「恩人」 newly written nonfiction
恩人
H先生の医院は割と歴史が新しいわが街の医院のなかでは草分けで、開業当時はドアの前に何十人も行列ができるほど繁盛していたそうです。私が通っていた数年前でも待合室にはいつも大勢の患者さんが座っていました。
私は血管が細くてしかも見えにくく採血が難航する場合が多いのですが、医院の技師さんや看護師さんはとてもお上手で、一度も失敗したことがありませんでした。それがその医院を選んだ理由でもあります。
当時私の病気は本当に危機的な段階に来ていて入院寸前だったのですが、おそらくH先生の選んだ薬が適切でなんとか通院で治療できるという状況にありました。どうしてそんな状況になったかというと、私の著書「生物学茶話:@渋めのダージリンはいかが」(リンクはこのブログのトップにあり)が脱稿間近のラストスパートの段階になっていて、熱中のあまりに健康に留意することを怠っていたからだと思います。
ところがあるとき2週間くらいの間に、採血を担当していたスタッフが二人とも次々と退職してしまったのです。H先生は「きちんと仕事をしてもらえないのでやめてもらいました」と言っていましたが、私はとても信じられませんでした。何かあったに違いありません。
その後はH先生が直々に採血することになったのですが、これがなんとも・・・。まず左腕でトライして何度も刺しますが失敗、次に右腕に変えても出血したりして失敗、また左腕に変えてようやくなんとか成功という情けない採血。私はきっとダメだろうと諦めていたので、最後に成功したときは万歳を叫びたくなりました。
しかし何度行っても上達しないで腕変えてやり直しを繰り返すので、本当に通院が憂鬱になりました。そんなある日私は見てしまいました。H先生がまだ退職せずに残っていた若いスタッフの一人(多分看護師)のお尻をなでていたのです。ああこれだなと合点がいきました。スタッフはまだ事務員も含めて3~4人残っていましたが、こんなことをやっていると、そのうち医院が立ち行かなくなるのではないかと不安になりました。
H先生の医院は10年くらい前から開業していました。もしその頃からこういう状態では経営が成り立つはずもないので、最近はじまった出来事としか思えません。調べてみると脳の病気でクリューバ―・ビューシー症候群をはじめとして性的な異常性を示す精神障害はいろいろあるということがわかりました。H先生の場合、普段は心優しく丁寧に患者と接するもの静かな方なので、まさか精神障害とは想像できません。でもそうかもしれません。それともただの不倫だったのでしょうか? それならやめた2人はそれが不快でやめたということになりますが、それは多分ないでしょう。
終末の兆候はありました。隣にあった薬局がなぜか店を閉めたのです。そしてそれからしばらくしたある日、突然入り口に当院は○月○日をもって閉院しましたという紙が貼ってあって、中をのぞくと薄暗くて誰も居ないようでした。ドアの前に数人の患者が集まって話していたので私も加わりましたが、H先生の消息を知る人は誰もいませんでした。そのうちホームページにもメッセージは掲載されましたが、どこに移転するとかの情報はなく、患者へのメッセージはお詫びだけでした。
患者は困りました。検査したまま結果がわからないという人も居たようです。私も困りました。別の医院に通うことになりましたが、状況を説明してなんとか看てもらうことになりました。後で聞いた話では、私だけでなく複数の患者が同じ事情で押し寄せてきたそうです。次のハードルは私が服用していた薬が特殊なものだったということでした。医師はそんな薬は聞いたことがないと怪訝な顔をするので、私が知っている限りの知識で縷々説明して、ようやく処方箋を出してもらうことになりました。処方箋は出してもらったのですが、肝心の薬が隣の薬局にはなく、イオンの薬局にも置いてなくて、新橋まででかけて何軒か薬局回りをしたのですがどこにもなく、結局私が通う医院の隣の薬局に薬が到着するまで待つことにしました。
その薬はその後1年くらい服用していたのですが、非常勤で勤務している別の先生に当たったときに、「今使っている薬は少し強すぎるかもしれません。病状が落ち着いているので薬を変えましょう」ということになって、一般的な薬に変更して現在に至っています。
もとH医院があった場所はときどき前を通るのでわかりますが、閉院後何年もそのままで誰かが借りた形跡はありません。一方同じビルの2Fはずっと予備校が営業しています。なので医院が貸主の都合で追い出されたという訳ではないようでした。
3年くらい経過してそんな騒ぎもすっかり忘れた頃、ふと思いついてH先生の名前をグーグルに入力してみると、なんと東京湾岸に近い街でH医院が再開されているではありませんか! 割と珍しい名前なので同姓同名ではないと思います。HPをみると写真が首から下だけで顔は隠していました。それから2年くらい経っても閉院していないので、どうやら病気であれば治癒したようです(それともスタッフを男性だけにしたのか)。女性問題であれば解決したのでしょう。ともあれなにしろ私の命の恩人なので、本当に良かったと思いました。ご活躍を心からお祈りしております。
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