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2021年4月24日 (土)

日本学術会議の声明

この任命拒否問題は言論の自由という観点から見て非常に深刻な問題です。学術に携わる者すべてを敵に回してもこのようなことを行う政府というのは、根本的に学術が無用の長物であるという誤った思想にとりつかれた愚かな集団であることを自白しているようなものです。声明文を貼っておきます。

A_20210424220301

内田樹(うちだたつる)氏ブログの引用:
http://blog.tatsuru.com/

日本のイディオクラシー より 

いまの日本はどうだろうか。
 為政者が「どうすれば国力を向上させ、国民の健康や安全や豊かさを実現できるのか」その道筋を考えることがもうできなくなった。最優先するのは自分の権力の維持である。そのためには国民の支持が必要なのだが、どうすることが公共の福祉に資するのかがわからない。
 しかたがないので、それが公共の福祉に資するかどうかわからないけれど、とりあえず「自分がやりたい」ことをやることにした。国民全体の利害を計る方法が思いつかないので、りあえず自分の周りにいる人間の利害だけを計ることにした。
 これが「イディオクラシー」である。指導者も有権者も、知性においても徳性においても、とくにすぐれているわけではないし、そうである必要もないという点ではデモクラシーとよく似ているが、指導者が国民の利害を配慮する努力を放棄したという点が新しい。
 驚くべきことは、それを少なからぬ国民が支持しているということである。
 支持する理由は、イディオクラシーは仕組みがひどくシンプルだからである。
 指導者は国民の利害を配慮していないけれど、「取り巻き」の利害は配慮してくれる。だから、権力者の「取り巻き」になれば、自分一個の利益は実現し、権力の恩沢に浴することができる。権力者の縁故者がそのまま「公人」として遇され、そこに公金が投じられ、公的支援が集中する。
 「桜を見る会」の招待基準を訊かれて、当時官房長官だった菅は、「各界で功績のあった人を幅広く招待している」と説明した。「各界で功績のあった人」の中には後援会の会員や安倍支持を公言する言論人や芸能人たちが大量に含まれていた。
 このときに「権力者に近い人間=公人=公的な支援を受ける資格のある人間」という新しい基準が確定した。かつては「国民の利害」というものが独立した概念が存在した。いまはもうそのようなものはない。「集合的な利害」というような複雑で規模の大きなものを構想する知力がなくなってしまったからである。それよりは「個人の利害」を優先させる。こちらの方が話が簡単だ。
 国が滅びても、自分の私腹が肥えるなら別に困らないという人たちの数がもう少し増えて、過半を超えた頃に日本のイディオクラシーはその完成を見るだろう。これは『1984』的ディストピアとはまったく別種のディストピアである。

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