続・生物学茶話107: 脳のはじまり 3
セクション105・106で刺胞動物や扁形動物の神経系について述べてきました。なかでもプラナリアは脳らしきものを装備するまで進化していることがわかりました。しかしこれらの生物群と脊索動物の共通祖先が萌芽的な脳をもっていて、それから私たちをはじめとする様々な生物の脳が形成されたとは到底考えられません。脊索動物と最も近縁な棘皮動物は脳を持っていませんし、脊索動物のなかでも原始的な形態を持つと考えられている頭索動物や尾索動物の場合も微妙です(図107-1)。
おそらくさまざまな門の共通祖先が「脱分極ができてシナプスを持つ神経細胞」を発明し、この細胞がセンサー(感覚性細胞)と運動性細胞をつなぐ役割を行なうことになりました。この後各門に生物は分かれ、それぞれの門の中で脳や神経節すなわち神経細胞の集合体を独自に発展させていったものと思われます。センサーと運動細胞が数個の細胞でつながれていてそれらが互いに制御しているというシステムがあったとすれば、それはすでに本質的には脳と変わりはありません。それが脳らしくないのは、細胞の数量的な問題だけでしょう。
図107-1 脊索動物門の系統樹
ナメクジウオの遺伝子解読コンソーシアムがナメクジウオの全ゲノム配列の解読に成功しており、この生物と脊椎動物の染色体における遺伝子の並び順(シンテニー)がとてもよく似ていることがわかっています(1、2)。ナメクジウオは私たちと同じ脊索動物門に属し、約30種で頭索動物亜門を構成しています。ホヤなどの尾索類では大規模なゲノムの再構成と脱落が進化の過程で発生しているのとは大違いで、シンテニーが保存されているという事実は、ナメクジウオに極めて近い生物から脊椎動物が進化してきたことを示唆しています(1、図107-1)。カンブリア紀にはナメクジウオにとてもよく似たピカイヤという生物がいました(3)。しかしカンブリア紀にはすでにヤツメウナギに似たコノドント生物や派生的な形態をしたミロクンミンギアなどもいたので、これらの生物が分岐したのはカンブリア紀以前と思われます。
ナメクジウオの形態を図107-2として示しておきます。多分カンブリア紀からほとんど同じ形態で生き延びてきたのでしょう。昔は三浦半島の油壺あたりにもいたようですが、いまや絶滅危惧種です。私も水族館でしか見たことがありません。ただ日本動物園水族館協会のサイトで検索すると、いまや福島海洋科学館・鳥羽水族館・須磨水族園 の3館でしかみられないということでちょっと心配になりました。ナメクジというイメージの悪い名前ですが、写真にみられるような全身半透明のシンプルでイノセントな感じの美しい生物です。プランクトンなどを濾過してエサにしているようです。この生物が私たちの直接のご先祖様だというわけです。
脳はそれぞれの門のなかで独自に進化したと思われますが、では脊索動物門ではどのように進化してきたのでしょうか? ナメクジウオは図107-3のように神経索の頭部の部分が少しふくらんでおり、このふくらみは脳室または brain like blister と呼ばれています(4)。これはおそらく萌芽的な脳と言えるのでしょう。尾索動物(ホヤ)の場合、遊泳する幼体ではナメクジウオと同様な神経索と脊索が存在しますが、固着生活の成体では神経索と脊索は退化してしまいます(5)。しかし脊椎動物に進化したヤツメウナギやヌタウナギ(円口類)ではこのふくらみがいくつかのセクションに分かれて役割分担を果たすようになり、ようやく脳らしい構造がみられるようになります(6,7,図107-3)。図107-3の菱脳唇は哺乳類の小脳に相当する部分です(上段のマウスの脳と比較)。形態的にはあまり明瞭とは言えません。
図107ー3 ナメクジウオの形態と脊椎動物の脳
ヤツメウナギとヌタウナギの脳を背側から見たのが図107-4です。図107-3では腹側に湾曲している脳を伸ばした感じの図です。同じ円口類なのに脳の形態は非常に異なります。おそらくそれぞれの生物の生活様式に応じて必要とされる神経細胞や神経回路は異なり、それに伴って脳の形態もフレキシブルなのでしょう。たとえばヌタウナギの終脳は非常に大きいですが、ここではおそらく主として臭覚に関する情報処理が行われており、この生物が臭覚に強く依存した生活をしていることがうかがえます。一方で視聴覚に関係している中脳はヤツメウナギと比較して極めて貧弱です(図107-4)。実際ヌタウナギの眼は非常に貧弱かない種もあるようで、深海での生活には視覚は不要だった結果、進化の結果としてこのような脳の構造になったと理解できます。
菅原によると、ヤツメウナギには非常に小さな小脳らしき膨らみがありますが、ヌタウナギにはみられず小脳はないそうです。ただし転写因子などの発現解析から、ヌタウナギも祖先生物は小脳を持っていたが、退化した結果現存するヌタウナギにはみられなくなったそうです(8)。ヌタウナギは海底に落ちてきた生物の死骸を食べて生きている生物なので、死骸の匂いさえトレースできれば、エサには困らないことから運動に関わる小脳も不要になったと思われます。図107-4には比較のためにドワーフグラミーの脳を示しましたが、魚類の脳も種によって大きくことなるそうで、脳の形態はその生物の生活様式によって大きく変化することは確かなのでしょう(9)。
学生時代に私はヤツメウナギの解剖を行ったことがありますが、眼はほとんど魚類と同じくらい発達した立派なものです(もちろん八つあるわけではなくふたつしかありません)。しかし骨は非常に貧弱で、その軟骨成分も魚類とはかなり異なっているようです。またヤツメウナギは免疫グロブリンをもたないとされています(10)。一方で結合組織や筋肉は非常に立派であり、水槽を飛び出すくらいのパワーがあります。ウィキペディアの記事を読んでいて興味深かったのは、ヤツメウナギの歯はなかなか立派なものですが、魚類や私たちの歯とはまったく違っていて、むしろ爪や毛に近い表皮が角質化したものであるということです。ですからその成分はエナメル質ではなくケラチンということになります。このソースは私は未読ですが、小澤幸重氏の書籍です(11)。ヌタウナギも立派な歯を持っていますが、おそらく同じなのでしょう。
私は積極的にヤツメウナギを食べに行こうとは思いませんが、解剖の印象ではよい食材になりそうだとは思いました。浅草の田原町に「八ッ目鰻本舗 」というレストランがあるそうです(12)。かばやきにするとモツのような食感だそうです(13)。ヌタウナギは日本では食材にする習慣は一般にありませんが、韓国ではコチジャン炒めなどにして食材に用いるようです(14)。
参照
1)ナメクジウオゲノム解読の成功により脊椎動物の起源が明らかに 京都大学デジタルコンテンツ
http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080612_1.htm
2)Putman et al: The amphioxus genome and the evolution of the chordate karyotype. Nature 453, pp.1064-1071 (2008)
3)ウィキペディア: ピカイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2
4)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BranchiostomaLanceolatum_PioM.svg
5)Wikipedia: Tunicata
https://en.wikipedia.org/wiki/Tunicate
6)菅原文昭・倉谷 滋 円口類から解き明かされる脳の領域化の進化的な起源 ライフサイエンス新着論文レビュー
http://first.lifesciencedb.jp/archives/12168
7)F Sugahara et al., Evidence from cyclostomes for complex regionalization of the ancestral vertebrate brain. Nature, 531, 97-100 (2016)
8)菅原文昭 円口類から探る、脊椎動物小脳の発生プランの進化 ブレインサイエンスレビュー2019 pp.145-165 (2019) クバプロ
9)魚類の脳は種によってかなり大きく相違する
https://www.isshikipub.co.jp/2019/07/04/web-book-brain-08fish/
10)ウィキペディア: ヤツメウナギ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%A1%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE
11)小澤幸重著 エナメル質比較組織ノート わかばシエン社 2006年刊
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%83%AB%E8%B3%AA%E6%AF%94%E8%BC%83%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88-%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E5%B9%B8%E9%87%8D/dp/4898240321
12)https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131102/13020326/
13)https://kurashi-no.jp/I0019234
14)http://www.monstersproshop.com/taste-of-eels-without-anguilla-japonica/
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