続・生物学茶話204 脳の部域化
ウィルヘルム・ヒス(1831~1904 図204-1)は19世紀に活躍した偉大な神経発生学者ですが、リンパシステムが閉鎖系であることを示したり、科学的な復顔術をはじめたりしたことでも有名です。彼は1865年に中胚葉由来の内皮細胞を発見し endothelia と命名して表皮 (epithelia) と区別しました。彼はまた同じ頃末梢神経が外胚葉からできることや、神経堤という組織が存在することを発見しました。これは彼が神経発生学の父とよばれても不思議でない偉大な業績です。
ヒスはそれまでの組織切片を作る技術に限界を感じ、組織をアルコールで脱水し、ラベンダーオイルで透徹して、パラフィンワックスに埋めるという新しい技術を開発し、さらにそうして作成したブロックを薄切するミクロトームを1870年までに設計しました(1、2、図204-1)。このような技術は基本的に現代でも継承されており、組織学の基本であり続けています。つまりヒスは組織学の父でもあるわけです。
ヒスは地表が力を受けて褶曲し山ができることのアナロジーで、胚において細胞分裂の頻度が場所によって異なることによって力が発生し、表層が褶曲するというメカニカルセオリーを考え、ハーゲンバッハ(物理学者)の助力も得て、円形の胚が楕円形になるという計算も行いました(2)。彼は種による形の違いは位置による増殖速度の違いによると考えていたので、ダーウィニズムには関心が無かったようです。脳の部域化というのは、まさしく彼の理論が実現された結果のようにもみえます。
彼は1875年に「Our Bodily Form」という本を出版しましたが、これは発生現象を物理学(力学)や化学の論理で解釈しようという観点で書かれているそうです(私は未読)。この本のフルタイトルは「Our Bodily Form and the Physiological Problem of its Origin: Letters to a Natural Scientist Friend」というもので a Natural Scientist Friend というのは、あのDNAの発見者であるフリードリッヒ・ミーシャーで、彼はヒスの甥です。ただダーウィンの信奉者には不評で、エルンスト・ヘッケルはせっかく進呈された本を返送したそうで、二人は険悪な関係になったそうです(2)。ラヴィッツは「none of the other outstanding anatomists of the nineteenth century was treated with such hostility – almost hatred – as Wilhelm His」という記述を残しているそうです(2)。今から考えてみるとヒスの理論とダーウィニズムには何ら矛盾はないので、この争いにはいまいちピンときませんが、当時は結構シビアだったのでしょう。ともあれ、脳・神経系の細かい構造の比較ができるようになったのはヒスの功績が大です。
図204-1 ウィルヘルム・ヒス
図204-2は以前にも示したことがありますが(3)、これで明らかなのはヤツメウナギやヌタウナギ(円口類)は私たちと同じく終脳・間脳・中脳・延髄(橋)という脳のセクションを持っていますが、小脳はありません。このような脳の部域化は脊椎動物出現以前の生物の特徴を反映していると思われるナメクジウオでは、形態的には明瞭ではありませんが、機能的にはある程度の分業が行われているようです(4)。ナメクジウオは形を認識する眼は持ちませんが、多くの光受容細胞を持っていて、そこから得た情報を総合処理する上で、萌芽的ではあってもある程度脳の部域化が必要だったと思われます(5)。
図204-2 円口類と魚類の脳の比較
ここまで述べてきたことから考えると、脳の部域化は脊椎動物出現以前すなわちエディアカラ紀から始まっていたと思われますが、脊椎動物の中でも最も発達した脳を持つヒトにおいても、脳に接続する末梢神経はほとんどが橋・延髄につながるものであり、終脳・間脳・中脳につながっているのは視覚と嗅覚に関連するもののみです(6、7、図204-3)。
脊椎動物の基底生物群に近いと考えられているヤツメウナギでも同様で、嗅覚・視覚に関連した神経束が終脳・中脳からそれぞれ出ているほかは、主要な末梢神経はほとんど延髄(橋)から出ています(8、図204-4)。このことは脊索動物は触覚に頼って生きていた頃は、現在の延髄(橋)に相当する脊髄最前部の部域を使って感覚と運動の統合を行っており、その後視覚や嗅覚が発達するにつれて前方の脳部域(終脳・間脳・中脳)が発達したと考えられます。
図204-3 脳に接続する主要な12の末梢神経(爬虫類・鳥類・哺乳類の場合)
図204-4 ヤツメウナギの脳と接続する末梢神経
脳の部域のうちで最も後発なのが小脳で、これは円口類にはみられず、魚類に初めて登場します。小脳は条鰭類・肉鰭類・軟骨魚類すべてにみられるので、顎が形成されると同時にできたと思われます(9、図204-5)。
図204-5を見てまず驚くのはウバザメの小脳が巨大であることです。ウバザメはプランクトン食でゆっくり移動しているだけの巨大サメで平和的な動物なのですが、こんな立派な小脳を持っているとは・・・。軟骨魚類は哺乳類などよりずっと昔から生きていて、現在でも繁栄しているわけですから、もちろん昔のまま=生きた化石ではなくそれなりに進化してきたわけです。ウバザメもシャチなどに襲われることもあるので、それに対抗するために小脳を進化させたのかもしれません。
サメの脳みそでググると森喜朗がゾロゾロ出てきますが、サメの脳を馬鹿にしてはいけません。その嗅覚関係の立派さはヒトと比較すべくもありません(10)。またサメの脳はロレンチーニ器官によって感知した電気信号の処理も行っています(11)。
図204-5 様々な魚類の脳を比較する
ナメクジウオの脳の部域化はある程度脊椎動物との比較はできるものの、まだまだ萌芽的なので、専門家でもそのつながりを研究するのは苦労しているようです(12)。ナメクジウオはカンブリア紀の弱肉強食の世界をうまくエスケープして生き残った生物の末裔なので、まだ脳の部域化が萌芽的であったエディアカラ紀の面影を残しているのでしょう。脳の部域化はカンブリア紀にイメージを形成できる眼を持つ生物が生まれたことと密接に関係しているはずです。このような眼で獲得した情報を処理するために、生物は菱脳の前方に大量の神経細胞を用意することになりました。画像情報を処理するために、いかに大量のメモリーが必要かは、デジカメやPCを扱う人なら誰でもわかります。
軟骨魚類や条鰭類とくらべて、私たちのご先祖様に近い肉鰭類は概して小脳はあまり発達させませんでした(図204-5)。これは彼らが辺境の生物(淡水・深海・夏には干上がる沼地など)であるため、動作の機敏さより環境への適応が重要な課題であったことを思わせます。彼らから生まれた両生類も小脳はあまり発達していません。
参照
1)His, W., Beschreibung eines Mikrotoms. Archiv fur Mikroskopische Anatomie vol.6, pp.229-232. (1870)
2)Michael K. Richardson and Gerhard Keuck, The revolutionary developmental biology of Wilhelm His, Sr., Biol. Rev., vol.97, pp.1131-1160. (2022)
doi: 10.1111/brv.12834
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9304566/pdf/BRV-97-1131.pdf
3)続・生物学茶話194: 円口類
http://morph.way-nifty.com/grey/2022/11/post-99b318.html
4)続・生物学茶話187: ナメクジウオ脳の部域化
http://morph.way-nifty.com/grey/2022/08/post-277eea.html
5)続・生物学茶話186: ナメクジウオの4種の眼
http://morph.way-nifty.com/grey/2022/08/post-e84af9.html
6)Wikipedia: List of nerves of the human body
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_nerves_of_the_human_body
7)ウィキペディア:脳神経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E7%A5%9E%E7%B5%8C
8)Manuel A. Pombal and Manuel Megias
Development and functional organization of the cranial nerves in Lamperys.,
THE Anatomical Record vol.302: pp.512–539 (2019)
https://doi.org/10.1002/ar.23821
9)K.Kotrschal, M.J.Vanstaaden and R.Huber, Fish brains: evolution and environmental relationships., Reviews in Fish Biology and Fisheries vol.8, pp.373-408 (1998)
https://link.springer.com/article/10.1023/A:1008839605380
10)Go! Joppari サメの脳
https://jopparika.exblog.jp/10910039/
11)ウィキペディア:ロレンチーニ器官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B%E5%99%A8%E5%AE%98
12)José Luis Ferran and Luis Puelles, Lessons from Amphioxus Bauplan about Origin of Cranial Nerves of Vertebrates that Innervates Extrinsic Eye Muscles., The Anatomical Record vol.302, pp.452-462 (2019) https://doi.org/10.1002/ar.23824
https://anatomypubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ar.23824
| 固定リンク | 1
「生物学・科学(biology/science)」カテゴリの記事
- 続・生物学茶話254: 動物分類表アップデート(2024.12.07)
- 続・生物学茶話253: 腸を構成する細胞(2024.12.01)
- 続・生物学茶話252: 腸神経(2024.11.22)
- 続・生物学茶話251: 求心性自律神経(2024.11.14)
- 続・生物学茶話250: 交感神経と副交感神経(2024.11.06)
コメント