続・生物学茶話166:神経堤
神経堤という胚にできてくる土手のような構造は、脊椎動物の発生研究者にとってはとても目立つものです。ただそれは短い期間で消滅するので、20世紀の中頃まではあまり重視はされていませんでした。19世紀に活躍したスイスの解剖学者ヴィルヘルム・ヒスはミクロトームを発明したことで有名ですが、ニワトリが発生するときの切片を詳しく観察する中から、原条周辺の外胚葉が落ち込んで神経管をつくる細胞群、残って表皮となる細胞群のほかに、その中間に位置する部分で神経管の背側表皮の下に埋め込まれる細胞群が存在することを報告しました。そしてその3つめの細胞群を zwischenstrang と名付けました(1、図166-1)。この言葉は脳科学辞典では間索と訳していますが(2)、まさしく神経堤のことです。ヒスの本はドイツ語の長大なものですが、フリーで読めます(1)。私はもちろん読んでおりませんが、多数の図版が収録されていて、それを眺めるくらいはしました。
ヒスはまた zwischenstrang に含まれる細胞が骨髄神経節が発生する位置に移動することから、ganglionic crest という造語も行いました。ヒスは ganglionic crest が脊髄神経節をつくると信じていましたが、それは当時の発生学者には認められず、彼の説が認められるには半世紀の歳月を要しました。
図166-1 神経堤を発見したヴィルヘルム・ヒス
神経堤の研究史に、次に大きな足跡を残したのはジュリア・プラットです(3、図166-2)。彼女は19世紀の当時としては大変珍しい女性の発生学者だったせいか、なかなか良いポストに就けず米国や欧州を転々として、博士号を得たのも40才を過ぎてからでした。しかし彼女が1890年代に次々と発表した論文は、この分野では古典とも言えるものです。なかでも外胚葉である神経堤が骨や軟骨を形成するという報告は革新的でしたが、当時の発生学者には全く認められませんでした。骨や軟骨は中胚葉からつくられるというのが当時の常識でした。ヒスと同様、彼女の学説も認められるまでに長い年月を要しました。
彼女は結局満足できるポジションを獲得できなかったので、カリフォルニアの地方都市(Pacific Grove)の市長になって、ラッコの保護に力を尽くしました(当時は毛皮をとるために乱獲されがちでした)。現在でもカリフォルニアの海岸でラッコを見ることができるのは、彼女の尽力があってのことだとされています(4)。
20世紀の前半には生体染色法を使って神経堤の細胞を染色し、その動態をさぐるという研究が行われました(5-6)。これによって完全な証明にはならないものの、プラット説はかなり信用度を増すことになりました。またレイヴンはサンショウウオとイモリを使った移植実験で神経堤細胞が感覚神経をつくることを証明しようと試みました(7)。これらの実験は示唆に富んだものではありましたが、細胞の識別がクリアではなかったので、まだ隔靴掻痒感は残りました。そんな中でラ・ドゥアランは日本のウズラの細胞が非常に識別しやすい特徴を持っていることを発見し(8、図166-2)、ニワトリ胚にウズラの組織を移植すれば(またはその逆)その移植片の発生運命がはっきとたどれると考えました(9、図166-2)。図166-2にみられるように、ウズラの細胞では染色体が核小体のまわりに集中して大きな塊になって見えるので、一目瞭然でニワトリの細胞と識別できるのです(8、10)。
図166-2 神経堤細胞の行く先をさぐる
神経管は図166-3のように外胚葉の神経板が胚の内部に落ち込むことによって形成されます。このとき神経堤の細胞は一部が神経管にとりこまれ、一部は閉じられた予定皮膚の外胚葉と神経管の間のスペースに取り残されます。取り残された細胞(MNCC = migratory neural crest cells)はすぐに移動をはじめ、神経管最上部の細胞(pMNCC = premigratory neural crest cells)もそれに続いて移動します(11、図166-3)。
図166-3 神経管形成前後の神経堤細胞
胚内部に落ち込む際に、神経堤細胞はその性質を大きく変化させます。上皮細胞の特徴である1)外側と内側で異なるタンパク質を配置し極性をつくる、2)細胞同士を側面で結合させてシートを形成する、などの性質を失い極性をもたずフリーに動く間葉系細胞(胚に特有の未分化細胞)に変化します。これを Epithelial–mesenchymal transition (EMT 上皮間葉転換)といいます。この際にEカドヘリンとギャップジャンクションの喪失が大きな役割を果たすとされています(12、図166-4)。EMTは正常な発生や分化の場面だけで行われれば良いのですが、癌の転移の際にも似たようなメカニズムが発動するといわれています(12)。
図166-4 上皮間葉転換
ラ・ドゥアランらの手法などを使って、現在では神経堤の細胞が様々な組織を形成することが明らかになっていて、それが脊椎動物の大きな特徴であることがわかりました(11)。神経管は頭から下半身まであるので、神経堤も同じ長さです。図166-5は上半身についてですが、神経堤の細胞はまず咽頭弓を形成し、そこから脳の一部、眼、顔面の骨、角膜、歯、アゴ、聴覚用の骨、神経、血管、舌骨、甲状腺、副甲状腺などを形成することが示してあります(13)。これらは中胚葉由来の細胞と共同してつくられることもあります。
図166-5 頭部周辺と神経堤細胞
図166-6はある血管がドナーの神経堤由来細胞とホストの中胚葉由来細胞とのキメラで構成されていることを示しています(10、14)。このことは血管が外胚葉性の神経堤細胞と中胚葉性の細胞との共同作業で形成されることを意味しています。
図166-6 キメラ血管壁 (10)
神経堤細胞がどのような細胞に分化し、組織を形成するかをまとめたのが図166-7です(脳科学辞典の神経堤からお借りした図版、15)。特に神経系の構成を進化上リニューアルすることに大きく貢献していることがわかります。これによって脊椎動物はウルバイラテリア以来の動物の枠組みを乗り越えた形態形成を行うことができました。
図166-7 神経堤細胞の分化・予定運命のまとめ
参照
1)Wilhelm His, Untersuchungen uber die erste Anlage des Wirbeltierleibes. Die erste Entwicklung des Huhnchens im Ei., Leipzig: F. C. W. Vogel 1868.
https://archive.org/details/untersuchungen1868hisw/page/n5/mode/2up
2)脳科学辞典:神経堤
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A0%A4
3)Julia B. Platt. Ectodermic Origin of the Cartilages of the Head., Anat. Anz., VIII. vol.8, pp.506-509 (1893)
See also: J. S. KINGSLEY., The origin of the vertebrate skeleton., The American Naruralist vol.XXVIII p.332 (1894)
https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/275985
4)Wikipedia: Julia Platt
https://en.wikipedia.org/wiki/Julia_Platt
5)Detwiler, S.R., Application of vital dyes to the study of sheat cell origin. Proc. Soc. Exp. Biol. Med. vol.37, pp.380–382 (1937)
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.3181/00379727-37-9579P?journalCode=ebma
6)Hörstadius, S., The Neural Crest., Oxford University Press, Geoffrey Cumberlege (1950)
https://www.amazon.com/Neural-Crest-Sven-HORSTADIUS/dp/B000K717LE
7)Raven, C.P., Experiments on the origin of the sheat cells and sympathetic
neuroblasts in Amphibia. J. Comp. Neurol. vol.67, no.2 pp.221–240. (1936)
https://www.deepdyve.com/lp/wiley/experiments-on-the-origin-of-the-sheath-cells-and-sympathetic-MomfRSwyoQ
8)Le Douarin, N., Details of the interphase nucleus in Japanese quail (Coturnix
coturnix japonica). Bull. Biol. Fr. Belg. vol.103, pp.435–452.(1969)
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/4191116/
9)Le Douarin, N., A biological cell labeling technique and its use in experimental
embryology. Dev. Biol. vol.30, pp.217–222. (1973)
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/4121410/
10)Domenico Ribatti, Nicole Le Douarin and the use of quail-chick chimeras to study the developmental fate of neural crest and hematopoietic cells., Mechanisms of Development, vol.158, 103557 (2019)
https://doi.org/10.1016/j.mod.2019.103557
11)Joshua R. York and David W. McCauley, The origin and evolution of vertebrate neural crest cells., Open Biol., vol.10, issue 1, 190285 (2020) https://doi.org/10.1098/rsob.190285
https://royalsocietypublishing.org/doi/pdf/10.1098/rsob.190285
12)Wikipedia: Epithelial–mesenchymal transition
https://en.wikipedia.org/wiki/Epithelial%E2%80%93mesenchymal_transition
13)File: Cranial Neural Crest Cells - migration.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cranial_Neural_Crest_Cells_-_migration.jpg
14)Roncali, L., Virgintino, L., Coltey, P., Bertossi, M., Errede, M., Ribatti, D., Nico, P.,Mancini, L., Sorino, S., Riva, A., Morphological aspects of the vascularizazion in intraventricular neural transplants. Anat. Embryol. vol.193, pp.191–203. (1996)
15)脳科学辞典:神経堤
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A0%A4
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