続・生物学茶話226: 興奮と抑制
生物は基本的にはデジタル的な存在であり、たとえば遺伝子はATGCの4つの要素の組み合わせで成り立っています。神経細胞も興奮するかしないかの2者択一が基本です。しかしそんな単純なシステムでどうやって湯飲みをつかんでお茶を飲んだりできるのでしょうか? まず手で茶碗をつかんで、その滑りやすさや重量のフィードバックを受けながら、どの指にどのくらい力を加えれば良いかを自動的に判定ししつつ、口まで持ってきて各指の力のいれ加減を変化させることによってお茶を飲むことができます。
つまり個々の神経細胞のデジタル的な動作を、お茶を飲むというアナログ的動作に変換するというデジアナ変換的なシステムが神経を使う生物にとっては必須であり、そのために神経はネットワークを構築する必要があります。そしてそれを可能にしているのがシナプスという個々の神経細胞を連結する構造です。そして次に重要なことはそのシナプスに興奮を伝えるものと、興奮を抑制するものがあるということです。これによって個々の神経細胞の興奮を細かく調節することが可能で、湯飲みをつかんでお茶を飲むことも可能になります。
シナプスはコンセントのように電気信号を物理的に伝えるものではなく、細胞と細胞の隙間に化学物質を漏出し、それを受容体タンパク質が受け取ってその情報を細胞に伝えるという、化学的なシステムです。もし興奮を伝えるだけなら細胞膜に穴をあけてくっつければそれで済むわけですから、興奮を抑制する役目が必要であるからこそシナプスが必要だったと言えるでしょう。そのために興奮を伝えるシステムが割を食って、時間的には損なシステムに付き合わざるを得なくなりました。しかし化学的なシステムなら、漏出する物質を変えることによって興奮と抑制を使い分けることができます。あともうひとつ重要なことは、シナプスの存在によって情報が流れる方向が決まるということです。情報の流れる方向が両方向だと全体が均質化され、ネットワークの意味がありません。脳の場合情報を伝達する物質は多様ですが、興奮に使うグルタミン酸、抑制に使うγ-アミノ酪酸(GABA)とグリシンが代表的な分子です。
図226-1の左端に示したのは私たちの大脳皮質に普通に分布している錐体細胞という神経細胞です。この細胞の細胞体はピラミッドのような形をしていて、その頂点から脳の辺縁に伸びていく巨大な尖端樹状突起を出します(1)。この錐体細胞は網膜の錐体細胞とは全く関係が無い別物で、同じ名前になっているのは脳科学者の怠慢によるものです。錐体細胞の出力装置である軸索は底部から出ています。樹状突起は側面や底面からも複数伸びています(図226-1)。
この軸索より太い樹状突起には多数のスパイン(トゲ)がでていて、その先端にグルタミン酸の受容体があります。樹状突起の周辺は多くの枝分かれした神経が多数分布しているため、それらが邪魔になってなかなか樹状突起に直接他の神経がアクセスすることは困難で、スパインが出ていることによってアクセスできる可能性が飛躍的に高まることが、このような構造に進化した要因と思われます(図226-1ABC)。最近このスパインの一部が巨大化することが統合失調症の原因だとする学説が発表されました(2)。
シナプス前終末から放出されたグルタミン酸は、スパイン頭部のグルタミン酸受容体(詳細は拙稿3、4をご覧ください)に受け止められ、シナプス後細胞すなわち図226-1左図の細胞の脱分極を誘導します。受容体はPSDの主要素であるPSD95によって、特定の場所の細胞膜に固定されています(7、図226-1)。
図226-1 ラット大脳皮質の錐体細胞と興奮性シナプス 錐体細胞の樹状突起にはスパインが形成され、そこで興奮性信号を受け取ります。 本図を作成するに当たって脳科学辞典「錐体細胞」「樹状突起スパイン」「興奮性シナプス」を参照しました。
興奮性のシナプスは主に樹状突起のスパイクにつくられますが、抑制性のシナプスは主に細胞体あるいはそれに近い領域(バスケット細胞)、あるいは軸索(シャンデリア細胞)につくられます(図226-2)。これは興奮性の情報は広い領域から集められて神経細胞を興奮させますが、それを軸索からの出力に反映するかどうかは、バスケット細胞やシャンデリア細胞などから来る抑制性情報の量によって制御されているというわけです(5、6)。
図226-2 抑制性介在ニューロン 本図を作成するに当たってウィキペディア「錐体細胞」を参照しました。
脳の抑制性シナプスはGABA作動性のものとグリシン作動性のものがあり、どちらもリガンドの結合によって塩素イオンの流入を促進します。この結果シナプス後電位を下げる方向に働きます。GABAやグリシンは睡眠導入剤として市販もされています。大部分の抑制性シナプスはスパイクのない平坦な細胞膜に存在します(8、図226-3)。GABAおよびグリシン受容体はどちらもゲフィリンという細胞膜の構造タンパク質のメッシュ構造によって支えられています(9)。構成要素が異なるので、同じシナプスといっても興奮性のものと抑制性のものでは当然構造が異なっています(8)。バスケット細胞やシャンデリア細胞の詳細な構造や機能については論文をご覧ください(10)。
図226-3 GABA作動性およびグリシン作動性の抑制性シナプス 本図を作成するに当たって脳科学辞典「抑制性シナプス」を参照しました。
興奮性のリガンドであるグルタミン酸と抑制性のリガンドであるグリシンがひとつの酵素によってリバーシブルに変換されるということは興味深い生化学的な現象です(11、図226-4)。興奮性の要素は一時的に増えてもすぐに抑制性の要素に転換されるべく、進化の原点からそのような仕組みがあったことが想像されます。さらにグルタミン酸は不可逆的にGABAに代謝されるので、興奮性の要素はあくまでも一時的なものにとどめるためにこのプロセスは有効でしょう。GABAからグルタミン酸を再生成するにはGABA→コハク酸→TCAサイクル→αケトグルタル酸→グルタミン酸という迂遠な径路を経なければなりません(12、図226-4)。
図226-4 グルタミン酸、グリシン、GABAの代謝上の関係
CTやMRIを使った研究によって、対照群に比べ統合失調症の患者では脳室が拡大していること、逆にいうと脳の実質が小さくなっているということ、前頭葉や側頭葉が小さいこと、大脳辺縁系の海馬や扁桃体がとくに左側で小さいことなどが明らかになっています(13)。つまり図226-5の3領域において脳のシナプスが減少し、機能が低下していることが示唆されています。さらに統合失調症におけるシナプスの自己抗体生成も報告されています(14)。
図226-5 統合失調症で障害が著しい脳の3領域 この図を作成するに当たって、ウィキペディア「背外側前頭前野」「1次聴覚野」および脳科学辞典「海馬」を参照しました。
統合失調症の原因はいまのところドーパミン系の過活性と考えられていますが、脳科学辞典によると「統合失調症以外の疾患で認める幻覚妄想にも抗精神病薬が有効なことが多いことからは、ドーパミン系の過活性は統合失調症の病態のうちの下流に位置する現象と考えられている。その上流としてグルタミン酸系やGABA系、修飾要因としてセロトニン系などが、活発に研究されている。 」と書かれてあります。
いずれにしてもシナプスの減少は脳の退化であり、認知症などの問題も含めてシナプスの健康は脳の健康に直結していることは明らかでしょう。
参照
1)脳科学辞典:錐体細胞
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E#:~:text=%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%AA%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%82%92%E6%9E%9C%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
2)理化学研究所プレスリリース:巨大スパインに基づく統合失調症の病態生理の新仮説-神経細胞の“シナプス民主主義”の崩壊- (2023)
https://www.riken.jp/press/2023/20230610_1/
3)続・生物学茶話152:グルタミン酸 その1 イオンチャネル型グルタミン酸受容体
http://morph.way-nifty.com/grey/2021/07/post-148529.html
4)続・生物学茶話153:グルタミン酸 その2 代謝型グルタミン酸受容体
http://morph.way-nifty.com/grey/2021/08/post-2503ea.html
5)ウィキペディア:錐体細胞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%90%E4%BD%93%E7%B4%B0%E8%83%9E_(%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E)
6)脳科学辞典:大脳皮質の局所神経回路
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%84%B3%E7%9A%AE%E8%B3%AA%E3%81%AE%E5%B1%80%E6%89%80%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%9B%9E%E8%B7%AF
7)今井彩子 シナプス足場タンパク質 PSD-95 の局在を調節するメカニズムの計算科学的研究 つくば生物ジャーナル vol.20 p.70 (2021)
http://gradtex.biol.tsukuba.ac.jp/2020/tjb202101/201710548.pdf
8)脳科学辞典:抑制性シナプス
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%8A%91%E5%88%B6%E6%80%A7%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%97%E3%82%B9
9)脳科学辞典:ゲフィリン
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%B2%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%B3
10)Fuyuki Karube, Yoshiyuki Kubota and Yasuo Kawaguchi, Axon Branching and Synaptic Bouton Phenotypes in GABAergic Nonpyramidal Cell Subtypes., Journal of Neuroscience, vol.24 (12) pp.2853-2865 (2004); DOI: https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.4814-03.2004
https://www.jneurosci.org/content/24/12/2853.short
11)Henry I. Nakada, Glutamic-Glycine Transaminase from Rat Liver., The J.Biol.Chem.,
Vol. 239, No. 2, pp.468-471, (1961)
https://www.jbc.org/article/S0021-9258(18)51703-8/pdf
12)脳科学辞典:GABA
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/GABA#%E7%94%9F%E5%90%88%E6%88%90
13)脳科学から見た統合失調症(監修:仙波純一 さいたま市立病院)
https://www.smilenavigator.jp/tougou/about/science/02.html
14)東京医科歯科大学 プレスリリース 統合失調症でシナプスへの新しい自己抗体を発見 (塩飽裕紀)
https://www.tmd.ac.jp/press-release/20230413-1/
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