« リニア中央新幹線は不必要 | トップページ | アラン・ギルバート-都響: アルプス交響曲@上野東京文化会館2023/7/20 »

2023年7月19日 (水)

続・生物学茶話216 記憶1 長期増強と長期抑制

記憶という脳にとって本質的な機能にまで科学のメスが入れられるようになったのは素晴らしいことでもあり、様々な危険を内包することでもあります。脳科学者は自分の専門領域以外のことにも関心を持つ責任があると思いますがそれはさておき、ともかく記憶という秘密の殿堂のドアを開けてはいってみましょう。

記憶の分類の方法はいろいろあるようですが、ここではまず陳述記憶と手続き記憶にわけます。陳述記憶とは言葉や文字などで表現できる記憶、手続き記憶とは体で覚える記憶です。それぞれはさらに短期記憶と長期記憶に分けられます(1、2、図216-1)。電話番号は聞けばすぐに覚えられますが、すぐに忘れます。しかし自分や家族の電話番号は脳の病気にでもかからない限り生涯忘れないでしょう。前者が短期記憶、後者が長期記憶です。体で覚える記憶も反復によって、自転車の運転のように長期記憶を行うことが可能です(図216-1)。陳述記憶は主に大脳側頭葉内側部、手続き記憶は主に小脳で行なわれています(図216-1)。ただ普通に私たちが考える記憶は部位的に限局されているわけではなく、時間・年月によって移動するニューロンのネットワークが担うと考えられています。

2161a

図216-1 記憶の分類

テリエ・レモはノルウェー海軍の軍医を退職し、仕事を探してオスロの道を歩いているとき、全く偶然に(本人の記述によれば by pure chance)ペール・アンデルセンに会ったそうです。レモは軍医になる前にイタリアで神経の研究をやっていたことがあり、アンデルセンとは面識があったようです。アンデルセンはその時オーストラリアのジョン・エックルスのところから帰国したばかりで、偶然にもスタッフを探していたところでした。このジャストタイミングな偶然の邂逅がなければ、記憶という巨大なテーマを解明するための最初の扉を開く栄誉は彼らにはもたらされなかったでしょう(3、4)。

もし記憶が増えるごとに神経細胞が増えるのだったら、いくら神経細胞があっても足りないだろうということは19世紀の科学者であるラモン・イ・カハールも考えていて、記憶の本質は神経細胞自身とその結合の強さにあることを予測していました(5)。レモとブリスはウサギ海馬歯状回の顆粒細胞を使って、長期増強という現象があることを突き止めました(6、7、図216-2)。すなわち顆粒細胞を一定の時間間隔で刺激すると、次第にスパイクの振幅が大きくなるのです(図216-2)。このような長期増強 (long-term potentiation=LTP) のメカニズムを神経細胞自身が持っているなら、それが長期記憶の基盤になっていることは容易に想像できます。

2162a

図216-2 テリエ・レモと長期増強の発見

長期増強の分子的メカニズムについてはいろいろとわかってきたようですが、それは別稿でアップしたいと思います。ところで自転車を運転するというような運動は、反射や長期増強だけで行なうことはできません。ある筋肉が収縮すると別の筋肉は弛緩するという複雑な組み合わせを時間軸で変化させるという一連のプロセスを実行し記憶することが必要です。その基盤となるのはLTPに拮抗するLTD(長期抑圧= long-term depression) です。

LTPの発見は1966年ですが、伊藤・狩野によるLTDの発見は1982年ですから16年の歳月が経過しています(8)。どうしてそのような長い年月を要したのかは、当時の技術では長期抑圧の本丸である小脳での実験が非常に難しかったことにあるようです(9)。それにしても狩野氏は当時学部学生だったはずで、このような困難な実験によく付き合ったものだと驚きます。

伊藤研ではその後も精力的にLTDの研究を続け、多くの他の研究室も参入して現在ではいろいろなことがわかってきました。ここでは脳科学辞典の「長期抑圧」の項目を引用しますが:「小脳の長期抑圧は小脳皮質の平行線維とプルキンエ細胞間のシナプスの伝達効率が長期(単離した急性小脳切片の場合でも最低数十分以上)に渡って低下する現象である。プルキンエ細胞への2つの興奮性の入力である平行線維と登上線維を同時に刺激することで引き起こされる。この際、平行線維と登上繊維の活性化のタイミングが重要であることが知られている」(最後の登上線維が途上線維となっていたので管理人が修正しました) となっています(10)。

小脳のニューロンとネットワークをまとめると図216-3のようになります(11)。なおLTDといっても小脳皮質(プルキンエ細胞など)による記憶はそれほど長続きせず、髄質のニューロン群に情報が移転してはじめて長期記憶として定着するようです(12、図216-1)。

2163a

図216-3 小脳のニューロンとネットワーク

図216-3で小脳のおおまかなニューロンネットワークを説明できます。

1.下オリーブ核(延髄と小脳の間にあるニューロンの集積体)に起源をもつ登上線維は分子層に向かって上行し、プルキンエ細胞の近位樹状突起とグルタミン酸を伝達物質とする多数の興奮性シナプス結合をする(13、14)。

2.橋核その他多様な場所に起源を持つ苔状線維は顆粒層で顆粒細胞の樹状突起とグルタミン酸を伝達物質とする興奮性シナプス結合をする(14-16)。

3.顆粒細胞は樹状突起を分子層に向かって垂直方向に伸ばし、この樹状突起は分子層でT字型に分岐して平行線維を形成する。平行線維はプルキンエ細胞の樹状突起とグルタミン酸を伝達物質とする興奮性シナプス結合を形成する(13)。

4.星状細胞は分子層の表層に近い部分に存在し、プルキンエ細胞の樹状突起にGABA作動性の抑制性シナプスを形成する(17)。

5.バスケット細胞は分子層のなかでもプルキンエ細胞の細胞体に近い部分に存在し、プルキンエ細胞の細胞体にGABA作動性の抑制性シナプスを形成する(17)。

6.ゴルジ細胞は顆粒層に存在し、顆粒細胞と苔状線維から興奮性入力(グルタミン酸型)を受け、顆粒細胞を抑制する(GABA型)(13)。

7.単極ブラシ細胞は顆粒層に存在し、苔状線維からの興奮性入力を受けて、顆粒細胞あるいは単極ブラシ細胞にグルタミン酸作動性の興奮性入力を行なう(18)。

8.ルガロ細胞(図では細胞体のみ記す)は顆粒細胞層のプルキンエ細胞層寄りに細胞体を持ち、プルキンエ細胞の軸索側枝から抑制性入力、苔状線維からは興奮性入力を受け、軸索を平行線維と平行の方向に出し、他の抑制性ニューロンとGABAまたはグリシン作動性の抑制性のシナプス結合をする(13)。

小脳の皮質は非常に美しい構造をとっており、構成する細胞も限られていることから研究が進んでいますが、長期記憶には髄質のニューロンネットワークが重要な役割を果たしているようで、特に髄質そして大脳への出力メカニズムについてのさらなる研究が必要でしょう(19、20)。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番のピアノパートの音符数は3万254個あるそうです(21)。プロのピアニストはこれをすべて暗譜して演奏します。将棋はAIの方が強いことは事実ですが、人間の脳も馬鹿にしたものではありません。

参照

1)ウィキペディア:記憶
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6

2)朝田隆 もの忘れの教室
https://monowasure.eisai.jp/mechanism/04.html

3)Terje Lømo, The discovery of long-term potentiation., Philosophical Transactions Royal Soc. Lond. B, vol.358, pp.617–620 (2003), DOI 10.1098/rstb.2002.1226
https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstb.2002.1226

4)Anders Jahres medisinske priser 2003 
https://tidsskriftet.no/2003/09/oss-imellom/anders-jahres-medisinske-priser-2003

5)ウィキペディア:長期増強
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%A2%97%E5%BC%B7

6)Lømo, T. 1966 Frequency potentiation of excitatory synaptic activity in the dentate area of the hippocampal formation. Acta Physiol. Scand.,68, Suppl. 277, 128 (1966).

7)T.V.P. Bliss and T. Lømo., Long-lasting potentiation of synaptic transmission in the dentate area of the anaesthetized rabbit following stimulation of the perforant path., J Physiol. vol.232(2): pp.331–356. (1973)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1350458/

8)M Itoa nd M Kano, Long-lasting depression of parallel fiber-Purkinje cell transmission induced by conjunctive stimulation of parallel fibers and climbing fibers in the cerebellar cortex., Neurosci Lett., vol.33(3): pp.253-258.(1982) doi: 10.1016/0304-3940(82)90380-9.
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0304394082903809

9)宮下保司 酒井邦嘉 現代神経科学の源流 伊藤正男(後編)
BRAIN and NERVE vol.71 (12):pp.1403-1408,(2019)
https://www.sakai-lab.jp/media/20200424-161516-618.pdf

10)脳科学辞典:長期抑圧
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%95%B7%E6%9C%9F%E6%8A%91%E5%9C%A7

11)Max J. van Essen, Samuel Nayler, Esther B. E. Becker, John Jacob, Deconstructing cerebellar development cell by cell, oS Genet 16(4): e1008630. (2020)
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008630

12)永雄総一 理化学研究所プレスリリース 運動学習の記憶を長持ちさせるには適度な休憩が必要―休憩の間に運動学習の記憶が神経回路に沿って移動し固定化する-集中学習の記憶は小脳皮質の神経細胞であるプルキンエ細胞に、分散学習の記憶はプルキンエ細胞の出力先である小脳核の神経細胞に、それぞれ保持されていることを突き止めました。
https://www.riken.jp/press/2011/20110615/

13)脳科学辞典:小脳
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%B0%8F%E8%84%B3

14)渡辺雅彦 グルタミン酸受容体 GluD2 と小脳シナプス回路の発達・維持・再生 顕微鏡 Vol. 51, No. 3, pp.159-164(2016)
https://microscopy.or.jp/jsm2022/wp-content/uploads/publication/kenbikyo/51_3/pdf/51-3-159.pdf

15)理化学研究所ニュース 神経細胞もふさわしい相手を選別する -小脳顆粒細胞は培養下でも生体内と同様に苔状線維とだけ正しいシナプスを形成する-
http://www.cdb.riken.jp/jp/04_news/articles/09/090714_Selectiveneural.html

16)Stephen F. Traynelis, R. Angus Silver, Stuart G. Cull-Candy, Estimated conductance of glutamate receptor channels activated during EPSCs at the cerebellar mossy fiber-granule cell synapse., Neuron vol.11, issue 2, pp.279-289, (1993) DOI:https://doi.org/10.1016/0896-6273(93)90184-S
https://www.cell.com/neuron/pdf/0896-6273(93)90184-S.pdf#articleInformation

17)T.Watanabe, H.Suzuki, M.Kano, 小脳神経回路の生後発達、Brain and Nerve, vo.71, no.12, pp.1373-1383 (2019)

18)Wikipedia: Unipolar brush cell
https://en.wikipedia.org/wiki/Unipolar_brush_cell

19)Takahiro Ishikawa, Saeka Tomatsu, Yoshiaki Tsunoda, Jongho Lee, Donna S. Hoffman, Shinji Kakei, Releasing Dentate Nucleus Cells from Purkinje Cell Inhibition Generates Output from the Cerebrocerebellum., PLoS ONE 9(10): e108774. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0108774
https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0108774

20)東京都医学総合研究所 Topics 2014
https://www.igakuken.or.jp/topics/2014/1004.html

21)クラリネット記 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
http://blog.livedoor.jp/hslit123/archives/51917926.html

 

 

| |

« リニア中央新幹線は不必要 | トップページ | アラン・ギルバート-都響: アルプス交響曲@上野東京文化会館2023/7/20 »

生物学・科学(biology/science)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« リニア中央新幹線は不必要 | トップページ | アラン・ギルバート-都響: アルプス交響曲@上野東京文化会館2023/7/20 »