続・生物学茶話200: 意識の起源
生物学茶話1~100は管理人と仕事上ある程度かかわりがある話題でしたが、101以降の続・生物学茶話については私はアウトサイダーであり、意識の問題などについて書いているこの記事も含めて単なるスタディノートにすぎません。とりわけ難解な「意識」についての考察などというラビリンスにどうして迷い込んだかと言えば、円口類について調べているうちにファインバーグとマラットの論文に行き当たり、彼らが単に円口類の生物学者ではなく壮大な脳科学の難問にチャレンジしていることがわかったからです。これも何かの縁ということで彼らの著書(1)を購入して読んでみることにしました。翻訳したのはやはり円口類の研究者である鈴木大地氏です。よくまあこんな本を翻訳しようと思いついたと思います。さぞかし大変なご苦労だったと思います。
意識とは何かを考える上での1丁目1番地は「意識についての神経存在論的な主観的特性」の定義だそうですが(1)、この言葉自体の難解さで最初のドアから開けられなくなります。とりあえず「意識を科学的にみるとどんな特徴があるか」とでも考えた方がよさそうです。脳科学者は哲学的問題まで取り扱うので、やたらと言葉が難解になりがちというのが大きな障害です。
ファインバーグとマラットによれば、意識とは1.参照性、2.心的統一性、3.クオリア、4.心的因果だそうで(1)、言葉を羅列しただけではなんのことかさっぱりわかりません。最初の参照性からして難解ですが、どうも生物が感覚器から得た情報は、それが脳によって記憶されるということ自体は全く知覚されることはなく、外界または体全体に投影されたものとして感じられるということらしいです。例えば押上のスカイツリーを見るという経験をすると、別の日に空を見上げるとそこにスカイツリーを投影するという形で情報を引き出すことができます。脳のどの部位にこの映像が収蔵してあるかを知覚することはできません。指を骨折して痛かったという記憶は、指を意識することによってその記憶を引き出すことができるわけですが、脳を探ることによって引き出すことはできません。それは参照性という言葉が適切かどうかは別として、確かに脳神経系の特徴のひとつであるということは納得できます。脳科学には参照点依存性(2)という言葉があるので混同しそうですが、これは別の意味のようです。
心的統一性というのは割とわかりやすい概念です。人間は2つの眼で別々の画像を見ているのに、その映像は一つとして認識されます。それぞれ別の神経系で処理された情報が脳で統合されて、その統合された後の結果だけが認識されるというわけです。処理されるプロセスを私たちは認識することができません。文献(1)の表現では、脳は客観的には砂粒の集まりのように見えるのに、主観的には砂浜全体として意識が経験されるということです。私の理解ではプロセスは認識されず、結果だけが認識されて「意識」を構成するということなのでしょう。
3つめのクオリアというのは難解です。感覚質と訳されているようですがあまり使われてはいません。脳科学辞典のクオリアという項目にある「点と十字を組み合わせた動く画像」がヒントになりそうです(3)。この動画の中央の緑の点滅をずっと見つめていると、まわりの黄色い3つの点が消えたり現れたりします。個人的には左上の点がよく消えます。これは脳の作用によって、実際に見えているはずのものとは違うものが認識され意識を構成することがあるということを意味します。人間はある画像を見ても記憶できるのは中央部だけであり、周辺部は全体的な雰囲気としてその「感じ」は認識しているものの、詳細を記憶として引き出すことはできないのです。その「感じ」がクオリアだというわけです。という風に聞かされてもやはりよくわかりません。結局自然科学寄りの人はとりあえずスキップしても良いのではないかと思いました。
最後の心的因果というのは脳科学辞典やウィキペディアにも項目がなく、「心の哲学まとめWiki」などというサイトに説明がありますが(4)、これは哲学の問題であり、実験科学の立場に立つ者としてはとりあえず避けて通るべきではないかと思われます。ただ神経伝達という単純なプロセスと意識の形成という高次な過程の間には大きなギャップ(ハードプロブレム)があるというのは事実で、それは新しい手法で解明しなければならないということは明らかです。
ファインバーグとマラットはハードプロブレムを解決するために、神経進化的アプローチを試みようとしています(1)。それは単純な生物であるほどハードプロブレムにおけるギャップは小さいと考えられるからでしょう。神経細胞がない生物に意識があるはずはなく、ハードプロブレムも存在しません。しかし脳がある<下等?>な生物には意識があるかもしれません。
彼らの考え方の基本は、進化の初期段階で獲得された意識は後々の高次に進化した意識でも反映されるということです。それは進化は古いものをとっぱらって新しいものを作るという形ではなく、古いものを抱え込んだまま徐々に変化するという形でしか実現できないからです。彼らは「反射」を「意識」の対置概念ではなく、先駆けとしてとらえています。
脳科学辞典によると、反射とは「特定の感覚入力が、定型的な身体反応を誘発する現象」と定義しています(5)。「反射」のアントニムが「意識」ではありません。私たちは右足と左足を同時に出すと歩けません。「無意識」のうちに左右交互に足を出すことによって歩けるわけです。始原的左右相称動物も筋肉を使った移動、すなわち定型的な身体反応は「無意識」のうちに行っていたのでしょう。ではエサの位置をなんらかの感覚で知覚し、そこに向かって歩くという行為はどうでしょう? ファインバーグとマラットはそれは「意識」とは言えないとしています。そればかりかフェロモンに導かれて行う生殖行為も「意識」には至らない行為としています(1の71ページ)。彼らはアン・バトラー説にしたがって視覚を重視していて、イメージを形成できるレンズを持った眼によって得られた情報を解析するためにニューロンの複雑な階層構造が形成され、そのニューロンの連鎖が「意識」を形成したと考えているようです(7)。ただヌタウナギはレンズ眼を持っていないので、彼らには意識がないかというと、そうは言えないと思います。嗅覚が特別に発達した動物はそれなりの意識を持っているに違いありません。
今のところイメージを形成できると推定される眼をもつ最古の生物は5億2000万年前のハイコウイクチス(=ミロクンミンギア 7)です。この少し後の時代のメタスプリッギナも同様な眼を持っています。これらの生物はおそらく脊椎動物だと推定されています(7)。そしてファインバーグとマラットは、これらの生物が「意識」を持っていたと考えています。彼らはさらに、このような眼が形成されたのは5億6000万年前から5億2000万年前の間、つまりエディアカラ紀終盤からカンブリア紀序盤にかけてと考えています(1)。
参照
1)トッド.E.ファインバーグ、ジョン.M.マラット著「意識の進化的起源」 日本語訳:鈴木大地 勁草書房(2017)
2)道産子北国の経済教室 【参照点依存性とは?】他人と比較してしまう理由
https://kitaguni-economics.com/referencepoint/
3)脳科学辞典 クオリア
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
4)心の哲学まとめwiki
https://w.atwiki.jp/p_mind/
5)脳科学辞典 脊髄反射
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%84%8A%E9%AB%84%E5%8F%8D%E5%B0%84
6)Ann B. Butler, Hallmarks of consciousness., Adv Exp Med Biol., vol.739: pp.291-309. (2012) doi: 10.1007/978-1-4614-1704-0_19.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/22399410/
7)ウィキペディア:ミロクンミンギア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%A2
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