3.11
また3.11がやってきました。2011年3月11日にはもちろんこのブログは存在していました。当時の記事を読み返すと恐怖が蘇ってきます。あらためて災害で亡くなった方々のご冥福をお祈りします。
当時私はイオンモール3Fの本屋さんにいて、買った本を持って一万円札をレジ係に渡したところでした。そこでものすごい揺れが来たので、レジ係が必死で「どうしますか」と言うので、お札を引き取って本をカウンターに置き、その場にしゃがみ込みました。
その後私は不可解な行動をとります。どうしてそのような行動をとったのか全く説明できません。ショックを受けると理性的な行動ができないということだけはわかりました。私は猛烈な揺れの中を這いつくばりながら、なんと非常に危険な3Fブリッジを渡って隣の映画館のビルに移動したのです。映画館はなんと水浸しで(消火用の貯水プールが破損して天井から水が流れたようです)、滝のようになっている止まったエスカレーターを歩いて降りていきました。なんとか外に出ると、ヘヤーカット途中で逃げ出した人が何人か居たのを覚えています。
家に帰るとメチャクチャで、特に食器棚が悲惨な状態でした。翌日イオンに行くと棚は空っぽで、これからどうやって生活していこうかと呆然としました。ペットショップに行くと閉まっていていつ再開するのかわかりません。ガスと電話は止まりました。ガソリンスタンドを見に行くと、車で周辺まであふれていてとても入れられる状況ではありませんでした。しかもなんと原発がメルトダウンし始めているというではありませんか。
私は車のガソリンが静岡くらいまではありそうだったので、とりあえず猫たちを車に積んで神戸に疎開することにしました。幸い静岡でガソリンを継ぎ足すことができたので、無事疎開させ、私だけ仕事を済ませるために、新幹線でとんぼ返りしました。当時の写真を再掲します。そのうち本当に原発がメルトダウンしたので、私も疎開しました。
3.11の翌日 イオンの食料品売り場 棚には何もない
車で移動中のサラとミーナ
後日原発に関する本を数冊みっちり読んで、私は菅直人はやるべきことはほとんどやったという確信を得ました。東電は御用学者を使ってマスコミ操作をしたり、海江田大臣をとりこむなど、あらゆる手段を使って原発の全廃を阻止しようとしました。このブログにも東電の関係者とおぼしき人からコメントがついたりとかもありました。彼らは現場と直結する通信手段(テレビ電話)を持ちながら、政権にはブラインドにしていたのは許しがたいことです。このことは菅直人が直接本社に乗り込むまで露見しませんでした。私は現在でも東電という会社が言うことは信用していません。
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