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2020年7月22日 (水)

続・生物学茶話101: 脳神経科学の源流

ようやくほぼ1年かかった生物学茶話1~100の編集作業が終了し、次のステップに進むことができる状況になりました。自給自足は安上がりですが、それで快適な生活をするためには様々なノウハウが必要です。編集作業も同じで、1年間文章やソフトウェアと格闘して、ようやくなんとか最低限の格好がつけられるようになりました。そういうわけで今日からブログの再出発にとりかかります。とりあえず続・生物学茶話として、以前の記事を改訂する形で、また101から再出発したいと思います。


私がヒポクラテスという人を知ったのは二宮睦雄氏の「知られざるヒポクラテス」という本(1)によります。ヒポクラテスはソクラテスやデモクリトスと同時代の紀元前5世紀頃に生きていた人で医学の祖と言われています。彼は宗教・哲学・呪術などではなく、実地の治療の経験を元にした知見だけを用いて医療を実施するという「経験学派=エンピリキ」の指導者でした。

ヒポクラテスはトルコに近いコス島の出身(B.C.460年頃の生まれ)で、経験に基づいたまともな医療を行なう医者のグループを結成し、ギリシャ全土にその名を知られるようになりました。図101-1のようにコス島はギリシャ本土から離れた辺境の地で、このような場所であったからこそ、既得権益から離れた革命的な医療集団を結成することができたのかもしれません。現代でも手かざしで病気が治るとか、にんじんジュースでがんが直るとか怪しい治療はいくらでもあります。ましてヒポクラテスの時代には祈祷師や呪術師が跋扈していたのでしょう。原子論の創始者であるデモクリトスですら、霊魂は球形であるなどとわけののわからないことを言っていました(1)。

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彼がその木の下で講義したという「すずかけの木」がいまでもコス島の広場にあるそうです(図101-2)。後の時代に植え替えられた木だとは思いますが、多分場所は同じだったのでしょう。彼の技術や思想は死後に刊行された「ヒポクラテス全集」によって知ることができます。彼のグループや弟子達の知識は西洋医学に大きな影響を与えました(2)。

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アリストテレスはニワトリが首を切られた後も走り回るとか、死者の心臓は温かいのに脳は冷たいなどの知見から脳を重視しませんでしたが(3)、彼より1世紀も前からヒポクラテスはてんかんの原因が脳にあることを指摘していました。

「脳科学メディア」というサイトの記事を引用すると「ヒポクラテスは自身の著書『神聖病論』の中で、大脳は知性を解釈するものであるとして“我々は、とりわけ脳によって思考したり理解したり見聞きしたりし、醜いものや美しいもの、悪いものや良いもの、さらには快・不快を知るのである”と述べた。心が脳にあるというヒポクラテスの考えは、脳の働きに関する真理としての初めての発見であるといわれている。今日に至る脳研究の歴史は、この時代から始まったといえる。」と述べられています(4)。

ヒポクラテスの時代から100年以上経過した頃に活躍したアレクサンドリアの解剖学者ヘロフィロス(B.C.335-B.C.280)は、脳と脊髄に神経が集中していることや脳の中に脳室が4つあることを発見し、4つの脳室のうち第4の脳室に心の座があると考えていたそうです(4、図101-3)。彼はヒトの屍体をはじめて組織的かつ科学的に解剖した人物としても知られています(5)。彼の主な業績はハインリッヒ・フォン・シュターデンによって翻訳され、英語で出版されています(6)。驚くべきことに、ヘロフィロスは神経には感覚神経と運動神経の2系統があることを発見していました(6)。

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ヘロフィロスが生まれた頃に、マケドニアのアレクサンドロス大王はエジプトを征服し、その地に自分の名前をそのまま使ったアレクサンドリアという都市を建設し、この都市はヘレニズム文化の中心地となりました。アレクサンドリアにはレベルの高いムセイオンという研究所があって、ヘロフィロスの他にもエウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスという卓越した科学者達を生み出しましたが、紀元後には衰退してしまいました。

紀元前1世紀以降医学の発展が滞ってしまったのは、ユダヤ教やキリスト教では「死者たちは生きていた時の肉体をともなって最後の審判で神の前に呼ばれる」と考えていたため、人体の解剖が禁止されてしまったことが一つの要因とされています(4、7)。この間ヒポクラテス医学のエヴァンゲリオンとして、ローマ帝国時代の2世紀に活躍したガレノスが有名ですが、彼は解剖学を革命的に進展させることはできませんでした。

中世において滞っていた解剖学をルネサンスの時代に復活させたのは、16世紀のベルギー人解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(1514-1564)でした。彼はガレノスの教科書がヒトではなく動物の解剖に基づいていることを指摘し、自分で人体を解剖して正しい知識を教科書にまとめました。弱冠28才の時です。それが通称ファブリカと呼ばれる大著「 “De humani corporis fabrica” (人体の構造)」で、ここに掲載されている人体解剖図は現代でも通用する正確さで描かれています。当時から人気書で海賊版も出版されていたそうです。しかしこの本を出版するとヴェサリウスはすぐに大学をやめて、神聖ローマ皇帝の侍医として生きる道を選びました。当時のベルギーは神聖ローマ帝国の領地だったので、自国の官僚に就職したわけです。この後はファブリカの改訂などはやりましたが、アカデミックな世界には戻ってこず、生涯医師として生きたようです。

図101-4の左図はヴェサリウスの肖像画、右図はDe humani corporis fabrica の表紙で、中央下部の屍体の左側に居るのがヴェサリウス、画のちょうど中央あたりに骸骨のような風貌の死神が見えます(8)。

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図101-5はDe humani corporis fabrica に記載されている脳底部の解剖図で、視神経交叉、嗅球、小脳などが精細に描かれています。当時は屍体がなかなか入手できませんし、防腐処置や冷蔵が上手くできない時代だったので、正確な解剖図を描くには途方もない努力が必要だったと思われます。私は未読ですが、ヴェサリウスについて詳しく知りたい方は日本語の書物も出版されています(9)。ウェブサイトにも彼の生涯を要約したような文献がアップされています(10)。推理小説もあります(11、12)。業績の一部は電子書籍として安価に入手できます(13)。

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ヴェサリウスはイェルサレムへの巡礼の旅の帰途、海難事故によってイオニア海のザキントス島に座礁し、そこで病を得て見知らぬ土地で49才の生涯を閉じました(14)。

参照

1)二宮睦雄 「医学史探訪 知られざるヒポクラテス ーギリシャ医学の潮流ー」 篠原出版(1983)

2)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%9D%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9

3)http://sora-shinonome.jp/brain/post_35.html

4)脳科学メディア 紀元前4世紀から21世紀まで、脳研究2500年の歴史を辿る。
http://japan-brain-science.com/archives/59

5)https://en.wikipedia.org/wiki/Herophilos

6)Heinrich von Staden, Herophilus: The Art of Medicine in Early Alexandria: Edition, Translation and Essays., Cambridge University Press (1989)
https://books.google.co.jp/books?id=rGhlIfJZkVoC&redir_esc=y

7)akihitosuzuki's diary ルネサンスの解剖学とその発展 はじめに 古代・中世の解剖学と近代解剖学の連続と断絶
http://akihitosuzuki.hatenadiary.jp/entry/2015/07/29/185102

8)https://en.wikipedia.org/wiki/De_humani_corporis_fabrica

9)坂井建雄 「謎の解剖学者ヴェサリウス」 ちくまプリマ-ブックス (1999)

10)鈴木秀子 貴重書紹介 アンドレス・ヴェサリウス『人体の構造についての七つの書』1543年 バーゼル オポリヌス書店刊
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/suzukiA01.pdf

11)ジョルディ・ヨブレギャット 「ヴェサリウスの秘密」 集英社 (2016)

12)麻見和史 「ヴェサリウスの柩」 東京創元社 (2006)

13)ヴェサリウス解剖図: De corporis humani fabrica libri septem Kindle版
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%9B%B3-corporis-humani-fabrica-septem-ebook/dp/B00QKZX6KK/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1522037008&sr=1-1&keywords=De+corporis+humani+fabrica+libri+sep

14)ウィキペディア: アンドレアス・ヴェサリウス

 

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