続・生物学茶話240:青斑核 3 日本の先覚的研究者達
青斑核の研究は戦前から日本の先覚的研究者達の貢献が顕著でした。このあたりの事情は前田・清水の総説を読めばわかります(1)。あとでその一部を紹介しますが、ここではまず戦後の文献(1)に記載されていたラット橋の上部(アンテリア領域)における神経核の美しいスケッチから紹介します(図240-1)。
図240-1 ラット橋前半部の神経核
図240-1のキャプションには佐藤啓二によるという記載があるのですが、佐藤啓二の引用文献は3つあって(そのうち in press が2報)、どれがオリジナルかわかりませんでした。青斑核が特別なまとまりを持った細胞の集合体であることがよくわかります。また三叉神経中脳路核と非常に近接していることが示されています。
図240-2はネコの標本なので少し青斑核の位置が違います。アドレナリン系のニューロンを免疫組織化学で検出したきれいな切片標本です。この頃は青斑核と青斑下核が全く別の機能を持つと考える傾向が強かったようです。
図240-2 ネコの橋におけるアドレナリン系ニューロンの免疫組織化学
もう一遍紹介したいのは、清水・今本の形態学の論文です(2)。図240-3にはゴルジ染色によるlocus coeruleus 細胞の形態です。細胞体にも樹状突起にも Cytoplasmic Protrusions (spines) がくっきりと見えます。この突起がどのような機能を持つかは今でも謎のままです。
図240-3 ラット青斑核ニューロンの形態
清水・今本はこの突起の電子顕微鏡写真も論文に掲載していて(2)、一部の突起はシナプスを形成していることを証明しました(図240-4)。
図240-4 ラット青斑核ニューロン突起(スパイン)部位の電子顕微鏡写真
最後になりましたが、太平洋戦争開戦前夜の1941年に発表された佐野文男の論文を紹介したいと思います(3、図240-5)。図240-5のようにアブストラクトはドイツ語で書かれており、日本語は漢字とカタカナで書かれています(ひらがなは一字もなし)。当時の医学論文はこのようなスタイルで書かれていたのです。同じ日本語なのに恐ろしく読みにくい。
図240-5 太平洋戦争開戦前夜の1941年に出版された佐藤文男の論文
佐野文男は青斑核の形態について、当時東京大学医学部解剖学教室と脳研究所に保管されていた多くの哺乳類の標本を用いて、比較解剖学的な立場からの研究を世界で初めて行いました。これを許可した東大医学部の関係者の慧眼も素晴らしいと思います。もちろんカルミン染色とニッスル染色を用いた純形態学的な研究であり、限界があることは著者も認めていますが、当時としては非常に多くの動物種にまたがって脳の研究をおこなうということ自体破格の試みで、高く評価されるべきパイオニア的な研究だと思います。
論文を読み始めて最初の困難は情けない話ですが「動物の名前がわからない」ということで、調べるのに時間がかかりました。まとめると図240-6のようになります。このリストにははいっていませんが、ゲヲミスという動物についても調べていて、これは調べると「ホリネズミ」という日本にはいない動物だそうで(4)、当時の東大医学部がこのような動物の標本を保管していて、しかも研究で潰すことを了解したことには驚きます。
図240-6 実験に使われていた動物名の漢字表記
よくあることですが、この論文は欧米の研究者達にとっては敵性国家のもので、しかもその国のローカルな言語で書かれている論文なので、欧米では戦後しばらくの間無視されていたようです。現在ではきちんと評価されているようです。なにしろこの種の研究が欧米で行われたのは20年以上も遅れてのことですから。
以下は論文の内容をほぼ書き写しただけですが、結果のサマリーを書いておきます。
類人猿(チンパンジー、オランウータン):
青斑核は中心灰白質の腹外側隅と網様質の背側隅とにまたがって存在する。メラニン顆粒を有する細胞が多い。
猿(ニホンザル、オナガザル、ヒヒ):
青斑核は著しく発達し、そのほとんどが中心灰白質にある。一部の細胞はメラニン顆粒を保有するが、その顆粒数は類人猿に比べると非常に少ない。
半猿(キツネザル):
青斑核はあまり発達せず、中心灰白質と網様質にまたがって存在する。メラニン顆粒は存在しない。
食肉類(犬・タヌキ)
青斑核はよく発達し、その細胞のほとんどは網様質にある。メラニン顆粒は存在しない。
食肉類(猫・アザラシ)
青斑核はよく発達し、中心灰白質と網様質にまたがって存在する。メラニン顆粒は存在しない。
猫の場合脳室底面の近くまで分散する傾向が著しい。
(食肉目は文部科学省の定義ではネコ目とされていますが、犬好きにとっては犬がネコ目に属するのは耐えがたいと思われ、研究者もあまり使っていません)
齧歯類(リス・ムササビ・ホリネズミ):
青斑核はよく発達し、中心灰白質の外側部に存在する。
齧歯類(ウサギ・モルモット・ラット・マウス):
青斑核の発達はあまり良好とは言えないが、中心灰白質の外側部に存在する。齧歯類の場合食肉類とは対照的に、発達が良くても悪くても青斑核は中心灰白質に存在する。
偶蹄類(ブタ・キョン・ヤギ)
発達が悪く、三叉神経中脳根に内接しない。
鯨類(イワシクジラ・カマイルカ)
イワシクジラよりカマイルカの方がはるかに発達が良い。イワシクジラでは青斑核の細胞は散在性であるが、カマイルカでは密集している部分がある。
貧歯類(アリクイ)
青斑核の半分以上は網様質にある。
翼手類(オガサワラオオコウモリ)
青斑核はよく発達し、大部分は中心灰白質にある。ニホンザルやリスと似ている。
真無盲腸類(モグラ・ハリネズミ、この論文には貧蟲類としてあるが現在はこの名前になった)
青斑核はモグラの方がハリネズミより発達が良い。いずれの場合も中心灰白質と網様質にまたがって存在する。
有袋類(カンガルー・アカクビワラビー)
青斑核はカンガルーではよく発達しているが、アカクビワラビーでは非常に発達が悪い。
管理人=私の感想:カンガルーとアカクビワラビ-の相違は青斑核の機能を考える上で非常に興味深いと思います。アカクビワラビーが夜行性であることに関係があるかもしれません(5)。つまり青斑核は光が当たることによって活性化されますが、暗闇によって活性化されることはないということでは?
青斑核の研究は現在も過去も遺伝子関係の知見が豊富なラットやマウスを使って行われることが多いですが、佐野の指摘によればこれらの動物では青斑核の発達が悪く、むしろ生理学的研究はリスやホリネズミで行うべきなのかもしれません。
参照
1)前田敏博、清水信夫 青斑核 脳神経 30巻3号 pp.235-257 (1978)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1524232505136674304
国立国会図書館のデジタルコレクションに収蔵されています
2)清水信夫, 今本喜久子 ラット青斑核の微細構造
Archivum histologicum japonicum 31 巻 (1969-1970) 3-4 号 pp. 229-246
https://doi.org/10.1679/aohc1950.31.229
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aohc1950/31/3-4/31_3-4_229/_article/-char/ja/
3)佐野文男 哺乳類ノ靑斑核ニ關スル比較解剖學的硏究 解剖学雑誌18巻3号 pp.1-27 (1941)
国立国会図書館に収蔵されていて、PDF書類として閲覧することはできませんが、紙コピーを郵送で取り寄せることができます
4)朝日新聞 GLOBE+ 「ホリネズミは農民だ」 彼らが地下トンネルの中でやっていること、研究者が深掘り
https://globe.asahi.com/article/14701044
5)Wikipedia: Red-necked wallaby
https://en.wikipedia.org/wiki/Red-necked_wallaby
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