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2020年8月30日 (日)

続・生物学茶話 109: キノコ体

セクション108ではアザミウマタマゴバチという極小の寄生蜂について述べてきました。アザミウマタマゴバチはわずか4600個のニューロンで、ちゃんと成長して、変態して、ホストを離れて交尾し、新しいホストを探して卵を産み付けるという彼らなりの人生を全うできるわけですから、体が小さいとはいえ数万個以上の余裕のニューロンをもつ通常の昆虫類が様々な知的活動を行っているとしても不思議ではありません。

昆虫が自分の巣のまわりの景色を記憶して帰巣することを証明したのは1950年代はじめのニコラース・ティンバーゲンでした。ポール・ケニヨンが解説してくれています(1)。ティンバーゲンが実験動物として使ったジガバチ(ツチスガリ)のメスは、人間的感覚で言えばえげつない生物です。まず地面に穴を掘っておき、巣穴が完成すると狩りに出かけます。そしてエサとなる蝶や蛾の幼虫を毒針で刺して麻痺させた状態で巣穴に持ち帰ります。獲物を巣穴に引きずり込み、その上に卵を産み付けます(2)。産み付けられた卵は孵化したあと親が残してくれた生きた獲物(ホスト)を食べて成長し、最後はホストを殺して「さなぎ」になり、やがて成虫になって飛び立ちます。

ジガバチの母親は、捕らえてきた獲物を持ち帰って卵を産み付けるために、自分が用意した穴の位置を記憶しておかないといけません。ティンバーゲンはジガバチが巣穴で休んでいるときに、穴の周りに松かさを置きました(図109-1)。ジガバチは巣から出るときに数秒間巣の周りをぐるぐると飛び回り、「景色を記憶してから」飛び去りました。そのあとティンバーゲンは松かさを取り去り、それを同じ配列で少し離れた他の場所に置きました。やがてジガバチが獲物を捕らえて戻って来ると、本当の巣の入り口ではなく移動した松かさのサークル中心に着地しました。ジガバチは巣の入り口のまわりに松かさがあったことを覚えていたのです。

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図109-1 ティンバーゲンの実験 ジガバチの学習と記憶1

ティンバーゲンはさらに、松のオイルを塗りつけたボードを配置しました。ひょっとするとジガバチは松かさのサークルを形で覚えていたのではなく、松の匂いにひかれたのかもしれません。この場合もジガバチは巣穴の近くに配置した松の匂いのするボードには戻ってこなくて、松かさのサークルの方に戻ってきました(図109-2)。このことからジガバチはやはり視覚で認識した松かさの配置を記憶していたのだと考えられました。

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図109-2 ティンバーゲンの実験 ジガバチの学習と記憶2

ウィキペディアに昆虫の形態図が出ています(3、図109-3)。彼らには哺乳類とは大きく異なる点があります。ひとつは肺がなくて、空気を気管という管で各組織に直接供給しています。したがって主として拡散によって酸素を供給することになるため、大型の生物では非効率になって生存できません。しかも彼らは開放血管系なので強力な心臓の鼓動によって全身に酸素を供給することもできません。

この結果体が小さいので当然脳のサイズも制限されて、小型の脳=少数のニューロンで効率的に個体を制御するべく進化してきました。彼らの中枢神経の構造はプラナリアと同様、腹側に神経索(ヒトの場合は背側にあり脊髄と呼ばれる)が尾部まで伸びていて、頭部では消化管とクロスする形で背側に存在する脳を形成しています(図109-3)。私たち脊椎動物の中枢神経系は消化管とクロスすることなく、背側に脊髄が伸びています。

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図109-3 昆虫の形態と主要な臓器

ここでもう一度動物分類表(4)を眺めてみると、生物の中には数億年もの間、脳を持たずに神経環・神経節程度の神経系で生活してきたグループが多いことがわかります。脳らしきニューロンの集合体を持つ生物はこのような生物群のなかからポツンポツンと生まれています。例えば冠輪動物上門では扁形動物と軟体動物の一部の生物、脱皮動物の中で節足動物などに属する一部の生物が発達した脳を獲得しています(図109-4)。これらはすべて前口動物ですが、もちろん後口動物の脊椎動物も高度な脳を持っています。しかし後口動物すべてが発達した脳を持っているかというとそうではなくて、頭索動物のナメクジウオはわずかな数のニューロンしか持っていませんし(図109-4)、尾索動物は成体になる過程で中枢神経系が衰退してしまって脳を持ちません。尾索動物は進化の過程で中枢神経系が不要な生活様式を選択したため、中枢神経系が退化したといわれています(5)。

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図109-4 さまざまな生物のニューロン数

すなわち各動物門にヒエラルキーがあって脳が徐々に発達してきたわけではなく、各動物門の中の一部のグループがそれぞれ独自に脳を獲得してきたわけです。脊椎動物以外では、軟体動物のタコ・イカ類と節足動物の昆虫類が特に優れた脳を獲得しました。

図109-5はクロオオアリの脳の構造(horizontal section 水平断面図)ですが、西川道子氏の図を模式化させていただきました(6)。昆虫の脳はヒトの脳と比べると随分形態が異なります。なかでも前部にキノコ体(マッシュルーム・ボディー)という奇妙な葉が左右に突出しています。昆虫の脳にキノコ体という構造が存在することは、19世紀の中頃にフランスの生物学者フェリックス・デュジャルダンが記載しています(7、図109-6)。ここでは何が行なわれているのでしょうか?

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図109-5 クロオオアリの脳(水平断面図)

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図109-6 フェリックス・デュジャルダン

ミツバチは脚や触覚が砂糖水に触れると、口吻を延ばして飲もうとします。そこで砂糖水を脚や触覚に触れさせる直前に特定の匂いをかがせることを繰り返すと、その匂いをかいだだけで口吻を延ばすという条件反射を行なうようになります。ところが冷却した針をキノコ体に刺してその活動を抑制すると条件反射は成立しません。このような実験を行なったメンゼルらは、キノコ体が匂いの記憶にかかわっていることを示唆しました(8、9、図109-6)。またショウジョウバエでもド・ベル、ハイゼンベルクらの研究によって、キノコ体を破壊すると記憶の能力を失うことがわかりました(10、図109-6)。

水波とシュトラウスフェルトは壁に模様をつけた小部屋にゴキブリを閉じ込め、床に熱い部分とそうでない部分をつくりました。ゴキブリは試行錯誤をくりかえして熱くない部分に集まります。何度も繰り返しているうちに、ゴキブリたちは短時間で熱くない部分にたどり着けるように学習します。ところが壁の模様を取り去ると、ゴキブリたちは目指す場所になかなかたどり着けなくなります。つまりゴキブリは壁の模様を記憶して場所を覚えていたわけです。ところがキノコ体を脳から切り離すと、いくらくりかえしても壁の模様を記憶できなくなることがわかりました。このことからキノコ体が嗅覚のみならず視覚情報の記憶にもかかわっていることがわかりました(11)。閑話休題。びっくりしたことに現在(2020年8月)の時点で日本語のウィキペディアサイトにはキノコ体の解説がわずか3行しかなく、脳科学辞典に至っては項目そのものがありませんでした。日本の科学の層の薄さが実感されます。キノコ体研究の歴史について詳しく知りたい方は文献(12)が参考になると思います。

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図109-7 キノコ体の研究者達


参照

1)Paul Kenyon., Interactive learning activity: Home location by digger wasps.
http://www.flyfishingdevon.co.uk/salmon/year1/psy128ethology_experiments/wasp_learning_activity.htm

2)ウィキペディア: ジガバチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%81

3)ウィキペディア: 昆虫の構造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%86%E8%99%AB%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0

4)続・生物学茶話103: 動物分類表
http://morph.way-nifty.com/grey/2020/07/post-5fe9c0.html

5)有賀純 脳を捨てた動物たち 理研BSIニュース No.27 (2005)
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews27/no27/network.html

6)西川道子 クロオオアリの脳 Invertebrate Brain Platform
https://invbrain.neuroinf.jp/modules/htmldocs/IVBPF/Ant/Ant_brain.html?ml_lang=ja

7)Dujardin, F., Mémoire sur le système nerveux des insectes. Ann. Sci. Nat. Zool. vol.14: pp.195-206., (1850)

8)Menzel R., Erber J., Masuhr T., Learning and memory in the honeybee. in Experimental analysis of insect behaviour, ed Barton-Browne L. (Springer, Berlin, Germany), pp 195?217. (1974)

9)Martin Hammer and Randolf Menzel., Multiple Sites of Associative Odor Learning as Revealed by Local Brain Microinjections of Octopamine in Honeybees. Learning Memory vol. 5, pp. 146-156 (1998)
http://learnmem.cshlp.org/content/5/1/146.full

10)Belle J.S., Heisenberg M., Associative odor learning in Drosophila abolished by chemical ablation of mushroom bodies. Science vol. 263: pp. 692?695. (1994)
http://science.sciencemag.org/content/263/5147/692?ijkey=3261ad7369a4512a5caec4d6b87f24c323039c90&keytype2=tf_ipsecsha

11)Makoto Mizunami, Josette M. Weibrecht, Nicholas Strausfeld., Mushroom Bodies of the Cockroach: Their Participation in Place Memory., The Journal of Comparative Neurology vol. 402(4): pp. 520-537 (1998)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/%28SICI%291096-9861%2819981228%29402%3A4%3C520%3A%3AAID-CNE6%3E3.0.CO%3B2-K
https://www.researchgate.net/publication/13426406_Mushroom_Bodies_of_the_Cockroach_Their_Participation_in_Place_Memory

12)Nicholas J. Strausfeld1, Lars Hansen, Yongsheng Li, Robert S. Gomez, and Kei Ito., Evolution, Discovery, and Interpretations of Arthropod Mushroom Bodies., Learn. Mem., vol.5: pp.11-37., (1998) Cold Spring Harbor Laboratory Press
http://learnmem.cshlp.org/content/5/1/11.long

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