続・生物学茶話236:橋と延髄
橋(pons)という言葉(発音はパンズ、日本語ではきょう、複数は pontes パンティーズ、形容詞は pontine パンタイン)を当然のように使用していましたが、いろいろ調べているうちにどうもこの言葉を使いたくない人々がいるのではないかと思いました、たとえば「脳の発生学」という教科書がありますが(1)、この中で橋という言葉は使われていなくて延髄の一部という扱いになっています。索引にも含まれていません。橋と延髄には境目がないので、おそらく解剖学的には区別するのは不自然だという考え方でしょう。特に哺乳類以外では使われていないようです。たとえば植松は背側の葉を延髄としていますし(2、図236-1)、山本は迷走葉とか顔面葉などの言葉を使っていて橋という言葉はでてきません(3、図236-1)。
脳は哺乳類や鳥類、特にヒトで非常に発達したというイメージがありますが、言葉を話すために大脳皮質が異常に発達したという点を除けば、例えば魚類は5億年以上前に出現し、現在も大繁栄していて脳もそれなりに様々なグループの生活様式に応じて発達してきたという長い歴史があります。図236-1をみているとそれを感じますし、中にはテレパシーでコミュニケーションを行う弱電魚類もいて、彼らの脳は特殊に進化しています(4)。魚類の脳ということでひとくくりにはできないのです。いずれにしても筋肉などに伝える信号が脳のひとつの部位でつくられ、そのまま脊髄から伝えられるということはあり得なくて、各感覚器による信号や記憶などによって制御されてでてくるわけですから、それらを最終的に統合する橋という部位は(それを延髄と呼ぶにしても)すべての脊椎動物が持っているはずです。
図236-1 魚類の脳 文献(2、3)をもとに作成。 点線で表現してある小脳弁は小脳の一部で、視蓋にめりこむように伸びている。
鳥類の場合も橋という言葉はやはりあまり使われていませんが、中には使っている人もいます(5、6、図236-2)。ジャーヴィスなどは延髄(medulla oblongata)という用語を使わず、橋(pons)が即脊髄につながっているような図を描いています(図236-2)。オウムは非常に知能が発達した鳥と言われていますが、それは橋の神経核に相当する medial spiriform nucleus が発達しているからと言われています(7、8)。音の記憶と発声方法のバラエティを橋で統合することによって言葉をじゃべることができるのでしょう。
鳥類は恐竜の直系の子孫と言われていますが、ティラノサウルスは脳化指数=2.32の脳を持っていたようです。チンパンジーの値は2.3でほぼ同等です(9、10、猫を1とした値)。しかし白亜紀末の大絶滅によって恐竜は絶滅し、わずかに空を飛べる能力がある者の一部だけが生き残りました。これはものすごい進化のバイアスで、空を飛ぶためにはむしろマイナスとなる大きな頭蓋骨と脳は犠牲になったに違いありません。ですからオウムなどは再進化して発達した脳を獲得したと思われます。哺乳類はもともと体が小さかったことと、冬眠・夏眠ができるタイプの生物が多かったことから飢餓に耐えて地上で生き残りました。
図236-2 鳥類の脳 文献(5、6)をもとに作成
脊椎動物が「生きている」ということは「脳幹が機能している」ことと定義できます。脳死とは脳幹が機能を停止した状態です。脳幹とは「中脳+橋+延髄+第4脳室」のことです。ウィキペディアをみると、脳幹の機能として、自律神経の中枢・意識と覚醒・感覚神経と運動神経の交錯・姿勢反射の中枢が挙げられています(11)。脊椎動物のプロトタイプと類似していると考えられているナメクジウオに脳らしきふくらみはありませんが、海面から出たことを認識して逆進するなど感覚と運動を統合して行動することが報告されているので(13)、橋のような機能を持つプロトタイプの脳は存在するのでしょう。
橋・延髄は中脳方面から来た感覚情報をもとにどのような行動をすべきか決定しますが、その際に小脳に記憶しておいた情報を参照して脊髄方向に指示を出します。橋・延髄で実際にそのような役割を担っているニューロンの細胞体は図236-3のような場所に集積しています。そのなかで橋基底核(BPN)・橋被蓋毛様体核(RTN=reticular tegmental nucleus)は橋にあり、外側楔状束核(ECN=external cuneate nucleus)・外側網様核(LRN=latetal reticular nucleus)・下オリーブ核(ION=inferior olivary nucleus)は延髄にあります(図236-3)。
橋被蓋毛様体核が損傷すると、脊髄小脳変性症(spinocerebellar ataxia:SCA)を発症することが知られています(14)。これは「歩行時にふらつく」、「ろれつがまわらず話しづらい」、「不規則に手がふるえ目的の物をつかみづらい」などの症状をきたします(15)。この部位は歩行、手足の運動、姿勢制御、睡眠と覚醒の制御に関与しているようです(16)。また大脳基底核との関係(入出力)が深く(16)、これがどのような意味を持つのかに興味を引かれます。
延髄の背側にある外側楔状束核は筋肉の感覚が視床に投射される際の中継点になっているようです(17)。延髄の外側が損傷した場合ワレンベルグ症候群になることが知られており、症状としては嘔吐、ふらつき、温覚・痛覚の低下、嚥下障害、発声障害などがみられます(18)。下オリーブ核は通常のシナプス以外に電気シナプスを形成して電気的に同期した活動を行っています(19)。ここから登上線維が発出して、小脳のプルキンエ細胞と1:1でシナプスを形成し協調運動を制御しています(19)。下オリーブ核が損傷すると姿勢維持や運動調節の機能が低下することが知られています(20、21)。
図236-3 脳幹のニューロン集団(核) 文献(22)の図をもとに作成
そもそも脳が何のために必要だったかと言えば、プランクトンとしての生活をやめて海底でベントスとして生きていくために 1)姿勢を制御する(裏返ってはならない)、2)歩く、3)エサに接近するか待つかを判断する 4)天敵などから逃げるかとどまるかを判断する の順に脳は機能を獲得してきたと思われます。脳幹は最初にできてきた脳の機能を現在でも保持していると思われます。
脳室(哺乳類では第4脳室)の周辺(rhombic lip)からどのようにして脳幹のニューロンが形成されてくるかについて Kratochwil らが報告しています(22)。彼らによれば、背側にある rhombic lip(菱脳唇)から外側楔状束核(ECN)・外側網様核(LRN)・下オリーブ核(ION)など延髄系のニューロン集団はまっすぐ腹側に降りて pes(posterior extramural stream)という流れに乗って移動してから分化し、一方橋のニューロン集団である橋基底核(BPN)・橋被蓋毛様体核(RTN)などはいったん腹側に降りてから90度前方に曲がる aes(anterior extramural stream)=右折の流れに乗って進み分化するそうです(図236-4、図236-5)。
菱脳唇がどのような細胞に分化するかはまず大まかにWnt1によって規定され、橋・延髄のニューロンは Mossy fiber primordium として出発しますが、その後の分化は図235-4の右側に記してあるような Math1, Pax6, Ngn1 などの分化誘導因子によって決定されるようです。図235-5を見ると、橋と延髄は形態学的に区別できなくても別々の系列の細胞がそれぞれの主役を演じていることから質的に異なる組織であると思われます。
図236-4 菱脳からの細胞の移動と分化 各細胞群の特性を決定する因子 文献(22)の図をもとに作成
図236-5 菱脳唇からの細胞移動の方向性 文献(22)の図をもとに作成
下オリーブ核のニューロンは、小脳のプルキンエ細胞とシナプスを形成する登上線維として知られる軸索を伸ばしていることでよく知られている細胞です(図236-6)。ラットの下オリーブ核が損傷すると、身体の柔軟性と傾きの修正機能が低下し、重心が大きくゆっくりと振動すると報告されています(22)。おそらく橋基底核・脚橋被蓋核などと協調して姿勢制御をおこなっているのでしょう。また軟口蓋振戦を発症することもあります(23)
下オリーブ核は登上線維のほか小脳核にも複数の径路で投射しており、逆に小脳核からも投射を受けています。このほか脊髄からの上行性投射と中脳にある赤核小細胞部からの投射を受けています(24、図236-6)。滋賀医科大学解剖学教室の教育資料によると「苔状線維と登状線維から同じ情報が小脳へ入力する場合は「正しい運動」として小脳に記憶として蓄えられ、大脳皮質からの出力や中枢神経系のその他の場所からの小脳への入力が「正しい運動」を表現している限りは小脳(深部核)からの出力は起こらない」とされています(25)。そうでない場合、図236-6のような径路を使って修正が行われ、その結果が小脳に記憶されるようです。
図236-6 橋・延髄と小脳 脳科学辞典「小脳」の図をもとに作成
脳幹は脳のふるさとであると同時に意識の源泉でもあります。意識のメカニズムが解明されたら、人類は地球から退出する準備を始めるべきだと私は考えます。原爆で地球環境を壊滅に導くリスクを持つ人類は、より進化した、より安全な知的生物にその地位を譲るべきでしょう。脳科学はそのためにあります。
参照
1)宮田卓樹・山本亘彦編 脳の発生学 ニューロンの誕生・分化・回路形成
化学同人(2013)
2)植松一眞 魚類の小脳のふ しぎ 脳 機 能 の起 源 を探 る
化 学 と 生 物 Vol. 42, No. 10, (2004)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/42/10/42_10_658/_pdf/-char/ja
3)山本直之 脳のかたちから魚の生態を読む (2012)
https://yumenavi.info/douga/2012/doc/14136.pdf
4)渋めのダージリンはいかが 続・生物学茶話214: 弱電魚の小脳
http://morph.way-nifty.com/grey/2023/06/post-2c8c8e.html
5)Eric Jarvis Bird Brain Nova science now (2005)
https://www.pbs.org/wgbh/nova/sciencenow/3214/03-brain.html
6)杉田昭栄 鳥類の視覚受容機構 バイオメカニズム学会誌,Vol. 31, No. 3 (2007)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/31/3/31_3_143/_pdf
7)Cristián Gutiérrez-Ibáñez, Andrew N. Iwaniuk & Douglas R. Wylie, Parrots have evolved a primate-like telencephalic-midbrain-cerebellar circuit., Scientific Reports vol.8 no.9960 (2018) DOI:10.1038/s41598-018-28301
https://www.nature.com/articles/s41598-018-28301-4
8)fabcross for エンジニア オウムは他の鳥より賢い――その知能の秘密を神経科学者が解明
https://engineer.fabcross.jp/archeive/180713_parrots.html
9)化石セブン 恐竜の脳の大きさ 彼らは何を考えていたのか
https://www.kaseki7.com/z_column/dinosaur_brain_size.html
10)ウィキペディア:脳化指数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E5%8C%96%E6%8C%87%E6%95%B0
11)ウィキペディア:脳幹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E5%B9%B9
12)渋めのダージリンはいかが 続・生物学茶話107: 脳のはじまり 3
http://morph.way-nifty.com/grey/2020/08/post-d3e786.html
13)山口信雄 頭索動物ナメクジウオ類の生態と食性 臨海・臨湖 No.22
https://www.research.kobe-u.ac.jp/rcis-kurcis/station/rinkairinko/rinkairinko22.pdf
14)U Rüb, K Bürk, L Schöls, E R Brunt, R A I de Vos, G Orozco Diaz, K Gierga, E Ghebremedhin, C Schultz, D Del Turco, M Mittelbronn, G Auburger, T Deller, H Braak, Damage to the reticulotegmental nucleus of the pons in spinocerebellar ataxia type 1, 2, and 3.,
Neurology. vol.63(7): pp.1258-1263. (2004) doi: 10.1212/01.wnl.0000140498.24112.8c.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/15477548/
15)東京逓信病院 脊髄小脳変性症
https://www.hospital.japanpost.jp/tokyo/shinryo/shinnai/sca.html
16)脳科学辞典:脚橋被蓋核
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%84%9A%E6%A9%8B%E8%A2%AB%E8%93%8B%E6%A0%B8
17)上村夢 上肢と頸部の筋紡錘に生ずる固有感覚を伝達する外側楔状束核から視床への投射の解明
大阪大学博士論文(2019) https://doi.org/10.18910/72254
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/72254/30220_Abstract.pdf
18)Medical Note ワレンベルグ症候群
https://medicalnote.jp/diseases/%E3%83%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
19)ウィキペディア:下オリーブ核
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E6%A0%B8
20)佐藤圭祐、石倉隆、末永正機 免荷式歩行器を使用し運動失調の軽減が得られた
オリーブ核損傷者 理学療法学 第 47 巻第 1 号 49 ~ 54 頁(2020)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rigaku/47/1/47_11674/_pdf
21)舩戸徹郎、柳原大 運動の内部モデル生成に関わる下オリーブ核の障害が姿勢維持機能を低下させるメカニズムを解明 東京大学・電気通信大学プレスリリース(2021)
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/z0109_00020.html
https://www.uec.ac.jp/news/announcement/2021/20211014_3771.html
22)Claudius F. Kratochwil, Upasana Maheshwari and Filippo M. Rijli, The long journey of pontine nuclei neurons: From rhombic lip to cortico-ponto-cerebellar circuitry., Frontiers in Neural Circuits, vol.11, article 33, (2017) doi: 10.3389/fncir.2017.00033
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fncir.2017.00033/full
23)西江信 下オリーブ核肥大とpalatal tremor、 Brain and Nerve 脳と神経 55巻4号 (2003)
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1406100467
https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1406100467
24)脳科学辞典 小脳
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%B0%8F%E8%84%B3
25)滋賀医科大学解剖学教室 教育資料
http://www.shiga-med.ac.jp/~hqanat2/pdf/cerebellumdetail.pdf
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