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2024年2月17日 (土)

続・生物学茶話230:睡眠-刺胞動物の場合

「あらゆる動物は眠るのか?」という質問をしようとすると、やはり睡眠という言葉の定義をしなければいけないわけです。孔子も言っているように言葉の定義をしなければ何を言っているのかわかりません。とは言え政治の場合はきちんと定義しなければいけませんが(そうしておかないと例えば何が犯罪なのかわかりません)、科学の場合は未知の部分があるのが普通なので、とりあえず大まかに定義して研究が進んだ段階で順次詳細を詰めるというのが常道です。

では睡眠の大まかな定義をするとすればどうなのか? まず意識するのは、死亡、仮死状態、意識不明、冬眠、夏眠、休養 などとは区別すべきだろうということです。このためにとりあえず、1)行動の一時的静止、2)日周性がある、3)感覚機能の低下 という定義で話をはじめることにします。たとえば休養なら感覚機能の低下はありません。

専門家は睡眠時間が短いとリバウンド睡眠が発生することを重視していますが(1)、とりあえず日周性と無関係な睡眠を排除するほうがわかりやすいので、そこからスタートします。ウィキペディアには「対象を哺乳類に限定すれば、人間や動物の内部的な必要から発生する意識水準の一時的な低下現象、これに加えて、必ず覚醒可能なこと」という睡眠学会の定義が書いてありますが(2)、これでは冬眠や夏眠を排除できませんし、敵に襲われたときに仮死状態になる状況も排除できません。

感覚機能の低下とは、金谷の言葉を引用すると「強く揺り動かされるなど強い刺激を受ければ目が覚めるものの、穏やかに刺激するぐらいでは眠ったままで、覚醒時ほど敏感に反応できないこと。」ということになります(1)。細かく吟味していくと様々な議論が出ると思いますが、それをいくらやっても科学は進展しないので、最初に述べたようにとりあえずは大まかで良いと思います。ただ感覚機能の低下という定義を入れたために、メタゾア(生物学で言うところの動物)の中で神経細胞を持たない海綿動物と平板動物は睡眠の科学から排除されることになります。もちろんこのような動物たちも睡眠と関連のある行動を取る可能性はあります。

散在神経系と集中神経系があるということは高校で学習すると思いますが、動物の中では散在神経系を持つグループは少数派で、刺胞動物・有櫛動物・棘皮動物・半索動物が相当します。これらの動物は脳をもってなくて、神経が身体全体に散在するとされています(3)。しかし小泉らも言うように、これらの脳がないと言われている生物も、それなりに神経環など神経細胞が高密度で存在する場所があり、一方で集中神経系を持つと言われている線虫は神経細胞が302個しかなく、これで脳があると言えるのだろうかという疑問は残ります(3、4、図230-1)。特にクラゲ(刺胞動物)は傘に大きな円形の神経の束を2本持っており、ここには明らかに他の部分より高密度の神経細胞が集中しています(5、図230-1)。

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図230-1 散在神経系と集中神経系 

井上昌次郎は2005年の総説の中で「ヒトや高等動物は連続運転に最も弱い臓器である大脳に頼って生きている.その大脳をうまく管理するための自律機能が睡眠である.つまり睡眠の役割とは大脳を守り,修復し,よりよく活動させることである.」と述べています(6)。しかしその後動物における睡眠の研究は進み、ついにナスやベッドブルックらによって散在神経系の動物と言われているクラゲも眠ることが証明されました(7、図230-2)。

彼らが実験に使用したサカサクラゲ(カシオペア)は通常は傘を下にして海底でベントスのような生活をしています。どうしてこんな生活が可能かというと、彼らは触手に大量の微生物を住まわせて共生しており、その微生物は太陽光で光合成をしてクラゲにATPを供給しているからです。それでもクラゲは海底の生物を食べたり排泄物を清掃するため、一定の間隔で傘の縁を動かしています。ですからその傘の動きを観察していれば、起きているか眠っているかを判定できるので、睡眠の研究目的には適しています(図230-2)。カシオペアという名前は、その名の星座が北極星に対して逆さ向きになっているように見えたからだそうです(8)。

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図230-2 クラゲも眠る

ナス、ベッドブルックらの実験を彼らが発表している図を使って簡単に述べます。彼らのサカサクラゲは傘の縁をビートさせるのにほぼ1秒かかります(図230-3A)。そして昼間はほぼ2秒に1回くらいの割合でビートさせています。ところが夜になるとビートの間隔が広くなる上に、ときどき休むようになります(図230-3B)。これは明らかに昼のパターンとは異なります。

さらに水中に浮かべた籠でクラゲを飼い、急に籠を沈めるという操作をします(図230-3C)。するとクラゲは自分が海底(=籠の底)にいないということに気づきますが、気づくまでの時間が昼では2秒くらいなのが夜だと5秒くらいかかります(図230-3D)。そして運動して海底=籠の底にたどり着くまでの時間は昼は平均8秒くらい、夜は12秒くらいで有意の差がありました。気がつく=覚醒と考えます。

夜になると陸上の哺乳動物のように全く動かないというわけではありませんが、動きが鈍くなるということはBの結果で明らかですし、外からの刺激に対する反応も夜は鈍くなっているということで(C-E)、もちろん日周性も関係しているので、クラゲも睡眠に準ずる行動は行っていると言えるでしょう。

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図230-3 クラゲが眠ることを証明するデータの一部
A:傘が1回ビートする時間 B:ビートの頻度 C:地面を移動させる D:地面の移動に気がつく、そして再び地面にたどりつくまでの時間

クラゲが眠ることはわかりましたが、図230-1のようにクラゲには神経細胞がかなり密集した部分が存在し、これは形は違ってもある種の脳ではないかという考え方もできるので、より典型的な散在神経系をもつといわれるヒドラではどうだろうかというのが次の課題です。

ヒドラはクラゲと同じ刺胞動物で海底に棲んでいますが、こちらは魚なども食べる肉食系の生物で、熱帯魚を飼っている人は水槽に混入しないように注意が必要なようです。図230-4のように通常は出芽によって増えます(9)。Basal disk で海底に吸着し、触手(テンタクル)で餌を捕らえて口に運ぶという生態です(図230-4)。図230-1には口の周りに神経環があるように描かれていますが、多少神経網が細かくなっているという程度でクラゲの神経環のようなものではありません。

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図230-4 ヒドラの形態と増殖の方法
通常は分岐(バディング)によって無性的に増えますが、精子・卵子を作る場合もあります

金谷らのグループはヒドラの睡眠について研究し、確かに昼の方が夜より活発に行動していることを示しました(10、11、図230-5AB)。また休んでいるときは光やグルタチオンに対する応答が遅延することを示しました(11、12)。図230-5Cにはグルタチオンに対する応答が遅延することを引用しました(10)。すなわちヒドラのような典型的な散在神経系の生物も眠ることが証明されました(哺乳類の睡眠と同じではないので、研究者は sleep-like state といいます)。このことは睡眠は脳のためにあるという従来の考え方を否定するものです。ただしヒドラは生物時計に基づいた睡眠サイクルを持っていないので、私たちの睡眠と同じではないようです(10)。これは彼らが進化の過程で時計遺伝子を失ったからと考えられます(10、13)。

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図230-5 ヒドラが眠ることを証明するデータの一部
A:昼と夜の行動頻度 B:昼と夜の睡眠パターン C:静止時間の長さとグルタチオンに応答するまでの時間
図中の参照文献9よりは10よりの間違いです 申し訳ありません

現在までにヒドラ・サカサクラゲ(刺胞動物)、線虫(線形動物)、ショウジョウバエ(節足動物)、ゼブラフィッシュ・マウス・ヒト(脊椎動物)などが睡眠することが報告されています。最近戸田らはショウジョウバエの睡眠誘導遺伝子「nemuri」を同定したそうです(14)。

生物の神経系が電線と異なるのは、それが単にイオンの輸送だけでなく、神経伝達物質の生合成・細胞膜からの物質排出・受容体による神経伝達物質の受容・受容体からの情報伝達など複雑な細胞生物学的・生化学的なプロセスを含むことです。これらのプロセスの進行はイオンの輸送に比べると時間と手間がかかるので、常識的にはこれが睡眠が必要な要因かと思いますが、ならばそのような径路がない単細胞生物や海綿は睡眠が不要なのかというと、どうなのでしょう? そのうち単細胞生物も眠るなどというデータも出てきそうな気がします。

最後に睡眠学専攻の林悠教授のサイトから(15)。

問題です──「動物はなぜ眠るのでしょうか?」
答えは──「わかっていない」

二つ目の問題──「動物は眠らないとどうなるでしょうか?」
答え──「みな死んでしまいます。その理由もわかりません」

このサイトを読んでいると、脳に必須の睡眠はレム睡眠(16)だそうです。レム睡眠時には身体は動きませんが脳の血流は2倍になっているそうで、その場合末梢血管の脈動によってリンパ液が流れ、シナプスの清掃がはかどりそうです。

 

参照

1)金谷啓之 生命科学 DOKIDOKI 研究室
https://www.terumozaidan.or.jp/labo/technology/50/03.html

2)ウィキペディア:睡眠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A1%E7%9C%A0

3)小泉修 神経系の起源と進化:散在神経系よりの考察 比較生理生化学 vol.33, no.3, pp.116-125 (2016)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiriseika/33/3/33_116/_pdf/-char/ja

4)九州大学付属図書館 線虫 C. elegans ~約1ミリのモデル生物で切り拓く生命科学~: 神経系の構造と機能
https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/ModelOrg_Celegans/nervous_system

5)Richard A. Satterlie, Do jellyfish have central nervous systems? J. Exp. Biol. vol.214 (8): pp.1215–1223 (2011)
https://doi.org/10.1242/jeb.043687
https://journals.biologists.com/jeb/article/214/8/1215/10743/Do-jellyfish-have-central-nervous-systems

6)井上昌次郎 ヒトや動物はなぜ眠るのか バイオメカニズム学会誌,Vol.29, No.4, pp.181-184 (2005)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/29/4/29_4_181/_pdf

7)Ravi D. Nath, Claire N. Bedbrook, Michael J. Abrams, Ty Basinger, Justin S. Bois, David A. Prober, Paul W. Sternberg, Viviana Gradinaru, and Lea Goentoro, The Jellyfish Cassiopea Exhibits a Sleep-like State., Current Biology vol.27, pp.2984–2990 (2017)
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.08.014

8)JICA海外協力隊の世界日記 魅惑の刺胞動物 〜クラゲから考えさせられる命名者のロマン〜
https://world-diary.jica.go.jp/takamaokuto/cat1581/1.php

9)Wikipedia: Hydra
https://en.wikipedia.org/wiki/Hydra_(genus)

10)金谷 啓之、伊藤 太一 刺胞動物を用いた概日リズム・睡眠研究  時間生物学 Vol.28, No.2, pp.87-93 (2022)
https://chronobiology.jp/journal/JSC2022-2-087.pdf

11)Kanaya, H. J.et al. A sleep-like state in Hydra unravels conserved sleep mechanisms during the evolutionary development of the central nervous system.
Sci Adv 6, eabb9415 (2020) DOI: 10.1126/sciadv.abb9415
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abb9415

12)佐藤 文, 金谷 啓之, 伊藤 太一 動物はいつから眠るようになったのか? – 脳のないヒドラから睡眠の起源を探る  Academist Journal (2020)
https://academist-cf.com/journal/?p=15108

13)J.A. Chapmann et al., The dynamic genome of Hydra. Nature vol.464, pp.592–596 (2010). https://doi.org/10.1038/nature08830
https://www.nature.com/articles/nature08830

14)戸田浩史 眠気の実体を探る〜ショウジョウバエを用いた睡眠研究
https://wpi-iiis.tsukuba.ac.jp/japanese/research/member/detail/hirofumitoda/

15)リガクル 睡眠は21世紀の今も謎だらけだ
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/rigakuru/research/uu4jELQj/

16)ウィキペディア:レム睡眠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%9D%A1%E7%9C%A0

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2024年2月 6日 (火)

続・生物学茶話229:ヘリオロドプシン

アリーナ・プシュカレフらは新種の微生物ロドプシンを探索するため、イスラエル最大の淡水湖であるガリラヤ湖の微生物のメタゲノム解析(生物を培養しないでDNAの混合物から直接遺伝子を探索する)を行ないました(図229-1)。ロドプシン遺伝子があるとそれを含むDNAを大腸菌で増やしてレチナール分子を加えると着色するので、探索は比較的容易です。こうしてみつかった遺伝子を解析すると、今までみつかっている動物型ロドプシンでも微生物型ロドプシンでもない、新型のロドプシンが存在することがわかりました(1、2)。

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図229-1 ガリラヤ湖の生物のメタゲノム解析により、プシュカレフらは新型ロドプシンを発見しました。

この新型ロドプシンは微生物型ロドプシンと同様にオールトランスレチナールと結合しますが、遺伝子配列の姻戚関係を調べるとホモロジーが低く非常に遠縁であることがわかりました。この新型ロドプシンには太陽という意味のヘリオ(ヒーリオ)からヘリオロドプシンと命名されました(図229-2)。そして驚くべき事に、ヘリオロドプシンは真正細菌・古細菌・真核生物さらにはウィルスにも存在することがわかりました。

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図229-2 レチナールの光による構造転換 赤は動物型、黄色は微生物型 ただしヘリオロドプシンは細菌・真核生物・ウィルスに存在する。

ヘリオロドプシンは細胞膜7回貫通型というロドプシンの伝統的構造をとっていますが、従来の微生物型(タイプ1)や動物型(タイプ2)ロドプシンとDNA配列が大幅に異なるだけでなく、従来型の場合N末が細胞外、C末が細胞内に出ているのに対して、C末が細胞外、N末が細胞内に出ているという逆構造になっています(2)。したがって細胞内に露出するアミノ酸配列も全く異なっているので、細胞質のタンパク質と相互作用するにしても、三量体Gタンパク質などとは全く別のタンパク質をパートナーにしていると思われます。

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図229-3 ロドプシンのC末・N末と細胞膜の内外 タイプ1:微生物型、タイプ2:動物型、ヘリオロドプシン 参照文献(2)より

ウィルスがロドプシンを持っているというのは非常に興味深いですが、そのウィルスは円石藻というハプト藻類に感染する20面体構造の巨大型DNAウィルスで、なんと472種類のタンパク質情報を保有しています(3)。円石藻というのは海にチョークの粉を流したような白潮を発生させる植物プランクトンですが(4、5)、人工衛星で確認できるような巨大なコロニーも、このウィルスに感染することによって1週間程度で消滅するようです(3)。

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図229-4 円石藻とそれに感染する巨大ウィルス ウィルスの直径は 100–220 nm とウィキペディアに記述されていますが、なぜそれほどのバラエティがあるのかわかりません。巨大と言っても 200 nm のサイズでは光学顕微鏡では観察できません。画像はウィキペディアより。黄色い矢印はホストにとりついたウィルスを示しています。

名古屋工業大学の細島らは円石藻に感染する前記のウィルスのヘリオロドプシンがプロトントランスポータであることを報告しました(6、図229-5)。しかしこのプロトントランスポーターは円石藻に感染するすべてのウィルスが持っているわけではありません。確かにホストの細胞膜にこのウィルス(EhV-202) が存在した場合、ホストはプロトンがとりこまれることによって脱分極しますが、それがウィルスにとってどのようなメリットになるかはわかりません。とはいえ、ヘリオロドプシンの機能としてはじめての報告です。

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図229-5 EhV-202 におけるヘリオロドプシンの機能 文献6および名古屋工業大学女性研究者紹介記事をソースに作成

ヘリオロドプシンは遺伝子データベース上ですでに500種類以上の類似分子種がみつかっており、さまざまな生物にユニバーサルに存在するタンパク質だと思われますが、にもかかわらず機能があまり解明されていないめずらしい例です。最近井上らは光を感知するロドプシンとイオンを輸送するベストロフィンが細胞膜の中で巨大複合体を形成してイオンチャネルとして機能していることを報告しています(7)。ヘリオロドプシンも複合体として機能するタンパク質なのかもしれません。

参照

1)Alina Pushkarev, Keiichi Inoue, Shirley Larom, Jose Flores-Uribe, Manish Singh,
Masae Konno, Sahoko Tomida, Shota Ito, Ryoko Nakamura, Satoshi P. Tsunoda, Alon Philosof, Itai Sharon, Natalya Yutin, Eugene V. Koonin, Hideki Kandori & Oded Beja., A distinct abundant group of microbial rhodopsins discovered using functional metagenomics., Nature vol.558, pp.595-599 (2018)
DOI:10.1038/s41586-018-0225-9
https://www.researchgate.net/publication/3258788ST)プレスリリース

2)光を信号へと変換するタンパク質の新型ヘリオロドプシンを発見 ~生物の新たな光利用戦略が明らかに~
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180621/index.html

3)Wikipedia: Coccolithovirus
https://en.wikipedia.org/wiki/Coccolithovirus

4)微細藻類のHABs 国立科学博物館
https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/habs/hab2i.html

5)ウィキペディア:ハプト藻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%88%E8%97%BB

6)Shoko Hososhima1, Ritsu Mizutori, Rei Abe-Yoshizumi, Andrey Rozenberg, Shunta Shigemura, Alina Pushkarev, Masae Konno, Kota Katayama, Keiichi Inoue, Satoshi P Tsunoda, Oded Béjà, Hideki Kandori, Proton- transporting heliorhodopsins from marine giant viruses., eLife 2022;11:e78416 (2022)
DOI: https://doi.org/10.7554/eLife.78416
https://elifesciences.org/articles/78416

7)井上圭一、永田崇、今野雅恵 世界初「光で駆動する巨大イオンチャネルタンパク質」を藻類から発見  物性研だより 第62巻 第3号 7~10ページ

 

 

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2024年1月23日 (火)

続・生物学茶話228:光遺伝子治療に向かって

CRISPR(クリスパー)-Cas9システムについてはすでにこのブログで7年前に述べていますが(1)、もう一度簡単に復習しておきましょう。このシステムはもともと原核細胞が感染したウィルスの遺伝子構造を自らのDNAに保管し、再度感染した際にその配列にエンドヌクレアーゼを誘導して切断するという免疫システムです。このシステムを利用すれば、任意の配列のDNAにエンドヌクレアーゼ(たとえばCas9)を誘導して切断できます。切断は2本鎖切断の形でおこなわれるので、生物が持つDNA2本鎖切断修復機能(相同組み換え機能)を利用して、外部DNAを挿入することもできます。

簡単に説明すると、ターゲットとなるDNAに相補的な配列(ガイド配列)と使うエンドヌクレアーゼと結合する部位の両者を持つRNAを制作し、エンドヌクレアーゼ(DNase)=Cas9などを切断箇所に誘導して2本鎖切断を行わせます(図228-1、2)。これによって遺伝子ノックアウト動物を作成したり、切断部位に外部DNAを組み込ませてノックイン動物を作成するなどの用途に用いられます。このシステムを利用して、遺伝子の変異が起きた細胞を正常な細胞に再生するなどということはまだできないので、「遺伝子編集」などという言葉は過大ですが、この技術が開発されてからもう20年以上経過しますので、新たな進歩もあります。今回はその一部を紹介しようと思います。

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図228-1 CRIPR-Cas9 システムの概要

図228-1についてはもう少し説明する必要があります。Cas9というクリスパーシステムの中核であるエンドヌクレアーゼは類似した機能を持つ多くのタイプがあることが知られていますが、いずれ稿を改めて取り扱おうと思っていますので、ここでは詳しく述べません。ただ石野によれば古細菌の90%、真正細菌の50%くらいがクリスパーシステムを持っているようなので、バラエティーが多くても不思議ではありません(3)。例えばPAMという配列を認識してCas9はDNAと結合しますが、それは一定ではなく酵素によって認識する配列は異なります。たとえば化膿性レンサ球菌由来のCas9(SpCas9)のPAM配列は5’-NGG-3’(Nは任意の塩基)ですが、黄色ブドウ球菌由来のCas9(SaCas9)は5’-NNGRRT-3’(RはAまたはG)となっています(4)。

Cas9が機能するためには crRNA+tracrRNA または sgRNA が必要で、Cas9はこのRNAと相補的な配列を持つDNAを切断するとともに、対となっている反対側のDNAも切断します(図228-1)。よく研究されている Streptococcus pyogenes のCas9タンパク質の1次元マップを図228-2に示します(5)。一般的にCasタンパク質はRNAを認識するRECローブとヌクレアーゼ活性を持つNUCローブからなりますが、それらはサブユニットではなく、BH(ブリッジヘリックス)でつながっているひとつのペプチド鎖です(図228-2)。

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図228-2 Casタンパク質の1次構造マップ

Streptococcus pyogenes のCas9タンパク質の場合、NUCローブは一次元的には分離していますが、生物種によっては分離していない場合もあります(6)。また最近よく使われるCas12a(Cpf1)の場合も分離しているものとしていないものがあります(6)。PAMを認識する部分は一般的にNUCローブに存在しています。

図228-3は西増らによって発表された Streptococcus pyogenes のCas9タンパク質の立体構造で、RECローブ、NUCローブ、sgRNA、ターゲットDNAの関係がよくわかります(7)。ただHNHとRuvCという2つのDNA切断活性を持つサイトが離れているので、ダブルストランドが同時に切断されるのではなく、HNHサイトで片鎖が切断された後、なんらかのコンフォメーションチェンジがあって、RuvCでの切断が行われると思われます。

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図228-3 Streptococcus pyogenes Cas9 の立体構造 

佐藤らはアカパンカビの光受容体を使って、「青色光によって結合し、暗所で解離する」というタンパク質のセットを開発してマグネットシステムと名付けました。彼らはCasタンパク質のC末断片とN末断片を分離し、それぞれにマグネットタンパク質を結合させてから青色光を当てることによって、特定の場所と時間を決めてCRISPR-CasシステムをON/OFFすることに成功しました(8-10)。

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図228-4 マグネットシステムを用いた標的遺伝子の切断

このことは将来、たとえば脳の特定の神経細胞の特定の遺伝子をノックアウトするというような、新しい脳疾患の遺伝子治療に道を開く技術であると言えます。このような治療が成功するためには、特にオフターゲット効果が小さい、すなわち標的でないDNAを切ってしまうエラーが少ないことが重要で(増殖を制御している部分を切ってしまうと癌が発生する可能性があるなど)、Cas12a(=Cpf1)はCas9よりもこの点で優れているようです。また青色光ではなく赤外光にレスポンスするセットの方が深部でも反応するのでベターでしょう。

古細菌、緑藻、アカパンカビなどの研究からクリスパー・キャス、光遺伝学、光遺伝子治療などという21世紀の驚異的なイノベーションが生まれてきました。こんなことは高級官僚や国会議員がいくら頭をひねっても思いつくことではありません。「選択と集中」は科学を陳腐なものにしてしまうのがオチであることを心に刻みましょう。研究材料が誰も関心のないような生物であったとしても、その研究者をバカにするのはやめましょう。

参照

1)やぶにらみ生物論95: クリスパー
http://morph.way-nifty.com/grey/2017/12/post-0ba2.html

2)ThermoFischer Accelerating ScienceLearning at the Bench 分子生物学実験関連 そういうことだったのか ! ゲノム編集実験(CRISPR/Cas9) ~第1回 CRISPR/Cas9システムの原理~
https://www.thermofisher.com/blog/learning-at-the-bench/gene-editing_bid_ts_1/

3)石野良純 奇妙な繰り返し配列クリスパーの謎
公研 2021年6月号「私の生き方」
https://koken-publication.com/archives/1036

4)M-hub CRISPR-Cas9とは?原理をわかりやすく解説!
https://m-hub.jp/biology/4829/332

5)西増 弘志 CRISPR-Cas9 の構造と機能 生化学 第 87 巻第 6 号,pp.686‒692(2015)
https://seikagaku.jbsoc.or.jp/10.14952/SEIKAGAKU.2015.870686/data/index.html

6)Alberto Cebrian-Serranom, Benjamin Davies, CRISPR-Cas orthologues and variants: optimizing the repertoire, specificity and delivery of genome engineering tools., Mamm Genome , vol.28: pp.247–261(2017) DOI 10.1007/s00335-017-9697-4
https://www.researchgate.net/publication/317799176_CRISPR-Cas_orthologues_and_variants_optimizing_the_repertoire_specificity_and_delivery_of_genome_engineering_tools

7)Hiroshi Nishimasu, F. Ann Ran, Patrick D. Hsu, Silvana Konermann, Soraya I. Shehata,
Naoshi Dohmae, Ryuichiro Ishitani, Feng Zhang and Osamu Nureki, Crystal Structure of Cas9
in Complex with Guide RNA and Target DNA., Cell vol.156, pp.935–949 (2014)
DOI:https://doi.org/10.1016/j.cell.2014.02.001
https://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(14)00156-1?_returnURL=https%3A%2F%2Flinkinghub.elsevier.com%2Fretrieve%2Fpii%2FS0092867414001561%3Fshowall%3Dtrue

8)佐藤守俊 ゲノムの光操作技術の創出 生物工学会誌 第 100 巻 第 8 号 pp.429–432.(2022)
DOI: 10.34565/seibutsukogaku.100.8_429

9)Nihongaki, Y., Otabe, T., Ueda, Y. and Sato, M., A split CRISPR–Cpf1 platform for inducible genome editing and gene activation. Nat Chem Biol 15, 882–888 (2019). https://doi.org/10.1038/s41589-019-0338-y
https://www.nature.com/articles/s41589-019-0338-y

10)東京大学プレスリリース ゲノム編集を制御する新たな技術 ~Split-CRISPR-Cpf1の開発〜 (佐藤守俊)
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20190813/index.html

 

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2024年1月 8日 (月)

続・生物学茶話227: チャネルロドプシン

最初にロドプシンを同定したのは誰か? de Grip と Ganapathy のレビュー(1)のイントロダクションをみると、それは Katharine Tansley らしいです。彼女の論文は1931年に単独名で出版されていて(2)、visual purple という物質が明るい場所では消費されつくしていて、暗い場所に移るとそれが再合成されて次第に見えるようになるというプロセスを測定しています。George Wald はそれがレチナールとタンパク質の複合体であろうと述べていますが、まだ証明できませんでした(3)。結局ロドプシンのタンパク質部分=オプシンの構造は1980年代に Hargrave らによって明らかにされました(4)。そして結晶化されて21世紀以降理研などで詳細な立体構造の解析が行なわれました(5、6)

真核生物のロドプシン(オプシン+レチナール)はGタンパク質共役型受容体(GPCR)型の膜タンパク質で、そこに含まれるレチナールが光が当たることによって異性化し、タンパク質が構造変化を起こしてGタンパク質を活性化するというメカニズムで視覚に貢献しています。古細菌も類似したオプシン+レチナールのGPCR型ロドプシンを持っていますが、それとは別に7回膜貫通型ではあってもGPCRではないライトセンサーも存在することが知られています。このあたりは以前に生物学茶話で書いています(7)。これ(7)は実は個人的にお気に入りの記事です。

しかしここまでの話は、脳科学とは視覚にかかわるという意味でしか関連がありませんでした。神経細胞と関連が深い「非特異的陽イオンポンプ」としてのロドプシンが注目される端緒は、ヘーゲマンらがクラミドモナスという緑藻類でチャネルロドプシンらしき物質を報告した(8)ことでした。ヘーゲマンらは人口が15万人くらいのレーゲンスブルクという田舎町の大学で研究を進めていましたが、この研究はたちまち注目を集め、マックスプランク研究所のプロジェクトとなって次のようなことがわかりました(9)。1)クラミドモナスの細胞膜にあるChR2というロドプシンは、光を吸収することによって陽イオンを非選択的に透過させる 2)ChR2は7回膜貫通タンパク質であり構造的にGPCRと類似しているが、機能的には全く異なり陽イオンを透過させるためのモチーフを持っている 3)ChR2は光を照射することによって細胞を脱分極させる。このことは光照射によって神経細胞の脱分極を誘導できることを意味し、神経生物学・脳科学にとって革命的な意義を持ちます。

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図227-1 チャネルロドプシンによる脱分極 (写真はウィキペディアより)

クラミドモナス(10)は単細胞生物ですが、眼に相当する構造を持っています。眼に光が当たることによってチャネルロドプシンの作用で陽イオンを取り込み、そのタイミングで鞭毛のビーティングを制御して動く方向を決めているようです。詳しいメカニズムについては文献(11)をご覧ください。単細胞生物であるにもかかわらず、私たちの「眼→神経系→運動器官の制御」と同様なことをやっているのには驚かされます。

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図227-2 クラミドモナスの構造 4のアイスポットで光を検知し、1の鞭毛のビートタイミングを決める

クラミドモナスのChR2(チャネルロドプシン2)は最初に動物の神経細胞を興奮させるツールとして用いられたことで有名ですが、現在では多くの研究室で使われています。その開閉メカニズムはタンパク質構造の研究者にとって重要な研究ターゲットですが、東大物性研の柴田らによると、光照射によってレチナールが構造変化を起こした結果、周囲のヘリックスが押し出されてチャネルが開き、流入した水の影響でレチナールのシッフ塩基がプロトン化されることによってもとにもどるというメカニズムのようです(12、13、図227-3)。まあ私のような者にとっては猫に小判ですが、そのような説明で納得しておきます。

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図227-3 ChR2(チャネルロドプシン2)の開閉メカニズム 細菌型ロドプシンの場合、光が当たっていないときはレチナールは直線型(オールトランス)で、光が当たると13シス型となり折れ曲がる

細胞膜7回貫通型でポケットにレチナールを装備するタンパク質=ロドプシンは、光を利用するためのツールとして細菌・古細菌の共通祖先の時代から存在し、真核生物にも引き継がれてきました。真核生物の場合伝統的なオールトランス型に光が当たると13シス型に変化するタイプとは別に、新しく11シス型に光が当たるとオールトランス型に変化するタイプのシステムを開発しました。図227-4では前者の伝統的なタイプのロドプシンの進化的系譜を示してあります(14)。

機能別に分類すると、いまのところ4種のようで、トリチウムポンプ、塩素ポンプ、光センサー、陽イオンチャネルに分類されています。真核生物の伝統的ロドプシンは細菌に近いものと、古細菌に近いものがあり、クラミドモナスなどのチャネルロドプシンは細菌のトリチウムポンプに近いようです(図227-4)。これはミトコンドリアを介して受け継いだものかもしれません。

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図227-4 細菌型ロドプシンの系譜 動物型ロドプシンは11-シス型レチナールを発色団にしていますが、細菌型ロドプシンはオールトランス型を発色団にします。両者は進化の初期の段階で分かれて、それぞれ独自に発展していきました

これらの他にも細菌型ロドプシンには、酵素活性をもつものや非特異的アニオンチャネルや方向性のあるものなどさまざまなタイプが最近みつかっています(15)。ロドプシンは細菌・古細菌・真核生物にみつかっていますが、いわゆる植物にはみつかっていないようです。

 

参照

1)Willem J. de Grip and Srividya Ganapathy, Rhodopsins: An Excitingly Versatile
Protein Species for Research, Development and Creative Engineering., ront. Chem. 10: article 879609. (2022) doi: 10.3389/fchem.2022.879609
file:///C:/Users/Owner/Desktop/%E5%85%89%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%A6/channel%20rhodopsin/de%20Grio.pdf

2)Katharine Tansley, The regeneration of visual purple: its relation to dark adaptation and night blindness., J Physiol., vol.71(4): pp.442-458. (1931)
doi: 10.1113/jphysiol.1931.sp002749
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1403094/

3)George Wald, CAROTENOIDS AND THE VISUAL CYCLE,
J Gen Physiol, vol.19 (2): pp.351-371. (1935)
https://doi.org/10.1085/jgp.19.2.351
https://rupress.org/jgp/article/19/2/351/11495/CAROTENOIDS-AND-THE-VISUAL-CYCLE

4)P. A. Hargrave, J. H. McDowell, Donna R. Curtis, Janet K. Wang, Elizabeth Juszczak, Shao-Ling Fong, J. K. Mohana Rao & P. Argos, The structure of bovine rhodopsin., Biophys. Struct. Mechanism vol.9, pp.235–244 (1983). https://doi.org/10.1007/BF00535659
https://link.springer.com/article/10.1007/BF00535659#citeas

5)Krzysztof Palczewski, Takashi Kumasaka, Tetsuya Hori, Craig A. Behnke, Hiroyuki Motoshima, Brian A. Fox, Isolde Le Trong, David C. Teller, Tetsuji Okada, Ronald E. Stenkamp, Masaki Yamamoto, Masashi Miyano, Crystal Structure of Rhodopsin: A G Protein-Coupled Receptor., Science vol.289, pp.739-745. (2000)

6)理化学研究所 プレスリリース 視覚に関わるタンパク質の超高速分子動画
-薄暗いところで光を感じる仕組み-
https://www.riken.jp/press/2023/20230323_1/index.html

7)続・生物学茶話 112: 光を感じるタンパク質 
http://morph.way-nifty.com/grey/2020/09/post-453128.html

8)Peter Hegemann, Markus Fuhrmann, and Suneel Kateriya, Algal sensory photoreceptors., J. Phycol. vol.37, pp.668–676 (2001)
https://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev.arplant.59.032607.092847

9)Georg Nagel, Tanjef Szellas, Wolfram Huhn, Suneel Kateriya, Nona Adeishvili, Peter Berthold, Doris Ollig, Peter Hegemann, and Ernst Bamberg, Channelrhodopsin-2, a directly light-gated cation-selective membrane channel., PNAS vol.100(24), pp.13940-13945 (2003)
https://doi.org/10.1073/pnas.1936192100
https://www.pnas.org/doi/abs/10.1073/pnas.1936192100

10)Wikipedia: Chlamydomonas
https://en.wikipedia.org/wiki/Chlamydomonas

11)植木紀子、若林憲一 緑藻クラミドモナスの走光性と細胞レンズ効果藻類の「眼」の赤い色の役割 Kagaku to Seibutsu vol.55(6): pp.366-368 (2017)
https://katosei.jsbba.or.jp/view_html.php?aid=796

12)東京大学物性研究所 物性研ニュース 光遺伝学の中心的なツール、チャネルロドプシンのチャネル開閉メカニズムを新開発時間分解ラマン分光系で解明! 
https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/news2.html?pid=18613

13)Keisei Shibata, Kazumasa Oda, Tomohiro Nishizawa, Yuji Hazama, Ryohei Ono, Shunki Takaramoto, Reza Bagherzadeh, Hiromu Yawo, Osamu Nureki, Keiichi Inoue, and Hidefumi Akiyama, Twisting and Protonation of Retinal Chromophore Regulate Channel Gating of Channelrhodopsin C1C2., J Am Chem Soc vol.145(19): pp.10779-10789. (2023) doi: 10.1021/jacs.3c01879.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/37129501/

14)Oliver P. Ernst, David T. Lodowski, Marcus Elstner, Peter Hegemann, Leonid S. Brown,
and Hideki Kandori, Microbial and Animal Rhodopsins: Structures, Functions, and
Molecular Mechanisms., Chemical Reviews vol.114, pp.126-163 (2014)
https://doi.org/10.1021/cr4003769
https://pubs.acs.org/doi/full/10.1021/cr4003769

15)井上佳一 ロドプシンを用いたオプトジェネティクスの最前線 生物工学会誌 vol.100, no.8, pp.420-424 (2022)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seibutsukogaku/100/8/100_100.8_420/_pdf

 

 

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2024年1月 1日 (月)

カール・ダイセロス 「こころ」はどうやって壊れるのか (Karl Deisseroth: Projections a story of human emotions)

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カール・ダイセロス著 「こころ」はどうやって壊れるのか 最新「光遺伝学」と人間の脳の物語
大田直子訳 光文社 2023年刊

Projections by Karl Deisseroth : Penguin Random House LLC (2021)

このブログで以前に多光子顕微鏡について記したことがあります。多光子顕微鏡を用いれば、頭蓋骨に穴を開ければ、1mmくらいの深度まで生きたままの脳の組織を検鏡できるようです。マウスの場合大脳皮質の厚みは1mm以下なので、ほとんどの皮質の細胞が観察できます(1)。ということはそこまで光が届くと言うことで、この赤外光に反応するロドプシン(タンパク質の部分はオプシン)の遺伝子を神経細胞のゲノムに組み込んでおけば、特定の細胞に光を当てることによってロドプシンを活性化することができます。

ヒトの場合ロドプシンは膜7回貫通型のいわゆるGタンパク質結合受容体ファミリーであり、Gタンパク質が光が当たったという情報を細胞に伝えて視覚情報処理が行われます。ところが2002年にペーター・ヘーゲマンがクラミドモナスという藻類に光が当たると陽イオンを透過させるチャネルロドプシンがあることを発見し、この遺伝子を生物に組み込めば光をあてることによって神経細胞を興奮させることができるようになりました(2)。誰も気にとめないような藻類の研究が、神経生物学の革命的進展ひいては精神病の治療に光明をもたらすことになったのです。

組織の深部に光を届かせるには赤外光に反応するチャネルロドプシンが必要ですが、その開発は日本で行われています。井上圭一らはロドプシンのアミノ酸を改変することで、従来より長波長の光で操作が可能な新しい人工ロドプシンタンパク質を作製することに成功しています(3)。その他多くの研究者の努力によって、光遺伝学というジャンルの科学が発展しました(4)。その中心人物がこの本の著者カール・ダイセロスです(5)。

ダイセロスはもともと精神科の医師であり、この本も光遺伝学の解説書という体裁ではなく、病気の種類によって章をわけてある精神医学の本という形をとっています。それはいいのですが、彼は文学にも造詣が深いらしく、たとえば「だがその瞬間、記憶の、というか私自身の物語の、細くて切れやすい巻きひげが表面に這い出てきた」などというまわりくどい文学的表現に満ち満ちていて、読んでいてイライラします。とはいえアンドリュー・パーカーの「眼の誕生」ほどひどくはないので、我慢して最後まで読んでみました。

ひとつ驚いたのはダイセロスが医師なのに、まるで生物学者のようにいつも進化について考えていることです。人はサルから急激に脳だけ巨大化した特殊な生物です。ですからその進化の過程で無理が発生していることは十分に考えられ、ダイセロスはそのことに注目しているようです。確かにそれは急激な変化であり、自然淘汰によって整理されるにはまだ時間が必要だと思われます。ヒトは人権の問題があるので、自然淘汰はしにくい生物ですが、その分遺伝子工学や医療の進展によってそれを補うことができます。

境界性人格障害について述べた第4章には驚きました。この精神障害の原因が、幼少期のストレスと無力感が松果体の手綱の活動を強めたためという可能性があるという記述は、非常に興味深いものがあります。手綱の活動はドーパミンニューロンを抑制し、人をネガティヴにするのです。ならばその手綱の活動を抑制すればこの病気を治療できるのではないかと思いますが、著者はそこまで言及していません。現時点ではそれはできないからでしょう。

拒食症や過食症には進化上の意味があると思います。前者は少ない食料でも生きられる個体を選別するシステムのエラーだと思われますが、これは飢えを経験しない動物は地球の歴史上なかったに違いないので、いかにもありそうな病気です。後者は過度な食事によって体内に蓄えを作ることができる個体を作るためだと推測されます。熊のように体内に蓄えをすることができれば、冬眠が可能になります。冬眠できる動物は、種が絶滅しそうな大災害が起きたときにも個体を残すことができます。これは少ない食料でも生きられる個体を作るより、さらに種の存続に有効かもしれません。

統合失調症については、誰かに操られるという感覚は宗教と密接に結びついていると思います。急激に脳が発達する過程で十分に全体を統合できず、統合できない部分が脳にできやすくなったということは進化のプロセスとして理解できます。欧米人は子供の頃から聖母マリアや家畜小屋で生まれたジーザスや東方の3賢人などをはじめとする聖書の話をさんざんきかされて育つので、自分以外に神があやつる自分という部分が脳に形成されるようトレーニングされています。

では日本はどうでしょうか? 日本国憲法も一条から八条までは天皇に関するもので、非科学的な実体によって心があやつられることを宣言し容認しています。憲法第二十条では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」という規定があるにもかかわらずです。それでも太平洋戦争以前に比べると大幅に「進化」したとは言えるでしょう。生物学的タイムスパンでは進化など語るのもおこがましい千数百年前の最近まで、日本は卑弥呼などのシャーマンが支配する国であって、そのお告げによって人が操られていたのです。最近でも文鮮明によって操られている人々がいることが問題になりました。そんな人々を統合失調症とは言わないのでしょうか? いや人は自分という統合体とは別の脳の部位によって操られる危険性を誰でも持っているのでしょう。

この本は光遺伝学について知りたいという人にとっては期待外れですが(実は巻末に東大の加藤秀明氏が「オプシンと光遺伝学」というタイトルでかなり長い解説を書いています)、脳の進化と病気についていろいろと考えさせてくれるという意味では良書だと思います。最後に専門家としてひとこと言わせてもらえば、鬚が先にあってその後体毛ができたというような考え(p159)は間違っていると指摘したいです。というのは鬚の構造は体毛より圧倒的に複雑で、これが体毛より先にできたというのは進化的にあり得ないと思います。鬚で暗闇を探るような生活をする前から、キノドンなどの単弓類の一部は寒さをしのぐために体毛を持っていたに違いありません。キノドンが繁栄していたのは恐竜が繁栄するひと時代前のことです。


参照

1)続・生物学茶話220:多光子顕微鏡
http://morph.way-nifty.com/grey/2023/09/post-c627c3.html

2)ウィキペディア:ペーター・ヘーゲマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%9E%E3%83%B3

3)科学技術振興機構プレスリリース 光でイオンを輸送するタンパク質、ロドプシンの吸収波長の長波長化に成功~脳深部の神経ネットワークを解明する技術へ~
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20190510/index.html

4)ウィキペディア:光遺伝学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%A6

5)カール・ダイセロス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%AD%E3%82%B9

 

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2023年12月17日 (日)

続・生物学茶話226:興奮と抑制

生物は基本的にはデジタル的な存在であり、たとえば遺伝子はATGCの4つの要素の組み合わせで成り立っています。神経細胞も興奮するかしないかの2者択一が基本です。しかしそんな単純なシステムでどうやって湯飲みをつかんでお茶を飲んだりできるのでしょうか? まず手で茶碗をつかんで、その滑りやすさや重量のフィードバックを受けながら、どの指にどのくらい力を加えれば良いかを自動的に判定ししつつ、口まで持ってきて各指の力のいれ加減を変化させることによってお茶を飲むことができます。

つまり個々の神経細胞のデジタル的な動作を、お茶を飲むというアナログ的動作に変換するというデジアナ変換的なシステムが神経を使う生物にとっては必須であり、そのために神経はネットワークを構築する必要があります。そしてそれを可能にしているのがシナプスという個々の神経細胞を連結する構造です。そして次に重要なことはそのシナプスに興奮を伝えるものと、興奮を抑制するものがあるということです。これによって個々の神経細胞の興奮を細かく調節することが可能で、湯飲みをつかんでお茶を飲むことも可能になります。

シナプスはコンセントのように電気信号を物理的に伝えるものではなく、細胞と細胞の隙間に化学物質を漏出し、それを受容体タンパク質が受け取ってその情報を細胞に伝えるという、化学的なシステムです。もし興奮を伝えるだけなら細胞膜に穴をあけてくっつければそれで済むわけですから、興奮を抑制する役目が必要であるからこそシナプスが必要だったと言えるでしょう。そのために興奮を伝えるシステムが割を食って、時間的には損なシステムに付き合わざるを得なくなりました。しかし化学的なシステムなら、漏出する物質を変えることによって興奮と抑制を使い分けることができます。あともうひとつ重要なことは、シナプスの存在によって情報が流れる方向が決まるということです。情報の流れる方向が両方向だと全体が均質化され、ネットワークの意味がありません。脳の場合情報を伝達する物質は多様ですが、興奮に使うグルタミン酸、抑制に使うγ-アミノ酪酸(GABA)とグリシンが代表的な分子です。

図226-1の左端に示したのは私たちの大脳皮質に普通に分布している錐体細胞という神経細胞です。この細胞の細胞体はピラミッドのような形をしていて、その頂点から脳の辺縁に伸びていく巨大な尖端樹状突起を出します(1)。この錐体細胞は網膜の錐体細胞とは全く関係が無い別物で、同じ名前になっているのは脳科学者の怠慢によるものです。錐体細胞の出力装置である軸索は底部から出ています。樹状突起は側面や底面からも複数伸びています(図226-1)。

この軸索より太い樹状突起には多数のスパイン(トゲ)がでていて、その先端にグルタミン酸の受容体があります。樹状突起の周辺は多くの枝分かれした神経が多数分布しているため、それらが邪魔になってなかなか樹状突起に直接他の神経がアクセスすることは困難で、スパインが出ていることによってアクセスできる可能性が飛躍的に高まることが、このような構造に進化した要因と思われます(図226-1ABC)。最近このスパインの一部が巨大化することが統合失調症の原因だとする学説が発表されました(2)。

シナプス前終末から放出されたグルタミン酸は、スパイン頭部のグルタミン酸受容体(詳細は拙稿3、4をご覧ください)に受け止められ、シナプス後細胞すなわち図226-1左図の細胞の脱分極を誘導します。受容体はPSDの主要素であるPSD95によって、特定の場所の細胞膜に固定されています(7、図226-1)。

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図226-1 ラット大脳皮質の錐体細胞と興奮性シナプス 錐体細胞の樹状突起にはスパインが形成され、そこで興奮性信号を受け取ります。 本図を作成するに当たって脳科学辞典「錐体細胞」「樹状突起スパイン」「興奮性シナプス」を参照しました。

興奮性のシナプスは主に樹状突起のスパイクにつくられますが、抑制性のシナプスは主に細胞体あるいはそれに近い領域(バスケット細胞)、あるいは軸索(シャンデリア細胞)につくられます(図226-2)。これは興奮性の情報は広い領域から集められて神経細胞を興奮させますが、それを軸索からの出力に反映するかどうかは、バスケット細胞やシャンデリア細胞などから来る抑制性情報の量によって制御されているというわけです(5、6)。

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図226-2 抑制性介在ニューロン 本図を作成するに当たってウィキペディア「錐体細胞」を参照しました。

脳の抑制性シナプスはGABA作動性のものとグリシン作動性のものがあり、どちらもリガンドの結合によって塩素イオンの流入を促進します。この結果シナプス後電位を下げる方向に働きます。GABAやグリシンは睡眠導入剤として市販もされています。大部分の抑制性シナプスはスパイクのない平坦な細胞膜に存在します(8、図226-3)。GABAおよびグリシン受容体はどちらもゲフィリンという細胞膜の構造タンパク質のメッシュ構造によって支えられています(9)。構成要素が異なるので、同じシナプスといっても興奮性のものと抑制性のものでは当然構造が異なっています(8)。バスケット細胞やシャンデリア細胞の詳細な構造や機能については論文をご覧ください(10)。

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図226-3 GABA作動性およびグリシン作動性の抑制性シナプス 本図を作成するに当たって脳科学辞典「抑制性シナプス」を参照しました。

興奮性のリガンドであるグルタミン酸と抑制性のリガンドであるグリシンがひとつの酵素によってリバーシブルに変換されるということは興味深い生化学的な現象です(11、図226-4)。興奮性の要素は一時的に増えてもすぐに抑制性の要素に転換されるべく、進化の原点からそのような仕組みがあったことが想像されます。さらにグルタミン酸は不可逆的にGABAに代謝されるので、興奮性の要素はあくまでも一時的なものにとどめるためにこのプロセスは有効でしょう。GABAからグルタミン酸を再生成するにはGABA→コハク酸→TCAサイクル→αケトグルタル酸→グルタミン酸という迂遠な径路を経なければなりません(12、図226-4)。

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図226-4 グルタミン酸、グリシン、GABAの代謝上の関係

CTやMRIを使った研究によって、対照群に比べ統合失調症の患者では脳室が拡大していること、逆にいうと脳の実質が小さくなっているということ、前頭葉や側頭葉が小さいこと、大脳辺縁系の海馬や扁桃体がとくに左側で小さいことなどが明らかになっています(13)。つまり図226-5の3領域において脳のシナプスが減少し、機能が低下していることが示唆されています。さらに統合失調症におけるシナプスの自己抗体生成も報告されています(14)。

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図226-5 統合失調症で障害が著しい脳の3領域 この図を作成するに当たって、ウィキペディア「背外側前頭前野」「1次聴覚野」および脳科学辞典「海馬」を参照しました。

統合失調症の原因はいまのところドーパミン系の過活性と考えられていますが、脳科学辞典によると「統合失調症以外の疾患で認める幻覚妄想にも抗精神病薬が有効なことが多いことからは、ドーパミン系の過活性は統合失調症の病態のうちの下流に位置する現象と考えられている。その上流としてグルタミン酸系やGABA系、修飾要因としてセロトニン系などが、活発に研究されている。 」と書かれてあります。

いずれにしてもシナプスの減少は脳の退化であり、認知症などの問題も含めてシナプスの健康は脳の健康に直結していることは明らかでしょう。


参照

1)脳科学辞典:錐体細胞
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E#:~:text=%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%AA%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%82%92%E6%9E%9C%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

2)理化学研究所プレスリリース:巨大スパインに基づく統合失調症の病態生理の新仮説-神経細胞の“シナプス民主主義”の崩壊- (2023)
https://www.riken.jp/press/2023/20230610_1/

3)続・生物学茶話152:グルタミン酸 その1 イオンチャネル型グルタミン酸受容体
http://morph.way-nifty.com/grey/2021/07/post-148529.html

4)続・生物学茶話153:グルタミン酸 その2 代謝型グルタミン酸受容体
http://morph.way-nifty.com/grey/2021/08/post-2503ea.html

5)ウィキペディア:錐体細胞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E_(%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E)

6)脳科学辞典:大脳皮質の局所神経回路
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%84%B3%E7%9A%AE%E8%B3%AA%E3%81%AE%E5%B1%80%E6%89%80%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%9B%9E%E8%B7%AF

7)今井彩子 シナプス足場タンパク質 PSD-95 の局在を調節するメカニズムの計算科学的研究 つくば生物ジャーナル vol.20 p.70 (2021)
http://gradtex.biol.tsukuba.ac.jp/2020/tjb202101/201710548.pdf

8)脳科学辞典:抑制性シナプス
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%8A%91%E5%88%B6%E6%80%A7%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%B9

9)脳科学辞典:ゲフィリン
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%B2%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%B3

10)Fuyuki Karube, Yoshiyuki Kubota and Yasuo Kawaguchi, Axon Branching and Synaptic Bouton Phenotypes in GABAergic Nonpyramidal Cell Subtypes., Journal of Neuroscience, vol.24 (12) pp.2853-2865 (2004); DOI: https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.4814-03.2004
https://www.jneurosci.org/content/24/12/2853.short

11)Henry I. Nakada, Glutamic-Glycine Transaminase from Rat Liver., The J.Biol.Chem.,
Vol. 239, No. 2, pp.468-471, (1961)
https://www.jbc.org/article/S0021-9258(18)51703-8/pdf

12)脳科学辞典:GABA  
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/GABA#%E7%94%9F%E5%90%88%E6%88%90

13)脳科学から見た統合失調症(監修:仙波純一 さいたま市立病院)
https://www.smilenavigator.jp/tougou/about/science/02.html

14)東京医科歯科大学 プレスリリース 統合失調症でシナプスへの新しい自己抗体を発見 (塩飽裕紀)
https://www.tmd.ac.jp/press-release/20230413-1/

 

 

 

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2023年11月24日 (金)

続・生物学茶話225:アンジェルマン症候群

アンジェルマン症候群はおよそ生まれてきた赤ちゃんの1万5千人にひとりの割合で見られる指定難病です。1965年に英国の小児科医ハリー・アンジェルマンは知的障害・発語障害・運動障害・幸福そうな態度が同時に見られる一群の子供達をひとつの病気としてまとめて報告しました(1)。この時アンジェルマンはこの病気の子供達をパペット・チルドレンと呼びましたが、それはカロトの絵に触発されてのことだそうです(2、3、図225-1)。口角が上がって微笑んでいるように見えるのがパペット・チルドレンの特徴です。この絵はヴェローナの美術館の所蔵だったそうですが、なんと2015年に盗まれてしまったそうです(4)。ハリー・アンジェルマンの報告は発表した当時はさして注目されなかったようですが、後日認められてこの病気はアンジェルマン症候群という名前になりました。

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図225-1 アンジェルマン症候群

アンジェルマン症候群の原因は遺伝子の異常であり、その責任遺伝子はUBE3Aであることがわかっています(5、6)。症状や診断についての詳細は文献をご覧ください(7)。現在のところ根治は不可能で、対症療法しかありません。

さてそのUBE3Aという遺伝子はどのようなタンパク質をコードしているかというと、それはE3ユビキチンリガーゼです(ユビキチンもある種のタンパク質)。役割は図225-2に示したように、ATPを使ってユビキチン化されたE2を基質となるタンパク質と結合させて「基質+E3+ユビキチン化E2」という複合体を形成し、そこでユビキチンを基質に転移させて「ユビキチン化基質+E3+E2」というプロダクトを作成するというものです(8)。

ヒトのE3は500~1000種類あるとされいます(8)。どうしてそんなに種類が多いかというと、それだけ多種類の基質(タンパク質)が存在するからで、それだけ多くのタンパク質がユビキチン化によって機能を調節されていることを意味します。機能調節に加えてもうひとつ重要なことは、ユビキチン化されることによって、それがそのタンパク質がプロテアソームによって分解されるためのシグナルになる場合があることです。UBE3AもそのようなE3のひとつで、変異または欠失によってその標的となっていたタンパク質の調節あるいは分解がうまくいかないことが予想されます。

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図225-2 タンパク質のユビキチン化におけるE3の役割

(Roger B. Dodd により upload されたウィキペディアの図 参照8)

ここでアンジェルマン症候群を取り上げたのには1つ理由があって、実は UBE3A はゲノムインプリンティングと関係があり、父親由来のこの遺伝子制御領域はインプリンティングによって不活化されていることが明らかになっています(9)。したがって母親のこの領域が欠失する、変異する、または父親由来の染色体のダイソミーになることでUBE3AがコードするE3が消滅または不活性となり、アンジェルマン症を発症します。

図225-3にこの遺伝子の染色体上の位置を示しました。第15染色体のセントロメア近傍長腕に存在します(15q11.2)が、近傍に SNRPN という領域があり、ここにはプラダー・ウィリ(Prader-Willi)症候群の原因遺伝子が存在します(10)。この遺伝子の産物はpre-mRNAのスプライシングに関与していると考えられるリボ核タンパク質サブユニットなのでUBE3Aとはかかわりがありません(11)。ただ母親由来のこの遺伝子制御領域がインプリンティングによって不活化されているので、父親由来のこの領域が欠失する、変異する、または母親由来の染色体のダイソミーによって発症するので、ゲノムインプリンティングに関してはなんらかの関わりがあるのかもしれません。

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図225-3 UBE3Aのヒト15番染色体上の位置

UBE3AがコードするE3のターゲットのひとつがBMP受容体であることが示唆され(12)、さらにこの結果そのE3の欠損によってシナプスの刈り込みが不調となることが、アンジェルマン症候群における脳神経系の発育異常につながっていることが示唆されています。たとえばUBE3Aのある部分が変異することによって、E3とキネシンの接着がうまくいかなくなり、E3が軸索をシナプスまで移動できないためにBMP受容体の分解がうまくいかず刈り込みが不調となります(13、図225-4)。BMP受容体の分解がうまくいかないということはBMPシグナルが強く出すぎるということを意味します。このことはBMPシグナルを適切に調節するという治療が可能であることも示唆しています(13)。

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図225-4 アンジェルマン症候群における脳神経系発育異常の要因の例(参照文献13の研究結果)

BMPシグナルは非常に広範な発生現象に影響を及ぼしているので、この作用に関わる因子だとすればその影響は大きく、欠損によって様々な症状が発生することも理解できます。しかし適切なタイミングで適切にBMPシグナルを抑制すれば、アンジェルマン症候群の治療もできるという方向で研究が進められていると思います。

参照

1)Angelman, Harvey 'Puppet' Children: A report of three cases., Dev Med Child Neurol. 7 (6): 681-688. (1965) https://doi.org/10.1111/j.1469-8749.1965.tb07844.x
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1469-8749.1965.tb07844.x

2)Wikipedia: Harry Angelman
https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Angelman

3)Wikipedia: Giovanni Francesco Caroto
https://en.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Francesco_Caroto#

4)Angelman Syndrome in the Portrait of a Child With a Drawing by Giovanni F. Caroto
JAMA Medical News September 2016
https://jamanetwork.com/journals/jamapediatrics/article-abstract/2531458

5)Matsuura, T., Sutcliffe, J., Fang, P. et al., De novo truncating mutations in E6-AP ubiquitin-protein ligase gene (UBE3A) in Angelman syndrome., Nat Genet vol.15, pp.74–77 (1997). https://doi.org/10.1038/ng0197-74
https://www.nature.com/articles/ng0197-74

6)Joachim Bürger, Denise Horn, Holger Tönnies, Heidemarie Neitzel, André Reis, Familial interstitial 570 kbp deletion of the UBE3A gene region causing Angelman syndrome but not Prader-Willi syndrome., American Journal of Medical Genetics, vol.111, Issue 3, pp.233-237 (2002). https://doi.org/10.1002/ajmg.10498
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ajmg.10498

7)GRJ(Gene Reviews Japan) Angelman症候群 日本語翻訳版
http://grj.umin.jp/grj/angelman.htm

8)ウィキペディア:ユビキチンリガーゼ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BC

9)Mabb AM, Judson MC, Zylka MJ, Philpot BD. Angelman syndrome: insights into genomic imprinting and neurodevelopmental phenotypes. Trends Neurosci., vol.34(6): pp.293-303. (2011) doi: 10.1016/j.tins.2011.04.001.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3116240/

10)Leica Biosystems: IVD UBE3A/PML
https://shop.leicabiosystems.com/ja-jp/ihc-ish/ish-probes-molecular-pathology/pid-ivd-UBE3A-pml

11)Christopher C. Glenn, Kathleen A. Porter, Michelle T.C. Jong, Robert D. Nicholls, Daniel J. Driscoll, Functional imprinting and epigenetic modification of the human SNRPN gene, Human Molecular Genetics, vol.2, Issue 12, pp.2001–2005 (1993)
https://doi.org/10.1093/hmg/2.12.2001
https://academic.oup.com/hmg/article-abstract/2/12/2001/649069?redirectedFrom=fulltext

12)Li W, Yao A, Zhi H, Kaur K, Zhu Y-c, Jia M, et al. (2016) Angelman Syndrome Protein Ube3a Regulates Synaptic Growth and Endocytosis by Inhibiting BMP Signaling in Drosophila. PLoS Genet., vol.12(5): (2016) https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1006062
https://journals.plos.org/plosgenetics/article?id=10.1371/journal.pgen.1006062

13)Kotaro Furusawa, Kenichi Ishii, Masato Tsuji, Nagomi Tokumitsu, Eri Hasegawa and Kazuo Emoto, Presynaptic Ube3a E3 ligase promotes synapse elimination through downregulation of BMP signaling., Science vol.381, issue 6663, pp.1197-1205 (2023)
DOI: 10.1126/science.ade8978
https://www.science.org/doi/abs/10.1126/science.ade8978

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2023年11月13日 (月)

続・生物学茶話224:ゲノムインプリンティング

ヒトはもちろんひとつの細胞内に母親からもらった染色体1セット(23本)と父親からもらった染色体1セット(23本)計2セットをもつ、ゆわゆる2nのゲノム構成の生物です。ただし細胞分裂の前には一時的に4nとなり、減数分裂後の生殖細胞(卵と精子)はnとなります。2nであることのひとつの意味は、ひとつの遺伝子が損傷した場合でも、もうひとつの同じ役割の遺伝子で代替できるということです。

ところが不思議なことにマウスやヒト(哺乳類)は父親から受け継いだ染色体でしかはたらかない遺伝子(Paternally expressed genes: Peg)および母親から受け継いだ染色体でしかはたらかない遺伝子(Maternally expressed genes: Meg)を少なくとも約200くらい持っていることがわかってきました(1)。これはせっかくふたつ持っているものをひとつは持っていても使わないという一見不可解な現象です。

最初にこのことを証明したのはマックグラスとソルターで、彼らは核移植によって父由来の染色体だけで2nとした卵と母由来の染色体だけで2nとした卵を発生させると、前者は胎盤はきちんとできるが胎仔は発育不良、後者は胎盤が未発達となりやはり胎児は発育不良で、いずれも出産前に死亡することを報告しました(2、3、図224-1)。つまりマウスやヒトでは2nであればいいということではなくて、父親由来のn+母親由来のn=2nでなければならないのです。

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図224-1 染色体がすべて母親由来または父親由来ならどうなる

このような遺伝子(Peg, Meg)が最初に同定されたのは1991年で、たとえばインスリン様成長因子2(IGF-2)という遺伝子の二つの対立遺伝子のうち片方を欠損させたマウスをつくったところ、変異が母方に由来する遺伝子にあるマウスは正常に発育するが、父方由来のものにあると正常マウスの半分以下のところで成長が止まってしまったのです。つまりIGF-2遺伝子は父親由来でなければはたらかない遺伝子(= Peg)だったのです(4)。IGF-2は胎仔の成長には必須のペプチドホルモンです。同じ年に同様な別の遺伝子も同定されました(5)。それぞれのファーストオーサーの写真と、この現象を簡易に示した図を図224-2に示します。

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図224-2 ゲノムインプリンティング いくつかの遺伝子については片方の親から受け継いだ遺伝子のみが発現する

その後マウスでもヒトでも200以上の Peg や Meg がみつかりました。このように父または母の片方の親からもらった遺伝子しか働かない現象をゲノムインプリンティング(genomic imprinting)といいます(6、図224-3)。インプリンティングを刷り込みと呼ぶことがありますが、生物学では生まれたばかりの子供が母親について学習することを「刷り込み」というので、これはあまり良い言葉ではありませんが、英語でもその種の幼児学習のことを imprinting というので、仕方がないところでもあります。

図224-3を見ると、驚くべきことにヒトとマウスでインプリンティングが行われている遺伝子がかなり異なるということが示されています。これはどの遺伝子についてインプリンティングが行われるかは、進化というスケールの中では非常に最近、すなわち哺乳類が適応放散した後に決められたものが多いことを示しています(6)。またここには示してありませんが文献6によると、ヒトでもマウスでもインプリンティング遺伝子が存在する染色体には偏りがあり、中には全くないか非常に少ない染色体もあることがわかっています。

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図224-3 ヒトとマウスのインプリンティング遺伝子

日本の2つの研究室で、ゲノムインプリンティングは生殖細胞が形成されるときにいったん初期化され、精子・卵子形成時に再実行されるということが発見されています(7、8、図224-4)。発生の過程で生殖細胞が形成されますが、それらがつくられる過程でいったんインプリンティング(刷り込み)は消去され初期化されます。この結果どうなるかというと、遺伝子はインプリンティングによる制御から解放され、通常の遺伝子制御すなわち上流の制御領域・エンハンサー・サプレッサー・プロモーターなどによる発現制御下にはいるということです。したがって相同染色体の両方で発現したり、あるいは両方で発現しなかったりということもあり得ます。また複数のインプリンティング遺伝子がクラスターを形成していることから、これらはまとまって制御されているようです(6)。

また興味深いことに、いったん消去されたインプリンティングが生殖細胞ゲノムに再度刷り込まれる時期について、オスの場合は出産前に完了するのに対して、メスの場合は出産後生殖可能な時期の直前までかかることがわかっています(7、8)。なぜかはわかりません。

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図224-4 ゲノムインプリンティングとマウスの発生

マウスの Peg, Meg の一覧図は石野研究室のホームページに掲載されています(9、10)。マウスの染色体は1~19番とXYの構成ですから、全部で40本(38XY)です。マウスの場合短腕が非常に短いという特徴があります。Peg, Meg がそれぞれクラスターをつくっていること、6番・7番・12番染色体に偏って存在すること、短腕には発見されていないことなどがわかります。

再刷り込みで行われていることは、生化学的には雄なら父親性インプリンティング領域に対する父親性インプリンティング因子による調節領域のメチル化、雌なら母親性インプリンティング領域に対する母親性インプリンティング因子による調節領域のメチル化です。父方の遺伝子または母方の遺伝子のみが発現するというのは、二つの染色体においてその領域のメチル化の状態が異なることに起因するというのが現在の考え方です。

石野らによれば、単孔類が有袋類に進化する過程でメチル化を受けやすいDMR(Differentially methylated region)という外来生物由来の配列が遺伝子の制御領域に挿入され、そのため挿入をうけた染色体とうけなかった染色体で遺伝子制御に差違が発生してインプリンティングという現象が生まれたようです。さまざまな動物でDMR挿入とインプリンティング発生の時期的関連がみられるそうで、この仮説の信憑性は高まっています。だとすればインプリンティングという現象は外来生物由来のDNA挿入に対する防御機構ということになります(10)。ただそのような機構を持っていればウィルスのDNAを取り込んでしまったときに、もしそれが有用なら利用できるということも意味し、胎盤形成というシステムの獲得はまさにそうした契機で行われたのかもしれません(10)。まだまだ謎につつまれた現象ですが、21世紀の生物学の主要なテーマのひとつになりそうな分野だと思われます。


参照

1)Wikipedia: genomic imprinting
https://en.wikipedia.org/wiki/Genomic_imprinting

2)James McGrath and Davor Solter, Nuclear Transplantation in the Mouse Embryo by Microsurgery and Cell Fusion., Science vol.220, pp.1300-1302 (1983) DOI: 10.1126/science.6857250
https://www.science.org/doi/10.1126/science.6857250

3)James McGrath and Davor Solter, Completion of mouse embryogenesis requires both the maternal and paternal genomes., Cell vol.37, no.1, pp.178-183, (1984)
doi: 10.1016/0092-8674(84)90313-1.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/6722870/

4)Thomas M. DeChiara, Elizabeth J. Robertson, Argiris Efstratiadis, Parental imprinting of the mouse insulin-like growth factor II gene.,Cell Volume 64, Issue 4, pp.849-859, (1991)
https://doi.org/10.1016/0092-8674(91)90513-X
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/009286749190513X

5)Marisa S. Bartolomei, Sharon Zemel & Shirley M. Tilghman, Parental imprinting of the mouse H19 gene., Nature volume 351, pages 153–155 (1991)
https://doi.org/10.1038/351153a0
https://www.nature.com/articles/351153a0#article-info

6)Valter Tucci, Anthony R. Isles, Gavin Kelsey, Anne C. Ferguson-Smith and the Erice Imprinting Group, Genomic Imprinting and Physiological Processes in Mammals., Cell vol.176, no.5, pp.952-965 (2019)
http://dx.doi.org/10.1016/j.cell.2019.01.043
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30794780/

7)Jiyoung Lee, Kimiko Inoue, Ryuichi Ono, Narumi Ogonuki, Takashi Kohda, Tomoko Kaneko-Ishino, Atsuo Ogura, and Fumitoshi Ishino, Erasing genomic imprinting memory in mouse clone embryos produced from day 11.5 primordial germ cells., Development 129, 1807-1817 (2002)
https://journals.biologists.com/dev/article/129/8/1807/18579/Erasing-genomic-imprinting-memory-in-mouse-clone

8)Yayoi Obata, Hitoshi Hiura , Atsushi Fukuda, Junichi Komiyama, Izuho Hatada and Tomohiro Kono., Epigenetically Immature Oocytes Lead to Loss of Imprinting During Embryogenesis.,
Journal of Reproduction and Development, Vol. 57, No. 3, (2011),
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrd/57/3/57_10-145A/_pdf/-char/ja

9)東京医科歯科大学難治疾患研究所 石野研究室 インプリント遺伝子PEGとMEG
https://www.tmd.ac.jp/mri/epgn/index.html

10)金児-石野智子 from chance events to necessity 東海大学
http://mammalian-specific-genes.med.u-tokai.ac.jp/trajectory.html

 

 

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2023年10月26日 (木)

続・生物学茶話223 視交叉

生物の体の構造は解剖学的にはほとんど明らかになっていますが、なぜそのような構造になっているのかわからないことも残されています。視神経や運動神経の交叉もその種の謎でした。しかし視神経の交叉については、最近ウィキペディアの visual system という項目の図(1、図223-1)を見てなるほどと納得しました。

図223-1は網膜は側頭側と鼻側の神経で別々の求心性径路をたどることを示しています。すなわち左目も右目も右半分の網膜の情報は右脳の外側膝状体に、左半分は左脳の外側膝状体に投射しているのです。これによって、左側網膜に投影された右の方の視界は左側の1次視覚野で立体視的に処理され、右側網膜に投影された左の方の視界は右側の1次視覚野で立体視的に処理され、それらの情報はさらに高次の視覚野で統合されて最終的な視覚情報になるわけです。

このようなシステムに最初に誰が気づいたのでしょう。桜井聡の総説に興味深い記載がありました(2)。橋本雅人が2003年の Ronald M. Burde 神経眼科勉強会で報告したところによると、胎児仮死で帝王切開をうけた妊婦が、播種性血管内凝固症候群のため子宮摘出手術を受けた後、眼に障害が発生した例について調べたところ、外側膝状体の損傷部位によって見えない部分が決まるということがわかり、ここから研究が進められたようです。文献2には文献1と若干異なる記述があるのでウィキペディアの方が正しいとして話を進めます。ただしウィキペディアで引用されている文献(3)については書籍なので私はみておりません。橋本先生は現在札幌の中村記念病院でご活躍のようです(4)。

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図223-1 眼の情報は視交叉を経て脳に伝えられる

脳科学辞典の外側膝状核(外側膝状体と同意)の記述によると「多くの霊長類では(外側膝状体は)6層構造を示し第1、4、6層は反対側の網膜から、第2、3、5層は同側の網膜から入力を受ける」とあります(5)。これを図示すると図223-2のようになります。したがって右側の外側膝状体の中央部(2~5の部分)が損傷すると、左目で見ていた左側の画像情報は両端部の1、6層に投射しているので生き残りやすくなり、右目でみていた左側情報は中央部に近いので失われやすいということになります。

左目で得た左側情報と右目で得た左側情報を突合して処理するためにはおそらく視交叉が必要ですが、これはおそらく両生類から引き継いだものです。カエルの場合オタマジャクシでは視交叉はありますが左目の情報は全部右側の脳で、右目の情報は全部左側の脳で処理します。しかしカエルになると哺乳類と同様、神経の半分は交叉しないタイプのシステムに転換します(6、7)。驚異の可塑性です。魚類はオタマジャクシ型なので、脊椎動物のデフォルトはオタマジャクシ型(全交叉型)で、そこから進化したのがカエル型ひいては哺乳類型(半交叉型)ということになります。

ただし魚類でもチョウザメ(サメではなく硬骨魚類)やピラニアは半交叉型だそうです(7)。そうなるための発生プログラムがすでに魚類の間にできていたということでしょう。面白いのは哺乳類でも顔の構造で両眼視しにくい動物(齧歯類など)はより全交叉型に近い構造になるようです(7)。馬などは全交叉型かもしれません。鳥類も哺乳類と同じく、動く獲物を捕らえる必要がある種(猛禽類、海鳥、ツバメなど)は多分半交叉、鳩やカモなど植物が主食の種は全交叉なのでしょう。いずれにしても全交叉か半交叉かは生活の仕方によってフレキシブルなようです。ただし頭足類や昆虫では交叉は無いようなので(8)、後口動物が分岐したときに腹背逆転が起こったことと関係があるのかもしれません。ただナメクジウオは物体の輪郭線をみるような眼を持っていなかったので、そもそも交叉を議論できるような生物ではありません。ゼロから進化して肉食する魚類のなかに半交叉型に進化するグループが生まれてきたと考えた方が良いのかもしれません。それはもちろんターゲットまでの距離を測定するためでしょう。

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図223-2 両眼の右側網膜(主として左側から眼に入る情報)から右側の外側膝状体への投射

脳における外側膝状体の位置を図223-4にピンクの点線で示します(9)。これは左側のものですが、この裏側に右側の外側膝状体があります。上丘は両生類や魚類では最大の視覚情報処理組織ですが、哺乳類ではこの機能は大脳皮質に移行しました。

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図223-3 外側膝状体の位置(ピンクの点線)

外側膝状体は単なる視覚情報の中継点なのでしょうか? 視神経の末端は外側膝状体の細胞に包まれるような形態をとり、両者の間には多数のシナプスが形成されます。強固な結合を形成すると共に、ひとつのシナプスが興奮を伝えると他のシナプスを抑制する作用があるなど、無駄な重複を防ぐような作用を持つようです(10)。画素数が増えるとどれだけPCに重い負荷がかかるかは画像処理をやったことがある人なら誰でもわかると思いますが、そのことと関係があるかもしれません。

外側膝状体は網膜から受け取った情報をある程度整理して1次視覚野に転送します。ヒトの場合1次視覚野は脳の一番背側にあり、この視覚情報はさらに大脳皮質の前の方すなわち後頭頂皮質および下側頭皮質方向に投射されていきます(11、図223-4)。

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図223-4 一次視覚野からさらに高次な視覚野への投射径路

外側膝状体でもある程度の情報の整理は行っているようですが、1次視覚野はまさに視覚中枢の一角を占める大脳皮質の組織です。中枢神経の機能を調べる上で貴重なツールが1962年に竹本と横部によって報告されました。昔からイボテングタケ、ベニテングタケなどに含まれる物質がハエを麻痺させることは知られていましたが、その物質を抽出し構造決定が行われました(12、図223-5)。

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図223-5 イボテン酸の化学構造とイボテングタケ

その後の研究により、イボテン酸を脳に注入すると限定した領域が壊死し、数時間後には回復するという実験を行うことができることがわかりました。1次視覚野の1部をこの方法で壊死させると、視野の一部が欠損することがわかりました。そして猿の場合だとその欠損は10日くらいで回復するということもわかりました(13、14)。

この実験によって、どの視野がどの一次視覚野に対応するかがわかります。視野という網膜・視神経によって獲得されたマップは一次視覚野の物理領域に対応しています(14)。しばらくすると回復するのは、新しい軸索の分岐が損傷しなかった周辺部分に伸びて、その周辺領域が損傷部位を代替するようになることによって可能になります(13-15、図223-6)。つまり脳には細胞増殖を行なうことなく、機能的に損傷を回復する能力があります。

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図223-6 イボテン酸注入による壊死と回復

一次視覚野から投射されるより高次の視覚野ではマップの1:1対応は希薄になり、画像の変化(動体視)とか3次元構造などの認識を行うための機能を持つと考えられています(16、17)。

(図表はいずれもウィキペディアの図を加工したものです。加工した部分は筆者の責任です)

参照

1)Wikipedia visual system
https://en.wikipedia.org/wiki/Visual_system

2)桜井聡 視覚の臨床神経眼科学 日眼会誌 vol.112, no.2, pp.107-120 (2008)
https://www.nichigan.or.jp/Portals/0/JJOS_PDF/112_107.pdf

3)Martin J. Tovee, An introduction to the visual system., Cambridge University Press, Cambridge, UK, 2008

4)社会医療法人 医仁会 中村記念病院
http://www.nmh.or.jp/doctors/hashimoto/

5)脳科学辞典 markの部屋 外側膝状核
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A4%96%E5%81%B4%E8%86%9D%E7%8A%B6%E6%A0%B8

6)今井眼科医院 視交叉
http://www5b.biglobe.ne.jp/~i-ganka/2006-5.htm

7)松縄正彦 動物の立体視
http://markpine.blog95.fc2.com/blog-entry-120.html

8)Academic accelerator 視交叉
https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/optic-chiasm

9)Wikipedia: Lateral geniculate nucleus
https://en.wikipedia.org/wiki/Lateral_geniculate_nucleus

10)生理学研究所 プレスリリース 目から入ってくる溢れるような視覚情報を "くっきり"させて脳に伝える仕組みの一端を解明
http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/02/post-202.html

11)ウィキペディア 視覚野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E8%A6%9A%E9%87%8E

12)竹本常松、横部哲朗 (1962-05-31). “イボテングタケの殺蠅成分(第14回大会講演要旨)”. 衛生動物 13(2): 174-175. (1962) NAID 110003820760

13)W. T. Newsome, R. H. Wurtz, M. R. Dursteler & A. Mikami, Punctate chemical lesions of striate cortex in the macaque monkey: effect on visually guided saccades., Exp.Brain Res., vol.58, pp.392–399 (1985) https://doi.org/10.1007/BF00235320
https://link.springer.com/article/10.1007/BF00235320

14)脳の世界 第一次視覚野が壊れると見えなくなる
http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/index.html

15)C Darian-Smith, C D Gilbert, Topographic reorganization in the striate cortex of the adult cat and monkey is cortically mediated., J Neurosci., vol.15 (3 Pt 1): pp.1631-1647. (1995) doi: 10.1523/JNEUROSCI.15-03-01631.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6578152/pdf/jneuro_15_3_1631.pdf

16)脳科学辞典:視覚前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A6%96%E8%A6%9A%E5%89%8D%E9%87%8E

17)脳科学辞典:視野地図
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A6%96%E9%87%8E%E5%9C%B0%E5%9B%B3

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2023年10月16日 (月)

続・生物学茶話222: シナプスの除去とニューロンの刈り込み2 無脊椎動物の場合

キノコ体 (mushroom bodies)は1850年にフランスの生物学者ドゥジャルダンによって発見された無脊椎動物の脳の主要なパーツで左右対称に2つ存在し、匂いの情報処理・記憶などを司っています(1)。よく研究されているキイロショウジョウバエ (Drosophila melanogaster) の場合について見ていきましょう。ここでショウジョウバエという場合、キイロショウジョウバエのことを意味します。キノコ体のニューロンはケニオン細胞と呼ばれていて、ケニオン細胞はα/β、α’/β’、γの3つのグループに分かれるとされています(2、図222-1)。α/β、α’/β’のローブはL型の屈曲した構造をとっていますが γローブにはそのような特殊な構造はなく、ぼた餅状の細胞集になっています(図222-1)。実際に各ローブを構成するのはケニオン細胞の軸索やグリア細胞などです。

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図222-1 ショウジョウバエのキノコ体 左図はウィキペディアより(原図は Jenette et al 2006). L and 逆Lに白く浮き上がった部分がキノコ体。右図は参照文献2より。神経細胞体はCalyx(萼)にあります。

匂い物質を受け取る細胞は触覚にあるので、その情報はまず嗅覚ニューロンによって触覚葉(antennal lobe)に伝わります。触覚葉は約50個の糸球体からなり、各糸球体はそれぞれ異なる匂い情報を伝達する径路とみなされています。ここにシナプスを持つある種の介在ニューロンである投射ニューロンが興奮性シグナルを発生してキノコ体に伝達します(3、図222-2)。キノコ体のα’β’ローブののケニオン細胞は匂いの素早い検出および濃度の弁別にすぐれ、γローブのケニオン細胞は特に短期記憶に重要であるとされています(3-5)。

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図222-2 ショウジョウバエの嗅覚処理システム 上左は参照文献(11)より 上右はウィキペディアより 下は管理人による最も単純化した作図

ショウジョウバエキノコ体のα’、β’、α、βローブではその形成過程においてシナプスの削除や軸索の刈り込みは知られていませんが、γローブではそれらが実行されることが知られています。削除・刈り込みは蛹化とともにおこり、いったん退縮した後再度シナプス形成や軸索の伸長が起こって蛹から成虫になります(6)。このプロセスはニューロンのリモデリングとも呼ばれています。

イスラエルの研究グループはこの削除・刈り込みはエクダイソンのシグナルによって開始されるとしています(6)。エクダイソンは細胞膜を通過するので、直接核のレセプターであるEcR・Uspのヘテロダイマーに結合し、この複合体が転写に作用して蛹化とともに削除・刈り込みが行われます。そして成虫になる前にやはりエクダイソンの核レセプターE75・UNFのヘテロダイマーの作用によって神経の再伸長が行われます。このレセプターを欠損すると最伸長は行われません(6、7、図222-3)。

ショウジョウバエは哺乳類と違って、削除・刈り込み・再生が完全変態とシンクロして行われるので、そのメカニズムはかなり異なっていても不思議ではありません。ショウジョウバエの場合哺乳類のように競合する中から一つ残すというメカニズムとはかなり違っていて、むしろきちんとプログラムされているという印象を受けます。ですからリモデリングと呼ばれるのにふさわしいと思います。また脳だけでなく、筋肉に伸びている運動ニューロンでも同様なリモデリングが行われることが知られています(8)。

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図222-3 ショウジョウバエキノコ体γローブに軸索を持つニューロンのリモデリング

リモデリングを誘導すると思われるエクダイソン(ウィキペディアではエクジソンとなっている)は節足動物のステロイドホルモンで、脱皮や変態を誘導するホルモンとして知られています(図222-4)。ショウジョウバエの場合幼虫では脱皮ごとに分泌される他、蛹化とその後成虫となる準備が始まるときに特に大量に分泌されます(9、図222-4)。このタイミングはキノコ体γローブのリモデリングとシンクロしています。

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図222-4 エクダイソンの構造とショウジョウバエ発生過程における消長 右図は参照文献(9)より。削除・再生の矢印は管理人が追加しました。

線虫(C.elegance) でも削除・刈り込みが行われることが知られています。これはPDBという腹側にある運動ニューロンに関するものですが、このニューロンの軸索はいったん尾の先端の方に伸びて、2回屈曲して背側に伸びてから、背側でシナプスを作るという変わり種です。この軸索は2回分岐して、結果的に伸びた方向から反転したようになるのですが、分岐の際にできたH型の構造(図222-5)は軸索の刈り込みによってきれいに分岐のない構造のように整形されます(10)。この刈り込みは wnt と frizzled のコンビによって行われるようで、線虫独自のメカニズムです(10)。

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図222-5 線虫(C.エレガンス)のPDBニューロン軸索の刈り込み 写真は参照文献(12)による。概略図、赤矢印、キャプションは管理人が作成。

 

参照

1)Wikipedia: mushroom bodies
https://en.wikipedia.org/wiki/Mushroom_bodies

2)T Lee, A Lee, L Luo, Development of the Drosophila mushroom bodies: sequential generation of three distinct types of neurons from a neuroblast.,
Development vol.126(18): pp.4065-4076 (1999). doi: 10.1242/dev.126.18.4065.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/10457015/

3)稲田健吾・風間北斗 ショウジョウバエのキノコ体における細胞のタイプに特異的な匂いの情報処理の機構 ライフサイエンス新着論文レビュー  DOI: 10.7875/first.author.2017.077
https://first.lifesciencedb.jp/archives/16882

4)Kengo Inada, Yoshiko Tsuchimoto, Hokto Kazama, Origins of cell-type-specific olfactory processing in the Drosophila mushroom body circuit., Neuron, vol.95, pp.357-367.e4 (2017)
DOI:https://doi.org/10.1016/j.neuron.2017.06.039
https://www.cell.com/neuron/pdf/S0896-6273(17)30563-9.pdf

5)Trannoy, S., Redt-Clouet, C., Dura, J. M. et al.: Parallel processing of appetitive short- and long-term memories in Drosophila. Curr. Biol., vol.21, pp.1647-1653 (2011)
DOI:https://doi.org/10.1016/j.cub.2011.08.032
https://www.cell.com/current-biology/pdf/S0960-9822(11)00938-9.pdf

6)Idan Alyagor, Victoria Berkun, Hadas Keren-Shaul, Neta Marmor-Kollet, Eyal David, Oded Mayseless, NoaIssman-Zecharya, Ido Amit, and Oren Schuldiner, Combining Developmental and Perturbation-Seq Uncovers Transcriptional Modules Orchestrating Neuronal Remodeling., Developmental Cell vol.47, pp.38–52, (2018) DOI:https://doi.org/10.1016/j.devcel.2018.09.013
https://www.cell.com/developmental-cell/pdf/S1534-5807(18)30742-1.pdf

7)InteractiveFly: GeneBrief Hormone receptor 51 FlyBase ID: FBgn0034012
https://www.sdbonline.org/sites/fly/genebrief/unfulfilled.htm

8)Wanyue Xu, Weiyu Kong, Ziyang Gao, Erqian Huang, Wei Xie, Su Wang and Menglong Rui, Establishment of a novel axon pruning model of Drosophila motor neuron., Biology Open (2022) 12, bio059535. doi:10.1242/bio.059535
file:///C:/Users/Owner/Desktop/222/Novel%20axon%20pruning%20model%20of%20drosophila.pdf

9)上田均 昆虫の脱皮 と変態の分子機構  化学と生物 Vol. 44, No. 8, pp.525-531 (2006)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/44/8/44_8_525/_pdf/-char/ja

10)Menghao Lu, Kota Mizumoto, Gradient-independent Wnt signaling instructs asymmetric neurite pruning in C.elegans., eLife 2019;8:e50583. DOI: https://doi.org/10.7554/eLife.50583
https://elifesciences.org/articles/50583

11)Yoshinori Aso et al., The neuronal architecture of the mushroom body provides a logic for associative learning., eLife 3:e04577 (2014). https://doi.org/10.7554/eLife.04577
https://elifesciences.org/articles/04577

12)Menghao Lu and Kota Mizumoto, Gradient-independent Wnt signaling instructs asymmetric neurite pruning in C. elegans., eLife 2019;8:e50583., https://doi.org/10.7554/eLife.50583
https://elifesciences.org/articles/50583

 

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