで見飽きてしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。

目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。薄暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。硬膜下血腫になったときのことを思い出した。あのときも声が出なくなったが、みんなそうなのだろうか? まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。

それにしてもここは何処なんだ!?

しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからグスタフ・マーラー作曲交響曲第9番第1楽章冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=aAKMD2wowtM

カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンのかすかな息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。

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しばらくすると薄暗がりのなかで中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。

カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。

私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?

船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。

かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。

霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!

そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうちサラとミーナにも会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。ただすれ違うだけで、話をすることができないばかりか、相手が気づいているかどうかもわからないというのは不満だ。

ずいぶん長い間漂っているうちに、サラやミーナともすれ違ったし、そのほか大勢の人たちとすれ違った。そこで気がついたのは、知らない人とはすれ違わないということだった。そりゃそうだ。これは私の脳内の風景なので、知らない人とすれ違うわけはないのだ。

そして私はカローンと再会した。カローンはこの世界で唯一言葉を発する人物だった。

「どうだ、この世界は楽しいか?」

私は首を横に振った(ほんとに振れていたかどうかはわからない)。

「ひとつ相談だが、私と船頭を代わってくれないか? 船頭になれば話せるようになるし、知らない大勢の人とも会える。この世界では唯一の特権階級だ。ただ代わってくれる者をみつけないと、ずっとこの仕事をやり続けることになるが どうだ」

カローンは私の目を覗き込んでそう申し出たが、私は乗り気にはなれなかった。カローンの申し出を引き受けると、逆に知らない人にしか会えないような気がした。だって川を行ったり来たりするだけなんだろう? 

私は強く首を横に振った(ほんとに振れていたかどうかはわからない)。

突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの看護師が午後の採血の準備をしていた。「お目覚めですか」と看護師は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。看護師がカーテンを閉めないで去ったので、けやきの緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。

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(ウィキペディアより)

カローン:カローンは、ギリシア神話に登場する冥界の河ステュクス(憎悪)あるいはその支流アケローン川(悲嘆)の渡し守。櫂を持ちボロを着た光る眼を持つ長い髭の無愛想な老人で、死者の霊を獣皮で縫い合わせた小舟で彼岸へと運んでいる。画像はウィキペディアより

岡田有希子:日本のアイドル歌手。1986年4月8日、自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂。2階上のマンション住民がガス臭に気付き、管理人が110番と東京ガスに通報した。レスキュー隊が駆けつけたとき、岡田は押入れの下段でうずくまり泣いていたという。北青山病院で治療を受け、東京都新宿区四谷のサンミュージック本社に戻った直後、12時15分に本社が入居しているビルの8階屋上から飛び降り自殺した。満18歳没。

坂井泉水:日本の女性歌手、作詞家。音楽ユニット・ZARDのボーカリスト。2007年5月26日、入院先の慶應義塾大学病院内のスロープ状になっている高さ約3メートルの地点から転落し、駐車場で仰向けに倒れているところを通行人に発見される。その後集中治療室で緊急処置を受けたが、後頭部強打による脳挫傷のため、5月27日午後3時10分に死去した。40歳没。

サラとミーナ:死去した私の飼い猫。

 

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2023年7月29日 (土)

「恩人」 newly written nonfiction

恩人

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H先生の医院は割と歴史が新しいわが街の医院のなかでは草分けで、開業当時はドアの前に何十人も行列ができるほど繁盛していたそうです。私が通っていた数年前でも待合室にはいつも大勢の患者さんが座っていました。

私は血管が細くてしかも見えにくく採血が難航する場合が多いのですが、医院の技師さんや看護師さんはとてもお上手で、一度も失敗したことがありませんでした。それがその医院を選んだ理由でもあります。

当時私の病気は本当に危機的な段階に来ていて入院寸前だったのですが、おそらくH先生の選んだ薬が適切でなんとか通院で治療できるという状況にありました。どうしてそんな状況になったかというと、私の著書「生物学茶話:@渋めのダージリンはいかが」(リンクはこのブログのトップにあり)が脱稿間近のラストスパートの段階になっていて、熱中のあまりに健康に留意することを怠っていたからだと思います。

ところがあるとき2週間くらいの間に、採血を担当していたスタッフが二人とも次々と退職してしまったのです。H先生は「きちんと仕事をしてもらえないのでやめてもらいました」と言っていましたが、私はとても信じられませんでした。何かあったに違いありません。

その後はH先生が直々に採血することになったのですが、これがなんとも・・・。まず左腕でトライして何度も刺しますが失敗、次に右腕に変えても出血したりして失敗、また左腕に変えてようやくなんとか成功という情けない採血。私はきっとダメだろうと諦めていたので、最後に成功したときは万歳を叫びたくなりました。

しかし何度行っても上達しないで腕変えてやり直しを繰り返すので、本当に通院が憂鬱になりました。そんなある日私は見てしまいました。H先生がまだ退職せずに残っていた若いスタッフの一人(多分看護師)のお尻をなでていたのです。ああこれだなと合点がいきました。スタッフはまだ事務員も含めて3~4人残っていましたが、こんなことをやっていると、そのうち医院が立ち行かなくなるのではないかと不安になりました。

H先生の医院は10年くらい前から開業していました。もしその頃からこういう状態では経営が成り立つはずもないので、最近はじまった出来事としか思えません。調べてみると脳の病気でクリューバ―・ビューシー症候群をはじめとして性的な異常性を示す精神障害はいろいろあるということがわかりました。H先生の場合、普段は心優しく丁寧に患者と接するもの静かな方なので、まさか精神障害とは想像できません。でもそうかもしれません。それともただの不倫だったのでしょうか? それならやめた2人はそれが不快でやめたということになりますが、それは多分ないでしょう。

終末の兆候はありました。隣にあった薬局がなぜか店を閉めたのです。そしてそれからしばらくしたある日、突然入り口に当院は○月○日をもって閉院しましたという紙が貼ってあって、中をのぞくと薄暗くて誰も居ないようでした。ドアの前に数人の患者が集まって話していたので私も加わりましたが、H先生の消息を知る人は誰もいませんでした。そのうちホームページにもメッセージは掲載されましたが、どこに移転するとかの情報はなく、患者へのメッセージはお詫びだけでした。

患者は困りました。検査したまま結果がわからないという人も居たようです。私も困りました。別の医院に通うことになりましたが、状況を説明してなんとか看てもらうことになりました。後で聞いた話では、私だけでなく複数の患者が同じ事情で押し寄せてきたそうです。次のハードルは私が服用していた薬が特殊なものだったということでした。医師はそんな薬は聞いたことがないと怪訝な顔をするので、私が知っている限りの知識で縷々説明して、ようやく処方箋を出してもらうことになりました。処方箋は出してもらったのですが、肝心の薬が隣の薬局にはなく、イオンの薬局にも置いてなくて、新橋まででかけて何軒か薬局回りをしたのですがどこにもなく、結局私が通う医院の隣の薬局に薬が到着するまで待つことにしました。

その薬はその後1年くらい服用していたのですが、非常勤で勤務している別の先生に当たったときに、「今使っている薬は少し強すぎるかもしれません。病状が落ち着いているので薬を変えましょう」ということになって、一般的な薬に変更して現在に至っています。

もとH医院があった場所はときどき前を通るのでわかりますが、閉院後何年もそのままで誰かが借りた形跡はありません。一方同じビルの2Fはずっと予備校が営業しています。なので医院が貸主の都合で追い出されたという訳ではないようでした。

3年くらい経過してそんな騒ぎもすっかり忘れた頃、ふと思いついてH先生の名前をグーグルに入力してみると、なんと東京湾岸に近い街でH医院が再開されているではありませんか! 割と珍しい名前なので同姓同名ではないと思います。HPをみると写真が首から下だけで顔は隠していました。それから2年くらい経っても閉院していないので、どうやら病気であれば治癒したようです(それともスタッフを男性だけにしたのか)。女性問題であれば解決したのでしょう。ともあれなにしろ私の命の恩人なので、本当に良かったと思いました。ご活躍を心からお祈りしております。

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2023年7月12日 (水)

「退院」 - newly written

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ジャクリーヌ・デュプレ


退院

いかにも自信家らしい脳外科医が言った。

「人の顔が識別できなくなったということですが、専門的には相貌失認といいます。この病気は最新の技術で治療できるようになりました。AIのマイクロチップを脳に埋め込めば直ります。保険も適用できますから大丈夫ですよ。手術しますか」

私は妻に先立たれ子供も居ないので、もう勤めは辞めたし人の顔が識別できなくても特に不都合は無い・・・と思うのは早計だ。私の家はいわゆる団地なんだが、週に一度市と契約している見回り人が来て私の状態を確認することになっている。いわゆる孤独死のまま放置されるのを防ぐためだ。もちろん本人のためではなく、市や管理者の便宜のためだ。実際身寄りのない老人が孤独死したまま放置されると、市や管理人は大量の余計な仕事を抱え込むことになる。また週に2回家事手伝いの人を頼んでいるので、やはり人の顔を記憶できない識別できないということは、頼んでいる人の代わりに泥棒が来てもわからない ということなので致命的だ。

医師には「手術します」と答えるほかない。外科医は満面の笑みをうかべ「それはよい決断です。ただし病気になってから手術の前までに会った人の顔を思い出すことはできませんよ。手術後に見た人の顔を覚えることができるという手術だということをご理解ください。ただまだ例数がそれほど多くない手術なので、予想しないことが起こる確率はゼロではありません」と説明してくれた。私は了解した。

私は手続きをすませ、2週間くらい経った頃K病院に入院して手術した。以前にこの病院の近傍で仕事をしていたことがあるので土地勘はあった。だから退院して帰宅するときも当然ひとりで帰宅できると思っていた。手術はとりあえず成功した。開頭したのでしばらく病院生活を送らなければならない。その間友人がひとりだけ見舞いに来てくれた。昔勤めていた会社の同僚だ。彼の顔を覚えていて本当に良かったと思う。

入院している間、担当の看護師とはいろいろな話をした。彼女はまだ仕事をはじめて2年目だったがなんでも手際よくやっていた。それに私と同じFCバルセロナのファンだったのでつい盛り上がってしまって、同室の患者の顰蹙を買ったこともあった。考えてみるとFCバルセロナのファンと親しくお話しするのははじめてだったし、今後の私の人生でもありそうになかった。

ある意味自宅にいるより楽しい入院生活だったがそれも終わる時が来た。朝のさわやかな空気の中で、担当看護師が私を送り出してくれた。「長い間有り難うございました」と言って、私はドアを開けた。ドアのそばの花壇には夏のバラが咲いていた。看護師に手を振って、私はバス停に向かって歩き出した。両側に高く鬱蒼と成長した木々が並ぶ真っ直ぐな並木道だ。昔来たときよりも樹木は明らかに生長していた。セミがうるさく鳴いていた。

退院の開放感に浸りながら私はゆっくりとバス停まで歩いた。ちょうどバスがやってきたので何の疑問もなく乗り込んだ。駅は確か5つめの停留所のすぐ近くだ。ちょっと考え事をして、そろそろだなと窓からあたりの景色をみると、おやっ、知らない景色だ。私はあわてて電光掲示板を見た。全く記憶にない名前の停留所が並んでいた。

私は慌てて次で降りて、病院までもどらなくてはと道路を横断して道路の反対側にあるはずの停留所を探したが、どこにも停留所は見当たらなかった。どうも循環型のコミュニティーバスだったらしい。昔はそんなのはなかった。時刻表を見ると次のバスは3時間後だ。今日の午後には見回り人が自宅に来る手はずになっていて退院の報告をしなければならないので、それでは間に合わない。

仕方がないのでスマホを取り出して、タクシーを呼ぼうとした。ところがなんとしたことかスマホをうまく操作できない。病気のせいか手術のせいかわからないのだが、指の動きが不安定でなかなか思い通りにいかなくなっていた。全身から血が引いていくような感覚の中で、私は道路に座りこんだ。

私の病んだ脳はそれでも私を叱咤激励する機能は保持していた。私は立ち上がった。そう、頑張って道でタクシーを捕まえよう。タクシーを捕まえて駅に行かなければならない。しかし見知らぬ街でどこにいればタクシーを捕まえられるかわからない。10分くらい待ったが空タクシーは1台も通らなかった。少し周辺をうろうろして大通りがどこにあるか探したが、交通量の多い道はみつからなかった。

タクシー会社の電話番号を誰かに訊くしかないかもしれない。うろついているうちにようやくカフェ併設の洋菓子屋をみつけて一休みすることにした。窓際に席を取ると年配の婦人がすぐにやってきて「いらっしゃいませ。うちはモーニングはやってないけど、今の時間だとケーキをつけるとコーヒー半額になります」というので、私はチーズケーキとコーヒーを注文してやっと落ち着いた気分になった。

勘定をすませてから、ようやく私の本題を切り出した。「ところでこのあたりのタクシー会社の電話番号をご存じありませんか」と尋ねると、婦人は「タクシーはあまり使わないからわからないけど、調べてあげましょうか」と言ったので、私は渡りに舟でスマホを取り出し、「手が不自由でうまくつかえないので、お願いします」と彼女にスマホを手渡した。婦人は首尾良くタクシー会社と連絡ができたようだ。「5~6分で来るらしいから、席で待っててください」と元の席を指さした。有難い・・・助かった。

タクシーに乗り込んでほっとしたが、運転手に「どちらまで」と訊かれて、私はまた奈落の底に突き落とされた。駅の名前を思い出せないのだ。仕方なく「ここから一番近い電車の駅までお願いします」と言った。運転手は無言で5分くらい走って見知らぬ駅の前で私を降ろした。

幸いにして自宅の近傍の駅の名前は覚えていたので、駅員にその駅までどうやって行ったらいいかを訊いた。駅員は事務室にいた別の駅員を呼んで、私はその別の駅員に事務室で説明してもらった。結局紙に書いてもらってそれを渡してもらうことになった。有難い。看護師、ケーキ屋、駅員、生身の人間は少なくとも仕事にかかわることには親切なのだ。電車のなかで私はそんな人々の顔を思い出し、手術は成功したんだと確信した。

付記ジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline du Pré) は英国の名チェリスト。指が動かなくなる病気のため12年間しか活動できなかった。早逝した彼女を偲んで、その名のバラの品種がつくられた。

ジャクリーヌ・デュプレの演奏
https://www.youtube.com/watch?v=5jgIglWnPUI

 

 

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2023年6月29日 (木)

虫干し3 シロアリ部活

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沖縄科学技術大学院大学 プレスリリースより(参照文献2)

 

シロアリ部活

小学校の時は「いきものがかり」をやっていた。音楽ユニットの「いきものがかり」はキンギョを飼育していたらしいが、私の場合校庭の隅に動物小屋があり数匹のウサギを飼育していて、数人の「いきものがかり」が当番制で世話をしていた。朝早く豆腐屋さんにおからを買いにいって、ウサギのエサをつくっていた。そうやって育てたウサギが夜中に侵入してきたイタチに食べられたのはショックだった。金網の下を掘って進入したのだ。別に山の中のへんぴな場所にある小学校ではなかったので、まさか野生動物にウサギが食べられてしまうなんて予想だにしなかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。

花壇の世話も結構大変だった。夏休みも交代で登校して水やりや草取りなどをやっていた。でもそんな植物が一斉に開花すると、生命の誕生に関わったことが誇らしく係をやっていて本当に良かったと思った。そういうわけで、中学校に入学してもそんな部活はないかと探したがなくて、結局生物クラブにはいることにした。同じ目的の生徒 (Eと呼ぶ)をみつけて、二人で部室らしき部屋にいくと、上級生がひとり居て、満面の笑みで二人に詳しく活動を説明してくれた。それによるとクラブにはふたつのグループがあり、ひとつはショウジョウバエの遺伝を研究するグループ、いまひとつはシロアリの腸にいる微生物を研究するグループだということで、前者は陳腐でつまらなくて、後者はやっているひとが少なくて面白いと彼は説明した。当然彼は後者を担当していたわけだ。

こうなると、いきがかり上私たちはもはやショウジョウバエのグループに参加するわけにもいかず、城田(仮名)というその先輩のグループに加わるほかなかった。あとでわかったことだが、実はシロアリをやっていたのは彼だけで、私たちが参加したおかげでグループになったということだった。見事にひっかかったわけだ。

あまり気が進む研究ではなかったが、今考えてみるとそれは当時の私たちが無知だっただけで、彼の持っていた興味は大変先進的なものだった。それは現在でもさまざまな研究機関でこの分野の研究が進められていることでも明らかだ。シロアリは木を食べて生きているわけだが、そのためにシロアリは腸内に原生生物を飼い、その原生生物が共生する細菌と協力してセルロースを分解することによってエネルギーを得る。そのシロアリの腸内に棲息する原生生物をとりだして培養してみようというのが研究の目的だった。それはまだ現在プロの研究者が試みてもうまくいかないことが多いという困難なテーマだったということは、当時知るよしもなかった。原生生物の写真は参照4の文献に掲載されている。

(興味のある方のために「参照」として末尾にいくつかのリンクを張っておきました)

シロアリはアリの仲間ではなく、ゴキブリの仲間であることは最近知る人もふえてきたようだ。だいたいアリは肉食だがシロアリは草食だ。非常に平和的な生き物なのだが、働きアリには全く戦闘能力がないのでソルジャーという特異な形態の個体を作って巣を守っている(写真の頭が茶色がかっている個体)。英語でもホワイトアントだが、ターマイトと言う方が知的な感じがする。

部活の話にもどるが、まず山に行ってシロアリの巣を探してこいという指令を受けて、私と相棒のEは付近の山を歩き回って探したが、なにしろ二人ともシロアリは家にいるものだと思っていたくらいなので見つかるわけもなく、結局城田先輩に場所を教えてもらうことになった。朽ちかけた木の根元にその巣はあった。働きアリと、頭が茶色の兵隊アリが巣の周辺をうろついている。少し巣の入り口を壊して巨大な女王蟻をみたときのおぞましさは忘れられない。シロアリを採集する技術だけは向上したが、結局いろいろやってもシロアリの原生生物は培養出来ず、研究は頓挫してしまった。

ショウジョウバエのグループも、凡ミスで幼虫の培養に失敗し全部死なせてしまうと言う事件もあって、グループリーダーが部活担当の生物の先生に厳しく叱責されるようなこともあった。部活は暗黒時代を迎えることとなった。ただ私たちシロアリグループはショウジョウバエグループと違って部費をほとんど使っていなかったので、失敗しても叱責されるようなことはなかった。

暗く沈み込む部活のなかで私たちを励まそうとしたのだろうか、城田先輩はある土曜日の午後に私たちを自宅での食事に招いてくれた。彼の家に行くと、なんと先輩自身が調理して私たちに昼食をふるまってくれた。料理は母がするものと思っていた私たちは驚いて、恐縮してしまった。そのせいか、何を食べたかどうしても思い出せない。食事が終わるとみんなで後片付けをして、しばらく談笑したあと、先輩は奥の部屋にはいったきり帰ってこなかった。私たちが心配して部屋を覗くと、そこにはひとりの女性がベッドで眠っていた。先輩は無言で私たちをもとの部屋にもどして母親が病気だと告げた。父親はいないそうだ。私たちは部屋を覗くなどという行為はするべきではなかったと後悔した。

私たちの中学は高校と連結した一体校だったため、部活も中高一体だった。城田さんは1年後には高校3年生となり、高校3年生は部活をやめるという暗黙の約束があった。城田さんなしでシロアリの研究を続けるのは困難だということは私もEもわかっていた。かといって今まで接触をなるべく避けてきたショウジョウバエのグループにはいるのも気乗りがしなかった。Eも同じだ。私たちは先生の了解をとって、それぞれ独自にテーマを決めて部活をすることになった。城田さんはたまにふらりと部室に現れたが、私たちもまったくシロアリとは別のことをやっているので、共通の話題もなく、すぐに立ち去ることになった。

翌年城田さんはある会社に就職したという話をきいた。私たちの学校はバリバリの進学校だったので、高卒で就職したのはおそらく彼1人だったと思う。家庭の事情があったと推察出来るが、今考えてみると彼は天才的なセンスを持った人で私の最初の研究指導者だったと思う。家族の問題や貧困は容赦なく人の未来を奪うことも教えてくれた人だった。


「参照」

1)大熊盛也 シ ロ ア リ腸 内 の微 生 物 共 生 シス テ ム
日本農芸化学会雑誌 Vol. 77, No. 2, 2003
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nogeikagaku1924/77/2/77_2_134/_pdf/-char/ja

2)沖縄科学技術大学院大学 研究関連ニュース 2018
シロアリ腸内微生物の進化の起源が明らかに
https://www.oist.jp/ja/news-center/press-releases/32325

3)本郷裕一 シロアリ腸内原生生物と原核生物の細胞共生
Jpn. J. Protozool. Vol. 44, No. 2. (2011)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjprotozool/44/2/44_115/_pdf

4)野田悟子 シロアリと共生微生物
モダンメディア 67 巻 11 号 pp.460-468 (2021)
https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/2111_67_P22-28.pdf

5)理化学研究所 プレスリリース 2015
シロアリは腸内微生物によって高効率にエネルギーと栄養を獲得
-セルロースを分解する原生生物とその細胞内共生細菌が多重機能により共生-
https://www.riken.jp/press/2015/20150512_2/

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2023年6月21日 (水)

虫干し2 白いワンピースに黒いベルト

白いワンピースに黒いベルト

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写真は神戸の青谷というところにある私立松蔭高等学校・中学校(昔は松蔭女子学院)の100年の歴史を誇る制服で、ホームページに掲載してあるものだ。左が夏服、右が冬服になる。学校のホームページには次のように記載してある 「制服制定当時(1925年)、 女学生の制服は和装がほとんどでした 。卒業生の保護者が考案したデザインの中から選ばれたのが、このワンピースのデザインです。基本的なデザインを変更することなく約100年にわたり校内外から愛され続けているこの制服は、松蔭の先進性と伝統を象徴するものとなっており、松蔭生の誇りとなっています。」

その初夏に輝く白い制服をみかけるようになると、近傍の住人はああもう夏が近いんだと季節を感じる。この学校は南野陽子の母校として有名だが、その他にも宝塚歌劇団のスターを輩出するなど、ミッションスクールであるにもかかわらず世俗的で革新的な雰囲気が感じられる学校だ。

小学校6年生になった私は、はじめて受験勉強というのを経験した。私立の中学を志望したからだ。しかしそんな忙しい毎日の中で、修学旅行は息抜きの楽しいイベントだった。伊勢志摩と伊勢神宮を巡ったと記憶している。しかし伊勢神宮の玉砂利を踏みながら、どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかと、疑問に思ったことを思い出す。

異変が起こったのは、その修学旅行が終わった後だった。私の隣の席のDという女子生徒に、誰も話しかけなくなったのだ。

今でも同じだと思うが、女子生徒は2種類に分類出来る。男子と気軽に話すオープンなグループと、女子だけで閉鎖的なグループを作って、男子とはめったに口をきかない連中だ。Dは後者だった。だから隣の席でありながら、私は友人として話したことはなかった。彼女は少女コミックから抜け出してきたような、瞳が大きく、ルックスがとても可愛い感じの生徒だった。背も高くて、将来はファッションモデルかスチュワーデス(キャビンアテンダント)になるのではないかと私は予想していた。ただいつもボーッとしているようなキャラだったので(成績も下の方だったと思う)、とりたてて男子に人気があって彼女の周りに集まってくるようなタイプではなかった。

クラスでシカトされている彼女が淋しそうにしているので、私は何か話しかけてみようと思っていたのだが、なかなかチャンスがなかった。そのうち何の科目か忘れたがテストがあって、その最中に彼女の消しゴムが私の机の下に転がってきたので、私が拾ってそっと手渡してあげた。テストが終わったあと、彼女は「どうもありがとう」と私に礼を言った。

それで2人の間のバリヤが壊れたみたいで、以後はフレンドとして話すようになった。ただ彼女と話していると、まわりの女子がぎこちない感じになるのがわかった。理由はわからなかったし、誰かに問いただそうという気にもなれなかった。自分はひょっとしてシカトされた弱者の味方をする似非ヒーローとしてみられているのだろうか?

しかしそれも束の間で、私は中学受験が目の前に迫って、そちらに集中せざるを得ない状況になった。首尾良く志望した私立中学の入学試験に合格して、卒業式も間近に迫った頃、ある男子の同級生に「いいこと教えてやろうか、Dのことだけど」と言われて、「えっ 何?」と答えると、「あいつは修学旅行中に出血して布団をよごしたそうだ」と教えてくれた。

その時はなんのことだかよくわからなかったが、後で考えてみると、まだ生理が来ていない生徒にしてみれば、大人になった生徒に違和感を感じていただろうし、すでに大人になっていた少数の生徒はその雰囲気を感じて「完黙」したのだろうと思う。

卒業式の日、式も終わって校庭に出てこれでこの校舎ともお別れかと少しセンチメンタルな気分に浸っていると、Dが突然私のところにやってきて「○○中学合格おめでとう、すごいね」とひとことお祝いを言ってくれた。学校でそんなことを言ってくれたのは彼女だけだったので私がキョトンとしていると、彼女はすぐに踵を返して走り去っていった。

それから2~3ヶ月たって市営バスに乗っていたとき、ある停留所で彼女が乗り込んできた。純白のワンピースに黒いベルトという、素晴らしい制服だった。それは南野陽子も通ったという私立松蔭中学の制服だった。私は彼女がその女子中学を受験したことも、合格したことも全く知らなかった。卒業式の日に私も「おめでとう」と言うべきだったのに、それを果たせなかったことが残念という思いが脳裏をよぎった。

何か話したかったが、彼女は同じ制服の生徒数人と楽しそうにおしゃべりをしていたので、割り込むのは遠慮することにした。彼女はおしゃべりに夢中だったし、結構混み合っていたので、終点で降車するまで彼女は私には気がつかなかったと思う。小学校時代の暗い雰囲気とは一変した、まぶしいくらいキラキラと輝く笑顔のDをみて、なんだかわからないけど本当に良かったなと思った。

 

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2023年6月14日 (水)

虫干し1 青い眼の人

長い間ひと気の無い倉庫にしまっておいたショート・ショートを虫干しします。

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青い眼の人

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私が通っていた小学校では、毎朝全校生徒が整列して校長先生の話を聞くという朝礼をやっていた。あまりにも退屈な時間だったので、どんな話だったか少しも覚えていない。ただ毎回「気を付け」「前にならえ」「右向け右」「休め」などいろいろな号令をかけられて、そのたびに姿勢を変えたことは覚えている。先生の号令に従順な生徒をつくるためのトレーニングだったのかもしれない。校長先生の話は5分くらいで終わることもあれば、10分以上つづくこともあったように思う。毎日話す内容を考えるのは大変で、おそらく校長先生にとっては最も骨の折れる仕事だったのではないだろうか。

スチュアート達也(仮名)は米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフといううわさを聞いていた。強健なアングロサクソンの血が入っている割には日本人と同じような背丈で、しかも痩せて弱々しい感じの生徒だった。夏でもいつも長袖のシャツを着ていた。眼は灰色がかった青色で、いつも小さな声でボソボソと話した。朝礼の時はなんらかの基準(多分背の高さ)で決められた順にしたがって、私の前に立っていた。校長先生の話が長いときは、いつもつらそうにしていた。

4年生の頃だった。その彼が蒸し暑い夏のある日、ついに朝礼中にバタッと音を立てて倒れたのだ。私はあわてて前の方に走っていって、先生に伝えた。生徒のひとりが意識を失っているにもかかわらず、朝礼は中止にはならない。担任の先生があわててやってきて、彼を抱きかかえて保健室に連れて行った。私も指示されたので、先生を手伝って保健室に行った。保健室で手当されているうちに、彼は意識をとりもどしたようだ。気がつくと、私の方を見て弱々しく微笑んだように見えた。その事件があってから、私たちはときどきふたりで話をするようになった。

ある時、彼は私を自宅に誘った。彼の家は米国人の家らしく、広い庭に芝生がある平屋で洋風のつくりだった。高さ1メートルくらいの、白いペンキを塗った柵がぐるりと庭をとり囲んでいた。柵の一部が開くようになっていて、彼は金属製のフックをはずして私を誘い入れた。庭に入ってまわりをよくみると、芝生は手入れが行き届いていないようで、かなり雑草が生い茂っていた。家の扉を鍵で開けると、中は暗くて寒々しく、誰もいないようだった。私の家は家族が多く、帰宅して誰もいないということはあり得なかったので、経験したことのない別世界に踏み込んだような不思議な感覚だった。

「誰もいないの?」
「うん」
「お母さんは?」
「仕事」
「お父さんも仕事?」
「わからない、しばらく帰っていないんだ」
「どうして?」
「わからない、1ヶ月位いないんだ。それより台所に行って何か食べよう」

母親が仕事をするというのは、当時珍しいことだった。しかし父親が1ヶ月も帰ってこないというのは、さらに尋常ではない。台所に行くと、見たことがないような、英語で文字が書いてある大きな缶がいくつか並んでいた。彼はそのうちの一つのフタを開けて、中からビスケットを取り出し、いくつかを皿に並べて私の前に置いた。2人は黙ってバリバリとビスケットを平らげ、水道の水を飲んだ。

彼は私を寝室に連れて行って、2人でベッドに座った。本棚に何冊か英語の絵本があって、私にはものめずらしく、少し英語を教えてもらったが、すぐに飽きてしまった。すると彼は突然シャツの袖をたくし上げて私に見せた。手首に数本の線状の傷跡が見えた。私は緊張で体が固まってしまった。彼は弱々しく笑って、さぐるように私の目を見ていた。少しためらった後、彼は引き出しを開けて両刃のカミソリを取り出し、ヒラヒラさせた。ここで切るのかと私は凍りついたが、結局私が動揺するのを楽しんでいるだけで、彼にその気配はないようだった。彼がカミソリを引き出しにしまったときに、私は「帰る」と宣言して、急いで家を出た。彼はベッドに座ったままだった。

それからお互いに気まずい関係となり、私は彼と話すのをやめた。そしていつからか彼の姿をみかけなくなった。彼をみかけなくなってから2~3ヶ月経過した日、私は怖い物見たさという気持ちを封印できず、スチュアート家をこっそり再訪した。

達也が私をテレパシーで呼び寄せたのだろうか。彼が窓から顔をのぞかせていたらどうしようと少しドキドキしたが、そんな心配は無用だった。もうそこに以前に訪問した建物はなかったのだ。白い柵も取り払われ、芝生だった庭はすっかり雑草生い茂る野辺となっていた。風にさやさやとゆれる雑草を、私は呆然とみつめていた。するとどこからかモンシロチョウが飛んできて、花を探すようにあたりを何周かして、薄曇りの空にふわふわと飛び去っていった。達也が空からいつもの弱々しい微笑みをうかべて、青い眼で私を見つめているような気がした。

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(写真はウィキペディアより)

 

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2022年9月19日 (月)

真山仁「標的」

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真山仁「標的」 文藝春秋社 2017年刊

真山仁の「標的」はなかなか興味深い小説です。東京地検特捜部の検事たちの活躍が生き生きと描かれています。政治家への贈賄事件を扱っています。ありふれたストーリーかもしれませんが、作家の実力でしょうか、一気に読めます。

晋三は検察の人事を思い通りにやろうとして失敗しましたが、私はこのことと暗殺事件は関係があると思っています。山上は日本のオズワルドだったのではないでしょうか。山上が今後インタビューなど自由な発言の機会を与えられるかどうかに注目しています。オズワルドの尋問調書はすぐに廃棄されましたが、山上の場合はどうなるのでしょうか。改ざんや隠蔽が行われるかどうかを注視しなければいけません。

政権に都合のよい検察人事は困りますが、検察による政権の選別が行われるのも問題があります。まして政権と検察がつながっていると何でもできるでしょう(晋三はまさにそれを狙っていたわけですが)。この小説のタイトル「標的」というのはそのような危険性を暗示しています。選挙の後なら誰をターゲットにしてもよいというのは検察のポリシーのようです。真山仁がとりたてて興味をそそられそうもない贈賄というありふれた犯罪をとりあげたのも、政治家と検察の関係に注意を喚起したかったからだと思います。

海外のプライベートバンクに口座をもっている企業経営者の場合、賄賂を送るのは簡単なのでしょう。政治家にも口座をもたせてお金を移転させればいいのですから。タックスヘイブンを利用すれば秘密は守られます。あるいは関係者にプライベートバンクが融資するという形にすれば現金化も可能です。ただ現金そのものを秘密裏に海外から持ち込むのは、この小説にもでてきますがかなり困難なのでしょう。とはいっても、今の時代なら船からドローンを飛ばせば運べそうに思いますが、どうなのでしょう。最近スペインで麻薬を運んでいた水中ドローンが摘発されたという記事をみかけました(1)。犯罪組織のための密輸機器の製造販売を行っているグループがもうすでに存在していたようです。このグループは家族的な小さな規模だったようですが、もっと巨大な組織がすでにありそうな気がします。

1)https://www.bbc.com/japanese/62046939

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2022年5月23日 (月)

内田康夫「中央構造体」

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これは2002年に講談社から出版された、皆さんお馴染みの浅見光彦が大活躍する内田康夫の小説ですが、スケールが大きくまさしく日本の政治経済の背骨の病巣をえぐった物語です。

モデルとなった日本長期信用銀行(長銀)はバブル崩壊によって膨大な不良債権をかかえ、結局税金を4~5兆円投入したにもかかわらず(ウィキペディア)倒産し、米国資本に二束三文で買い取られて新生銀行となりました。ひとつの企業が税金4~5兆円をドブに捨ててしまったのです。小説の中で光彦も激しく言及していますが、これで革命どころか政権交代もおこらなかったというのは日本の恥です。

先日私の預金通帳のプリントがいっぱいになったので新しい通帳にしようと思ったら、みずほ銀行の最も近い(といっても往復は半日仕事)支店である鎌ケ谷支店が廃止され、業務が船橋支店に移管されていました。たかが通帳更新のために船橋までいかなければならないとは末期的です。駅やスーパーから時計が消えたのも末期的、水道事業を外国企業にやらせるのも末期的、バスや鉄道の路線がなくなるのも末期的、交番の縮小も末期的です。最近デジタル化とうるさく言われますが、これもお役所の弱体化を糊塗するためと、外国資本へ産業を売り渡すためのプロパガンダです(堤未果著 「デジタル・ファシズム」 NHK出版)。

この小説のストーリーとはあまり関係がない会話の中で、内田康夫は何度も「日航ジャンボ機墜落事故の原因は自衛隊の誤射」と言わせています。このことははマスコミが報じていないだけで、関係者の間では常識なのかもしれません。

ウィキペディアの記事をみると、平将門は決して小説で持ち上げているような革命家ではなく(見ていませんがNHKの大河ドラマでも持ち上げていたそうです)、関東豪族間の私闘を制して自ら天皇を名乗ったお調子者のような印象を受けました。とはいえ現在でも神田明神をはじめとして多くの神社が将門を祀っていることを思うと、平安時代の当時としては将門の反乱はとてつもない大事件だったのでしょう。

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