続・生物学茶話129: ミエリン鞘(髄鞘)
FCバルセロナからヴィッセル神戸に来たイニエスタという選手がいます。彼は体格・筋力・走力などの身体能力はサッカー選手としてはごく普通なのですが、マルセイユ・ルーレットの技術と他の選手より一瞬早く行動できるという特技で頂点を極めました。生物にとって神経の伝達速度を上げるということは、敏捷性(アジリティー)を高め、他の生命体より早く知覚し早く行動することができるので、生存にとって明らかに有利です。
周囲からの干渉を遮断・絶縁することによって漏電を防ぐことも正確な伝達には必要なことでしょう。脊椎動物はそのためにミエリン鞘(髄鞘)という神経を被覆する組織を獲得しました(1、図129-1)。ミエリン鞘はここでのテーマである跳躍伝導という特殊なメカニズムをサポートしていて、神経伝達速度を上げることにも貢献しています。電流の流れやすさ、すなわちコンダクタンス=σA/L(σ:定数、A:断面積、L:長さ)なので、ミエリン鞘をつくる以外にも、神経の断面積Aを大きくしたり、体を小さくしてLを短くするという方法も生物にとってアジリティーを上昇させるための有効な方法です。
実際イカは直径1mmという破格に太い神経(ジャイアントアクソン)を持っています。これはヒトの太めの神経の10倍以上の太さです。このくらい太いと伝達速度は30m/秒という高速を実現できます。イカのジャイアントアクソンにはミエリン鞘はありません。不思議なことに、ミエリン鞘を使って伝達速度を上げるという方式はある特定系統の生物が進化の過程で育ててきたと言うより、さまざまな系統の生物が進化の過程で断続的に獲得してきたというめずらしい組織なのです。たとえばエビは持っているのにロブスターやカニは持っていないとか、ミミズは持っているのにヒルは持っていないなどという例があります(1)。
ほとんどの脊椎動物はミエリン鞘を持っています。ただし末梢神経にはミエリン鞘を持っていない神経(無髄神経)も多いことが知られています(2)。無髄神経では、たとえば皮膚の痛覚神経では伝達速度は1m/秒とかなり遅くなります。同じ皮膚でも有髄神経の触覚神経では50m/秒と著しくアドバンテージがあります。ではどうしてすべて有髄神経ではないのでしょうか? それはまあ有髄神経がラグジュアリーなものということもあるのでしょうが、どうも直径1μmというような細い神経線維の場合、ミエリン鞘があると却って伝達速度が遅くなるらしいのです(3)。詳しい研究が行われていないらしく私にはよくわかりません。
ミエリン鞘は軸索を完全に被っているわけではなく切れ目があって、その部分をランヴィエ絞輪とよびます(図129-1)。ミエリン鞘とランヴィエ絞輪はそれぞれルドルフ・フィルヒョウ(4)とルイ・ランヴィエ(5)によって19世紀に発見されました(図129-1)。
図129-1 ミエリン鞘とランヴィエ絞輪
ミエリン鞘の実体は末梢神経系ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトです。シュワン細胞は外胚葉の神経堤に由来する毛布のような細胞で、軸索に巻き付いています(図129-2)。オリゴデンドロサイトについては後述します。これらの細胞が何重にもぐるぐる巻き付くことによってミエリン鞘が形成され、有髄神経ができあがります。ミエリン鞘の一番外側の部分を神経鞘ともいいます。断面をみればミエリン鞘の多層構造がよくわかりますが、これらの層はすべて同じ細胞で連続しています(図129-2)。
毛布がきちんとたたまれてはがれないようにするためには、高度に硫酸化された糖鎖を持つP0(ピーゼロ)というタンパク質が必要だとされています(6)。ミエリン鞘は単に電源コードのシールドのようなものではなく、神経細胞とさまざまな相互作用を行なって、神経細胞を健全に保つためにも有用であるようです(7)
図129-2 シュワン細胞にぐるぐる巻きにされる軸索
さて跳躍伝導を理解するためにはコンデンサというものを理解する必要があるようです。村田製作所のサイトによると、コンデンサは 1)電圧を安定させる、2)ノイズを取り除く、3)信号を取り出すなどの用途に用いられます(8)。セクション128の図128-2で解説しました。要するに充電式電池のようなものですが、電池が化学式で書けるような化学変化すなわち分子の変化を基盤としているのに対して、コンデンサは分子の整列や分子内での構造変化を基盤とするものです。生物はみずから体内にコンデンサの役割を果たす組織を制作・設置し、神経伝達に使っているようです。
神経細胞の軸索はミエリン鞘で被われており、その切れ目にランヴィエ絞輪があります。このどの部分がコンデンサかというと、それはミエリン鞘と軸索の細胞膜がそれに当たります(図129-3)。ランヴィエ絞輪には多数のナトリウムチャネルが集中していて、これが電池のような役割を果たしているわけです。ここに刺激がきて一時的にチャネルが解放されると、ナトリウムイオンが軸索に流れ込み、アクションポテンシャルが発生します。一方チャネルの外側はナトリウムイオンが減少するので、ミエリン鞘の外側からランヴィエ絞輪の方向に電流が流れます。神経標本の周囲の電解液が導線の役割を果たします(図129-3)。
アクションポテンシャルの裾野が次のランヴィエ絞輪に届くとその刺激でチャネルが解放され、次のアクションポテンシャルが発生します(3)。ランヴィエ絞輪につつまれた部分の軸索には、ほとんどナトリウムチャネルはありません。つまり、ランヴィエ絞輪単位でステップワイズに(飛び飛びに)神経伝達が行なわれます。これが跳躍伝導です。このシステムによって、有髄神経は前述のような桁違いの高速伝達を可能にしました。
図129-3 跳躍伝導
慶應義塾大学の田崎一二らは第二次世界大戦前に、図129-4に記したような方法などで、実際にミエリン鞘というコンデンサから発生する電流を測定し、跳躍伝導を証明しました。杉晴夫によると(9)、第二次世界大戦中に彼らが論文をドイツの雑誌に投稿したところ、ベルリンが廃墟になっているにもかかわらず、ちゃんと雑誌に印刷発表されたそうです(10、11)。日本ではほとんどの学術雑誌は戦争で休刊せざるを得なくなりました。図129-4は簡略化したものなので、詳細を知りたい方は文献10、11をあたってください。田崎一二は戦後まもなく渡米し、米国に帰化して97才までNIHで働いていました。これはNIHの高齢レコードだそうです(12)。奥様も研究室に来て実験のお手伝いをなさっていたようです。
図129-3 田崎一二夫妻と彼らの実験
ところが最近跳躍伝導について、新しい発見がありました。チャールズ・コーエンらによるとミエリン鞘と軸索の間に12.3nmの間隙(もうひとつの導線)があり、ここをイオンが移動し電流が流れているというのです(13、図129-5)。そうするとイオン(電流)はミエリン鞘の外をまわらなくても、このもうひとつの導線を流れればいいのでショートカットできます。しかしそうなるとミエリン鞘と軸索の細胞膜が一体となってコンデンサの役割を果たしているという考え方はとれなくなります。すなわちミエリン鞘は軸索を保護することと、軸索の周りにある円筒形のセカンドケーブルをつくるために存在することになります。これは注目すべき発見で、今後の進展を見守りたいと思います。
図129-5 ミエリン鞘と細胞膜には広めの間隙が存在する
イカなどは巨大神経線維をつくって神経伝導の速度をはやめましたが、脊椎動物は有髄神経による跳躍伝導のシステムをつくることによって、細い神経線維でも高速な伝達速度を確保することに成功しました。このことは脳を発達させる上で非常に重要なエポックだったと思われます。なぜなら脳にそんな太い神経が鎮座すると、脳に多くの情報を詰め込むための容量が損なわれてしまいます。かといって神経を細くすれば伝達速度が遅くなります。タコやイカはイヌと同じくらいの数のニューロンを持っているにもかかわらず、そんなに知能が高くないのはそういう理由じゃないかと思われます。
脳ではシュワン細胞に代わって、神経管由来のオリゴデンドロサイトというグループのグリア細胞がミエリン鞘を形成します(1、14、図129-6)。ひとつのオリゴデンドロサイトがいくつもの軸索のミエリン鞘をかけもちするところが、末梢でのシュワン細胞とは違うところです。
図129-6 脳のミエリン鞘
参照
1)脳科学辞典: 髄鞘
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%AB%84%E9%9E%98
2)ウィキペディア: 神経線維
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B9%8A%E7%B6%AD
3)酒井正樹 講義実況中継 その3:興奮はいかにして伝わるか
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiriseika/29/3/29_135/_pdf
4)Wikipedia: Rudolf Virchow
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Virchow
5)Wikipedia: Louis-Antoine Ranvier
https://en.wikipedia.org/wiki/Louis-Antoine_Ranvier
6)T. Yoshimura et al., GlcNAc6ST-1 regulates sulfation of N-glycans and myelination in the peripheral nervous system., Scientific Reports vol. 7, Article number: 42257 (2017)
https://www.nature.com/articles/srep42257
7)ウィキペディア: シャルコー・マリー・トゥース病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%97%85
8)続・生物学茶話128: パッチクランプ法
http://morph.way-nifty.com/grey/2021/02/post-9ad3a9.html
9)杉晴夫 「生体電気信号とはなにか」 講談社ブルーバックス (2006)
10)Ichiji Tasaki und Taiji Takeuchi, Der am Ranvierschen Knoten entstehende hktionsstrom und seine Bedeutung fiir die Erregungsleitung., Pflügers Archive vol.244, pp. 696- (1941)
https://link.springer.com/article/10.1007%2FBF01755414
11)Ichiji Tasaki und Taiji Takeuchi, Weitere Studien über den Aktionsstrom der markhaltigen Nervenfaser und über die elektrosaltatorisehe Übertragung des Nervenimpulses., Pflügers
12)NIH record - mile stones - Biophysicist Tasaki Leaves Extraordinary Scientific Legacy
https://nihrecord.nih.gov/newsletters/2009/02_20_2009/milestones.htm
13)Charles C.H. Cohen, Marko A. Popovic,Jan Klooster, Marie-Theres Weil,Wiebke Mo ̈bius, Klaus-Armin Nave,Maarten H.P. Kole., Saltatory conduction along myelinated axons involves a periaxonal nanocircuit., Cell vol.180, pp.311-322, (2020)
https://www.cell.com/action/showPdf?pii=S0092-8674%2819%2931324-8
14)Wikipedia: Oligodendrocyte
https://en.wikipedia.org/wiki/Oligodendrocyte
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