ヒトはもちろんひとつの細胞内に母親からもらった染色体1セット(23本)と父親からもらった染色体1セット(23本)計2セットをもつ、ゆわゆる2nのゲノム構成の生物です。ただし細胞分裂の前には一時的に4nとなり、減数分裂後の生殖細胞(卵と精子)はnとなります。2nであることのひとつの意味は、ひとつの遺伝子が損傷した場合でも、もうひとつの同じ役割の遺伝子で代替できるということです。
ところが不思議なことにマウスやヒト(哺乳類)は父親から受け継いだ染色体でしかはたらかない遺伝子(Paternally expressed genes: Peg)および母親から受け継いだ染色体でしかはたらかない遺伝子(Maternally expressed genes: Meg)を少なくとも約200くらい持っていることがわかってきました(1)。これはせっかくふたつ持っているものをひとつは持っていても使わないという一見不可解な現象です。
最初にこのことを証明したのはマックグラスとソルターで、彼らは核移植によって父由来の染色体だけで2nとした卵と母由来の染色体だけで2nとした卵を発生させると、前者は胎盤はきちんとできるが胎仔は発育不良、後者は胎盤が未発達となりやはり胎児は発育不良で、いずれも出産前に死亡することを報告しました(2、3、図224-1)。つまりマウスやヒトでは2nであればいいということではなくて、父親由来のn+母親由来のn=2nでなければならないのです。
図224-1 染色体がすべて母親由来または父親由来ならどうなる
このような遺伝子(Peg, Meg)が最初に同定されたのは1991年で、たとえばインスリン様成長因子2(IGF-2)という遺伝子の二つの対立遺伝子のうち片方を欠損させたマウスをつくったところ、変異が母方に由来する遺伝子にあるマウスは正常に発育するが、父方由来のものにあると正常マウスの半分以下のところで成長が止まってしまったのです。つまりIGF-2遺伝子は父親由来でなければはたらかない遺伝子(= Peg)だったのです(4)。IGF-2は胎仔の成長には必須のペプチドホルモンです。同じ年に同様な別の遺伝子も同定されました(5)。それぞれのファーストオーサーの写真と、この現象を簡易に示した図を図224-2に示します。
図224-2 ゲノムインプリンティング いくつかの遺伝子については片方の親から受け継いだ遺伝子のみが発現する
その後マウスでもヒトでも200以上の Peg や Meg がみつかりました。このように父または母の片方の親からもらった遺伝子しか働かない現象をゲノムインプリンティング(genomic imprinting)といいます(6、図224-3)。インプリンティングを刷り込みと呼ぶことがありますが、生物学では生まれたばかりの子供が母親について学習することを「刷り込み」というので、これはあまり良い言葉ではありませんが、英語でもその種の幼児学習のことを imprinting というので、仕方がないところでもあります。
図224-3を見ると、驚くべきことにヒトとマウスでインプリンティングが行われている遺伝子がかなり異なるということが示されています。これはどの遺伝子についてインプリンティングが行われるかは、進化というスケールの中では非常に最近、すなわち哺乳類が適応放散した後に決められたものが多いことを示しています(6)。またここには示してありませんが文献6によると、ヒトでもマウスでもインプリンティング遺伝子が存在する染色体には偏りがあり、中には全くないか非常に少ない染色体もあることがわかっています。
図224-3 ヒトとマウスのインプリンティング遺伝子
日本の2つの研究室で、ゲノムインプリンティングは生殖細胞が形成されるときにいったん初期化され、精子・卵子形成時に再実行されるということが発見されています(7、8、図224-4)。発生の過程で生殖細胞が形成されますが、それらがつくられる過程でいったんインプリンティング(刷り込み)は消去され初期化されます。この結果どうなるかというと、遺伝子はインプリンティングによる制御から解放され、通常の遺伝子制御すなわち上流の制御領域・エンハンサー・サプレッサー・プロモーターなどによる発現制御下にはいるということです。したがって相同染色体の両方で発現したり、あるいは両方で発現しなかったりということもあり得ます。また複数のインプリンティング遺伝子がクラスターを形成していることから、これらはまとまって制御されているようです(6)。
また興味深いことに、いったん消去されたインプリンティングが生殖細胞ゲノムに再度刷り込まれる時期について、オスの場合は出産前に完了するのに対して、メスの場合は出産後生殖可能な時期の直前までかかることがわかっています(7、8)。なぜかはわかりません。
図224-4 ゲノムインプリンティングとマウスの発生
マウスの Peg, Meg の一覧図は石野研究室のホームページに掲載されています(9、10)。マウスの染色体は1~19番とXYの構成ですから、全部で40本(38XY)です。マウスの場合短腕が非常に短いという特徴があります。Peg, Meg がそれぞれクラスターをつくっていること、6番・7番・12番染色体に偏って存在すること、短腕には発見されていないことなどがわかります。
再刷り込みで行われていることは、生化学的には雄なら父親性インプリンティング領域に対する父親性インプリンティング因子による調節領域のメチル化、雌なら母親性インプリンティング領域に対する母親性インプリンティング因子による調節領域のメチル化です。父方の遺伝子または母方の遺伝子のみが発現するというのは、二つの染色体においてその領域のメチル化の状態が異なることに起因するというのが現在の考え方です。
石野らによれば、単孔類が有袋類に進化する過程でメチル化を受けやすいDMR(Differentially methylated region)という外来生物由来の配列が遺伝子の制御領域に挿入され、そのため挿入をうけた染色体とうけなかった染色体で遺伝子制御に差違が発生してインプリンティングという現象が生まれたようです。さまざまな動物でDMR挿入とインプリンティング発生の時期的関連がみられるそうで、この仮説の信憑性は高まっています。だとすればインプリンティングという現象は外来生物由来のDNA挿入に対する防御機構ということになります(10)。ただそのような機構を持っていればウィルスのDNAを取り込んでしまったときに、もしそれが有用なら利用できるということも意味し、胎盤形成というシステムの獲得はまさにそうした契機で行われたのかもしれません(10)。まだまだ謎につつまれた現象ですが、21世紀の生物学の主要なテーマのひとつになりそうな分野だと思われます。
参照
1)Wikipedia: genomic imprinting
https://en.wikipedia.org/wiki/Genomic_imprinting
2)James McGrath and Davor Solter, Nuclear Transplantation in the Mouse Embryo by Microsurgery and Cell Fusion., Science vol.220, pp.1300-1302 (1983) DOI: 10.1126/science.6857250
https://www.science.org/doi/10.1126/science.6857250
3)James McGrath and Davor Solter, Completion of mouse embryogenesis requires both the maternal and paternal genomes., Cell vol.37, no.1, pp.178-183, (1984)
doi: 10.1016/0092-8674(84)90313-1.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/6722870/
4)Thomas M. DeChiara, Elizabeth J. Robertson, Argiris Efstratiadis, Parental imprinting of the mouse insulin-like growth factor II gene.,Cell Volume 64, Issue 4, pp.849-859, (1991)
https://doi.org/10.1016/0092-8674(91)90513-X
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/009286749190513X
5)Marisa S. Bartolomei, Sharon Zemel & Shirley M. Tilghman, Parental imprinting of the mouse H19 gene., Nature volume 351, pages 153–155 (1991)
https://doi.org/10.1038/351153a0
https://www.nature.com/articles/351153a0#article-info
6)Valter Tucci, Anthony R. Isles, Gavin Kelsey, Anne C. Ferguson-Smith and the Erice Imprinting Group, Genomic Imprinting and Physiological Processes in Mammals., Cell vol.176, no.5, pp.952-965 (2019)
http://dx.doi.org/10.1016/j.cell.2019.01.043
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30794780/
7)Jiyoung Lee, Kimiko Inoue, Ryuichi Ono, Narumi Ogonuki, Takashi Kohda, Tomoko Kaneko-Ishino, Atsuo Ogura, and Fumitoshi Ishino, Erasing genomic imprinting memory in mouse clone embryos produced from day 11.5 primordial germ cells., Development 129, 1807-1817 (2002)
https://journals.biologists.com/dev/article/129/8/1807/18579/Erasing-genomic-imprinting-memory-in-mouse-clone
8)Yayoi Obata, Hitoshi Hiura , Atsushi Fukuda, Junichi Komiyama, Izuho Hatada and Tomohiro Kono., Epigenetically Immature Oocytes Lead to Loss of Imprinting During Embryogenesis.,
Journal of Reproduction and Development, Vol. 57, No. 3, (2011),
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrd/57/3/57_10-145A/_pdf/-char/ja
9)東京医科歯科大学難治疾患研究所 石野研究室 インプリント遺伝子PEGとMEG
https://www.tmd.ac.jp/mri/epgn/index.html
10)金児-石野智子 from chance events to necessity 東海大学
http://mammalian-specific-genes.med.u-tokai.ac.jp/trajectory.html
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