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2022年11月 1日 (火)

続・生物学茶話193: 脳の老廃物廃棄システム

21世紀になって2光子顕微鏡という新しい技術が開発され、形態学に革命が起きました。この顕微鏡の原理は量子力学に無知な私には全くわかりませんが、1931年にゲッペルト=マイヤ-という人がその可能性を述べているそうです。藤崎久雄が量子力学的原理をスキップして説明してくれているので、彼の論文の一節を引用すると「2光子顕微鏡は、1個の蛍光色素分子が1光子励起の場合の吸収波長の2倍の波長の光子2個を同時に吸収して光子エネルギーの2倍の準位に励起され、励起光波長の1/2より少し長い波長の蛍光を発する2光子励起という現象を利用する」(1)ということだそうです。

2光子による励起は非常に光子密度が高い状態で起こる現象なので、集光点近傍でしか起きません。このことはバックグラウンドを低くおさえることができるという利点があります。一方で必ず起きる1光子励起に対して、2光子励起は偶発的に起こるので絶対的解像度は普通の蛍光顕微鏡に比べて劣るということになります。

2光子励起は集光点近傍だけでおきるので、集光点の深度を変えて撮影しコンピュータで処理すれば立体的な画像が得られます。また赤外線によって励起を行うので試料を透過しやすく、現在では1.6mmくらいの深部まで見ることができるようです(2)。このことはサンプルを薄切せず、生きたままの生物の内部を観察できるということを意味します。また励起が集光点近傍だけで起きるとということは、図193-1(脳科学辞典参照2からの引用、赤字と点線は管理人の脚色です)の青い鼓型シェードの部分全体で発生する蛍光の影響を受けないことだけでなく、自家蛍光によるバックグラウンドを低く抑えられるという利点があって、この意味でも革命的な技術といえます。

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図193-1 2光子顕微鏡

話は変わりますが、少し前まで脳にはリンパ系の組織がないとされていました。他の体の部分は常にリンパ管を介してリンパ液が流れており、老廃物を洗い流しています。この流れは筋肉によっておきるので、筋肉がない脳にリンパ系の組織があっても機能しないでしょう。それでも老廃物は出るので、何らかの方法で排出しなければなりません。この謎はなかなか解けませんでした。そして解明の糸口が見つかったのは21世紀になってからで、先鞭をつけたのはイリフらのグループでした。彼らは2光子顕微鏡を用いて、マウスに投与した蛍光物質の動態を観察しました(3)。

彼らはまず脳実質と髄膜の間にあるマウスの Cisterna magna(後小脳延髄槽)にトレーサーとなる蛍光物質を注入し、30分後には脳室をはじめとする脳全体に広がることを確認しました(蛍光物質の分子量によってその速度は異なる 分子量3000の TR-d3 で50%程度の領域に確認)。そして頭蓋骨に穴を開け2光子顕微鏡を使って、脳表層から100μmくらいの脳内部の蛍光物質の分布を観察しました(図193-2)。

自分の経験から言うと、血液にはかなり自家蛍光があってトレーサーによる蛍光観察は困難と思っていましたが、この2光子顕微鏡による観察、特に図193-2DEなどでは、血管が黒くみえて自家蛍光が非常に低いことがわかります。そして目的のトレーサーはDをみると、動脈(赤点線)の周辺にみられることがわかります。静脈(青点線)の周囲にはトレーサーの発光がみられません。このことは後小脳延髄槽に注入したトレーサーが動脈の血管周囲腔(PVS)を伝って脳全体に広がっていることを示唆します。血管周囲腔は細胞のまわりの間質液と直接つながっており、脳脊髄液の通路ともつながっているので、この経路で脳の老廃物が排出されることが推定されることになりました。そしてその流れの動力となるのが動脈の脈動であることもこの論文は示唆しています。図193-2Lはアストログリア細胞が血管周囲腔を介して血管と接触していることを示しています。

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図193-2 2光子顕微鏡によるトレーサー実験

脳の老廃物廃棄システムを考える上でもうひとつ重要なのは、脳脊髄液とリンパ系の関係なのですが、その前に脳脊髄液の産生についてみておきましょう。発達した脳を持つ生物は通常脳内に細胞がない脳室という液体に満たされたプールのような部分があり、こことつながる液体の領域が老廃物廃棄システムの主役であることは容易に想像できます。

ヒトの場合脳の深部に位置する2つの側脳室・第3脳室および小脳の近傍にある第4脳室にある脈絡叢という部分で脳脊髄液が作られます(4、図193-3)。脈絡叢は窓空き型の毛細血管と上皮細胞からなり、この上皮細胞は毛細血管から血液成分を取り込んで脳脊髄液を反対側の脳室方向に分泌します(4)。したがって原材料は血液ですが、脳脊髄液では血球は排除されることになります。脳弓・視床・脳梁・小脳などは常に新鮮な脳脊髄液に浸されていることになり、これらの部域が生命にとって重要であることが想像されます。

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図193-3 脳脊髄液は脳室の脈絡叢でつくられる

なんらかの理由で脳脊髄液が過剰になると人も動物も水頭症という脳圧が高まる病気になります(5)。このことは脳脊髄液がなんらかのバリアを通過してゆっくりとリンパ系に出て行くことを意味しています。どこからどのように出て行くのでしょうか?

この質問に対する回答は、2015年にアスペルントら(6)とルーヴォーら(7)の2つのグループによって独立に発表された論文で行われました。ルーヴォーらの論文とウィキペディアの図(8)によって説明します(図193-4)。彼らの研究によって脳実質を覆う髄膜(外側から硬膜・くも膜・軟膜)にリンパ管が存在することが証明されました。なぜこのような基本的な知見が得られていなかったというと、リンパ管の内皮細胞の特異的マーカーが報告されたのが21世紀になってからだったという事情があるようです(6)。ともあれ脳の間質液・脳脊髄液とリンパ管が髄膜内でつながっていることが明らかになりました。そして髄膜のリンパ管は鼻粘膜を経由して首のリンパ管に接続していることも明らかになりました(7)。

これらのことから、脳の老廃物は体の他の部分と同様にリンパ管をつかって排出されていることがわかりました。また脳が独自の免疫系をもっているのではなく、通常の免疫システムによって保護されていることも示唆されます。

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図193-4 脳脊髄液とリンパシステムの接点

イリフやネーダーガードらはさらに詳細な研究を重ねて、リンパ系と脳脊髄液が共同して老廃物の排出や免疫を行うシステムをグリンファティックシステム(glymphatic system)と呼んでいます(9-11、図193-5)。まとめると、脳室の脈絡叢で産生された脳脊髄液は髄膜の動脈周囲の領域を伝わって脳表層全体に拡がります。その動脈が脳実質に入り込むときに、動脈周囲腔の脳脊髄液も内部に入り込み、動脈の脈動を利用して脳細胞の間隙にある脳間質に浸透し間質液となります。間質液は排出される老廃物をともなって移動した後静脈周囲腔を伝わって脳の表層方向に移動します。そして静脈が表層の髄膜に入ったときに間質液はリンパ管に取り込まれます。リンパ管は鼻粘膜を通って首のリンパ系に老廃物を輸送し、リンパ系の細胞によって分解処理されるというわけです。興味深いことに、このような脳の清掃システムは主に睡眠中に稼働しているそうです(10)。

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図193-5 グリンファティックシステム

当初はこのグリンファティックシステムのアイデアには多くの批判があったようですが、その多くは実験動物を殺してから切片をつくるという旧来の研究法によるアーティファクトが原因だとネーダーガードらは主張しています(10)。動物を殺した瞬間に動脈の脈動も止まり、結果に大きな影響が出るのです。2光子顕微鏡やMRIによる生きたままの生物を観察する手法によってはじめて実態が明らかになりました。現在ではいろいろ反論はあるものの、イリフやネーダーガードらの主張は多くの脳科学者に概ね受け入れられているようです(12、13)。参照12のレビューは27の研究機関に所属する研究者が著者になっていてます。脳の老廃物の問題はアルツハイマー病をはじめとして、さまざまな疾病に関与すると思われるので、少なくともグリンファティックシステムの考えをたたき台にして、これから進展していくのでしょう。

参照

1)藤崎久雄 ビデオレート2光子顕微鏡
生物物理 vol.40, no.3, pp.195-198 (2000)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/193/%EF%BC%92%E5%85%89%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1%EF%BC%88%E8%97%A4%E5%B4%8E%EF%BC%89.pdf

2)脳科学辞典 2光子顕微鏡
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/2%E5%85%89%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1

3)Jeffrey J. Iliff, Minghuan Wang, Yonghong Liao, Benjamin A. Plogg, Weiguo Peng, Georg A. Gundersen, Helene Benveniste, G. Edward Vates, Rashid Deane1, Steven A. Goldman, Erlend A. Nagelhus, and Maiken Nedergaard, A Paravascular Pathway Facilitates CSF Flow Through the Brain Parenchyma and the Clearance of Interstitial Solutes, Including Amyloid β., Sci Transl Med. vol.4(147): 147ra111.(2012) doi:10.1126/scitranslmed.3003748
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/22896675/

4)Wikipedia: Choroid plexus
https://en.wikipedia.org/wiki/Choroid_plexus

5)あいむ動物病院 動物の病気 水頭症
https://www.119.vc/illness/archives/5

6)Aleksanteri Aspelund, Salli Antila, Steven T. Proulx, Tine Veronica Karlsen, Sinem Karaman, Michael Detmar, Helge Wiig, and Kari Alitalo, A dural lymphatic vascular system that drains brain interstitial fluid and macromolecules., J. Exp. Med., Vol.212, No.7 pp.991–999 (2015)
www.jem.org/cgi/doi/10.1084/jem.20142290
file:///C:/Users/Owner/Desktop/193/Aspelund%20JEM.pdf

7)Antoine Louveau, Igor Smirnov, Timothy J. Keyes, Jacob D. Eccles, Sherin J. Rouhani, J. David Peske, Noel C. Derecki, David Castle, James W. Mandell, S. Lee Kevin, Tajie H. Harris, and Jonathan Kipnis, Structural and functional features of central nervous system lymphatics., Nature., vol.523(7560): pp.337–341 (2015)
doi: 10.1038/nature14432
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4506234/

8)ウィキペディア:髄膜
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%84%E8%86%9C

9)Jeffrey J. Iliff and Maiken Nedergaard, Is there a cerebral lymphatic system? Stroke., vol.44(6 0 1): S93–S95. (2013) doi:10.1161/STROKEAHA.112.678698
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23709744/

10)Humberto Mestre, Yuki Mori, Maiken Nedergaard, The brain’s glymphatic system: current controversies., Trends Neurosci., vol.43(7): pp.458–466. (2020) doi:10.1016/j.tins.2020.04.003
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32423764/

11)Lauren M. Hablitz and Maiken Nedergaard, The Glymphatic System: A Novel Component of Fundamental Neurobiology., The Journal of Neuroscience, vol.41(37): pp.7698–7711 (2020)

12)Tomas Bohr, Poul G. Hjorth, Sebastian C. Holst, Sabina Hrabetova ́ , Vesa Kiviniemi, Tuomas Lilius, Iben Lundgaard, Kent-Andre Mardal, Erik A. Martens, Yuki Mori, U. Valentin Na ̈ gerl, Charles Nicholson, Allen Tannenbaum, John H. Thomas, Jeffrey Tithof, Helene Benveniste, Jeffrey J. Iliff, Douglas H. Kelley, and Maiken Nedergaard, The glymphatic system: Current understanding and modeling., iScience 29, 104987, September 16, (2022)
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36093063/

13)毛利拡 脳を司る「脳」 講談社ブルーバックス B-2157 2020年刊

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