続・生物学茶話175:神経堤のデラミネーション
胚表層の外胚葉から神経板ができるときのキーとなる分子は、外胚葉を表皮へと誘導するBMP4の作用をブロックする Noggin/Chordin/Follistatin の3つであることが知られています(1)。予定表皮と予定神経管の中間にある神経堤の領域ではBMP4と Noggin/Chordin/Follistatin の2大勢力が均衡していて、表皮にも神経管にも分化できないまま取り残された状態といえます。
皮膚や神経管が形成され始めると、ようやく取り残された神経堤領域にも動きが出て、一部は神経管の一部を構成する位置に移動し最背部のルーフプレート(蓋板)になりますが、取り込まれなかった部分はG1/S転換、剥離(デラミネーション)、移動(マイグレーション)を開始します。ルーフプレートの細胞も遅れて同様な行動をとります(2)。このような変化の模式図を図175-1に示しました。
図175-1 神経堤の模式図 左は19世紀のヘンリー・グレイの教科書の図 右はウィキペディアの図を加工したもの
図175-1には19世紀の解剖学者ヘンリー・グレイ(図175-2)の教科書の図も掲載しておきました。多分ニワトリの図だと思いますが、わかりやすく描いてあります。この教科書グレイズアナトミーは1858年の初版以来、多くの解剖学者の手によって改訂がおこなわれ、現在でも解剖学の教科書として使用されています(図175-2右上)。日本語版もあります(3、図175-2右下)。この教科書の人気が出たのは、イラストを担当したヘンリー・ヴァンダイク・カーターの功績が大きかったとウィキペディアには記載してあります(4)。図175-2右上の現行版にはそのヘンリー・カーターの名前が表紙に出ています。ヘンリー・グレイは31才の時に上記の本を出版しましたが、天然痘でわずか34才で夭逝しています(4)。余談ですが、グレイズ・アナトミーというタイトルの医療テレビドラマが米国で人気で、日本でもWOWOWで放映されています。
図175-2 グレイズアナトミー(初版と現行版)と著者
BMP4は表皮形成の司令塔でしたが、時間が経過すると神経堤由来細胞のG1/S転換・剥離・移動を促すという別の用途に再利用されます。これは神経堤由来細胞群の環境の変化によって、noggin による抑制がはずれることによって実現します(2、5)。おそらく新しくできた体節細胞からなんらかの noggin を抑制するシグナルがでると考えられています。BMP4の抑制が外れたからといってそこに表皮ができるわけではなく、BMPのシグナルを受け取る細胞内外の環境が時間の経過=発生のステージによって変化しているので同じシグナルでも結果は異なります。すなわち神経管が完全に落ち込んだステージでは、図175-3のようなシグナルカスケードを通じて神経堤細胞のデラミネーションと移動の準備が行われます。
G1/S転換はデラミネーションや移動とは独立に行われるようです。たとえば神経堤細胞から直接デラミネーションのフェイズにはいる細胞はG1/S転換の状態ですが、ルーフプレートの細胞はM期に入った状態でデラミネーションが起こります(2、5、6)。デラミネーションの前段階としてNカドヘリンが阻害され、かつタンパク質分解酵素(ADAM10)によって分解されることが必要です。新たに形成されるカドヘリン6Bや7はクラシックカドヘリンで細胞のブランチングを促します(7、8)。カドヘリン6Bは神経管と神経堤細胞の分離を促しますが、神経堤細胞のデラミネーションはそのカドヘリン6Bの分解が引き金となるようです(9)。
図175-3 神経堤細胞の移動に必要なシグナル伝達
神経堤という組織の解体すなわちデラミネーションはNカドヘリンの分解だけですむのではなく、NCAM(neural cell adhesion molecule)やタイトジャンクションを解体しなければ実現しません。これはマトリックスメタロプロテイナーゼ群(MMPs)によって実行されます(10、図175-4)。図175-4のオリジナルはウィキペディアですが、実はこのウィキペディアの図では上が dorsal 下が ventral と記載してあるのですが、これは誤りで 上が ventral、下が dorsal が正しいと思われます(11)。Basal lamina は basement membrane ではありません。ですから図175-4では dorsal および ventral の表示は抹消しました。
MMPsはさまざまな生物にユニバーサルに存在する亜鉛を含む酵素群で、カルシウム依存的にマトリックスタンパク質などを分解し、細胞の移動を含むさまざまなプロセスで機能するとされています(12)。
図175-4 神経堤細胞のデラミネーション
デラミネーションと移動の問題はまだすべてが解決したわけではありませんが、細胞の集団的移動経路とそれにかかわる様々なシグナル伝達因子(リガンド)とその受容体のうちのいくつかはみつかっており、図175-5に示しました(13)。頭部は複雑なので後で取り扱うとして、ここでは体幹部の場合だけ示してあります。神経堤細胞の移動経路は大きく分けて 1)体の中央(navy blue)あるいは筋節にそってアーチ状に腹側に移動する(blue) 2)背側から側方に移動する(pale blue) のふたつに分けられます。
体の中央から腹側に移動する細胞は交感神経とグリア、さらに副腎髄質の組織に分化し、アーチ状に移動する細胞は主として後根神経節に分化します。背側から側方に移動する細胞は主として色素細胞に分化しますが、色素細胞は腹側に移動する細胞からも生じるそうです(13、14)。神経堤細胞の移動経路は誘引性物質(緑)と忌避性物質(赤)でコントロールされています(13)。
図175-5 神経堤細胞の移動経路
図175-5は Céline Delloye-Bourgeois and Valérie Castellani(13)のレビューにあった図がもとになっていますが、彼女らの図のレジェンドには 1.AMは図にない、2.Adの説明がない、3.Meの説明が2回繰り返されている という3ヵ所も誤りがあり、したがってレジェンドはここでは無視して別途日本語化しました。ポストドクが書いたのしょうが、指導教官も雑誌のレビューアーもエディターもみんなちゃんとチェックしていないからこのような凡ミスが見逃されて出版されてしまうことになるわけで残念至極です。ただイラスト自体は美しく、わかりやすいと思います。
参照
1)脳科学辞典:神経誘導
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E8%AA%98%E5%B0%8E
2)Eric Theveneau, Roberto Mayor, Neural crest delamination and migration: From epithelium-to-mesenchyme transition to collective cell migration., Developmental Biology vol.366, pp.34-54 (2012) doi:10.1016/j.ydbio.2011.12.041
https://discovery.ucl.ac.uk/id/eprint/1337167/2/1337167.pdf
3)アマゾン グレイの解剖学
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%81%AE%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%AD%A6&i=stripbooks&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1ARZCKY3AQK21&sprefix=%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%81%AE%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%AD%A6%2Cstripbooks%2C177&ref=nb_sb_noss_1
4)ウィキペディア:ヘンリー・グレイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4
5)Burstyn-Cohen, T., Stanleigh, J., Sela-Donenfeld, D., Kalcheim, C., Canonical Wnt activity regulates trunk neural crest delamination linking BMP/noggin signaling with G1/S transition. Development vol.131, pp.5327-5339. (2004) doi:10.1242/dev.01424
https://www.researchgate.net/publication/8258260_Canonical_Wnt_activity_regulates_trunk_neural_crest_delamination_linking_BMPnoggin_signaling_with_G1S_transition
6)Burstyn-Cohen, T., Kalcheim, C., Association between the cell cycle and neural crest delamination through specific regulation of G1/S transition. Dev. Cell vol.3, pp.383?395. (2002) https://doi.org/10.1016/S1534-5807(02)00221-6
https://www.cell.com/developmental-cell/pdf/S1534-5807(02)00221-6.pdf
7)脳科学辞典:カドヘリン
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%98%E3%83%AA%E3%83%B3
8)Sarah H. Barnes, Stephen R. Price, Corinna Wentzel, and Sarah C. Guthrie1, Cadherin-7 and cadherin-6B differentially regulate the growth, branching and guidance of cranial motor axons., Development. vol.137(5): pp.805–814. (2010) doi: 10.1242/dev.042457
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2827690/
9)Alwyn Dady, Jean-Loup Duband, Cadherin interplay during neural crest segregation from the non-neural ectoderm and neural tube in the early chick embryo., Dev.Dyn. vol.246, Issue 7, pp.550-565 (2017) https://doi.org/10.1002/dvdy.24517
https://anatomypubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/dvdy.24517
10)Wikipedia: neural crest
https://en.wikipedia.org/wiki/Neural_crest
11)Roberto Mayor and Eric Theveneau, The neural crest., Development, vol.140, issue 11, pp.2247–2251., (2013) https://doi.org/10.1242/dev.091751
https://journals.biologists.com/dev/article/140/11/2247/45713/The-neural-crest
12)Wikipedia: matrix metalloproteinase
https://en.wikipedia.org/wiki/Matrix_metalloproteinase
13)Céline Delloye-Bourgeois and Valérie Castellani, Hijacking of Embryonic Programs by Neural Crest-Derived Neuroblastoma: From Physiological Migration to Metastatic Dissemination., Front Mol Neurosci., vol.12, no.52, (2019) DOI: 10.3389/fnmol.2019.00052
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30881286/
14)脳科学辞典:神経堤
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A0%A4
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